緩やかなラプソディー
アメリカ出身の監督、俳優、パフォーマンス アーティストであるジョセフィン・デッカーが最新作『Madeline’s Madeline』を語る
- 文: Simran Hans
- 写真: Elizabeth Weinberg

アラム語の「マグダラ」から生まれた「マデリン」という名前は、「高揚した」とか「見事な」という意味を持っている。堂々とそびえる塔だ。映像作家ジョセフィン・デッカー(Josephine Decker)が制作した最新プロジェクト『Madeline’s Madeline – マデリンズ マデリン』の主人公に、まさにうってつけの名前だったわけだ。ただし、『Madeline’s Madeline』の語り口は、プルーストの「マドレーヌ」、おののきながら断片的に浮かび上がる肉体の記憶を思わせる。また、ジャック・リヴェット(Jacques Rivette)が1974年に完成した夢幻のオデッセイ『Céline and Julie Go Boating – セリーヌとジュリエットは舟でゆく』で、ジュリエット・ベルト(Juliet Bertot)演じるセリーヌが世話をする振りを装う病弱な少女「マドリン」の要素もある。『Céline and Julie Go Boating』に見られる主観の転換と共有、そして異次元世界への移動を可能にするボンボン(プルーストのマドレーヌのリヴェット版)の名残りが、『Madeline’s Madeline』に僅かの痕跡を残している。
ヘレナ・ハワード(Helena Howard)が演じたマデリンは、早熟で、精神的に不安定な16歳の少女だ。高圧的な母レジーナ(ミランダ・ジュライ / Miranda July)と、家で角を突き合わせているマデリンは、実験的な劇団のメンバーになり、演劇指導のエヴァンジェリン(モリー・パーカー / Molly Parker)に新たな役割モデルを見出す。感情を操るエヴァンジェリンが、演じるために自分自身の経験を掘り起こすことをマデリンに促すあたりから、状況は不透明になっていく。そして観る者を惹き付けて離さない視覚的に大胆な実験が展開し、これまでのデッカー作品のなかでもっとも明快な作品が誕生した。
デッカーと私は、チャコールグレーの壁に囲まれ、磨き込まれた真鍮のバーが光るシックなカフェで、日曜日のブランチの待ち合わせをした。場所はベルリンのティーアガルテン地区、国際映画祭が開かれているポツダム広場の殺人的混雑から少し離れた場所だ。ベルリンのヒップな連中が二日酔いの頭を抱えて起き出してくるには少し早過ぎるから、静かだ。その静寂な空間の中、プリント柄のシルクのシャツを着たデッカーは、注意深く、熱心に耳を傾ける。実際に顔を合わせたデッカーは、暖かく、神経が細やかで、その落ち着いた禅的オーラは、作品に充満する激しさとかけ離れている。
デッカーは「スピリチュアルな人間」だと自認する。「私は、神に辿り着ける場所としての演劇に、ずっと興味があったの」。もともと俳優になる気はなかったが、カレッジでは鈴木メソッドを学び(「かなり足を踏み鳴らして歩かされたわ」)、フィラデルフィアのピッグ アイアン劇団で道化師のワークショップに参加するなど、俳優としての訓練を受けた。その後、カルアーツことカリフォルニア芸術大学で、演劇を教え始める。「私と私の声を解放したのは演劇。それまではすごく恥かしがりで、人前で話すのもあまり好きじゃなかった」

「初期のキリスト教って、ほんの一握りの人たちが祈りを通じて一緒に色んな所へ行く体験だったのよ」。デッカーは言う。「劇団は、現在の世界に残ってる最後のスピリチュアルな集団のひとつだと思う。劇団のメンバーは、自分ひとりでは近づけない所、トレーニングなしには行けない所へ一緒に行く。最初は集団の一員になること、もっと後には、何か無限なものに皆で一緒に辿り着くこと、それがいつも私の本当の関心だったわ」
2013年作品『Butter on the Latch – バター オン ザ ラッチ』は、本書きを基にしてセットでアドリブを入れたし、翌年の『Thou Wast Mild and Lovely – ザウ ワスト マイルド アンド ラブリー』には台本があったが、『Madeline’s Madeline』はまったく違う手法で作られた。2014年にニュージャージーの或るハイスクールのアート コンテストで審査員を務めていたデッカーは、当時15歳のへレナ・ハワードを初めて目にした。そしてハワードの演技に強く感動し、その後3年にわたる一連の即興ワークショップを通じて、ハワードを中心に据えた映画を構成していったのである。「集団的創造では、先ず最初に台本を書くのではなくて、俳優たちと作業しながら台本を作っていくの」。俳優たちと協働していくプロセスは「楽しいの一言」だとデッカーは言う。どうやら、喜びは双方向に作用しているらしい。前夜、上演後に開かれた質疑応答で、19歳のハワードはデッカーが「わかってくれた」ことにステージ上で感謝の涙を流した。デッカーは演技と演技者の両方を受け止めたのだ。
