新進アーティストたちの
ロックダウン in LA

二度目の都市閉鎖をやり過ごす5人の才能たち

  • 文: Dalya Benor

過ごしやすい気候、広々した「スペース」、それともロサンゼルスのような広大な都市ともなると、もともと人と人との距離があるからだろうか。理由はともあれ、LAに暮らし、活動している5人のアーティストたちにとって、隔離生活は予想外の瞑想的時間をもたらした。彼らが手に入れたのは、何にも邪魔されることなく実験し、探索し、制作する新たな自由だ。

5人とも、ロサンゼルスやその近郊といっていいエリアで生まれ育ったにもかかわらず、表現スタイルはそれぞれまったく違う。文化コードやリファレンスによって、彼らがこの街の暮らしを通じて会得した共通言語がその作品に滲み出しているとしても、だ。親友同士、共同制作者、あるいは単純に互いの作品のファンでもある5人のアーティスト。LAと世界のアートシーンを活性化し続ける、複雑に絡み合ったコミュニティの主要メンバーを紹介しよう。

シャリフ・ファラグ(Sharif Farrag)

シャリフ・ファラグの足跡は地図上のあちこちに散らばっている。少なくとも彼のアトリエはそうだ。陶芸家で画家であるシャリフは、時折泊まり込むこともあるロングビーチのベッドルーム1部屋のアパートと、LAのダウンタウンにあるピーター・シェルドン(Peter Sheldon)のスタジオと、ウエストサイドの自宅を行き来しながら制作している。ソーシャル ディスタンシングのあいだもずっとだ。都市を縦横に移動し続ける行為は、シャリフの作品の精神とつながっている。「LAのフリーウェイは、巨大な体を走る血管だといつも思う。僕の作品はその複雑さと深く関係している…。いろんな人たちのことをよく夢想するんだ。彼らがどう生きているのかを」

シャリフはサンフェルナンドバレーの奥にくさびのように食い込む、リシーダの界隈で育った。子どもの頃、親に構われなかった彼は、スケボーとグラフィティの仲間たちに「ホーム」を見出した。迎え入れてくれたこのふたつの世界の家族たちを通じて、彼はLAの懐の深いポケットの中で多彩な文化や人々と出会った。それは、エジプト系シリア人の両親がムスリムの宗教的慣習と伝統を守って暮らす、わが家での暮らしとはきわめて対照的だった。この外界と家の世界との二重性は対立するように見えるかもしれない。しかし、これらがもたらすまったく異質の影響は、余すところなくシャリフの作品に編み込まれている。

シャリフの活動は、アイデンティティ、メンタルヘルス、アラブ系アーティストとしての役割という、彼が日々格闘している問題への答えを探す試みだ。彼はアート界における自分の存在が変則的であると認識していて、もっと表現の機会を作りたいと考えている。「僕が属する文化にとっては、僕がアラブ人だということが話題になることが必要だ。だけどそんなに簡単に発言できないことはたくさんある。自分にとって何がよくて何が悪いのか、見極めようとしてるところなんだ」カラフルでサイケデリックな彼の作品は、単純に「アートを作る」ことのみを目的として「クール」なアートを作りたいと願うアラブ人アーティストたちのために、「場」を創出する助けになっている。「アラブ人でありながら、ただ作りたいものを好き勝手に作ってる人間なんか誰もいないよ。必ず何か語るべきものが要求される。でも僕は『いや、あんたら、何の理由もなしに作品を作るべきだよ』って伝えたいんだ」

Sharif Farrag、Teddy’s Chamber、2020年、陶磁器、11 1/2 x 9 x 10"、SFAR2020007

アレイク・シリング(Alake Shilling)

