ジェームス・フェラーロとショッピング モールの美学

消費者文化を映し、崩壊するアメリカンドリームのイメージを暴く、電子音楽家との対話

  • 文: Robert Grunenberg
  • 写真: Elsa Henderson

ありふれたショッピング モールの、ありふれたコーヒー ショップ。私は、まもなく、ジェームス・フェラーロ(James Ferraro)にインタビューする。電話が着信を知らせる。数分後に始められる、とフェラーロからのメッセージ。モールの通路には、期間限定の小型のキオスク、刺し身バー、フローズン ヨーグルトのスタンドから匂いが漂う。ミニマル音楽の陽気な音、パンプキン スパイス ソイ ラテを注文する人々の声が空中を満たす。インタビューを録音するため、iPhone Siriにボイス メモの起動を指示する。IOS ボイスオーバー機能のアメリカ女性バージョンを担当したスーザン・ベネット(Susan Bennett)の音声が「理解できませんでした」と返答し、私は自分でアプリを起動せざるをえない。フェラーロが私のグーグル ハングアウトにコールしてくる。私たちは身のまわりに存在するメインストリームの商品、音、習慣について話し始める。それらのすべては、グローバル化された超人工的なコミュニケーションと消費の世界の代表であり、フェラーロが音楽的実験で引用する素材そのものである。では、いったいどんな方法をもってすれば、それらがインスピレーションになりうるのだろうか?

「音楽を作るとき、僕は、巨大企業のCEOや、ショッピング モール、自然食品スーパーマーケット、エレベーター、それから、そういう場所で聴衆に一定の作用を及ぼすことを意図された音楽の音について考える。そういう音を複製するときは、その中に組み込まれた心理的な枠組みを使うんだ。ミューザックは恐ろしくて、邪悪で、よそよそしくて、非人間的だけど、同時に引力がある。資本主義の取り引きを促進する社会の潤滑油として機能するんだ」。今年30歳を迎えたフェラーロは言う。彼のコンセプチュアルな音楽は、私たちが意識するしないに関わらず、日々遭遇する音をリサイクルしている。21世紀消費文化のサウンドトラックがあるとすれば、作曲者はジェームス・フェラーロだ。フェラーロの音楽は前衛的かつ未来的に聞こえるが、そのすべては現在から派生している。そして、ほとんどの場合、電子サウンドの寿命はパック入り牛乳の賞味期限より短い。したがって、彼のコンピレーションは、テレビのコマーシャル音楽、着メロ、ATMの電子音など、近過去のノスタルジックなサウンドのアーカイブを意味する。これらの音はコンピュータ システムと個人がコミュニケーションするためのツールであり、私たちに通知し、警告し、私たちを喜ばせる。私たちの世界が視覚文化に支配されているにせよ、聴覚文化もまた、私たちに多大な影響力を及ぼしているのだ。

過去10年に15枚を超えるソロ アルバムをリリースし、それよりさらに多くのコラボレーションを発表してきたフェラーロは、グローバル化された世界の音を反映する広大な音楽アーカイブを構築してきた。世俗のガラクタ音を精製して作られた音楽は、ほとんど予言的黙想の次元へと超越し、西欧諸国や母国アメリカの未来に対する暗い展望を啓示する。近過去の音から響くノスタルジアの要素は「アメリカの繁栄の衰退、死にかけた超大国の亡霊」の象徴、とフェラーロは説明する。

2011年に発表されて多くの聴衆を獲得したアルバム「Far Side Virtual」では、こうした考えが明確に打ち出されている。かつてのローファイな曲から電子スタイルへのコンセプチュアルなアプローチへと路線を転換したこのアルバムは、過去10年でもっとも意見を二分するアルバムのひとつと評された。切り口の鋭さは、果たしてフェラーロがグローバルな超資本主義の力を賛美しているのか拒絶しているのか、判断を混乱させる。快楽主義的消費の暗い魅力に対する風刺的な批評なのか、途方もないジョークなのか、敬意なのか? 「文化が市場に呑み込まれ、商業化され、商品化されることが悪いとは思わない。恐ろしいのは、商品化を進行させる力学の利用だ。広告の指示的な性質を考えてみよう。例えば、ゲータレード。ゲータレードがいかに男らしい飲料として提示されているか。ゲータレードには、マーケティングが作り出したスポーツや男らしさという異様なオーラが付随している。それを削ぎ落としたら、一体何が残る? プラスチックに入った、ただの人工風味の砂糖水だよ。商品化や商業化が進行して、考えが歪められ捻じ曲げられるレベルに達すると、ことはクレイジーになるんだ」。音楽、アート、消費者製品におけるノスタルジアの倒錯したブランディングが、フェラーロの頭にあるコンセプトだ。「多くのアメリカ国民、特に消滅しつつある中産階級は、もっと安定してもっと豊かだった時代と繋がるためにノスタルジーを欲求している。昔のいい思い出だけを集めて、いっしょくたに混ぜ合わせて、奇妙なノスタルジックのハイブリッドを作るんだ。フランケンシュタインみたいに、消費者のフェティシズムとアメリカのノスタルジアを混ぜ合わせた総体。その前面に現れるのが国民意識だ」

