歴史を
忘れさせない

ライターのチャーリー・ポーターと映像作家のマット・ウルフが、アート、歴史、希望を語る

  • 文: Matt Wolf、Charlie Porter
  • 写真: Mary Manning

歴史を再検証することで、私たちは希望、危機、復活について何を学べるだろうか? 新型コロナウイルスによるパンデミックが続く現在、「これまでにない」という表現が散々使い回されている。しかし、この言葉には再考が必要だ。「前例がない」と形容されるときは必ず、誰にとって前例がないのか、どの場所で前例がないのかを問わなくてはならない。もちろん疾病はそれぞれの必然に従って展開するが、政府による最悪の対応と急速な感染拡大が並行して進行した事実はまだ記憶に新しい。過去50年にヒト免疫不全ウイルス、別名エイズで命を失った人は、世界で3200万人に上る。私たちが現在置かれている状況を理解するためには、これほど近い過去を忘れてはならない。

アーティストが複数の時期にかけて活動する場合、作品は往々にして集団的努力の様相を帯びる。忘却の淵に沈みそうになっているものの、決して忘れてはならないことを記憶に留め、守ろうとする取り組みになる。過去から残された遺物が、時を経て、独自の記録になっていく。先頃、ライターのチャーリー・ポーター(Charlie Porter)と映像作家のマット・ウルフ(Matt Wolf)が顔を合わせ、消え残る過去と記憶の交わりについて語り合った。ファッション ジャーナリズムで華々しいキャリアを築き、『What Artists Wear』が近刊予定のポーターは、『Esquire』、『The Face』、『The Guardian』、『GQ』、『Fantastic Man』の記事執筆と編集を手掛けた後、2018年まで『Financial Times』でメンズウェアの批評を担当した。映像作家として高く評価されるウルフは、ドキュメンタリー作品での受賞経験もある。もっとも広く知られているのは、ミュージシャンでありプロデューサーであった故アーサー・ラッセル(Arthur Russell)のドキュメンタリー『Wild Combination: A Portrait of Arthur Russell』だろう。近年では、活動家マリオン・ストークス(Marion Stokes)のドキュメンタリー『Recorder』(2019年)、自己啓発の第一人者として物議を醸したルイーズ・ヘイ(Louise Hay)に注目した短編『Another Hayride』(2021年)を発表している。ウルフが作品に選ぶテーマは、若者文化、アーティスト、クィアの歴史だ。

そんなふたりが、エイズ危機と新型コロナウイルス感染症の世界的流行にみられる共通点、危機下におけるアートの役割、複雑な希望に向き合う。

マット・ウルフ(Matt Wolf)

チャーリー・ポーター(Charlie Porter)

マット・ウルフ:実際に顔を合わせるずっと前に君のブログを読んで、従来とは違う切り口でアートとファッションを語るライターなのがわかったけど、ブログを書き始めた動機は何だったの?

チャーリー・ポーター:ブログを始めたのは2010年か2011年、もしかしたら2009年だったかな。関心のあることが色々あったのに、書ける場所がどこにもなくてね。当時、ロンドンではメンズウェアのデザインに活発な動きがあって、新しい動きに見えたけど、実はそうじゃなかった。本来ならずっとあるはずだったもの、だがエイズ危機で切り取られたものが戻ってきたんだ。大きな打撃を受けたカルチャーが復活して、ファッションへ回帰したような気がしたよ。そこからブログが始まった。

エイズのために分裂した世代があって、そこで断ち切られたものと現在との繋がりを、アートとファッションに見出す。なるほどね。

エイズのために、ファッションのエコシステムとカルチャー全体が死んでしまった。デザイナーだけじゃなくて、服を買って着た人たち、ファッションの裏方に従事してた人たち、店舗で働いていた人たち。そういう人たち全部がエイズで命を落とすことがなかったら、どんな現在になっていたことか。