「こんな時代に絵を見たい人なんている?」といぶかるアレイク・シリングは、皮肉にも、こんな時代にうってつけの解毒剤だと感じさせる作品をつくるクリエイターだ。

ロサンゼルスで育ったアレイクの作品には、身近なハリウッドの華やぎとサンセット ブルバードの空気が漂う。彼女の言葉を借りれば、そこにあるのは「ノリノリで、危なっかしくて、クールなジャズの美学」だ。その感じからいうと、彼女はピーター・サウル(Peter Saul)やジム・ナット(Jim Nutt)のようなアーティストと同系列の、カリフォルニア ファンク アート運動の流れを汲んでいる。ただしアレイクの世界では、ベディ・ブープやバッグス・バニーが、リサフランクやハローキティのような現代のアイコンと並んで半ば神のように崇められる。レトロなカートゥーンへの彼女のこだわりは、この街のディズニーやピクサー、ルーニー テューンズとのつながりに根差している。

中学でアニメーションのクラスをとり、高校ではアートスクールのオックスボウやアイディルワイルドでアートのプログラムを受講した彼女は、若くしてアート制作を始めたが、本格的にこの道を歩み出したのは、今はなきアート ギャラリー、356 Missionでインターンとして働きだしてからだ。356 Missionを通じて、彼女はアート界のコミュニティを見出しただけでなく、現在、活動の中心となっている陶芸にも出会った。ギャラリーの公開アトリエ「Clay Days」で、この技法を使って実験をはじめたのが始まりだった。それが今では、自分の作品の核になっていると彼女は言う。「彫刻によってファンキーで型破りなことをやる新しい世代が出てきてるのよ」。やがて彼女は、ローラ・オーウェンス(Laura Owens)が開いたこのギャラリーでインターンとして働き出し、広大な空間で個展の開催をオファーされる。

アレイクの母は、人種理論を専門とする大学教授だが、娘のアレイクはどちらかと言えば、作品を通じて社会的、あるいは政治的発言をすることを避けている。「作品は、ただ純粋に楽しいものにしたいから。大勢の有色人種のアーティストが[政治的であることを]強制されている。それは有色人種のアーティストたちをただ箱に押し込める行為だと感じるの。ジェンダーや宗教的背景や人種や障がいについてコメントしないと駄目、というのはおかしい。描きたいものを描いていいはずだし、社会的主張をしなくてはとプレッシャーを感じるべきじゃない」と彼女は言う。「私は、何も言わないことがすべてを語っていると思う」

Alake Shilling、Curly Kitty」2018年、油彩、キャンバス、30 x 40"

マリオ・アヤラ(Mario Ayala)

マリオ・アヤラはボイル ハイツにある巨大な工場風のアトリエ空間で、2頭の犬と一緒に制作を行っている。4本足のアトリエ仲間はただのペットではなく、マリオの絵に頻繁にカメオ出演している。犬だけでなく、彼の作品には、クルマ文化、カトリックの聖画像、微妙な陰影を持つチラシや印刷物といった、彼のラテン系アメリカ人としての生い立ちを伺わせる題材を見出すことができる。

古いブドウ畑や農家、「漆喰の山」とピカピカのショッピングセンターが混在するサンバーナディーノ郡の郊外、フォンタナの荒れ地で育ったマリオがアートの世界に初めて触れたのは、父を通じてだった。父はトラック運転手として旅をする傍らボールペンで細密に絵を描き、それをよくマリオにくれた。マリオの作品全般に織り込まれている車への愛も、父に影響を受けている。「絵描きになったのだって、親父の影響だよ」とマリオは言う。

高校卒業後、サンフランシスコ アート インスティテュート(SFAI)で学んだが、エアブラシで制作を始めたのは、卒業してLAに戻ってからのことだった。アベル・イザギレ(Abel Izaguirre)アート・アルバレス(Art Alvarez)などのエアブラシ アーティストを彷彿とさせるマリオの美の表現は、ラテンアメリカ移民の言葉で語られる。チカーノの歴史にルーツを持つエアブラシ アートは、メキシコ系住民の暮らす地区「バリオ」のグラフィティから生まれた。こうした落書きはギャングの縄張りを示すサインであると同時に、地下の抵抗運動の手段でもあった。今年9月に、マリオはロサンゼルスのクリエイティブな才能を集めた巨大なコレクション、ハマー美術館の「Made in L.A. biennial」に参加することになっている。LAを拠点とするアーティストのうち、わずか30名の一人に選ばれたことは大変な名誉だ。