フェラーロが関心を抱くのは、メディアが主導する時代のシンボルや音だけではない。関わっているインフラやシステムにも目を向ける。単にラウンジ ミュージックを再利用するのではなく、それらの音楽が発生した場所へ戻り、インストールして、再生する。「人間は自分が暮らしているシステムに順応するものだよ。僕はそうしたインフラへ入り込んで、意識を覚醒させたい。システムがどのように機能しているか、その中で私たちがどう行動しているかを理解して、その機能不全を見直す行為と言えばいいかな。こういう公民的アートこそ未来なんだ」。2014年にMoMA PS1で開催し、極めて高い評価を受けたミュージアム ショー「100%」では、MoMA PS1の電話システムの保留音として「Saint Prius」を作曲した。この2分間の作品は長期のインスタレーションになり、美術館の開館時間に+1(718)784-2084へ電話すれば今でも体験できる。「Saint Prius」のほかにも、MoMA PS1のエレベーターのために作られた18分間の「Dubai Dream Tone」や、美術館のウェブサイトからダウンロードできる18種類の着信音「Eco-Savage Suite」が発表された。

フェラーロの作品は、ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard)の理論と比較されてきた。ボードリヤールは、現在の社会では現実や意味がすべて象徴や記号に置き換えられ、人間の体験は現実のシミュレーションに過ぎないと主張した。情報オーバーロードや過剰な商業主義をテーマにするアーティスト、ライアン・トラカートゥン(Ryan Trecartin)のビデオ作品を引き合いに出す人もいる。加速主義なる考えも存在する。すなわち、市場が崩壊するまですべての市場取引を加速することで、資本主義が瓦解し、最終的には抜本的な社会変革が可能になる、というコンセプトである。意見が分かれるフェラーロの作品に対しては、多くの人が分類を試みてきた。「ベイパーウェーブ」や「ヒプナゴジック ポップ(入眠時ポップ)」と呼ばれたり、既存ジャンルのミックスだと見なされたりしたが、それらをフェラーロは疑問視する。「トライバルとかミニマリスティックとかベイパーウェーブとか、何かのレッテルで呼びたい願望や衝動は分かるけど、僕にはあてはまらないと思う。美学やアートの適応性を反映していないから。アートは現実の一時的な存在を生み出すためにあるし、その美学はこの世に新しい考えをもたらすと、僕は信じている。僕の音楽を、RnBにあれこれミックスしたと言うのは不当だよ。僕の音楽は、今現在も生まれつつあるし、曖昧だ。それを説明する言葉はないんだ」

多くのアメリカ国民、特に消滅しつつある中産階級は、もっと安定してもっと豊かだった時代と繋がるためにノスタルジーを欲求している

私たちの住む世界は曖昧で、ひとつの決定的な真実が存在するわけではない。フェラーロの手法の核をなすのは、ポストモダンの疑問である。すなわち、権威、制度、ジャンル、レッテルによる行為はすべて、半分の真実に過ぎない。なぜなら、グローバル化、デジタル化、絶えず更新されるテクノロジーによって、あらゆるものがかつてない速さで動き、変化し続けているからだ。フェラーロの作品を理解するには、作品ではなく、制作過程を見るのがいちばんだ。音楽に対する彼の遊び心に溢れた錬金術師的な姿勢は、スカイプやiPhoneが誕生する前から始動していた。父親はラジオのDJ兼ヘビーメタルのミュージシャン、母親はフォーク シンガー。そのせいで、多様な音楽コンセプトに触れ、ニューヨークとロサンゼルスで育った。フレンチ ホルンを独学で習得し、子供の頃から歌を作り、様々な方法で音を実験した。「小型の携帯レコーダーを持ってたら、友達がマグネットの剥がし方を教えてくれた。そうすると、録音がレイヤーになるんだ。それで結構、いろんな音のコラージュを作れる。僕はすっかり熱中して、あちこち出かけては、いろんな音を録音して重ねた。一種の奇妙なストーリーを作ろうとしてたんだ」

ゼロから奇妙なトーンを作るこの方法が、今も変わらずフェラーロのやり方である。グライム(Grime)、アルカ(Arca)、ディーン・ブラント(Dean Blunt) といったミュージシャンを登用したアメリカのレーベルHippos in Tanksとの仕事にしろ、自分だけのプロジェクトにしろ、彼の作品に影響はない。ミューザックの音をサンプリングすることは、ほとんどない。MIDIもクォーテーションも使わず、ほとんどフリーハンドで作る。2000年代中頃に録音とリリースを始めた後、彼の音楽は絶えず変化してきたが、実験の要素が作品を駆動するエネルギーであることに変わりはない。9/11の攻撃に反応して作ったファースト アルバム「Multitopia」でもそれが分かる。贅沢な商品、若者向けローション、人工的な美をやみくもに崇拝する強力なナルシズムがテーマの現代RnBに対して、黙示的なコメントを提示したもう1枚のアルバム「NYC, Hell 3:00 AM」にも同じことが応用されている。「Far Side Virtual」と「Skid Row」はロサンゼルスを中心に展開する。なぜ2010年にロサンゼルスへ引っ越して「Far Side Virtual」を制作したのかという質問に、フェラーロは答える。「メディア世界の震源地と繋がりたかったんだ。ロサンゼルスの記号論的な性質は興味深い。文明の狂気を味わえる。憂鬱で魅力的だよ。進歩的だけど、世界の終わりと同化しているようにも見える。現代社会の崩壊だけど、まだ機能している。繁栄して、拡大している。繊細な場所だ。ロサンゼルスでは、何でもなりたいものになれる。その中にいると、人類内部からの崩壊が見える」