ブラッド・グーチ(Brad Gooch)の『Smash Cut: A Memoir of Howard & Art & the '70s & the '80s』を読んだんだ。ドキュメンタリー映画監督だったボーイフレンドのハワード・ブルックナー(Howard Brookner)について書いた回顧録だけど、それによると、ブルックナーはエイズで死期が迫っているときに、初の長編映画の『ワンナイト オブ ブロードウェイ』を撮影していた。プロデューサーたちがエイズにまつわる疑念や恐れを持ち始める直前にどうにか完成できたけど、その後間もなく、公開前に死んでしまった。『ロングタイム コンパニオン』も、監督とスタッフの大半が死を目前にして、時間と競争して完成させてプロジェクトだ。政府にも社会にも爪はじきにされながら、作品の完成を急いだ人たちを思うと、関心を掻き立てられると同時に悲しくなるよ。『ポイズン』、『恍惚 ヴァレンティノより美しい』、『ルッキング フォー ラングストン』、それからもちろんデレク・ジャーマン(Derek Jarman)の作品も含めて、あの時期の映画には政治色と切迫感を強く反映したものが多いし、その殆どはクィアが辿ってきた歴史を別の視点から構築していた。『恍惚』は誘拐殺人を犯したゲイのふたり、レオポルドとローブ(Leopold and Loeb)を題材に取っているし、ジャーマンはカラヴァッジョ(Caravaggio)やイギリス王家の同性愛を描いた。

アーティストやライター、映像作家や活動家が歴史の抹消に抵抗することに、僕は興味を引かれる。サラ・シュルマン(Sarah Schulman)は、『Gentrification of the Mind』で、エイズによってまるまるひとつの世代が姿を消したせいでジェントリフィケーションが始まったと書いている。もちろん彼女の意見だが、共鳴した人も多いよね。

君はそういう考え方と技術革新のような進歩を結びつけて使うが、それって、かなり風変わりな視点だな。君の映画のテーマになる人は、先へ先へと押し進んでいく人が多いじゃない? 『Wild Combination』のアーサー・ラッセルは新しい音楽技術を実験してたし、マリオン・ストークスはビデオデッキを使った。今では時代遅れだけど、かつてはそういうのが革新的なテクノロジーだった。ところが君がVHSで『Wild Combination』を撮影したように、旧式になったものをもう一度使い直すことで、歴史の抹消に抵抗することができる。

多くの場合、変化しないものにいちばん大きな意味があるんだ。カルチャーは、変化しないものを辿ることで理解できる。変化しないのは、父権的な社会や、人種差別主義、階級差別主義、同性愛嫌悪、あるいはアーティストや思想家の世代間にある継続性が理由だったりする。僕がプロジェクトでやりたいテーマは、独自のビジョンを持って、慣習から飛び出したり、物議を醸した人たちのレガシーを改めて評価したりすることなんだ。そういう人たちがやったことを理解して、現代における意味を見出す。古いものを新しく感じさせて、過去が現在に与えている影響を理解するのが、歴史に対する僕の立ち位置だ。

君の作品には、資本主義モデルの外側に目を向ける意図も感じられるね。

マリオン・ストークスは、多いときは8台のビデオデッキを使って、あらゆるメディアを1日24時間、30年間にわたって録画し続けた。そういう野心的なプロジェクトを追求した人たちを考えると、一種気狂いじみた大きさまで範囲が拡大していくんだよ。大きければ大きいほどいい、という発想に嵌り込む。だけど現実にどんどん狙いを拡大していくと、資本主義社会の限界に直面せざるを得ない。ファッションを取り上げる立場で、その点をどう考えてるのかな? ぜひ知りたいよ。ファッションは、商品と創造性の葛藤を強烈に感じる業界だ。それってある意味、創造についてまわる葛藤だよね。

