キッチン

ピープル

台所の主導権と、自由と、ひとりの時間

  • 文: Dayna Tortorici
  • 写真: Lucia Buricelli

1年間、自分の家ではないボロ家に住んでいたことがある。悪くなかったが、キッチンには閉口した。まず寒かった。コンロは使えたがオーブンは故障していた。キッチンの半分は庭の物置代わりになっていて、残りの半分は家のそれ以外の部分と同じく禿げちょろけで、埃だらけで、ガラクタや家具や本で雑然としていた。食器棚には皿がうず高く積み重ねられ、1枚取り出すのも容易ではなかった。

留守番と居候の中間という、そこに住みついた経緯もあって、住んでいた私たち3人の誰もそこを片付けて秩序をもたらすのが自分の仕事だとは思っていなかった。私は文句をつけるつもりはなかったけれど、あるべきものの不在をひしひしと感じていた。キッチンテーブルもない。カウンターの上には野菜や果物を入れておくボウルもない。それどころか、ネズミがアボカドの皮を紙吹雪のように細かくちぎり、小さな歯型を緑色の果肉に残していた。私は料理番組の『ブリティッシュ ベイクオフ』を何時間も見ながら、自分には手の届かない趣味に憧れた。

2016年の春に新しいアパートに引っ越したとき、キッチンを見て、「これが私のキッチン!」とばかりに泣き出しそうになった。それは狭くて、変な形をしていた。部屋の中心にサイコロみたいに鎮座する、入口がアーチになった正方形の独立型キッチンだった。前の家のキッチンよりも狭かったが、私には十分すぎるほどだった。カウンターのスペースを広げ、そばの壁にオープン シェルフを取り付け、小さな調理台を追加する計画が浮かんだ。私は友達を招んで、うわごとのようにその夢を語った。

ふたりとも家で働くの? 彼女はアパートを見回しながら言った。ふたり、というのは、私の彼と私のことだ。

ううん、と棚の話題に戻りたい私は言った。彼はまだ事務所をキープしてる。自分ひとりの部屋が必要なの。

で、あなたの部屋はどこ? 彼女は訊いた。

ここよ! 私は言った。キッチンよ!

彼女はぷっと噴き出した。

「この辺のフェミニスト代表が、キッチンが自分の部屋だって言うわけね」

でも、彼女は私をからかうのが好きなのだ。本当は私の言う意味が分かっている。私はもうキッチンを他人と共有しなくていいのだ。戸棚を好きなように整理して、どこに何を置くかを決められる。たとえばボウルは下の棚だ。なぜなら私は背が低いし、ボウルで食べるのが好きだから。そして皿は上の棚。彼は背が高くて皿を好むから。そのとき初めて、私は誰もが「キッチン人間」ではないこと―というか、自分がキッチン人間であることに気付いたのだった。


人は生まれたことは覚えていなくても、最初の記憶は覚えている。それはあなたの意識の誕生の印だ。私の意識のライトが点灯したとき、私はキッチンの床で盛大に泣いていた。テラコッタの床を見つめ、両手をそれについていた。誰かが哺乳瓶をくれると言ったとたん、私は機嫌を直した―しめしめ。慰めが得られるという約束は、慰めそのものと同じくよいものだという発見は、たぶん成長のひとつの通過点なのだろう。

キッチンにまつわる私のポジティブな連想はすべて、その記憶を源流としている。キッチンは温かく、空腹を満たしてもらう場所だ。心地よさとふれあいが見つかる場所でもある。そこには母の胎内のような何かがある。でもこんなことをエッセイの初めに書いてしまうと、面倒なことになるかもしれないけれど。

私の父の母は、10代の頃にドメニカ(Domenica)という名をメイ(May)に変えた第1世代のイタリア系アメリカ人で、まさしくキッチン人間だった。私たちは祖母をノンニと呼んでいた。厳密には、「ノンニ」はイタリア語で「祖父母」という意味の名詞の複数形だが、女性形の「ノンナ」は定着しなかった。ノンニは1950年代に自分の家に引っ越してきて、60年後にその家のキッチンの床で死んだ。93歳だった。彼女の人生の舞台はキッチンだったと言っても過言ではないだろう。あるいはそれは幸せな人生だったと言っても。ノンニは料理が好きだった。様子を聞くため電話をかけると、いつも何がコンロの火にかかっているか教えてくれた。会いに行くと、おじに買ってもらったiPadで写真をスワイプしながら、これまで作った料理の名前を並べた。ピッツア。ロースト。ミートボール。お隣さんが作り方を教えてくれたキムチ。

