アメリカを象徴するレイモンド・ ペティボンのイド
トランプの時代に、 伝説のパンク アーティストから学ぶ
- 文: Tom Brewer
- 画像提供: New Museum

レイモンド・ペティボン(Raymond Pettibon)の作品は、暴力、ユーモア、反政治体制のカクテルだ。 ニューヨークのニュー ミュージアムで開催されているペティボン展「A Pen of All Work」は、キャリアを通じた作品で構成されている。60年代後半に始まったペティボンの制作は、その描画スタイルが当時ロサンゼルスで生まれつつあったパンク シーンと密接に結び付くようになった20年後、勢いを増した。虚無的な世界観と関連して語られることが多いペティボンであるが、ドナルド・トランプの当選から数週間を経た現在、ペティボン展は驚くほどタイムリーな辛辣さを発散する。臆面もない暴力、人種差別、女性蔑視、そして手の大きさに対するトランプの病的な執着(手の大きさは男性器の大きさに比例する、とトランプは信じている)を含めて、2016年にトランプとマイク・ペンスが繰り広げた選挙運動は、まさにペティボンの描画そのままだ。

No Title (Let me say,), 2012
ペティボンは、LAハードコアの実践でもっとも有名な弟のバンドBlack Flagのために、アルバム ジャケットやジンやポスターをデザインしている。今やペティボンを象徴する白黒のペン画は、技術の面でも内容の面でも、荒削りであることを全く悪びれず、バンドの音楽と足並みを揃えた装飾要素として徹底的に挑発するビジュアルを提供し、Black Flagのイメージの発展に欠くことができなかった。 ニュー ミュージアムの展示には、シングル盤「A Police Story」のために制作した「Make Me Come」を始め、Black Flag用の多数の描画が展示されている。ペティボンにとって、言葉は力強いツールである。テキストと絵を併用するアーティストはどちらか一方を重視することが多いのに対し、ペティボンは、言葉とイメージの均衡に並々ならぬ手腕を発揮する。それでなくてもショッキングな絵が持つ性的な暗示を文章が強調し、配役が代わっていても、レイプのシーンへ変えてしまう。例えば、拳銃が男性器に代わり、抑圧の象徴であり実行者でもある警察官が被害者の役割を演じる。このような暴力、性、権力に関する慣習に逆行した混乱と等式は、大多数のアメリカ人が生活の指針とする社会構造の建前や思い込みと対立する。ペティボンの動機は、しかとは判らない。彼の作品はイメージも言葉も攻撃的に露骨だが、それでもなお曖昧さを許容し、鑑賞者に十分な余地を残す。最初の衝撃値とユーモアがひとたび通り過ぎれば、その後に様々な感情が複雑に交錯して立ち上がってくる。警官へのあからさまな嫌悪と一見被害者の立場に置かれる警官の矛盾、下劣な性暴力の瞬間に対する鑑賞者とアーティストの同等な関わり、テロリズムと特徴のない権威との緊密な関係性の展開、など。

No Title (Stay away from...), 1983
関心は、常に、
社会的な含意を
最前面に持ち出し、
タブーを突きつけて、
言外の意味を
浮上させること
ペティボンは、広範な源から取り出した要素で視覚スタイルを構成している。最も顕著なのは、アメリカの商業イラストが淀む泥沼だ。彼の美学は様式的で一貫性はあるものの、技術的には洗練されていない。むしろ、技術的の粗さが強みになっている。みかけの素人臭さが親しみを感じさせ、ティーンエイジャーの落書き、模写したマンガのキャラクター、がさつな風刺画など、馴染みのある視覚表現に違和感を感じない。スーパーヒーロー、警察官、プロのスポーツ選手、不気味なヒッピーなど、見覚えのある特定のキャラクターが作品を通じて繰り返し登場し、範囲の広さおよび密度の高さで圧倒的な制作歴を理解する足がかりになる。バットマンとスーパーマンは多数の描画に登場している。ふたり一緒の場合も少なくない。ただし、ペティボンの描き方は、「正義の味方」としての文化的意味を攻撃する。哀れで、権力に飢え、ファシスト的で、セックスに執着して、元ニューヨーク市長のルドルフ・ジュリアーニ(Rudy Giuliani)と戯れるスーパーヒーローたち。ヒッピーの辛辣な表現は、人為的で、外見にこだわり、暴力的で、表面だけキリストを装うサブカルチャーを描写する。男らしさやアメリカ文化を代弁する野球選手もまた、同様に揶揄の対象になる。2003年に制作されたペン描きの二つ折り作品「No Title (Let’s Fungo. No)/無題(ノックしよう。やだよ)」では、裸に野球帽だけをかぶってバットを持った同じキャラクターが全部のコマに描かれ、その両脇に書かれたダブル ミーニングの文章が、スポーツ界に潜在する同性愛を暗示する (「ホームチームでバットの練習をした後、監督は、グラウンドでタマを追いかけさせる」。「オレたちが先攻だ。ビジターチームだからな!」)。2007年の「No Title(You Will Know)/無題(今に分かるさ)」では、いかつい体つきの白人男性が描かれている。こちらはきちんと野球のユニフォームを着て、今まさにボールを投げようとするポーズ。 添えられた文章によると、黒人を相手にすることを大いに喜んでいる。「なぜ野球がアメリカの(単なるゲーム以上の)娯楽なのか、こいつの対戦相手を知ったら分かるさ。相手は黒人初のメジャーリーグ選手ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson)だ!」。ペティボンは、アメリカ社会を動かし定義付ける、多様な暗黙の憎悪を描き出す。彼の関心は、常に、社会的な含意を最前面に持ち出し、タブーを突きつけて、言外の意味を浮上させることにある。

