宇宙にふさわしいスタイル

タルコフスキー監督映画「惑星ソラリス」と、SFがスタイルに与えた影響

  • 文: Rebecca Storm

1972年に公開され、現代空想科学映画の最高傑作に数えられるアンドレイ・タルコフスキー(Andrei Tarkovsky)監督作「惑星ソラリス」は、単なる宇宙旅行映画ではない。私たちは技術的に進歩するほど人間の条件に関する真の理解から遠ざかる、という理念を具象で表現した映画だ。科学と人間の感情の競り合いから生じる内面の激しい動揺を描く「惑星ソラリス」は、空想と現実世界の辛辣な和解でもある。

芸術作品の寿命は、変遷を続ける時代と関連性を維持できるか否かに根ざす。「惑星ソラリス」の場合、現代との関連性は、考え抜かれた様式によるところが大きい。タルコフスキーは、未来的スタイルの模倣をきっぱりと拒絶した。「未来」も無残に老化するのだから。かくして「惑星ソラリス」と現在の社会時勢に見られる類似は、オンライン上の生活と現実世界の生活という二分化を密接に反映する。

タルコフスキーは厳格に様式を決定した。自分の映画が将来どう受け止められるかを考えて、見るからに未来的なアイデアを断固拒否した。サウンドトラックに対しても強い抵抗を示し、他の芸術媒体による表現が不十分な場合に限って使用した。このような警戒は、衣装にも表れている。コスチュームに割り当てられた予算の大半を使い果たした最初の担当者は、デザインが未来的過ぎる、したがって将来の観客に敬遠されるだろう、という理由で解雇された。

残った予算で雇われたネリー・フォルミナ(Nelli Formina)は、意図して目立たないコスチュームの制作を要求された。3時間に及ぶSF傑作には、そのようにして誕生した、時代を超越しうる象徴的なデザインが散見する。様式に対するタルコフスキーの慎重なアプローチは、登場人物の心理的ヒステリーを内包するに相応しい器として機能している。

心理学者のクリス・ケルビンは、幼少時代を過ごした家を取り囲む湿地を歩いている。立ち込める霧の中、膝を折って、ゆっくりとした流れに渦巻く葦を観察する。渦を巻く動きは全編を通じて繰り返し登場し、多くの場合、惑星ソラリスの知性を備えた海の動きを表現する。いつものグレーのセーターとくすんだカーキ色のズボンにブルーの革のコートを羽織ったケルビンには、心理学者や科学者としての実用的な役割と相反する、独特の魅力がある。

ただでさえ自然界の動植物に乏しい惑星ソラリスで、ブルーには大きな意味が与えられている。ソラリスの海やケルビンの葦が繁茂する流れなど、水はや黄色の色調で描写されることが多く、対照的に、意図された意外な色としてのブルーが強調される。そして、ブルーは往々にして変容の時の前触れだ。

おそらく、現代におけるブルーの物質化をもっとも顕著に象徴するのは、ブルー ジーンズだろう。用途の広い必需品として活用されるデニムは、現代生活の頼れる存在であると同時に、私たちと共に変化し変容をする存在として機能する。いわば、私たちが生きる人生をその背後に隠した暗号のように。

宇宙服姿のケルビンは、仕事の後に行くつもりだったパーティの場所を失念した男のように見える。額に寄せた皺のせいで余計に際立つ、メッシュのシャツのネオンのような黄緑色は、90年代に現れるハッカーと今日の復活を予見したかのようだ。一見Alyxと見紛うデザインのパンツと、それによく似合うY-3に違いないバックパック。タルコフスキーが巧妙に取り入れたこれほどまでに現代的なスタイルは、ほとんど透視能力の領域だ。かつて宇宙探査に相応しいと思われたスタイルが、今は、社会探査のスタイルとして受け入れられ、崇拝されている。すなわち、パーティー、自己表現、典型的なハッカーの服装。しかし、私たちが征服しようするフロンティアは、銀河系ではなく、デジタルと社会だ。

平凡な現代人の探査を構成するものは何か? それはおそらく、人間に関する理解を深めるために、デジタル システムの限界を克服しようと試みる、創造性の知的挑戦だろう。私たちは、少なくとも、それらしい出で立ちを整えることはできる。

「惑星ソラリス」では、手作りの技巧が繊細な隠れ家だ。そして、絶望的に隠れ家を必要としている苦悩に満ちた登場人物と、著しい対照をなす。ハリーは自分が写った写真を拾い上げ、鏡に映った顔から写真へ目を移しながら「これは誰?」とたずねる。写真に写った自分を認識できない無力は、現代に蔓延している。自分が目にしている若かりし頃の自分に混乱して、時によっては、眼前に晒される過ぎ去った過去のすべてに打ちのめされる。

生き返ったケルビンの妻ハリーとケルビンの母親が着ている鉤針編みのドレスは、おばあちゃんが使っていたテーブルクロスのごとき心地良さや親近感を放散し、クチュールの手作りの要素に向けて、謙虚で気取らないオマージュを捧げる。

「何か忘れてるような気がするの」。とめどなく滴るシャワーの傍らで、ハリーは言う。次なる技術躍進を必死で追いかける時代に、伝統的なオートクチュールの存続は慎ましく心地良い慰めだ。

象徴としての破れた服や乱れた服は、豊かさ、次に貧困、そして再び豊かさの指標として機能つつ、繰り返されてきた。仕事がなければ、私たちは破れたジーンズや裾のほつれた服を着ることができる。

サイバネティクス学者スナウトの破れた袖は、宇宙ステーションで長期間暮らしていることを物語る特徴だが、同時に、その解釈は自由だ。もしスナウト教授が現代人であれば、雄弁にスタイルを主張する着古したオーバーサイズのブレザーと組み合わせるため、迷うことなくYeezyのBoost 350に手をのばす熱烈なスニーカー狂で通るだろう。しかし、この着古した服が誤解の原因になりかねない。

現代のレンズを通せば故意の印象を受けるが、映画の中ではスナウトの心理的な破綻を示している。「恐れているゴール、その上本当は必要のないゴールを追いかける人間の苦境。僕たちは、そこに立たされている」と、陰鬱な状況の根本原理を分析しつつも沈着冷静を保てる能力が、分裂をさらに深める。

  • 文: Rebecca Storm