ノンニのキッチンには、壁掛け式の白い電話があって、そのコードはプライバシーを求める家族たちによって何十年も伸ばされ続け、元のくるくるしたコイルは失われていた。戸口を通って食堂へ、別の戸口から庭へ、あるいはもうひとつの戸口から階段を数段降りて、カーペット敷きの地下室へ。でも、それはいつもキッチンへと戻された。

私は母に、母の母について尋ねる。8人の子どもを生み、私が2歳になる前に死んだ女性。メルバ(Melba)はキッチンが好きだった? 料理はした? 料理上手だった? 私が知っているのは、祖母が子どもの頃、両親によって里子に出されたこと、妊娠しているときが一番幸せそうだったこと、うつ病で1年間寝込んだことがあることだけだ。彼女のキッチン ライフについては何も知らない。

母からのテキスト メッセージ。

「何年も、毎日休みなく9人分の食事を作るのは大変だったでしょうね。大人数用の定番レシピがあってね―、ハンガリー風のビーフシチュー、メキシカン ライス、肉とポテトの料理、マカロニ チーズとか。でも目新しい料理を作ることはめったになかった。『The Betty Crocker Cookbook』がバイブルだったわ。知ってるものを作るのは上手だった。大好きだったのは、秋になると娘たちと瓶詰を作ること。アップルソースや桃、梨、ブラックベリー ジャム、ルバーブ、チェリーとかね。それと果物パイなんかのパイを焼くのも好きだった。60年代と70年代はダイエットが大流行りで、いつも禁煙とダイエットのあいだで葛藤してた。でも諦めて吸っちゃってたこともあったわね。こんな感じで役に立つ?」

私も自分でトマトを買えないとつらくなるタイプだ

自分のキッチンが好きだと認める―つまり「キッチンにいるのが楽しい」とか「キッチンはほっとする」とか「キッチンの采配が好き」とかと口にするのは緊張する。なぜか? 「子どもが欲しい」あるいは「家庭にいるのが好き」という発言が軽率な気がするのと同じ理由だ。それを義務にしたがる人たちに塩を送る必要はないのだから。

私は昔から、キッチンの解放という主張に刺激を受けてきた。1825年のウィリアム・トンプソン(William Thompson)とアナ・ウィーラー(Anna Wheeler)による「人類の半分である女性への、彼女らを政治的すなわち社会と家庭における奴隷状態に留めようとする残り半分の男性の要求に抗議する呼びかけ (Appeal to one half of the Human Race, Women, against the Pretensions of the other Half, Men, to retain them in Political and thence Civil and Domestic Slavery)」。ドローレス・ヘイデン(Dolores Hayden)が著書『The Grand Domestic Revolution』で書く、「井戸から汲んだ水を家まで運ぶ、暖炉の薪を割る、鉄製の料理用ストーブに汗だくで屈みこむ、重い氷の塊と格闘し、冷蔵箱の水抜きをし、便器を空ける」といった孤独な労働から女性たちを解放した、フーリエ主義者のグループやオーウェン主義者のコミュニティ。1868年のメルジーナ・ピアース(Melusina Pierce)による家事労働に対する賃金支払いの要求と、自身の知的才能を「埃まみれで家を整えるくだらない骨折り仕事」に「捧げるのは浪費であり自然に反する」という主張。1975年のイタリアのフェミニストによる「キッチンからの対案の提示(Counterplanning from the Kitchen)」は、「キッチンに関わる争点」は工場における闘争と同じく、階級闘争にとって重要かつ真剣な政治課題だと論じる。そして「女性の個人的責任と捉えられ、旧式な設備条件のもとで営まれる女性の労働としての家事は、ようやく歴史的遺物となろうとしているのかもしれない」というフェミニズム活動家、アンジェラ・デイヴィス(Angela Davis)による1981年の言葉。

だがしかし。いやたとえそうでも、私はほったらかしにされた汚れたキッチンを掃除する。カウンターを拭き、床に散らばるコーヒーの粉を掃き集める。掃除機をかけ、食洗機の中身を片付け、枯れた、あるいは枯れかけた花を捨てる。古くなったいろんな液体をトイレに流し、瓶をすすぎ、シンクにお湯と洗剤を張って、底にこびりついた食べ物のカスをふやかして洗い流す。こうしたもろもろを全部やっても、自分が無のような気がする。まるで1日が私から逃げてしまったように。なぜなら私は書くことも、アパートから外に出ることもしていないから。

