アンドリュー・クオの突き抜けた世界
特異すぎるニューヨークのアーティストが伝える色彩の笑いとロジックの悲しみ
- 文: Sam Hockley-Smith

アメリカ史を通じて、1日にこれほど多くの人々がチャートを見つめる時代があっただろうか。僕らは新型コロナウィルスの感染者数が上がっていくのを見つめ、次に失業者数が上がっていくのを見守る。大統領の支持率が下がるのを眺め、ある週に「BLM(黒人の命は大事だ)」運動のデモが正確にいくつあったのかを数えようとする。棒グラフやパイチャートやヒストグラムやデカルト座標系に現れる社会不安を、健康を、個人的変化を、日々見つめ続け、そのすべては混ざり合い、複雑な情報のカオスとなって現出する。何の変哲もないチャートが、これほどの不安やプレッシャーを内包しうるなんて、誰が知っていただろう?
アンドリュー・クオ(Andrew Kuo)はニューヨークを拠点とするアーティストだ。彼の作品は世界中の主要都市で展示され、『ニューヨーク タイムズ(New York Times)』紙に定期的に登場した。彼は多様な手法をつかった作品を制作しているが、なかでも複雑で絢爛たるチャートによって最もよく知られている。クオもまた、チャートの形で表された不安や不確かさと無縁ではない。彼はチャートという言語を通して、ここ10年以上、自身の感情の波を追いかけてきた。チャートを使って取っ組み合う相手は死、不安感、バスケットボール、深夜の間食、最上のピザのスライス…って何だ、いったい? 彼の作品は、分析的で神経症的な精神が、みずからを整理していく過程を視覚的に美しく表現している。「絵を描き始めるとき、その情報に強烈な周波数を持たせることを考える。するとそれが波になったり、山になったり、水たまりになったりするんだ」ある日の午後、電話の向こうで彼はそう言った。「どの作品もチャートとして機能する必要がある。いつも言うんだけど、これらの作品は具象絵画なんだ。その意味でも、何かが引っかかってうまくいかないと、作品として成り立たない。絵全体が崩壊してしまう。糊付けしたみたいにぴったりくっついていないとだめだ。でないと、クロスワード パズルに間違って書き入れた言葉みたいに、それをもとにすべてを再構成しなくてはいけなくなる」
彼のチャートは美しい。鮮やかな色のマトリックスがひしめき合い、滲出し、重なり合う。だが、そこにあるロジック、いや少なくともロジックの「可能性」こそが、作品が持つ最も感動的な一面だ。彼のチャートを見、その下に記された個人的でユーモラスで同時に悲劇的な文章を読むことは、ある種、心の道しるべとの出会いになる。クオのチャートのどれかが、実際にあなたが苦悩の幾分かを切り抜ける助けになるかもしれない。「僕は人をがっかりさせたくないんだ」と彼は言う。「絵や言葉でコミュニケーションを可能にしたい。絵の中にはせめぎ合うバランスが必要だ。自分がやりたいことと、人の気持ちを動かして、言葉を読み、絵を見てもらえるようにするものとのあいだのね」
クオの作品では小さなディテールを見逃すことは簡単なことかもしれない。基本、彼の作品はすべて目に心地いいものばかりだ。ニューヨークからロサンゼルスに親友が引っ越したことと、それによって彼が抱いた喪失感と不安を表す複雑なチャートは、遠くから見ると、色のブロックが重なり合うインスタ映えしそうなシリーズに仕上がっている。感情の共鳴。それが彼の作品とじっくり向き合うことによって得られる報酬だ。「僕がいつも伝えようとしてるのは、色の組み合わせのジョークなんだ」とクオは言う。「絵の中にユーモアのセンスがあって、それを見ている人に伝えられる、と言うか。僕は愉快なものにとても興味がある。青と赤を並べるとすごく笑えると思う。わかってもらえるかなあ。茶色とピンクが並ぶとめちゃくちゃ面白い。緑と青もすごく愉快だ。でもクールな組み合わせには、興味がない」
「マーク・ロスコ(Mark Rothko)のことをよく考える。彼がフォー シーズンズのために絵を制作して、要らないと言われたのは有名だよね。断られたのは、ロスコはフォー シーズンズの顧客になっている企業が大嫌いで、黒と濃い赤と茶色を重ねた画を作ったからだ。相手方は『これはどう見ても我々が望んでいるものではない』と思ったんだね」とクオは話す。「彼はその連作を引き取って、それは今、ロンドンで展示されていると思う。2回、見たよ。美しい作品だ。でもフォー シーズンズの壁には飾られなかった。いつも思うんだけど、あれと同じエネルギーであの壁を飾るつもりなら、何か別の作品を作ったはずだ。成功は危険な坂道だけど、ロスコの気持ちとしては、本人がまさにやりたかった通りのことをやったんだと思う」