上記4枚のアルバムは、2つの巨大都市を見つめる。それらの神話と恐怖は、巨大な電柱が張り巡らす電線のように、アメリカの風景にまたがる。「Far Side Virtual」は2012年に死去したアメリカ人画家トーマス・キンケードに触発された。その純粋にキッチュな風景画をアート界は好まなかったが、保守的なアメリカ家庭にはとても愛された。「彼はアメリカ史上の重要な個性だ。難解でほとんど反社会的とも言えるアメリカを投影して、奇妙なアメリカだけの理想を創り出した。ディズニーランド版アメリカだよ」

キンケードのアートは住宅供給業者や不動産屋にライセンスされ、郊外の建て売り住宅地の既製アートとして使用された。アメリカ家庭の20軒に1軒には、彼の作品の複製があると推定される。壁に飾る、商品化されたアメリカンドリームの象徴である。2008年、不動産や住宅市場の暴落と共に、この象徴の存在もひっくり返ってしまった。キンケードのアートは、偽りの信用で稼ぐ業界に依拠していた。そして瓦解した。今は、もう空き家となった美しい家の壁に、彼の絵画が掛かっている。そして、拝金主義の寓話、アメリカンドリームの崩壊を象徴している。

アートは現実の一時的な存在を生み出すためにあるし、その美学はこの世に新しい考えをもたらす

新自由主義市場の中毒性エネルギーと人間の欲望を支配する力を、フェラーロから切り離すことはできない。「マーケティングや企業は、限られた記号論の組み合わせを利用して、商品の宣伝や販売を進行させる。そして、ある限界に達すると、今度はパンプキン スパイス ラテのような、奇妙な、大抵の場合矛盾する商品を作り出す。それが世界的な方法で操作されて、意味もないまま、考案された場所から拡散されていくんだ」。フェラーロは、これらのシステムが作り出す欠陥に目を向ける。「高解像度の映画では、疑念を保留したり映画の幻想や嘘を受け入れることが難しい。テレビのスクリーンが高解像度になり過ぎて、俳優のメイクアップや肌の欠点が見えてしまう。あまりにさらけ出されて、ロマンティシズムのオーラを維持できない。逆にハリウッドの仕掛けを破壊していまうんだから、不条理だよね」

魅力や美や幸福に対するアメリカ人の幻想。フェラーロは、好んでそれらを解体する仕組みと戯れる。最新アルバム「Human Story 3」の構想には、分裂言語症の概念を利用した。「内在する雲」「セキュリティ仲介業者」「プラスチックの海」など、プログラムで選んだ曲のタイトルは、言葉の意味が相互に混乱を生じ、呑み込まれ、消費された後に、新たなメッセージを喚起する言葉のサラダもしくは記号論的構造として機能する。「人類のための10曲」などは、心地良く、優雅で、常軌を逸している。フィリップ・グラス(Philipp Glass)の「浜辺のアインシュタイン」を連想させる。天使のような合唱の声、神経質なベルの音、コンピュータが生成したスピーチで構成されたよじれた反復が続く中、一貫して歌が強調される。希望に満ちたユートピアのように響くが、そのすぐ下には暗闇が潜む。フェラーロの分裂言語症的行為は、私たちを取り巻くオペレーション システムの不備や障害を暴露する分解要素の役割を果たす。認識を生み出すために。「世界的な規模で自己参照的な社会になれば面白いな。そうすれば、自分たちの住む世界や、資本主義に限らずあらゆる経済システムの限界について、ある種の理解が生まれるだろう」とフェラーロは説明する。「僕の音楽に感じるダークで憂鬱な要素、僕が社会を通して表現している問題は、人類が本来備わっているはずの能力を完全に活かしきれていない悲しさが源なんだ」

まるで、死が間近に迫っているようだ。古いMacの死を告げる終わりなきチャイム。この世界の複雑さと、私たちは、どう向き合うべきなのか? その中で、どのように自分たちのを声を表現すればいいのか? フェラーロはその答えを知っている。「大胆になることだ。リスクは触媒だ、化学反応だ。そこから物事が始まる。共感したいだけなら、どうして声を上げる必要がある? それは人と同じことを言ってるだけだ。誰でも、その体験は唯一無二なんだ。人の意見を気にせずに、自分自身の考えを見つけたときに、ようやく脱出できる。始めさえすれば、自由の身になるんだ」

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