ハッカー的アプローチと21世紀のマルクス主義者
『ハッカー宣言』の著者マッケンジー・ワークが情報化時代の労働を語る
- インタビュー: Sanja Grozdanic
- 写真: Heather Sten

現代人の生活はプラットフォームを介して成り立っている。注目を集めようとする人々の傾向がますます高まるなか、プラットフォームはもっとも無害な形で、人の情緒的能力と認識能力を利用して、人が惜しみなく提供する情報から利益を得ている。プラットフォーム エコノミーがますます顕在化するなかで、複雑な監視システムは、人々のつながりの超幻想に紛れてその正体を隠している。テスラに乗れば車内カメラで撮影され、AlexaやEchoを持っていれば、日常は録音される。Amazonは一般市民にとって便利なサービスを提供する会社だ。だが、米移民税関捜査局が移民を追跡し、逮捕する際に使っているのも、Amazonのそのテクノロジーだ。そして何よりも驚くべきは、これらがひとつして秘密ではないことだ。
作家で、研究者、教育者でもあるマッケンジー・ワーク(McKenzie Wark)は、2019年の著書『Capital is Dead』の中で、次のように書いている。「今や私たちはただのユーザーにすぎない。私たちの行動はコモディティー化されてしまった。集団で行う労働と遊びによって、世界は人々にとって不利なものとなり、私たちにのしかかってくる…集団で行う労働は、世界を支配階級のものにしてしまった。支配階級は、そこに自らのイメージを作り出すだけでなく、絶えずそのイメージに私たちを投影している」。社会と精神の装置として、しかもそれらふたつは互いに依存するものとして、テクノロジーを見ることが私たちにできるだろうか? 不安の蔓延は明白だ。
私は今、昨年Verso Booksから出版された著書『Capital is Dead』で彼女が問うていた最新テーマである、この緊迫した状況下の階級間の関係について話を聞くため、ワークに電話をしている。『Capital is Dead』の中で、ワークは、現在、私たちは新たな形態の階級関係のもとで生きていると主張している。1994年の著書『ハッカー宣言』に初めて登場した「ハッカー階級」と「ベクトル主義階級」という造語をさらに展開し、私たちが現実の再定義をためらうことに対して疑問を投げかける。そして、これを避けようとするせいで、それについて考慮する能力さえも回避することになると示唆している。新たな階級関係は、新たな形態の搾取を伴う。これは、私たちの自律と社会秩序に対する、今までなかった脅威である。
先に進むために、少し過去を振り返っておきたい。ワークは、シドニーのオックスフォード ストリートにあるアダルトグッズショップ、Numbersのカウンターの後ろで修士論文を書いた。ワークは、ラバーとレザーの商品を分けずに陳列したせいで解雇された。彼女の性格の根幹には、日常レベルでカテゴライズに対する拒絶の姿勢があることを思い出させる逸話だ。Semiotext(e)から2月に出版されたワークの「オートエスノグラフィー」である『Reverse Cowgirl』の中で、ワークに向けて、クリス・クラウス(Chris Kraus)は「あまりに不可思議で予測不可能、いったいどうなるのか」と書いている。私は、ワークの著作のもっとも意味深い点のひとつが、新しいタイプの批評を作り上げる彼女の能力だと思っている。それは、否定よりも可能性が重視され、不可思議さと矛盾に切り込んでいくような批評だ。私がそう話すと、ワークは「私の関心は、まっすぐな道を外れて、過去を小さな脇道がたくさんある迷路のように考えてみるとどうなるかの方にあるから」と言う。「1920年代や1960年代に栄えなかったものは、今が出発点なのかもしれない…。まったく同じ人たちに繰り返し何度も正気ではないと思い込まされたのなら、なおさらね」。ワークが示唆するように、過去を迷路として考えることは、つまり、未来を議論の余地あるものとして見ることなのだ。
サンジャ・グロズダニック(Sanja Grozdanic)
マッケンジー・ワーク(McKenzie Wark)
サンジャ・グロズダニック:自分は労働運動によって形成されたと書いておられましたが、政治的信念の土台となったのは何だったのでしょうか?