もしそれで家事がなくなるなら、私はキッチンを廃止するだろうか? 私にできるだろうか? ニューヨークの中心部にあったオナイダ コミュニティでは共同炊事場が各家庭の台所にとってかわり、「人であることを学ぶ前に母になることを学んでしまう懸念から、幼い少女たちは人形を捨てるように命じられた」が、そこでさえオナイダの人々は、「小さな部屋に薪ストーブを置いて、それを『ポケット キッチン』と呼んでいた」。ヘイデンはこう書いている。「小ぢんまりした空間で直火が発する温もりには、他にはない極上の慈しみの力があるとして、大切にされた。そうした場はコミュニティの薬箱であり、悩みを打ち明ける空間になった」。


世の中にはキッチン人間と、キッチンのボスがいる。キッチン人間はキッチンで料理をし、ただうろうろし、ハウス パーティーではキッチンに立つのを好み、ほぼ確実に「良いキッチンの条件」についての一家言がある。一方、キッチンのボスは自然にキッチンの仕切り屋になり、思い通りにできないと苦しくなる。すべてのキッチンのボスはキッチン人間だが、キッチン人間が全員、ボスタイプとは限らない。

父は、私が育った家のキッチンのボスだった。母はグラノーラを作ったり、クリスマス クッキーを焼いたり、平日の夜のためにベビー フードを用意したりはしたが、料理への情熱はなかった。とんでもないことに、「薬を1錠飲んで必要な栄養をとれるなら、そうするわ」と言ったことがあるほどだ。違う相手と結婚していたら、料理の情熱が湧いたかもしれないが、相手が父だったので母はキッチンを明け渡した。父は、どちらかというとカウンターに置いた小型テレビでスポーツ番組を見ながらひとり黙々と料理するのを好む。盛り付けに大変なこだわりがある。そして教会に通うみたいな熱心さで、隔週に開かれる農家のマーケットに通い、野菜や果物をその手で確かめながら選ぶ。

パンデミックが始まって、65歳以上の家族には食料品の買い出しに行かせないように、という医師のアドバイスを聞いた私は、両親と一緒に住んでいる兄に行ってもらうことを、遠慮がちに、ほんとうに遠慮がちに提案した。父の主張は明快だった。自分でトマトも買えないようじゃ、生きていて何になる? 高齢にさしかかった親を持つ友人たちが、同じくお手上げだと訴えてきた。「今こそパパたちのためにおままごと市場を作るべきね」とひとりが言った。「パパたちは買い出しに行ってるつもりだけど、ほんとは偽物なの」

私もキッチンのボスだ。自分より料理やもてなしがうまい、一枚上手のボスには譲るが、自分でトマトを買えないとつらくなるタイプだ。パンデミックが私の住む街まで到達したとき、私は別の場所にいた。彼が車で私を拾ってくれ、そのまま彼の家族と過ごすために北へ向かった。まる2週間の隔離生活は、人生で経験したことがないほど、たくさんの料理と献立を作ることを意味し、その後はキッチンの支配権を完全に手放すことを意味した。これは痛手だった。何しろ彼の義理のお母さんの実家は食料品店なのだ。私が買い物をするチャンスなんてどこにもなかった。

その頃の私の日記には、凋落し、しかし自分の幸運は認識しているボスの心理描写が綴られている。4月24日。「自分で何を食べるか決められないのはうんざり。おしゃべりもうんざり。譲歩しなきゃいけないのもうんざり。コーヒーを持ってさっさと逃げたくても、出口でいつも捕まるのも嫌すぎる。食費を払わなくていいのはありがたいけど。自分以外の誰かが献立を立ててくれるのも感謝してる」。私はひどいホームシックにかかっていた。私の冷蔵庫に会いたかった。私のダッチ オーブン。私のチーズグレーター。私の発酵用バスケット。私の包丁たち。でも何よりも恋しかったのは、主導権と、自由と、ひとりの時間だった。


難民キャンプで難民が被るあらゆる不公正のなかで、何よりも私の意識にこびりついているのが、キッチンの使用禁止だ。「流刑のファイルーズ(Fairouz in Exile)」で、マシュー・マクノート(Matthew McNaught)が描くドイツのビーレフェルトにある難民キャンプでは、新たに到着した100人の難民が、織物工場だった建物に収容されている。彼とその友人アフマド(Ahmad)は、「ふたりはホムス出身、ひとりはバグダード出身の女性3人」と話をする。女性たちはキャンプのありさま、とりわけ「配給されるドイツ風の調理済み食品のひどい味」について不満を言う。彼女たちは自分で料理することを禁じられているのだと説明し、もし許されるなら作りたいものを挙げていく。

