監視世界に偶像を見る芸術家、ファラ・アル・カシミ
イメージの創造と自己像の表現をめぐる個と公の行為
- インタビュー: Maya Binyam
- 写真: Tonje Thilesen

私がアトリエを訪れる前の晩、ファラ・アル・カシミ(Farah Al Qasimi)は、ボデガ ケーキを作ってくれた。バント型で焼いた青いスポンジケーキを、青いココナッツ クリームチーズのアイシングで覆う。飾りつけに、ゲータレードのクールブルーの鮮やかな青い液体を、海藻からできた植物性ゼラチンのフレーク寒天と一緒に煮立て、その糖蜜のようなシロップを型に注ぎ、冷やす。出来上がったデザートは、無垢で清新だった。まるで文明の滅亡後に生きる種族たちの、放射能を発するベビーフードのように。
アル・カシミの作品は、主にアラブ首長国連邦とニューヨークで撮影された写真で構成され、現在、ニューヨークの5つの区でバスの停留所を飾っている。それは日常の中にある個人的な愉悦を材料に、現実と魔法のあわいにある世界を紡ぎ出す。2019年の「5 Star Barber Shop」では、鏡の中の鏡えと視線が吸い込まれるように誘われ、その奥には理容師と客が並ぶ、何気ない散髪風景が見える。別の2019年の作品、「Aviary」では、女性が作り物の砂漠を写真に撮っている。天井には一面に蛍光灯がはめ込まれ、地平線は壁紙に描かれた砂丘にすぎない。女性がいるのはアラブ首長国連邦―、本物の砂漠、人の営みを寄せ付けない不毛の土地が景観の大半を占める国だ。「映像や写真を扱う作家のほとんどは、作品に共通する特色があって、たいてい、それは場所に結びついている」とアル・カシミは言う。「でも、私が目指すのは、地理に囚われない世界、言葉では説明しがたい精神状態につながれるような世界を作ることよ」。あかあかとしたライトに照らされ、蛍光色に彩られるカシミの写真は、これほどかわいらしいものでなければ、おぞましくさえあるような雰囲気を醸し出す。すべてが甘い菓子のようであり、同時に毒のようにも見える。
アル・カシミの初の長編ビデオ作品「Um Al Naar」で、作品タイトルにもなっている名前の主人公は、人々に誤解されている精霊だ。精霊は、鬱に苦しみながら、女性たちを観察して過ごす孤独な夜について語る。「女たちは家で長い時間をかけて、砂糖を使い、この上なく美しいものを作る。砂糖衣やバターやクリームで薔薇を作り、目を奪われるほど華麗に食物を飾る」と精霊は言う。「それはまるで舞だ。違う種類の動作なのだ。たぶん、見られてはならない種類の」。空想上の政府提供によるリアリティ番組を模して作られたこの映像作品は、驚くほど悲しい。何世代もの間、誰の目にも明らかなのに、隠れることを強いられてきた、シーツをかぶったこの哀れな生き物に親近感を抱かずにはいられない。アル・カシミの被写体は、しばしばその正体を偽って現れる。それは、その自己イメージが無生物によって損なわれているか、あるいは非道な目的に利用されてきたせいだ。
言論の持つ力から逃れようとする作品を作るアーティストにインタビューすることは、自己矛盾のようにも思えたので、私たちは主にイメージについて語り、ケーキや脱毛、リアリティ番組のおぞましさについて話した。そしていつしか、私たちは目指していたところにたどり着いていた。