マッケンジー・ワーク:それについては、あまり答えないようにしている。あなたは共産党のメンバーですか、またはメンバーでしたか? みたいな特定の質問に答えない権利は重要だから。そういうわけで、専門的な訓練を受けたということ以外、私は率直に答えることはしないんだ。若い頃、私はあまりいい闘士ではなかった。数年間、左派の主流であるオーストラリア労働党の党員だった。あの経験で、おそらく意味があったのは、一連の敗北の体験と、人は常に敗北するという事実に感情面で対処しなければならなかったこと、そして、その後には再教育的な、再考の時期がくることだと思う。だから、今起こっている一部のリバイバルとは相入れない気がしてる。というのも、過去において、これらすべてが敗れた理由や、見直しを迫られた理由について、私は整理しなければならなかったから。
ドゥブラヴカ・ウグレシィチ(Dubravka Ugrešić)の「私は敗者側にいる」というような一節を思い出します。この一文を読むと、とても希望が湧いてくるんですよね。
翻訳でも再現できないけれど、ランボー(Rimbaud)の詩の一節に、「俺は刑場に座っていた種族なんだ」というのがあって、十代の頃に読んで衝撃を受けたのを覚えてる。私の運命が決まったって!
書くことと、教えることは、あなたにとっては似たものですか?
教師であることは私の性格の大きな部分を占めていて、その影響はどうにも避けられないね。でも、制度的な枠組みにとらわれ過ぎないようにはしてる。私はそういう環境の外側で学ぶことが好きだし、現にずっとそうしてきた。だから、学びに対して常にそういう状態でいたいと思ってる。以前、レイブの真っ最中に、トランスジェンダーのセックスワーカーであることについて書いているトランス女性に、どうやってそのブログを書籍化するかについて説明していたんだ。「なぜ今自分はこんなことをしてるんだ?」って思ったよ。でも、こういうことをしばらくやっていると、それがデフォルトになるんだね。あと、教育学のアイデアにつながる政治的プロジェクトもあると思う。学習方法を学べれば、多くの問題を解決できるから。


あなたの作品は寛大で建設的で、そういう意味ではオープンだといつも感じてきました。あなたが意味するところの「低理論」に興味があります。私は最近までロンドンに住んでいたのですが、ゴールドスミス カレッジで毎年恒例のマーク・フィッシャー(Mark Fisher)の記念講演が複数の会場にまで波及するほど、いつも超満員で、講演後は学生主催のレイブが開催されるんです。フィッシャーとその読者の間には、親密な関係がありますね。
「低理論(ロー セオリー)」は、特にデリダ(Derrida)の脱構築を受けてイェール学派で議論されていた「高踏理論 (ハイ セオリー)」と呼ばれていたものから逆成したんだ。「高踏理論」は結構だし、素晴らしい。でもそれは私じゃない。私は、そういうことを実践する学校にいたことも、そういう訓練を受けたこともなかったし、大学の外には決して出ることのなさそうな、一種の形式的な演習止まりに思えたからね。そもそも、私はそういう教育を受けたことがない。私の中心にあるのは、もっとスチュアート・ホール(Stuart Hall)のような、「理論とは、より重要な場所にたどり着くまでの回り道」といった考えだ。何がより重要かを言うのは私の仕事ではないよ。私はただ本を書くだけで、これらのことに、どれほど可能性があるかについて書く。どうしたって、読むだけでアメリカでは10万ドルかかる大学院の教育を必要としないツールを備えた本になんてなりえない。そういう風には書きたくない。私は「低理論」は実践と結びつけられるとも考えているんだけど、別に社会的な運動にこだわる必要はないと思ってる。どんな種類でもいい。芸術の実践に結びつけてもいいし。
ベルリンのハウス デア クルトゥレン デア ヴェルトでの講義で、ユートピア思想とは極端なまでに現実的な思想であるとおっしゃっていましたが、この用語はあなた著書にも頻繁に出てきますね。反動的なプロジェクトがほとんどを占めているように思えますが、ユートピア的なプロジェクトの余地があるのでしょうか? あなたには、どういったユートピア的プロジェクトが見えているのですか?