「キッベ ビ ラバン」とひとりが言った。肉とスパイスを詰めたひきわり麦の団子を、濃いヨーグルト ソースに絡めた料理だ。「マクルバ」ともうひとりが言った。こっちは王冠をひっくり返したような、ピラフに似た野菜と肉と米の料理。彼女たちは行政に料理をさせてほしいと嘆願したのだという。何しろ建物のなかにキッチンがあるのだ。だが、衛生と安全にかかわる規制によってそれは禁じられていた。

マクノートが彼女たちの悲嘆から引き出した結論は、人間の存在意義に結びついている。「ようやく僕はわかってきた」と彼は書く。「食事と住む場所を与えられても、日常の習慣から切り離され、目的のある活動を否定され、役割や責任や選択を奪われたなら、あなたに何が残るだろう?」食事は本当にお粗末で、キッチンは目の前にある。それを使うことを禁じるのは、なんと残酷でケチな了見なのか。


1989年、写真家のキャリー・メイ・ウィームズ(Carrie Mae Weems)は、自分のキッチン テーブルの正面にカメラを据え、数か月のあいだ撮影した。舞台背景はいつも同じ。木のテーブル。椅子。あらゆるものにぼんやりとした円錐形の光を投げるペンダント ランプ。鏡や新聞、灰皿などの小道具は、登場人物が男性、友人たち、少女、と入れ替わるのに合わせて出たり引っ込んだりする。その結果、「キッチン テーブル連作(Kitchen Table Series)」が生まれ、主人公であるウィームズはいつもそこにいる。私たちはそれが誰のキッチン テーブルなのか、尋ねる必要はない。彼女のものだとわかるから。すべての椅子に交互に腰掛け、必ずそこにいる彼女の姿の何かがそれを告げている。

写真はどれも「無題」だが、括弧書きでキャプションがついている。「無題 (女と電話)」、「無題 (女と娘と子どもたち)」といった具合に。それはキッチンでの生活の解説そのものだ。そこでは何が起きるのだろう? タイトルを付けるに値するかしこまったことは何ひとつ起きない。だが、同時に「すべて」が起こる。そこは「外」が入ってきて、「内」が出ていく場所なのだ。

1974年に書かれた「服 (Clothes)」は死ぬ前に何を着るかを主題にした詩だ。そのなかで詩人アン・セクストン(Anne Sexton)は、「私が描いた全部の黄色いキッチンが点々と染みついた」絵を描くときに着るシャツを提案し、こう書く。

神様、私のキッチンたちを全部持っていってもいいでしょう?

キッチンには家族の笑いとスープがあるんですもの。


自分のキッチンと再会したとき、私が何をしたか。おかしなことに何もしなかった。派手なストレス発散もしなければ、夢中でパンを焼くこともなかった。日記には食べ物や食べることについて何の記述もなく、代わりに、私は気がかりなことや何とかしたいことを何ページも走り書きし、ガスコンロのカバーの掃除を含む、退屈な計画を箇条書きにした。2週間後、私はパンを焼こうとしたが、何かがうまくいかず、形が崩れてしまった。何週間かが経った。そしてとうとう7月のある日の日記にこう書いた。「夕食に肉なしミートボールを作ったらびっくりするほど美味しかった。付け合わせはテオ(Teo)おすすめのキャベツのレシピ」。転換点だった。

11月、私は感謝祭のディナーを生まれて初めて作った。ふたりのために作ったのは、ブレンダ(Brenda)に教わったマリネしてオーブンで焼いた三角形の豆腐を、ネットを参考にしたパンのスタッフィングに載せたもの。マッシュポテトと、これもブレンダのレシピのヴィーガン流グレイビーソース。ドライ クランベリーを使ったレモン風味のサラダで重めの料理に爽やかさを添える。ポテトに塩を振りすぎたが、グレイビーの塩加減が足りなかったので丁度良かった。私はエプロン姿のままテーブルにつき、エプロンを外させようとするゲストたちがいないことを喜んだ。エプロン姿でテーブルにつくことは、私に言わせれば名誉の印だし、リラックスする最上の方法だ。私たちはノンニの皿で食べた。毎日使っている、ふちの欠けたいつもの陶器のお皿。そして私は幸せだった。

Dayna Tortoriciは『n+1』のエディターである

  • 文: Dayna Tortorici
  • 写真: Lucia Buricelli
  • 翻訳: Atsuko Saisho
  • Date: February 26, 2021