日付さえも
曖昧になるとき、
日記に
何を書くか
2020年3月の覚書き
- 文: Alex Ronan

私の持ち物のなかで、いちばん複雑な思いを覚えるもののひとつに、日記がある。日記を持っている人は誰でも、そんなふうに感じるのかもしれない。ただし私のは厳密には日記でさえなく、表紙には「5年連用メモ帳」と宣言されている。ページの周辺はゴールドで、ピーチ カラーの栞紐がついているのだが、その勿体ぶった感じが鬱陶しい。さて中を見ると、日付毎に1ページが割り当てられ、そのページがさらに5つに分割されている。つまり、記入する人、この場合私が、途中で投げ出さない限り、1年前、2年前、3年前、4年前の同じ日に何をしていたかがわかる仕組みだ。したがって、1日に記入できるのは数行程度。かつて1週間以上日記を書き続けたことのない私としては、これならやれそうだと思った。
最初の1年は、次の年に1年前の同じ日を思い出すのをひたすら楽しみに、初志を貫徹できた気がする。果たして1年の時の流れを挟んだ日々は、似ているだろうか、違っているだろうか。3年目に突入した今は、1年前や2年前に何をしたか、ボーイフレンドに当てさせてみたりする。ところが彼は驚異的に記憶がいいうえ、私たちはある台湾料理のレストランへこれまた驚異的な頻度で通い詰めているから、大抵の場合、クイズは盛り上がりに欠けて終わる。総体的に、過去の記録は私が想像していたよりはるかに感動の度が低い。
「最初私は、その日記の外見に魅かれただけだった…。悲惨なほどに古色蒼然とした様子が気に入ったのだ」。キャスリン・スキャンラン(Kathryn Scanlan)がこう書いたのは、水に浸かったこともあるらしい、今にもバラバラになりそうな過去の遺物について。15年前に、ある家の不用品処分に出されていたのを買ってきた。だが結局、その後の10年でスキャンランは日記を読み通し、気に入った文章を抜き出し、幾度も並べ替えて、ノンフィクションでありフィクション、日記でもあり文章のコラージュでもある作品『Aug 9-Fog』を誕生させた。件の日記は5年用で、アメリカ中西部の小さな町で暮らしていた婦人が、1968年、86歳のときに書き始めたものだ。「1冊に複数年を書けるこういうタイプの日記は、今では『タイムトラベルできる日記』の謳い文句で売られている」と、スキャンランは序文に書いている。

先週、封鎖状態のイタリアにいる友人へメールを出そうと私は思い立った。だがなぜか書かずじまいの4日目、日記を見返していると、2年前の丁度その日にふたりで一緒に食事をしていた。だからそのことをメールに書いた。近頃は、どうメールを締めくくればいいものか、途方に暮れる。ありがたいことに、私の日記には締めの文章を書くほどのスペースはない。
「あの日記を書いた婦人の声、独特な言い回しは、私の頭にこびりついている」と、スキャンランの序文は続く。「『ある暑い晩』、『どんどん花が育つ』、『確実に草が伸びている』、『繋がれていないものはすべてが移動している』などと、私が独り言を呟くことも珍しくない。私はこの作品を徹底的に自分のものにしたので、日記を書いた女性は、自律した独自の存在ではなくなった。私は彼女を想像しない。私は彼女だ」
だが、スキャンランと婦人が融合したのに対して、日記を書いた私と実際の私は剥離していく。耐え難い現状のなかで、将来振り返ったときに今がどう見えるのかを思いつつ、私自身の手で数日前、数週間前に書いたことは、かつてなく現実離れしたものに感じられる。メキシコ シティで耳の形をした石鹸を買ったのがこの春のことだったなんて、とても信じられない。ファッロとフェンネルの温サラダを作ったのは確かだけれど、不安に苛まれていた日にとり立ててそんなことを書いたなんて、とても奇妙だ。一体何が起きているかわからないとき、あなたは日記に何を書くのだろうか?
「私は毎晩日記を書き始めた。大きな文字で『なし』と書いて、下線を引く。夜中に目を覚ましては、その日に『なし』が起こったことを噛みしめるのだった」。アニー・エルノー(Annie Ernaux)の『Happening』の書き出しだ。彼女が待っていたのは、やって来ない生理だ。タニア・レスリー(Tanya Leslie)が英訳した短い著書のなかで、エルノーは大学生時代の中絶体験を再考する。1963年当時、フランスは法で中絶を禁じていた。
「私は人生のあの部分にもう一度身を浸し、何が見つかるかを知りたい」と、エルノーは書いている。そのために「記憶に刻み込まれているイメージと文章を、ひとつ残らず見つめ直す。それらは当時の私にとって、とても耐え難いものであったか、あるいはとても慰めになったかのどちらかで、今考えるだけでも私は恐怖や甘美の波に飲み込まれるのだ」。だが、証拠となるべき彼女の日記には、驚くほど「ない」ものが多い。
「コロナ」という言葉が私の日記に登場する数週間前、私はウィルスのニュースを追いながらも、月について書いていた。そして3月5日になって初めて「コロナ」の記載、3月9日に2度目、3月16日には「社会的距離」の文字がある。最近の日記を読み返すと、以前と同じ物事について書いているときでも、何かしがみつけるものを私が探しているのは明らかだ。例えば、1月には「3羽のカラスがミーティング中」と書いたのが、3月半ばには「注意深く鳥を観察する」に変わった。
これからまだ何が起こるのかを考えると恐くてたまらないから、あちこちを掘り返しては、1年後には今日がどう見えるかをあれこれ想像する。もちろんそんなことは、できっこない。先週『Happening』を手にしたとき、何かが始まる前の状況が符合するのに驚いた。津島佑子はこう書いている。「記憶とは、単に、物事を結末まで辿るという問題ではないのだろうか」
そのときまで、日記の記入は増え続ける。ワタオウサギを見かけた。雨が降った。ニュースがどんどん押し寄せた。
Alex Ronanは、ニューヨーク出身のライター兼レポーター
- 文: Alex Ronan
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: April 2, 2020