ラテンアメリカ文化の象徴が豊富にちりばめられた彼のテーマについて尋ねると、マリオはこうしたものは「場合によってうまくはまりやすいんだ。とっつきやすさは、自分にとってすごく大事だから」と答えた。そうしたシンボルを、それらの不在が明らかな空間に挿入することは、表象を補強する一つの方法であり、白人が中心の、「一流」アート界の門番たちを迂回する手段でもある。アートで車文化を表現することは別に新しいことではない。マリオは60年代にそうした活動をしたビリー・アル・ベングストン(Billy Al Bengston)などのアーティストたちを挙げる。だが、多様性をめぐる現在の論調は「同じものについて違う視点を持つ」アーティストたちにとって、チャンスを作ると彼は考えている。「[俺とビリーの]明確な違いは、ビリーが白人の男で、俺はそうじゃないってことだからね」

Mario Ayala、Content Administrator、2019年、アクリル絵具、キャンバス、41 x 36"

ブリ・ウィリアムス(Bri Williams)

バンブー レーンの暑い午後、しんとした静けさが破られる。鮮やかな黄色のサングラスをかけ、白い星が輝くストレッチのきいたジャンプスーツ姿で愛車からひらりと降りるのはブリ・ウィリアムズだ。その陽気な姿と、彼女が生み出す作品は対照的だ。彼女にインスピレーションをもたらすのは「恐怖という概念…、ホラー映画の緊張感と不安」だとブリは言う。

彫刻家である彼女は、どこかで見つけた物や個人的な思い入れのある物を使い、剥製の鳥や革製の鞭といった人工物を樹脂や石鹸の中に閉じ込める。石鹸は彼女の作品に欠かせない。ブリを惹きつけるのはその魔法めいた「清浄と純粋さのスピリチュアルな性質」と、死をも招きかねないアルカリ剤でできた石鹸の物理的特質だ。

当初、彼女がこの素材について考えはじめたのは、囚人が獄中で作る石鹸彫刻がきっかけだった。石鹸は、ブリが自分の主題をアートセラピーの一種として実験できる、カタルシスをもたらす素材だ。たとえば曾祖母のキャビネットのように身近で家族に関わりのあるものを使うことで、トラウマや痛み、家族の歴史、そして黒人女性としての社会で経験したことなど、口に出しにくいテーマについて語れる。「たぶん、ずっと[石鹸を]使うのはやめないと思う。この重みが、私が語ろうとしていることを表面に浮かび上がらせてくれるから」と彼女は言う。

シカゴ美術館付属美術大学(SAIC)で受けた「苦痛の哲学」という授業で、人種差別が根強く存在するのは、人間は他者が体験した実際の痛みを「経験」できないからだとブリは学んだ。「それでわかったの。人々が世界中で恐ろしいことをする理由がね。彼らは痛みがわからない。でも他人がそれを経験しているのを見るのは面白い。だから、他者に苦痛を味わわさせ続けるの。ホラー映画を観るのと同じことよ」

作品の物理的な面でブリが特に関心を持っているのは、石鹸彫刻を通過する光の作用だ。ある作品では、一見するとみっちりとした分厚い石鹸の塊に、実はマルディ グラのマスクが埋まっている。それは照明を消し、背後から懐中電灯で彫刻に光を当てて初めて見ることができる。マスクはニューオーリンズ育ちの父のルーツの象徴であり、家族の歴史の中の、ほとんど見過ごされてきたある一面に光を当てる。ギャラリーProgettoで開催される展覧会のために、彼女はこの主題をさらに掘り下げようとしている。それは、父へのインタビュー録音を通じて語られる、口伝の歴史を基にした音響作品になる予定だ。自身のルーツをたどり、日常にありふれたものに文脈を与え直すことによって、ブリの作品は目に見えないものを「可視化」し、検証し考察すべき新たな「人工物」を作り出す。マルディ グラのマスクのようなごく当たり前のものが、黒人の歴史、そしてその中における彼女の家族の位置づけをめぐる、より広範な対話を映し出す。「成長の過程でも学校でも、どれほど私たちの歴史が語られるないのか気づいてた。できる限り、自分の歴史を外に出して見せることが私の責任で、それを私は作品を通じてやっている」