No Title (And how go...), 1992
トランプは、
ファシスト的
スーパーマンや
性的に堕落した
バットマンと
大差がない
ペティボンは、近代のアメリカ大統領に並々ならぬ関心を注ぐ。とりわけロナルド・レーガン(Ronald Reagan)は、繰り返し愚弄の対象になった。ペティボンの出生時の名前だったレイ・ジン(Ray Ginn)とレーガンが音的に似ていることが、このカリフォルニア州の共和党員に固執する無意識の動機だったのか。真偽は定かでないが、レーガン個人の履歴、ハリウッドの俳優だった背景、ジョゼフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)が扇動した下院非米活動委員会との背徳的同調が、もっと明白な理由であったことは確かだ。メディアは、カリスマ性があり、善意に溢れ、未だに人気が高い大統領としてのレーガン像を描いた。しかし遺されたレガシーが指す事実は、暴力的なまでの人種差別主義者であり、同性愛を嫌悪し、経済的なエリート意識が強く、基本的に血に汚れた人物。ペティボンはその隔たりを表現した。同様に、ジョージ・W・ブッシュ(George W Bush)やディック・チェイニー(Dick Cheney)のいわゆる「思いやりのある保守主義」の偽善を厳しく批判し、利益に目がくらんだ戦争挑発行為を、浅薄で思慮を欠いた好戦性と表現した。ブッシュJr.は、文字通り手が血塗られた姿や、自惚れた戦闘機パイロットとして作品に登場する。

No Title (You will know), 2007
今回公開された作品の膨大な量には驚かされる。ニュー ミュージアムの巨大なフロア全3階を使い、700以上もの作品が、格子状に、サロン風の会場に展示されている。ペティボンの作品はどちらかといえば小規模で、手書きの文章で密に覆われているものも多い。だから、一度行くだけではとても足りない。文章を読むだけでも何時間もかかるのに、みっちり詰め込まれた全て大文字の手書きの文章を読むのはさらに骨が折れる。描画は関連性で分類されているので、キャリアの異なる時期に制作された作品同士から対話が生まれる。ペティボンは現代の視覚文化に大きな足跡を印したから、さほど象徴的でない作品でさえ、見覚えがあるような気がする。そのスタイルは、Supreme(2014年に、ウェアとスケートボードでペティボンとコラボレーション)を始めとするスケートウェア ブランドに吸収され消化されてきた。その描画は数知れぬアメリカ サブカルチャーが用いる視覚的語彙の基になっているし、1990年のSonic Youthアルバム「GOO」に提供した象徴的なアルバム ジャケットは、無数の海賊版Tシャツにプリントされてきた。

No Title (The war, now...), 2008

No Title (Do you really), 2006
ペティボンの作品の持ち味は、下品と博識の共存である。明らかに矛盾するこれらの特色が、ペティボンの手にかかると、相互に高め合い増補し合う。滑稽で露骨な男性器への執着は恥ずかしげもなく子供っぽいが、その未熟さ自体が、アメリカ社会における性に疑問を投じる。同時にその未熟さが、男性らしさと権力、挿入と支配を同等のものとして結び付けるペティボン自身を問い詰め、見る人の内省を迫る手段となっている。文章の書き手としての技能と文化的知識の幅広さには、驚くべきものがある。それによって、ペティボンの作品は、多用したイラストやカリカチュアという限定されたジャンルの束縛を脱する。ポップ ミュージック、文学、聖書、セレブのゴシップ、軍事、政治史...言及する対象にもとらわれがない。

No Title (O.D. a Hippie), 1982

No Title (Let’s Fungo. No), 2003
4階には、他の展示されているいくつかの作品に比べれば穏健ともいえるドナルド・トランプの描画がある。衝立式の壁面に、他の3枚の描画とともに展示されている。ペティボンの作品は、アメリカ文化に対する際立った批判という観点からすると、今日、予言的でさえある。トランプ政権が示すアメリカの奇怪な国家イドは、ペティボンの信条と重なって、心を乱す。すなわち、アメリカの主流を成す生活のあらゆる側面で、他者への激しい憎悪、セックスへの執着、独裁的リーダーシップへの渇望が潜在する。トランプは、ペティボンが描くファシスト的スーパーマンや性的に堕落したバットマンと大差がない。ペティボンと同じく、婉曲な表現を消し去り、婉曲な正当化とうわべの上品さをあからさまな愛国主義と純然たる敵対に置き換えるのがトランプのやっていることなのだから。本質的な違いは、ペティボンが危機を見た部分に、トランプはチャンスを見ていることだ。

No Title (As he enlarged), 2009
- 文: Tom Brewer
- 画像提供: New Museum