うまく使うのが厄介な用語だね。まずは、ユートピアは全体主義につながる、それゆえ常に悪だという、冷戦時代の自由主義のような考えから抜け出す必要がある。自由主義者というのは、実際、現実的な人たちだよ。なにせ、外国に行っては、共産主義を打ち負かすという名目でたくさんの外国人を殺したんだから。もうひとつ複雑な点が、新自由主義以上にユートピア的なものが思いつくか? ってこと。支配階級のユートピアのようなものだから。皆、ユートピア思想が実は、ゴミの始末をするのは誰なのか、悪感情にどう対処するのかといったことに関する思想だという点を見落としてると思う。ユートピア思想は、こうした困難な問題のすべてに対処しようとするものだ。この点について、そして現在の世界にユートピアを構築するためにも、言っておくべきことがある。ユートピアのような夜を過ごすことは可能だし、私に言わせれば、それを試してみる価値はある。良いレイブはまさにユートピアだよ。
資本はもっとも現代的な形で、公共の世界から離れる準備をしているように思えます。外の世界は見捨てられたか、お金がかかるか、病的か無菌かのどちらかです。あなたとニューヨークの関係について、変化があったのかなど、少し聞かせてください。
ここには20年住んでるから、もうニューヨーカーだ。私も街の一部になってる。自分もニューヨークを担っている気がするしね。おそらくこの街は、私の子どもの生きているうちに水中に沈むだろうから、アーカイブしたり記録したりしてる。それに、まだ存在するうちに楽しみたいとも思ってる。まだかろうじて住めるけど、どんどん大変になってきてるよ。多分、私はニューヨークの黄金時代を体験しそこねたんだ。ジュリアーニ時代にここに来たから、間違いなく楽しさは減ってきてるし。とはいえ、まだ奇抜なところや周縁は存在していて、街の周辺には、いろんな活動をしたり、そこで暮らしたりできるゴタゴタした空間がある程度は残ってる。でもお金がかかるし、たくさんの人がとても不安定な方法でしがみついてる状態だ。それに、警察がそれは大々的に取り締まっていて、その警備が人種化されていることは明白。街を自由に歩き回れるというだけでも、私は多くの特権を享受してると言えるね。とはいえ、都会はすごく好きだ。住めなくなりつつあることは、私の人生にとって、大きな悲劇だよ。

『Capital is Dead』の中で、「これがどのような生産様式であれ、それが脳だけでなく身体をも侵食している点は、それがどのように機能し、どのように作られるかを考える手がかりになりそうだ」と書かれています。ボードリヤール(Baudrillard)にとって資本主義はヒステリックであり、ドゥルーズ(Deleuze)とガタリ(Guattari)にとっては統合失調症でしたが、あなたが説明する新しい生産様式と私たちの身体は、どのような関係にあるのでしょうか?
どんなものであれ、この新たに出現しつつある、あるいはすでに出現した生産様式は、あらゆるものを情報に還元できるものとして扱っている。だから、身体はどれほど詳細に知られるようになるのかが問題だ。それから、その情報は大規模にかつ統計的に集計され、確率的データとして処理される。これがその一部。電話を持ち歩いてるよね—。みんな知っていることだけど、基本的には、電話はデータ レコーダーの一種で、あなたの動きや状態のデータが絶えず収集されてる。私たちは個人のプライバシーの観点からこのことを考えがちだけど、逆に考えてみると、誰がその情報をすべてまとめて所有していて、誰が私たちに関する情報を母集団として所有しているんだろうね? この点は見落とすべきじゃない。
あなたは、階級意識を持つことはいつの時代も稀で、難しいことだと書いていますね。私には、ミレニアル世代はもともと進歩的だとする考え方には危うさがあるように思えます。もちろん、下流に至るまで携帯電話を使うようになり、私たちはもともと急進的ではありますが、どのようにすれば、現実的な、または永続的な団結を築くことができるのでしょうか?
