僕は何者だろう?

ビデオ アーティストのエド・アトキンスがインターネット後のアイデンティティを語る

  • インタビュー: Timo Feldhaus
  • 写真: Christian Werner
  • 画像提供: 画像提供:Ed Atkins、Galerie Isabella Bortolozzi(ベルリン)、Cabinet Gallery(ロンドン)、Gavin Brown’s Enterprise(ニューヨーク、ローマ)、dépendance(ブリュッセル)

Good Wine、2017年

「僕自身の顔の動きをCGIモデルの顔へマッピングするんだ。実体のないマスクの後ろで捻れたり色々な表情をしてみせるのは、トラウマとか喪失とか、そんなものに執着する僕の顔」と、アトキンスは語る。憂鬱、倦怠、死と親しむアトキンスは、ハイパーリアルなCGIフォーマットの映像作品と作品中のキャラクターで、悪名を馳せている。アトキンスが創り出す登場人物は、さまざまな不安を抱え、辺獄を彷徨う。

古くからベルリンにあるベルリンのカフェのひとつ、「アインシュタイン」に入ってきたアトキンスは精気を取り戻した様子だ。実は、ここ何年かで久々の休暇をイタリアで過ごし、帰ってきたばかり。休暇中は、初めてオフラインの生活も試した。1982年にイギリスで生まれたアトキンスだが、現在はドイツの首都に生活と仕事の拠点を置いている。ハンス=ウルリッヒ・オブリスト(Hans-Ulrich Obrist)が言うところの「この時代で最高のアーティストのひとり」であるアトキンスが、その名を成したのは、このベルリンが出発点だ。2~3杯のホワイト ワインを飲みながら、懐古主義が嫌いな理由、つい最近父親になった新しい経験、人工知能の隆盛について、ティモ・フェルドハウスとエド・アトキンスが4時間語り合った。

Good Wine、2017年

Good Wine、2017年

ティモ・フェルドハウス(Timo Feldhaus)

エド・アトキンス(Ed Atkins)

ティモ・フェルドハウス:君の作品の見どころは何だろう?

エド・アトキンス:必ずしも「これ」と決められないものを作りたいと思ってるんだ。ある時期から、意味を作ることにだんだん興味がなくなって、その代わりに一種の不確定性に向き始めた。もともと、何かが持っている意味よりも、どう感じるかの方に関心があったし。

作品はほとんど君独りの創作だけど、今のこの世界でビデオ アーティストとして生活するのは、とても特殊な生き方だろうね。

とても臆病な生き方だよ。そのことは、いつも考えてる。どうしてこういうことをやってるんだろうって。僕は人を感動させるのが好きなんだ。すごくね。強い印象を与えたい気持ちがとても強い。スタイルを熱烈に信奉してるんだろうな。人に真似のできないスタイルというより、スタイリッシュであること。表現の様式と訴える力。言葉も大好きだし、視覚的なイメージも大好きだ。そういうものに力があることを、一種の事実として信じている。自分独りで創作する作品は、僕特有のものだし、誰かが正当化してくれるものでもない。孤独だと思うけど、アニメーターのアダム・シンクレア(Adam SinclairI)とは、距離的には離れてるけど、とても密接に共同作業をしてるんだ。アダムはすごくテクニカルの面に強くてね、あんな動画を僕も作れるようになりたいよ。なんにせよ、ビデオ アーティストがかなり孤独な職業であることは確かだな。

Ribbons、2014年

Hisser、2015年

尊敬してる人はいる?

動画と映像制作の天才のヤン・シュヴァンクマイエル(Jan Švankmajer)には、早い時期から、ものすごく強い影響を受けてる。だけど、僕は概して色々なことをこなす人に憧れるんだ。何でも幅広く理解できる人。デヴィッド・ボウイ(David Bowie)とかジム・オルーク(Jim O’Rourke)とか、凄いなと思う。

意外だな。君のビデオは全部見てるけど、早い時期から君自身のスタイルがあることに感心してたんだよ。滅多にないことだからね。

僕は、それが嫌なんだよ! とてもはっきりしたスタイルがあっても、すぐに僕の作品とはわからない、本当はそうありたいんだから。

君のアートは、主として、喪失の存在に突き動かされてるそうだけど、どうして喪失の存在がそれほど君にとって重要なんだろうか?