マシュー・エイカーズ(Matthew Akers)とジェフ・デュプレ(Jeff Dupre)の2012年ドキュメンタリー『Marina Abramovic:The Artist is Present – マリーナ・アブラモヴィッチ:アーティストはそこにいる』には、短く印象的なデッカーのカメオ出演がある。ニューヨーク近代美術館MOMAで開催されたアブラモヴィッチの個展で、服を脱ぎ捨てたデッカーが外へ連れ出される部分だ。「彼女があらゆる人に対して自分をさらけ出すように、私も彼女に対して自分をさらけ出したかったの」と、デッカーは涙を流しながらカメラに向かって言う。自分をさらけ出して傷つきやすい状態を受け入れることの哲学、そして優れた芸術を創造するために要求される傷つきやすさは、『Madeline’s Madeline』の核心でもある。甘い蜂蜜味の、だが簡単には咀嚼しきれない核心だ。
エヴァンジェリンがマデリンのストーリーを利用する便宜主義には不安感がつきまとい、ハワードに関するデッカー自身の倫理的綱渡りにも、観衆は疑問の目を向けざるをえない。「エヴァンジェリンは、私に一番近いキャラクターだと思うわ」というデッカーの言葉からは、そういう不安感を感じさせるのは織り込み済みであり、不測の問題ではないことが感じられる。「アーティストは、そういう微妙な自伝的要素を作品に持ち込むんじゃないかと思う。作品を作っているあいだは、必ずしもはっきり見えないんだけどね」
エヴァンジェリンとデッカーはふたりとも白人で、一方のハワードと、当然ながらハワードが演じるマデリンが白人と黒人の混血であるという事実から生まれる緊張関係は、どうなんだろうか?「マデリンの人生に焦点を絞っているアーティストとしてのエヴァンジェリン、という考え方を見つめたかったの。エヴァンジェリンがマデリンに執着する理由は、もしかしたら、エヴァンジェリン自身が混血の赤ん坊を身ごもっていて、やがて成長すればマデリンに似た子になるかもしれないから。或る意味で、エヴァンジェリンはマデリンの体験に只乗りしてるのよ。自分自身の将来がどうなるかを知りたい、だから強烈にマデリンの体験を知りたがる。あの瞬間にインパクトを持たせることができたとしたら、そこだと思うわ。つまり、エヴァンジェリンというアーティストには見かけよりも深い意図があって、彼女が関心を抱いている世界と深い類似性があることがわかるからよ」。エヴァンジェリンの夫がアフリカ系アメリカ人であることが明らかにされたとき、彼女がマデリンに執心する理由がわかって、「そうだったのか!」と腑に落ちる瞬間が訪れる。「もうひとつちょっと微妙なのは、私のパートナー[おなじく映像作家のマリク・ヴィタル(Malik Vitthal)] も黒人だってこと。知らず知らず、自分の環境と繋がった家族のあり方を書いてたのかもしれないわね。

推測するところ、デッカー自身も冗談半分ではなかったかと思うが、エヴァンジェリンがカール・ユング(Carl Jung)のカオス理論を持ち出して、悪戯っぽく「すべての混沌には調和が、無秩序の中には秘められた秩序がある」と言い切る場面がある。「エヴァンジェリンというキャラクターをからかってるだけ。だけど、論理より夢の中の世界を強調するのは、映画作りに対する私の考え方よ。意識は『意味』と『無意味』の間を揺れ動く。『正しいこと』と『間違っていること』の間じゃない」とデッカーは言う。
デッカーが映画作りをどう捉えているか、そこに私は一番関心がある。デッカーの友人であり、映画作りの仲間であるミランダ・ジュライが電話で語ったところによると、「彼女の映画はとっても緩やかで自由な感じがするの。アドリブ感が強いけど、でも本物の映画人よ。きちんとすべてが統制されてる。出演を打診されたとき、最初に私の頭に浮かんだのは『さあ、これで彼女の映画がどんなふうに作られるのか、わかるかもしれない!』ってことだったわ」