僕はサンダー・キャッツ(Sandor Katz)の『発酵の技法』に心酔してるんだ。最高の本だよ! その中に、「培養する」という意味のラテン語から「カルチャー」という言葉が生まれた経緯が書いてある。食品を発酵させるには菌のカルチャーを育てる、つまり菌を培養するわけだ。だけどアートやファッションの場合は、とかく消費者が中心だ。僕としては、是が非でも、消費者を子供みたいに大事に守る役目をぶち壊したいと思ってる。生み出す立場、創造する立場の尊厳と力を取り戻したいと思う。

後付けで関わる代わりに、作り出す側に立つってことだね。僕の映像作りも同じように考えてる。感情移入の感覚が浸透していないものは一切作りたくない、と今では思ってるんだ。作品を仕上げるまでには数えきれないほど何度も観返すけど、編集版を観る度に、泣いたり笑ったりするくらい感情をオープンにすることを心掛けてる。そういうことを自分で感じられなくなったら、他の人間に同じ感情を体験させることなんかできるはずがないからね。僕自身が主題に強く惹かれたり愛情を感じてないんだったら、他の人に観てくれなんて頼めないだろ? 僕は僕自身で思い入れのあるプロジェクトしかできないし、そのためには、無限に創造し続けるやり方を開拓する必要があった。

スペキュレイティブ フィクション作家のN・K・ジェミシン(N.K. Jemisin)が2020年にマッカーサー基金から助成金を貰ったとき言った言葉に、僕は非常に感動したね。彼女は「私はまず本を書いて、それから売りたいように売ります」と言ったんだ。駆け引きなしに、書きたいものを書くことで自由を手にする。ライターの口からそういう言葉を聞くと、実に晴れ晴れと心が解放されるよ。自ら作り出して、自らを保護して、自らを育む空間こそ、実はいちばん生産的なんだ。

君の映像に出てくる人は、どうやって探し出すの? 綿密なリサーチの成果? どの程度が偶然の産物なの?

もう少し思いがけない偶然があってもいいと思うくらい、全面的にリサーチ。新しいアイデアが湧いたときは、いつもびっくりするんだ。「これほど熱くなれる主題が、果たして将来ありえるだろうか?」って感じで。今はまぁ自信がついてきたから、一生に一度のチャンスじゃなくて、作り続ける一生だと考えるようになったけどね。そのためには、いつでもスイッチが入る状態を保っておかなきゃいけない。宝探しと同じ。

宝はオンラインで探すの? 違う方法?

これまでは全部、インターネットか、知り合いのネットワークから。マリオン・ストークスの『Recorder』を作ったときは、知り合いがこぞって彼女に関するブログの投稿をシェアしてたんだよ。それで、30年間1日中テレビを録画し続けた女性の、何がそんなに興味を引くんだろうと思ってさ。1本目の『Wild Combination』の場合は、最初から手応えがあった。まず友人が、スタテン アイランド行きのフェリーに乗って、自分のテープをミックスしたカセットを聴きながら、飽きることなく往復した男の話を教えてくれた。そこで彼の音楽を聴いてみて「やりたい」と思ったのを覚えてるよ。興味を掻き立てるものに出会ったら、少しのあいだ僕の人生の一部にするんじゃなくて、僕という人間の一部にしたいと思う。映像作りからもっと先へ進んで、僕の人生経験の糧にする。

君の映像の素晴らしいところは、そういう複雑性が見事に表れてるところだよ。例えば、アーサー・ラッセルという人間が、どういう子供時代を送って、若者に成長して、さまざまな重荷に傷つき、なおかつ重荷を超えたところで生きようとしたか。その姿が描かれている。

ラッセルは「これでいい」と満足することがなかったし、自分がやっていることを宣伝したがらなかった。彼にとっては、完成した成果より作っていくプロセスに意味があったような印象を受けるが、本当はそうじゃないと思う。あれほど沢山の作品を作り出す人間なら誰だって、作品を認められたい、作品に注目されたいと思うんじゃないかな。自分が死んでから評価されたいと思うアーティストもいないだろう。女性アーティストの場合は、生涯ずっと作品を作り続けても、関心を持たれるのは高齢になってからのことが多い。80歳になったアーティストを、文化産業は「発見」した気になる。僕は、曖昧なものを評価するだけの人間にはなりたくないね。ある物事がどうしてこれまで評価されなかったのか。どんな力が作用して、特定の人たちを疎外したのか。その理由を理解することのほうが、僕にとっては重要だし、興味がある。僕がこれまで描いてきたアーティストには、エイズで亡くなったケースが非常に多い。ある意味で人々に沈黙を課した、政治とエイズの状況に目を向けるのは大切なことだ。