Andrew Kuo、FIRST WILL (6-25-18)、2018年、アクリル カーボン トランスファー、麻、65 x 80 in. / 165.1 x 203.2 cmTop Image: Andrew Kuo、2ND OPINION (8-6-18)、2018年、アクリル カーボン トランスファー、麻、71 x 78 in. / 180.3 x 198.1 cm
人々がクオの作品を見るとき、まるで珍しいカブトムシを調べるように、皆、しゃがんだり、屈みこんだりする。そしてさらに近寄って、絵の具の粒々を見つめ、すっきりとした線や形が、絡み、縫い、重なり合うさまを辿り、「あなたはアドバイスを提供したいが、それは、アドバイスを提供することで今も『自分の成功を思い出せる』かどうかによる」といった辛辣なフレーズが、そうしたものの軌跡にどう当てはまるのかを理解しようとする。彼のアートを見つめる人々を観察するのは、作品自体の魅力の一部だ。気づきを共有し、特定のディテールに照準を合わせてそれとつながる瞬間は、たいてい完全な沈黙の中で起きるが、そこで起きていることははっきりとわかる。公共空間で心がつながる奇跡。自分だけのものだと思っていた問題が、これまで考えていたより普遍的な問題らしいと気づく奇跡。芸術的葛藤から生まれ、基本的にサイケデリックなロジックのパズルであるもののフィルターを通して得られた個人的気づきのマリアージュは偶然ではない。クオの作品は、それを見る僕らに向かって、彼の告白という鏡に映し出された自分自身を見ることを促す。この明瞭に表現された感情と対話の可能性の組み合わせこそ、クオがアーティストとして出発して以来、追求し続けてきたものだ。
クオはニューヨーク州ウェストチェスター郡のエッジモントで育った。彼の母はニューヨーク大学でアジア学を教え、父は国連で中国の通訳として働いていた。両親は彼を託児所に預けなかったので、彼は親と一緒にマンハッタンに行き、都会に暮らす両親の友人たちのところで過ごしたり、中華街をほっつき歩いたり、母親の空き時間には、一緒に美術館や博物館めぐりをしたりした。「子どもの頃に僕の周りにあったのは、そうだな、マルク・シャガール(Marc Chagall)とかだね」とクオは言う。「シャガールは母のお気に入りの画家だったから。母には絵を描くようにずいぶん勧められた。笑っちゃうんだけど、ついこのあいだ見つけた袋に、僕が5歳の時、たしか母がユトレヒトのダウンタウンで買ってくれた古い絵の具のチューブが入ってた」
クオはシャガールの作品に明らかな影響は受けていないが、彼の色に対するアプローチにはシャガールの気配を見つけられる。色と色がぶつかり合うスタイルにもそれはあるし、どちらのアーティストも生気に溢れた豊かな色調を用い、コンピューターの画面越しに見てさえも、肚の底から湧いてくる生のテクスチャのようなものが匂い立つ。しかし若い頃から、クオには別の計画があった。彼は抽象表現主義の画家になりたいと思っていた。「どういうわけか、具象画とかイラストレーションはアートの様式として劣っていると思っていて」と彼は言う。「だから当然だけど、そっちには行かなかった」
1995年にRISD(ロードアイランド スクール オブ デザイン)に入学したクオは、ハードコア パンクに夢中になり、ミニ雑誌のジンを作り、抽象画を描いた。「両親を言いくるめてRISDに入ったんだ」とKuoは言う。「グラフィック デザイナーになるからって約束してね。その時の僕の計画は、[ニューヨークに]足がかりを作って、破天荒で現実をえぐるような画家になることだった」。RISDに在学中、彼はアート コレクティブ「フォート サンダー(Fort Thunder)」に出会う。彼と同じ学生アーティストの集団が、極細密のコミックブックやジンを制作し、子ども時代の郷愁を脱ぎ捨て、ダンジョン探索のビデオゲーム、魔術師、べたべたのスライム、古いマンガ、そしてアウトサイダー アートの一見プリミティブな世界を作り上げていた。「僕は新入生で、寮の部屋に引っ越したところだった。そうしたら[フォート サンダーのアーティストでライトニング ボルト(Lightening Bolt)のバンド メンバーでもあった]ブライアン・チッペンデール(Brian Chippendale)とヒシャム・バルーチャ(Hisham Bharoocha)が音楽を聴いてる奴はいないかって、寮をうろうろしていて」とクオは振り返る。「僕は平凡でぱっとしないパンクを聴いてたんだけど、二人は僕の部屋に寄って、ちょっと話をした。それで僕の人生は決まったんだ。1週間後には、僕はフォート サンダーに参加して彼らとジャム セッションをやっていた」