失われたもの。僕たちが知らない、だから少なくとも差し当たりは回復できないもの。知識の生産という意味で、不可解で目的のないものをアートの理想とする考え方。得体の知れないものが失われて、だから僕にはそれが何かを知りようがない。たぶん、それがあらゆるアートの土台じゃないのかな。

2017年に ベルリンのマルティン グロピウス バウで展示した「Old Food」では、フランケンシュタインが、微妙だけどとても重要な役割を演じていた。フランケンシュタインという怪物は、人口知能と結び付いた歴史上初の存在のようだね。

人工知能というものの陳腐さが、人類にとっての最大の脅威だと僕は痛切に感じてるんだ。資本の動きや権力の動きの中で決定がなされて、徐々に行為の主体性がコンピュータに譲渡されている現状を考えてみてよ。そりゃターミネーターの世界じゃないけど、 それよりもっと弛緩で無目的でたやすいプロセスだ。情報を頭の中に記憶しておく必要がないとか、携帯が教えてくれるから時間を知らなくていいとか、そういうのは人工知能というより、むしろ人工主体だろうな。常時オンライン接続しなくていいなら最高だけど、それって、馬鹿げた考え方じゃないかな? 第一、そもそもなんで人工知能なんか作るんだ? 生命はもう存在してるのに、どうして生命体を作ろうとするんだ? 欲望が負わせる十字架だよ。

Ribbons、2014年

Ribbons、2014年

作れるから作る、そうじゃないのかな? おそらく、それが唯一の理由だ。

そこには破壊的な欲望もある。わずかな死への欲動。イーロン・マスク(Elon Musk)がそういうことに触れないのは、本気で心配してるからだよ。きっと本心はものすごく胸騒ぎしてて、寝ながら「ああ、ロボットたちがやってくる。全部俺のせいだ!」と思ってるはずさ。言うなれば、流産した後死体をつなぎ合わせて怪物を作る物語を書いたメアリー・シェリー(Mary Shelley)のことを、あれこれ憶測してみるようなもんだ。何がインスピレーションの源なのかまったくわからないし、いかなる理性的、商業的、資本的理由もない。僕の仕事にとって、確かにテクノロジーはとても役に立ったけど、本当に率直に文字通り、僕はテクノロジーというものを全般的に信用していない。

テクノロジーのおかげで、アーティストとして成功して、リッチになったから?

とりたててリッチではないけど、成功はした。

Safe Conduct、2016年

一方で、現在起きていることの多くに対しても、君は懐疑的だし、危惧の念を持っている。僕たちが15歳の頃には、現在起きているようなことは予測できなかったからね。アルゴリズムが存在しなければ、世界はもっといい世界になるだろうか?

いや。僕は、懐古主義のほうが、テクノロジー的観点よりはるかに嫌いだ。インターネットやデジタルやコンピュータの実体に関しては、僕はまったくどっちつかずなんだ。だけど、本当は人間の問題だと確信している。人間の使い方がまずいんだ。何て言うか、僕は自分のビデオを見ても、一種驚きを感じる。それは、事実、ビデオ内部で何が起きているのかをよくは知らないからだ。多少奇跡みたいに感じるのが大切なんじゃないかな。僕の動画作りは、デジタル「モデル」を買ってきて、多少カスタマイズして、ポーズをとらせれば、それでOK。動くと、多分僕みたいに見える。創造というより発見、生成というより編集だ。

君のビデオ作品の主人公は、老人、若者、サル、赤ん坊、詩人、ピアノひき…全員が男で、女性は絶対登場しないね。その理由は?