それは常に大きな問題だね。今はかなり無防備だ。分裂させるための戦争が起きていて、メディア全体がスケープゴートを探すことに必死だ。今や、私もその中のひとり。現時点では業界全体が、トランスジェンダーの人たち、特にトランス女性をスケープゴートにしてる。私たちの数がとても少なく、ほとんどが貧しく、ほとんどが孤立していて政治的に組織化されていないという意味では、それは、ある種賢い戦略だ。私たちを攻撃して亀裂を入れ、全員を戦わせる。問題は、ソーシャルメディアの構造上、ノイズを生み出して論争を引き起こすような、ポジティブなフィードバックの積み重ねが優位になるようできていることだ。だから別の影響を作り出すのは難しい。人はみんな違うと言っても、支配階級ではない私たちに、共通の利害があるのかって話。

かねてから「ハッカー階級」や「ベクトル主義階級」といった用語を使用していましたが、今まさに時宜を得ていると思います。「ベクトル主義階級」とは何か説明していただけますか?
私たちがこの批評をしていたのは90年代で、テクノロジーについてのすべての言説が肯定的であるという容赦ない自明の理があってね。まるで、あなたは幅広く読んでいないだけよ、って感じだった。私だけじゃなく、批判的な専門家たちのコミュニティ全体が、テクノロジーに対してパンクなアプローチを行っていた。みんながどこからともなくこの流れに巻き込まれていくのを見るのは、うれしくもあり悲しくもあったよ。私の言葉が残るかどうかはどうでもいい。私の関心は、搾取のあり方に対応した新たな階層は存在しているのか、資本主義に起因する新たな生産様式は存在するのか、という点にあった。まだ資本主義は取って代わられてはいないし、大部分の人がまだ資本主義の中で生活しているけど、もはやそれがすべてではなくなってる。少し違う何かがある。新たなタイプの支配階級が存在しているのか、そしてそれは主に情報をコントロールする人と見なすことができるか。モノには本当に興味がない、直接工場を所有しているわけではない、物質的なことは気にかけない人たち。情報をコントロールすることで、バリュー チェーンをコントロールすることを重視している。資本主義全体において、そういった要素は確かにあるけれど、それが支配的な地位にまで浮上しているのは比較的新しいことだから。そして、それには新しい批評的な言葉が必要だと考えてる—。だから私はそれを情報のベクトルを制御する「ベクトル主義階級」と呼んだんだ。
そして「ハッカー」という言葉もよく使われていますが、これは、あなたにとってはどういう意味ですか?
これはすべて、新しい下位階級があるかのかどうか、という問いをはぐらかすものだ。私はあると思う。情報を作るけれど情報を所有できない階級。私が知ってるほとんどの人たちがそう。私がそう。あなたのやっていることなんて、まさにそう。あなたは情報を作り出し、他の誰かがそれを所有している。私はそれを「ハッカー」階級と呼んでる。もしかしたら、今ではもうパッとしない言葉かもしれないし、好きなように呼んでくれたらいい。労働に似てはいるけれど、定量化するのがとても難しいから、労働とまったく同じとは言えない。労働時間との関係はかなり異なる。自分のやっていることに価値が生まれるのかの関係も、大きく異なる。こうしたことについて、なんらかの固有の呼び方が必要だと思ったんだ。ハッカー労働者同盟とは一体何なのか。私たちが今置かれている階級についての言葉を進化しようとしてるんだよ。
マーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)が、上院に招かれて新しい通貨を説明したり、ある種の新たなヒエラルキーが存在することは否定できなさそうですね。
言葉を進化させるのは難しい部分がわかってきているのだと思う。確かに、「ハイテク産業」とか「シリコンバレー」と呼ばれているだけで、誰も「新たな支配階級」なんて呼んだりしない。私たちにイノベーションだとか、たくさんのたわごとについて話をさせることで、逃れたんだ。言語の革新は敬遠される傾向があるけれど、私たち自身の言語の革新が必要だと思う。私はそういう立場だよ。世界の片鱗を言い表してはいるけれど、そこに当てはまらない部分を見逃しているような、19世紀のマルクス主義の用語に逃げ込むのではなくてね。21世紀のマルクス主義者として、私たちはどうあるべきか? この問いはもっと問われていいはずだ。
Sanja Grozdanicは、ロンドン在住のライターである
- インタビュー: Sanja Grozdanic
- 写真: Heather Sten
- Date: February 6, 2020