自分の作品とは似ても似つかない作品を作る連中と付き合うことによって、クオはアーティストとして進むべき道を見つけることになった。「それに彼らがやってるようなことは僕にはできないってわかってたしね。彼らはすごいコミック ブックやスクリーン プリントを作っていた。ノイズ バンドとか展覧会とかもやっていたし。これから4年間これに参加するのはいいにしても、自分のスタイルを見つけなくちゃだめだと思った。それがもっと言葉を書くことだったんだ。ずいぶん長い間葛藤した挙句、ようやく自分とは何なのか、自分は誰なのかに気づいた。僕は言葉が好きで、活字を紡ぎ、あるいは活字の間に空間を作るコツを知っていて、グリッドの中で本領を発揮する人間だ。そしてそのグリッドの中で、僕は考えた。『これは要するに数学じゃないか。ロジックがない数学なんてありえない』って」

Andrew Kuo: NO TO SELF 12/08/2016 - 01/14/2017
アンドリュー・クオが初めてチャートを作ったとき、それは大勢の人に見せることを意図したものではなかった。ある日、彼は雑誌の編集者と一緒にコンサートに行った。ちなみに出演はカニエ・ウェスト(Kanye West)、ザ ストロークス(The Strokes)、M.I.A.というとんでもない組み合わせだったらしい。終演後、編集者にチケットのお礼として、クオは当時のお気に入りのアーティスト、ザ ストロークスとカニエ・ウェストを頂点にしたピラミッドを手早く描いた。「彼女は『これ、何?』って訊いたよ。僕は『わかんないけど、こういうチャートを描くのが好きなんだ。人には見せないけどね』って答えた」
その後に続いたのは、あの半ば伝説めいたニューヨーク的瞬間だった。最近ではそういうことはまず起こらない、と人々は言うが、狭いクリエイティブな世界では、実はしょっちゅう起きている。クオは山ほどチャートを作りはじめた。カンバスに描いた巨大なチャート。コンサートのレビューとしてのチャート。先延ばし癖に関するチャート。自分の夏についてのチャート。ダイナソーJr.(Dinosaur Jr.)の全ディスコグラフィについてのチャート。クオのチャートは、ネットを基本にしたふたつのコミュニケーション様式にまたがっていた。彼のチャートはどれもブログ記事に似ている。ただし、ブログはインスタントに書けて世界中で読まれるからこそもてはやされたのに対し、クオのチャートは精密にじっくり時間をかけて制作される。それは1日のうちの数分間を拡大することもあるし、コメディアンのラリー・デイヴィッド(Larry David)の頭から直送されてきたような、強烈に気まずい人間関係を検証してみせたりもする。
一方、チャートとセットになった文章は、当時まだ出たばかりのコミュニケーション プラットフォームだったTwitterと呼応した。複雑なストーリーや感情が、ひと口サイズの、ほとんど反知性的とも言える塊に煮詰められる。基本的に壮大なアイデアをとてつもなくわかりやすい形で表現するのがクオのやり方だった。彼の作品は評判になりはじめた。まもなくクオは『ニューヨーク タイムズ』紙と独占契約を結んで定期的にチャートを作成するようになる。真面目に考える価値のある話だ。別にクオが美しいチャートを発明したわけではない。彼はW. E. B. デュボイス(W. E. B. Du Bois)を筆頭とする、チャートを使って視覚に訴えながら情報を伝えた思想家やアーティストの長い系譜に連なるひとりだ。しかし、「記録の新聞」の異名で知られる『ニューヨーク タイムズ』は彼を雇い、10年以上も「同紙のためだけ」にチャートを作らせた。
「この手のアート作品で自分に何ができるか考えていて、あの決断をしなくちゃならなくなった」とクオは言う。「『これはどこにふさわしい? これの本質は何なんだ?』って考えていた。すごい重鎮の美術館のキュレーターと話したことが忘れられないんだ。彼に『君に何かやってもらいたいな』と言われて、僕はチャートを作りましょうか、と言った。そうしたら、彼に『だがそれは単なる君のネタだろう』と言われた。誰だってネタはあるよね? でも僕はその言葉について真剣に考えた。すごくね。僕は『こういうチャートは、目指している場所に僕を連れて行ってくれない。頭の中にはたどり着きたい場所があるのに、チャートじゃそれは達成できない』ってね。その結果、こういうチャートを作った後、何年間か、絵の中でできるよりももっと多くのことを言葉で伝えたいと考えるようになった。絵の外で議論したくなったんだ」