マヤ・ビニャム(Maya Binyam)
ファラ・アル・カシミ(Farah Al Qasimi)
マヤ・ビニャム:写真の多くをアラブ首長国連邦で撮影しているけれど、この国では国家のイメージに多大な投資が行われ、そのブランド戦略によって、国を支え労働する人々が抑圧されることも少なくない。これほど頻繁に消費者向けの広告の題材となる都市を撮影することについて、どう感じているの?
ファラ・アル・カシミ:UAEは国家建設の研究材料として興味深いわ。何しろとても新しい国だから。この国が自国を語るために選んでいるストーリーは、地理的な特異性や国境に基づいていて、とても分かりやすくこの土地に染みついてる。私はいつも、そうしたもうひとつのイメージと闘ってるけど、といって自分の作品を「答え」だとは見られたくない。それだと作りもののイメージに、さらに意味を持たせるだけだから。私がずっと関心を持っているのは、今も部族的な暮らしが多く残っている土地で、リベラルな価値観がどのように定義され、表現されるかなの。
それはどういう意味で?
フェミニズムの歴史を西欧が定義してきた通りに考えれば、こう、ひたすら上を目指して進んでいく流れがあるという発想になるでしょ。たいていは、その進歩の結果として活動範囲が広がったり、もっと平等が達成されたりする。でも、西欧以外の世界では、実際に目に見えているもので進歩を測ることは難しい。例えば、UAEでは、性差による役割は変化してきたけれど、日々の生活で明らかに目に見える形で、というわけではないのよ。1971年の連邦結成、つまりシャルージャ、フジャイラ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワインがアブダビとドバイに合流してUAEを建国する前は、女性は社会の中でもっと目に見える存在だった。外出したり、自分で用事を片付けたり。ヘッドスカーフを被らないこともあった。特に英国の帝国主義から独立を勝ち取る運動においては、女性たちが大きな役割を果たしたのよ。抵抗運動には、男たちが一堂に会して同盟を組んだ、みたいな表向きのイメージがあるけどね。石油による国家収入が増えていくにつれ、女性のあり方は西欧のフェミニズムの理想に沿ったものが望ましいという考え方が広まってきた。つまり、企業で成功を収めるとか、政府の要職について特権や権力を得るという意味で。でも、その陰に誰の犠牲があるのかを問いたいのよ。
さまざまな変化を経て国が非常に豊かになった今、肉体労働は恥ずかしいとか、外注すべき仕事とみなされるようになってる。「UAE女性デー」という日があって、様々な職業についているUAEの女性の成功を称えるけど、子育ては、いったい誰がするっていうの? 家を掃除するのは誰? これは別に、湾岸諸国にだけ問いたいわけではなくて、常に「すべてを手に入れる」ことばかり語っている西欧のフェミニストたちへの問いかけでもある。子どもを育てて、いろんなことがあっても、まともな人間として生きるために女性がする仕事―そういう仕事の価値が、なぜ国の経済に貢献する仕事よりも低く見られなければならないのか、私には理由が分からないわ。

UAEで撮影されたあなたの写真は、家庭であれ商店であれ、ほとんどすべてが個人的な空間を舞台にしているけれど、これはドバイやアブダビの建築のせいかしら。そうした都市では、公共空間ですら商業主義で固められてるから。最近、パブリック・アート基金の委嘱を受けて、ニューヨーク一帯のバスの停留所に写真を展示することになったわけだけど、今回のいわば「作品の移住」にどのように取り組んだの?
パブリック・アート基金で生まれた作品では、公共空間はどのようにして私的な空間に変容するのかを考えた。作品の中に、ブルックリンのブライトンビーチにあるサロンオーナーを写した1枚があって、写真の中で、彼女は若い女性の眉の糸脱毛をしていて、こちらに見えるのは背中と着ている服のプリント柄だけなの。私はよく、口元の産毛処理のために糸脱毛のサロンに行くんだけど、これが変な体験なのよ。今はもう、担当のエステティシャンと顔なじみだけど、初めてサロンに行くと、全然知らない相手がものすごく距離をつめてくる。店に入るなり、エステティシャンに「その眉毛も何とかしたほうがいいわよ」って言われたこともある。でも、嫌な気持ちにはならない。だってそれは批判じゃないから。愛情表現なのよ。「私がやってあげるわ」っていう。
親戚のおばさんが言いそう。
そうなの。ちょっとむっとするけど、100%善意だと分かることを言う、おばさん的マインドよね。とことん個人的な自己イメージをこうして他人に委ねることには、特別な何かがあるわ。それって、ある意味で写真家としての私に対して人々がやっていることでもあるのよね。そこにはお互いへの信頼関係がある。