Bri Williams、Scar、2019年、そり、鞭

アダム・アレッシ(Adam Alessi)

専業の画家になる前、生まれも育ちもLAっ子のアダム・アレッシはもう少しでシェフになるところだった。「絵を描く傍ら、『Jon & Vinny』のチェーンのレストランで料理を作ってたんだ。あそこはよくギャラリーの展覧会の打ち上げに使われるんで、アーティストやギャラリー関係者がしょっちゅう来てる。どれほどうらやましかったか。僕だってああいうのをやりたいのにって。でも、彼らのためにリングイネを作ってるんじゃ、それは実現しないのはわかってた」

具象的な油彩画は、アート界に楽に参入できる表現様式ではない。だが、完全に独学で絵を描いてきた画家にとって、「楽である」ことが意欲を燃やす理由になったことは一度もなかった。「何かをする方法に無知であることは、それを極めるのにすごく役に立つ」と彼は言う。「あと、その表現様式に対して、はにかむような感覚もね」キャンバスに油絵具を使って制作することが多いアダムは、呪術を思わせる仮面の人物や、笑みを浮かべてエーテルの中を生気なく漂う生首や、シンディ・シャーマン(Cindy Sherman)のゾンビ イヤーブックから出てきたようなキャラクター達の澄ましたポートレート風作品を描いている。「これらの人物の誰も、直接目を合わせない。こちらが見つめても、それは見つめ返すことはないんだ」

将来の不確かさと不安とを抱えてじっと座っていることは、アダムが絵の中で探る乖離的な感覚とシンクロする。この1年、彼はアーティスト仲間のクーパー・ラーセン(Cooper Larsen)とジェシカ・ウィリアムズ(Jessica Williams)と組んで、ロサンゼルスでInsect Galleryというギャラリーを経営していた。このスペースは2月に正式に閉鎖されたが、それまでは、3人はフロッグタウンの一軒家の裏庭に建つ小屋で、キュレーションや運営の仕事を分担して、きちんとギャラリーを成り立たせてきた。このギャラリーは、若いアーティストたちが切望する展示のチャンスを提供することによって、アート界が仲間を温かく受け入れ、コミュニティとしての意識を育む場所に「なりうる」ことを証明した。たとえそれがアート界に自分の陣地を切り拓くことを意味しているにしても。

今、制限だらけの自己隔離の環境で活動しているアダムにとって、孤立は困難でありながら同時に歓迎すべき挑戦だ。孤独な中では絵を描くことだけに集中できる。一方で他のアーティストたちとの交流がなくなり、コミュニティを柱としていた彼の日常はがらりと変化した。「アートにとってディスカッションはとても重要なんだ」と彼は言う。だが、それは今の時代にはそぐわなくなってしまった。頻繁なアトリエ訪問も、ギャラリーのオープニングも、アート界の友人たちとの面と向かった会話も、単純に実現不可能だ。今年9月に予定されている、Smart Objectsギャラリーでの個展を目指してこつこつと準備に余念がないアダムは、しかし未来に希望を持ち続けている。「僕らはアーティストだ。僕らはいつだっていろんな手立てを見つけてきたんだから」

Adam Alessi、The Liar、2020年、油彩、キャンバス、16 x 20"

  • 文: Dalya Benor
  • 翻訳: Atsuko Saisho
  • Date: August 20, 2020