それと、やり続けることの大切さだな。「はい、終わりました。次へ進みましょう」で済ますべきことじゃない。いつまでも、ストーリーを語り、確実な理解を促していく必要がある。

言い替えれば、歴史が失われないこと、過去の出来事が放置されて、挙句は歴史のゴミ箱に葬られないようにすることだよね。切り捨てて忘れてしまう、カルチャーの要素が長く記憶されない。これは消費主義の属性だ。映像作品を作る人間としては、歴史が生き続けることを願うよ。集団記憶の中で、歴史が色褪せて、消滅することがないように。

ところで、アイデアが湧いたとき、作品のフォーマットを直感する?

もっと若かった頃は、いつもアイデアを手短にまとめる傾向があって、『Wild Combination』も短編になるだろうと思ってたよ。でも今は、かなり早い時点でフォーマットを掴めるようになった。短編は大型プロジェクトの合間にやるのがいいんだ。期間と規模がマッチするから。

つい最近、短編の『Another Hayride』を発表したね。

きっかけは、オリヴィア・ラング(Olivia Laing)の新しい本の原稿にルイーズ・ヘイが出てきたことなんだ。エイズになったゲイの男性たちに、エイズは自分を愛することで「癒される」と説いて、賛否両論のあった自己啓発の教師でね。トッド・ヘインズ(Todd Haynes)の『Safe』も彼女を下敷きにしてるから、すごく興味を感じたし、ヘイが作った「ヘイライド」という支援サークルのVHS版ドキュメンタリーも見つかった。とにかく、この素材が頭から離れなくなったよ。今という時期に、とても深い意味があると思った。そこでeBayでルイーズ・ヘイのVHSテープを買い込んで、色んな個所を切り取って、並べ替えて、まとめたら、短編に仕上がった。大きいほどいいという発想についても真剣に考えてるけど、常に規模を縮小していくことは非常に大切だ。

長さを別にして、君にとって短編と長編の違いは?

僕の短編のほとんどは似たような構成だ。ひとつの声がナレーションを務めて、次にストーリーの中心人物が登場する。『Another Hayride』は、ナレーターはひとりだが、それ以外の人の言葉や場面を挿入する方法で、バランスをとりながらルイーズ・ヘイという人物を浮き彫りにした。彼女の言葉は多くの人を救ったと同時に、有害にもなった。だけどあれは、エイズというパンデミックに直面したばかりで、まだ先が見えない時期だったんだよ。どうすればいいのか、確かな情報も役に立つ情報もなかったときに、エイズを発症した人たちが恐怖を手なずけて、希望を持とうとした。そういう時期に、僕はすごく共感できた。もちろん、エイズと新型コロナウイルスの感染を区別することは大事だ。エイズで苦しむのは社会の主流から取り残された集団だし、その集団の中でもさらに、人種や麻薬中毒者が周縁へ押し出されていった。セックスに関するパニックが付随したし、政府からは完全に無視された。だがそれでも、集団的な恐怖は現在のパンデミックと共通だし、恐怖をコントロールするために模索している方法が有害だったり有益だったりするも、同じだと思う。




僕は、相反するふたつを同時に提示したいんだ。希望や理想主義と、悲しみや苦しみ。必然が意味する苦悩と、ダメージを修復しうる可能性。

  • 文: Matt Wolf、Charlie Porter
  • 写真: Mary Manning
  • 翻訳: Yoriko Inoue
  • Date: February 16, 2021