自分自身が作品に出てくるときは、よくドッペルゲンガーの形で登場するわよね。2017の「Body Shop」は、UAEのいくつかの写真スタジオに行って、「美しく」見えるよう写真を撮ってもらうシリーズだけど、台紙に貼られて非現実的なほど滑らかに仕上げられた写真の中のあなたは、Facetuneで安っぽく写真加工した、あなたの「またいとこ」みたいに見える。それから、ニューヨークの画廊ヘレナ・アンレザーで開かれた個展「More Good News」では、盗聴されている家族の電話の音声ノイズを繰り返し流しながら、インド系米国人の女性にあなたを演じさせていた。こゆういう不完全な代役を自己表象として使う理由は?
この世界で私たちが持っているのは、不完全な分身だけだから。私はうつ病に苦しんでいて、時々、「お前には愛される価値なんか何一つない」という心の声が聞こえるの。友人や家族の目を通すことでしか、その声と戦い、黙らせておくことができない。この世で自分がどう存在するか、自分で決められない無力と戦うのは本当に難しい。それに対抗する私なりの方法が、とことん遊び心を発揮して、意図的に自制を手放すことなのよ。ヘレナ・アンレザーでの個展は、監視と、9.11以降のアラブ人や南アジアの人々に対する人種的抑圧がテーマだった。だからあのパフォーマンスで、私に似てもいないドッペルゲンガーを使ったことには、十分理由がある。
国家の監視システムは、対象者のデータを抽出して、当人の現実の姿がほとんど反映されていないような分身を作りだしてる。対象者の肌が黒色か茶色で、しかも貧しいとなれば、その分身はたいてい犯罪者、みたいに。でも、あなたのポートレートは、ユーモアが感じられるものも少なくない。ひとつには、こっそりと目立たない形でそこに身体性が忍び込んでいるから、あるいは、毛布やビロード地のソファといった家の中にある物によって人物が曖昧にぼかされ、匿名の域にまで達しているからね。表現のツールとして、ユーモアにはどんな意味があって、作品にどんな影響を与えているの?
世界の他の国もたくさんの問題を抱えてるけど、こんなに昔から巧妙で複雑に作られた弾圧制度があるという点では、アメリカは飛び抜けてると思う。監視技術や人種プロファイリングは、これまでの人生でずっと意識してきたけど、その現実に正面から飛び込むのは難しいと感じてる。UAEから米国にかける電話は、覚えている限り、ずっと盗聴されてたし、子どもの頃は、よく誰かの息づかいが聞こえたり、混線に気づいたりしたものよ。いつも、自分たちは何か過ちを犯している、あるいは、過ちを犯すのを誰かが待ち構えているような感じが漂ってた。ユーモアは、こうした闇の源の馬鹿馬鹿しさを認めて、そんなものが存在するのはおかしいと主張する手段なの。何かを指さして「これは正常じゃない」と言うと同時に、服従することに抗うというか。「ちょっと待って、私にだって少しはやれることがあるかも」と声を上げる。振り向いて「こっちだって見張っているかもよ」と言ってやるのよ。
アーティストとしての仕事のほかに、写真ジャーナリストとしても活動してるけど、報道機関のための写真を撮るプロセスは、どういう点が個人のやり方と重なると思う? それとも、個人のやり方とは別もの?
やることはそれほど変わらないわ。私はとても運がよくて、一緒に仕事をしているエディターたちは、私が何よりもまずアーティストであることを理解してくれてるから。普段、担当するのは、視覚的な遊びの余地がある記事よ。意図ではなく、感性でイメージを捉えることが重要なの。

昨夏、ニューヨークタイムズ紙の記事で写真を担当したわよね。ライターのリアナ・アガジャニアン(Liana Aghajanian)と一緒に米国内を2週間旅して、「現在のアメリカがどんな姿をしているのか」という問いへの答えを探そうという企画。ペンシルベニア州ミフリン郡は白人が住民の97%を占めるコミュニティだけど、そこで「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」のスローガンをプリントしたMAGAハットをかぶり、トランプTシャツにトランプバッジを付けた女性を撮影していた。自宅のどの部屋もトランプ グッズで飾り立てているという女性よ。その写真で彼女は、まるでもうひとりの自分であるかのように、トランプの顔のついた偽の運転免許証を掲げてる。この写真の撮影にはどんな姿勢で臨んだの?
難しかったわ。こうした人々への眼差しが過度に批判的にならないように、本当に苦労した。彼らを擁護したいわけではないけれど、結局、人間というのは1対1で会話するときは、理屈の通った話をしようと気も遣うし、相手を遠ざけないような物の見方を示すことが多いものよ。大勢に紛れて意見を表明する場合よりもね。とはいえ、心が折れそうな体験でもあった。でも、そのロード トリップの最後に、リアナと一緒にニューハンプシャー州の森の中にある、とても進歩主義的な教会の礼拝に出席したの。ちょうどデイトンとエルパソの銃撃事件があった週で、移民税関執行局の捜査が活発に行われ、私たちにもそのニュースは他人ごとじゃなかった。その礼拝に参加したとき、自分たちと信者たちには共通点など何もないだろうと思っていたんだけど、礼拝中に誰かが共感について発言した言葉を聞いて、思わず涙があふれてきた。
私には、どこにいても、まるでアニメの中にいるように世界を捉えたいという衝動があるの。色彩は思いきり極限まで鮮やかであってほしい。世界が、目を向けるに値する、人間の存在を超越した素晴らしいものを宿していることを願わずにいられないわ。

Maya Binyamはニューヨーク在住のライター。『Triple Canopy』のシニア エディター、『The New Inquiry』のエディターである
- インタビュー: Maya Binyam
- 写真: Tonje Thilesen
- メイクアップ: Aya Tariq
- ネイリスト: Lila Robles
- 翻訳: Atsuko Saisho
- Date: Mars 05, 2020