『Madeline’s Madeline』の鍵は、デッカーの編集にある。めくるめくジャズ的構成は、ジョージ・ガーシュイン(George Gershwin)の「ラプソディー イン ブルー」に触発されたそうだ。「40回くらい聴いたと思うわ。ライトモチーフ、つまり中心のテーマが何度も何度も繰り返される点に強く影響されたの。テーマが現われては変容を続ける。でも、変容しながらも、現われ続ける」。私自身は『Madeline’s Madeline』を観たとき、曖昧に漂う意識と冷徹な明瞭さを往復しながらさまざまなことが明らかにされるリズムから、夢のような印象を受けたと感想を述べた。
「そのふたつが違うものだとは思わない」。デッカーは答える。「ジャズ、[そしてラプソディー イン ブルー]には、私たちが夢を見ているときと同じことをやっている部分があると思うわ。何かにこだわって、それを言葉にして語る。たとえば、私たちの意識が例の縦型の洗濯機だとしたら、その中に放り込まれて回転していくプロセスなの。何度も放り投げられて、だんだん水分を含んで、最初はネコだったものが湿ったネコになって、湿ったネコがヒョウになって、ヒョウがスフィンクスになって、私たちはそのスフィンクスに乗って空を駆け巡る。私がやりたかったのは、そういうふうにイメージをリサイクルすることにちょっと近い」
論理より夢の中の世界を強調するのが、映画作りに対する私の考え方

映画の最初の場面に登場するマデリンは、気味が悪いほどネコに似ている。「あなたはネコじゃないわ。あなたはネコの内側にいるのよ」と、満足したネコのような看護士の声が重なる。あのネコのモチーフはどうやって思いついたのだろう?「ヘレナはネコを飼っていて、すごく可愛がってるの。だから、人間の視点から、ヘレナがネコという動物をとてもよく知ってるのは確かだった」。一方のデッカーはネコ アレルギーだ。「それに、ネコには捉えどころがなくて、謎めいて、魔術的で、移り気なところがって、それがキャラクターとよく合ってると思ったの。『不思議の国のアリス』は白いウサギを追いかけるでしょう。多少あの影響があるわ」
映画の中でリアリティは視覚的に描出される。汚れたレンズを使って、まとわりつくネコのような主観を創り出す。撮影監督でありデッカーとコラボレーションすることも多いアシュリー・コナーズ(Ashley Connors)は、デッカーに誘われて俳優たちの即興ワークショップにも参加し、具体的な撮影方法を模索することを勧められた。「意識の中を描写する部分は、明らかにまったく違う種類の視覚イメージを使うことがとても重要だと思ったの」とデッカーは言う。「そういう場面でカメラがキャラクターの視線に立つなら、カメラはその人間の息遣いや感覚を理解できなきゃいけない」。視覚的に明確に異なる主観という考えは、ジュリアン・シュナーベル(Julian Schnabel)による2007年のドラマ、脳卒中で身体が麻痺した雑誌編集者ジャン=ドミニック・ボービー(Jean-Dominique Bauby)の視点から語られる『The Diving Bell and the Butterfly – 潜水服は蝶の夢を見る』の手法に倣った。その他にインスピレーションを与えたアートとしては、ダーレン・アロノフスキー(Darren Aronofsky)の『Black Swan – ブラック スワン』が「文句なしに、私の人生に大きな影響を与えた」と言う。演技に対するマデリンの身体的で苛酷なアプローチと、狂ったようにバレリーナとしての完璧を追究するニナ、あるいは多難で痛々しい成長を描いたアンドレア・アーノルド(Andrea Arnold)のドラマ『Fish Tank – フィッシュ タンク』は、結末部の展開と10代の視点の面で類似性もうかがえる。
「筋を書いてるときは、もっと暗い結末もありうることがわかってたし、 実際にそう書いてみたんだけど、その後、気を変えたの」とデッカーは言う。これは『Madeline’s Madeline』が暗鬱な場所へ辿り着かなかったというわけではない。クライマックスで、マデリンは、剃刀の刃のように鋭い洞察と恐ろしいほどの正確さで母親の物真似をやってみせる。ハワードが俳優としての幅を見せつけた残酷で可笑しい見せ場だが、最後にネコの爪に引っかかれるのはジュライ演じるレジーナだけではない。それでもなお、爆笑を誘うフィナーレは、根底に流れるデッカー楽観性を感じさせる。「救済と空想が与えるエクスタシーも表現したかったの。私たちがお互いに押し付け合う極限の恐怖だけじゃなくてね」
Simran Hansはロンドン在住。『The Observer』紙のライターであり、映画批評家である
- 文: Simran Hans
- 写真: Elizabeth Weinberg
- ヘア&メイクアップ: Georgina Peñate