それは、僕が男性で、白人で、中産階級で、西欧人だから。要するに、特別な名前をつけなくてもまかり通るカテゴリーなんだよ。特権を享受できる集団。そうであっても、僕だって声を持ちたい。だけど、特権カテゴリーに属してるから、マイナスの方向に発言したいんだ。話された言葉を消したり、行われたことを元へ吸い戻す行為。もちろん、そんなことは不可能だけどね。ぼくは僕以外の人間のために語りたくはない。僕の作品は、僕が込めうるかぎりのエモーショナルな自伝的感情を持つべきだけど、それと同時に、いかなる意味でも、あからさまな僕自身の表現であってはならない。簡単なことじゃないんだ。ある美術館のディレクターと初めて会ったときのことを覚えてるよ。彼女、僕のビデオを見た後で言ったんだ。「あなた、2000年くらい、その口を閉じてるほうがいいんじゃない」って。僕は「うん、そうかも」って答えたよ。ほんと、彼女の考えは悪くない。僕も同感だ!

up:down, in:out、2017年

でも、作品を作りたい気持ちに変わりはないだろう?

カテゴリーやヘゲモニーという全体から離れて発言できる方法があればいいんだけどね。集団の一員として構築されたアイデンティティと結び付いて、だけどその後で居心地が悪くなる、そんな作品を作りたい。少なくとも、僕自身にとってね。権威の所在を問う声を持てるだけでも、すでに大きな成功だ。自分を守ったり、注意深くなったり、正したりすることじゃない。まさにその正反対。発信したものが跳ね返ってきて自らを分解してしまう、そんな言葉や生産性はどうすれば正しく構成できるんだろうか? 僕は創ることを止めたくはない。例の美術館のディレクターは正しい問いかけをしたよ。僕は何のために声を持つのか?

鏡を見るのは嫌いだって、言ってたことがあるね。

ああ、自分を見るのは嫌いだよ。醜いし、貧相だし。体も大嫌い、外見も大嫌いだ。その点、ビデオやアニメーションはすべてを思い通りにできる。一種の権力欲だな。矯正的権力だけど。

Safe Conduct、2016年

出口はあるのかな? 君の語り口はいつもバラバラに分解している。登場人物は、中断されたりストレスを感じたりして、いつもきちんとストーリーを語れるとは限らない。

僕は、人が支離滅裂であることを受け容れる考え方が好きなんだ。理解できない、理解されない状態。それでいいんだよ。理解するというのは、往々にして、首尾一貫させようとする側が押し付ける暴力だからね。「わからない」ことを自分に許すって、どういうことだろう? そういう欲求不満の状態が暴力的な反応を引き起こす場合も多いけど、理解できない欲求不満は、とても繊細な状態にもなりうる、すばらしいチャンスなんだよ。僕にとっては、他者について考える究極の方法だ。何よりも先ず、相手が一貫しないことを受け容れること。作品について質問されるのはとても嬉しいけど、結局、僕にはどっちもわからないんだ。自分が作品を作る理由も、自分が何者かも、僕はきっぱりこうだと断言できる立場にない。本当に、それくらい自分という一貫性がないんだ。

ハッピーな人種は目障り?

とんでもない! 単純素朴な人にはうんざりするけどね。ハッピーなのは素晴らしいことだ。もしハッピーな人が神経に触るとしたら、それは僕自身がハッピーじゃないから。どうしてだか知らないけど、幸せの分け前から僕は締め出されてるから。子供を遊ばせながら家にいたり、飲んだり、ウマが合う友人と喋ったり…そういうときに幸せを感じることはできるけど、この世界で概してポジティブに存在するという考え方は馬鹿げてる。僕は、人生がとても辛いものだと考えてるんだろうな。もっと辛い人生を生きてる人もいるし、比較的楽に生きてる人もいる。いずれにしても、人生が辛いことに変わりはない。楽しむのは難しい。でも、それでいいんだ。そうあるべきなんだから。

Timo Feldhausは、『Volksbühne Berlin』のライターであり、編集長である

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