オイチシカが案内する万華鏡の世界

トロピカリアを彩ったアーティストのレガシー

  • 文: E.P. Licursi

ブラジルの詩人オズワルド・デ・アンドラーデ(Oswald de Andrade)は1928年に「食人宣言」を発表し、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、そして先住民からの影響が広く浸透したブラジルは、一種の文化的食人によって繁栄すると唱えた。「食人」論によれば、被植民国は宗主国の考えを「喰う」ことで自らの独立を主張し、元来の意図を改ざんして主権を回復しうる。これこそまさにアーティストのエリオ・オイチシカ(Hélio Oiticica)が実践したことであり、ほぼ50年後の現在なお、その作品は革命を感じさせる。

オイチシカはモダニズムが隆盛期にあったブラジルで成長し、戦後の芸術界から登場したもっとも影響力のある文化人のひとりになった。音楽、演劇、詩、文学、視覚芸術のすべてを巻き込んだトロピカリア ムーブメントの主要人物でもあった。1964年にクーデターが勃発し、軍独裁政権による抑圧が開始すると、すでにラディカルであったオイチシカの作品はさらに政治的な傾倒を強めた。オイチシカは広々としたアート空間を求め続け、作品というより、むしろ環境を創造した。根本的にブラジル本来の視点からアートを捉え、ブラジル特有の文化的カオスを受け容れた。その後次第に、鑑賞者の体験に関する理想的なこだわりを持つようになり、鑑賞者が作品に参加するという考えに固執した。現在ホイットニー美術館はオイチシカ回顧展を開催中だ。会場のインスタレーションは鑑賞者を包み込む躍動的なエネルギーで活気づき、反逆的な政治観に満ちている。

(39) Tropicália, 1966-67, Cesar and Claudio Oiticica Collection

トロピカリアは音楽の1ジャンルと誤解されることが多いが、実は1960年代後期に多分野が参加した前衛アート ムーブメントである。音楽の分野では、カエターノ・ヴェローゾ(Caetano Veloso)、ジルベルト・ジル(Gilberto Gil)、ロック バンドのオス・ムタンチス(Os Mutantes)らが活躍し、もっとも広く知られる文化輸出のひとつになった。トロピカリア ミュージックの名を一躍広めたのは、1968年にリリースされたコンピレーション アルバムだが、話によると、オイチシカのこのインスタレーションをアルバムのタイトルにしたという。サンバやボサノバのようなブラジルの伝統音楽は、それ自体がポルトガル、アフリカ、土着の多様な要素の混成だが、トロピカリスタはさらにヨーロッパやアメリカで生まれたファンク、ロック、サイケなどのポピュラー音楽を取り入れた。その結果誕生したのは、ジャンルというよりはむしろ、本質的にフュージョン志向の衝動を内包した従来のブラジル サウンドを、さらに推し進めて凝縮する手法だった。

インスタレーションに近付いていくと、トロピカリア ムーブメントに対するオイチシカの影響がよく分かる。盛り上げた砂の上に点在するダークグリーンのタロイモの葉、シダ、ヤシ。大きな檻の中から喚くオウム。まさに陽光降り注ぐオイチシカの故郷、リオデジャネイロと分かち難く結び付いた典型的要素の集合だ。オイチシカは、ブラジルの薄っぺらなステレオタイプを鑑賞者に突き付ける。鮮やかな色彩、美しいビーチ、青々と茂る植物、エキゾチックな動物...。権力者が投影したがる陽気なイメージ。だが、オイチシカの勧めに従って靴を脱ぎ、砂の上を歩いていくと、そこここに配置された陰鬱なテキストが貧困、偽善、腐敗を暗示して、気楽な視点を失墜させる。ある壁に書かれたロベルタ・カミラ・サルガド(Roberta Camila Salgado)の詩の一節のように「空に広がる青が今日を照らすことはなかった」

(88) PN27 Penetrable, Rijanviera, 1979, César and Claudio Oiticica Collection, Rio de Janeiro

視覚芸術の表現に対するモダニズムのラディカルな姿勢を引き継いで、オイチシカは抽象作品に生命、自然、動きを注入する。木を意味する代りに、本物の木。束の間鳥を想起させるのイメージの代わりに、本物の鳥。遊び心に溢れ、感動的なほどに親密感を感じさせる「Rijanviera」で、鑑賞者は冷たい水の流れを裸足で辿りながら、周囲を金網で覆われた通路で恐る恐る歩を進める。反対側に達すると、足下は敷き詰めた砂に変わる。その抽象性は、誘いであって要求ではない。多層を成し、複雑ではあるが分かりやすい。言うなれば、設定は架空のバンドだが実際にはビートルズが演奏しているアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のインスタレーション アート版だ。

(13) Metaesquema 4066, 1958, Museum of Modern Art, New York

オイチシカは、初期に抽象画の習作で使ったいくつかの技術を「Metaesquema」で発展させている。マレーヴィチ(Malevich)やモンドリアン(Mondrian)といったアーティストの影響は明らかだが、初期の作品でさえ、幾何学の色と形状に対するオイチシカ独自の姿勢が感じられる。構成は繊細で動きがあり、線には優雅さがある。

(25) NC6 Medium Nucleus 3 (NC6 Núcleo médio 3), 1961–63, César and Claudio Oiticica Collection

オイチシカは形状を3次元で表現し始めた。木を切り、色を塗り、天井から吊るす。この作品では、下に鏡が敷かれる。キャンバスに描いた抽象的な幾何学に生命を吹き込んで、鑑賞者の探検を誘う。作品は空中に吊るされているので、鑑賞者は自由に動きながら、作品の奥行きを味わうことができる。後にオイチシカが最大の関心を向けるコンセプトの始まりを、これらの作品は告げている。すなわち、鑑賞者の積極的な参加を促して、鑑賞者との関係を築くこと。ますます制圧を強める軍独裁政権下のブラジルで、「心を解き放つ」だけでは不充分だった。ラディカルで抽象的なアートへの参加は、単に理論的演習ではなく、現実と関わっていた。

軍事政権は、発展、近代化、社会の流動性という楽観的展望を宣伝する洗練されたプロパガンダ活動を展開した一方、対立する左翼への暴力や拷問を美化する恐怖のキャンペーンを繰り広げた。ファシズムがその罠を美しく飾りたてたように、軍事政権は近代化の夢を売りつけた。トロピカリスタたちは不敬な政治観によって政権の虚飾に挑み、常のごとく独裁者を激怒させた。トロピカリスタの多数は、投獄や拷問、亡命の最後を迎えた。鑑賞者の参加を促して意識を拡大するアートは、明らかに、政治的な危急であった。

(35) Parangolé de Aqua, 1968,
Joshua Mack Collection, New York

「Parangolés」は、群を抜いてラディカルな作品だ。オイチシカは数年かけて温めたコンセプトからパワフルなエッセンスを抽出した。この作品は衣類として機能する。人が着て、息吹きを吹き込んで、初めて「起動」する。「Penetrables」のように、鑑賞者が作品を自由に探検するだけでは、もはやオイチシカは満足しなかった。文字通り、自分の作品を着せようとした。鑑賞者は作品を着て踊ることが求められ、それによって、素材の折り目に隠された色彩、風合い、テキストが露わになる。オイチシカは純粋な対話性を実現した。ホイットニー美術館では、壁に掛かった鏡がその目的を達する。鑑賞者がオイチシカが追い求めたフォルムの躍動的な動きの一部になる。鑑賞者と作品を隔てる線は曖昧になるのではなく、消滅する。

  • 文: E.P. Licursi