そうした議論はさまざまな形をとってきた。クオはチャートではない作品を描き続け、「クッキーズ フープス(Cookies Hoops)」というバスケットボール専門ポッドキャストの共同ホストも務めている。ポッドキャストと連動してグッズの販売も行い、『プレイビル(Playbill)』のロゴや『ニューヨーカー(New Yorker)』の紳士が指先でバスケットボールをくるくる回すといった、「古き」ニューヨークの象徴を借用して彼のバスケットボール愛を表現する。シンプソンズのTシャツの海賊版を作り、花の刺繍の横に、何の脈絡もなく画家のアリス・ニール(Alice Neel)の署名を並べた帽子を作る。やや猫の話題に偏りがちで、彼のアート作品とはまったく何ひとつ関係ない大人気のミーム アカウントも運営している。こうしたものすべてをつなぐ1本の糸は、文脈からも期待の重さからも解放された、儚きものへの愛と郷愁だ。作品やグッズの中で、彼は自分だけの極端に限定的な世界観を何度も繰り返し発信する。クオのニューヨークは他の誰のニューヨークとも違っている。だが、それを見る人は、バスケットボールのジョークと、特異すぎるアートへの言及の中のどこかに、自分とのつながりを見出すはずだ。
ともあれ、チャートだ。彼は常にチャートに戻ってくる。「[チャートは]結局、ずっと自由だから」と彼は言う。「混沌とした抽象画とか花の絵とかは、結局、考えるよりも必ずもっと制約を受けるんだよ。僕はフリースタイルで描く練習をやっててね。20枚の紙を並べて、同時に花の絵を書きはじめる。1枚1枚、違って見えるように全力を尽くすけど、毎回どれも、なんだか同じ絵になってしまう。そのことを理解しようとずいぶん考えてきた。たとえば、僕は同じ印を描くように単にプログラムされているんだろうか? 僕がどんな絵を描くか予想できる誰かがどこかにいるんだろうか? その答えを僕は自分で突き止められるんだろうか?」

Andrew Kuo、Other (7/17/17)、2017年、アクリル カーボン トランスファー、麻、45 x 33 in. / 114.3 x 83.82 cm
2007年、クオは今のところ唯一の、自作品を回顧する本を出した。『What Me Worry』と題するその本には、チャートにたどり着く前に、『ニューヨーカー』のライター、ケレファ・サネ(Kelefa Sanneh)によるクオと芸術についてのエッセイが数編と、クオがかつてメールで送っていたニュースレターがいくつか収録されている。このニュースレターには、たまたま「熱々蒸し魚の中国野菜添え」からプッタネスカのさまざまなバリエーションまで、ありとあらゆる料理のレシピがどっさり載っている。彫刻や絵画の写真も何枚か。だが、そこには他に大切なものがある。サネが書いたエッセイの一編の末尾にそれを見るたびに、僕は必ず、少しの間、ページを繰る手を止める。
アーティストの父の思い出に。彼もまたそれがどんな気がするものか正確に知っていた―よね?
「父は僕みたいにちびには見えなかった。そう思うけど―どうだろう」
そして、その一行の下に、小さな濃い青色の長方形がある。濃紺といったほうがいいだろうか。とにかく、豊かな海の青を思わせる色だ。その青には底知れぬ深さがあると言っておくことは大切だという気がする。いくらでも見つめていられるような青だ。見つめているとやがてその長方形が視界全体を覆いつくし、それ以外のものは見えなくなってしまう。単純な図形を埋める単純な色が、あなたを変えはじめる。この小さな濃い青色の四角の持つ意味はもはや主観ではない。クオがここに作り出したのは、色で埋め尽くされた長方形の最終形態なのだろうか?
長方形の隣にキャプションがある。
アーティストとその父、1999年
それは共同作業から生み出されたささやかな瞬間だ。ある男に関する、別の男が書いたエッセイが、前者の作品に文脈を与える。あなたはエッセイの全文を読んでもいいし、心に付きまとって離れようとしない、ムカつくその長方形を見るだけでもいいし、その前にある引用文と隣にあるキャプションが、その長方形が伝えなければならないすべてを見事に伝えていることについて考えてもいい。なぜなら、それは多くのことを語っているから。生と死と遺伝と家族という堪えがたい重石とそれから何があるのだろう、本当のところ? その長方形は空っぽだ。ただしそこにはすべてが詰め込まれている。
_Sam Hockley-Smith はロサンゼルス在住のライター兼エディターである。『The FADER』、『New York Times Magazine』、『Pitchfork』、『NPR』、『Entertainment Weekly』、『GQ』、『Vulture』他、多数の媒体に寄稿している。 _
- 文: Sam Hockley-Smith
- 翻訳: Atsuko Saisho
- Date: August 18, 2020