路傍のピクニック

4人のSF作家がスペキュレイティブ フィクション、未来を書くこと、パラレル ワールドを思い描くことについて語る

  • 文: Elvia Wilk、Eugene Lim、Ken Liu、Ted Chiang
  • アートワーク: Skye Oleson-Cormack
「真実とは想像力の所産である」
『闇の左手』より
アーシュラ・K・ル・グイン

アルカジイとボリスのストルガツキー兄弟が1972年に発表した小説『路傍のピクニック(邦題:ストーカー)』の世界で、「ストーカー」とは、隔離された領域「ゾーン」―かつて異星人がちょっとピクニックに立ち寄った場所―に不法侵入し、持ち出したあれこれの物品を売って生計を立てる人々だ。アンドレイ・タルコフスキー(Andrei Tarkovsky)監督による同名映画の公開後、この言葉は、様々な禁じられた未知の領域を自由に動き回る案内人という意味を帯びるようになった。作家であるということは、この禁断の地の道案内に似ていなくもない。夢や欲望のひしめく謎めいた場所へと分け入り、不可解な出来事の断片を調べ、「向こう側」から物語を持ち帰ってくる。それとも作家の役割は、異星から束の間やってきて、路傍のピクニックのために立ち寄るように、世界を見ることだろうか?

パラレル ワールドを追求する4人のスペキュレイティブ フィクションの書き手、ケン・リュウ(Ken Liu)、エルヴィア・ウィルク(Elvia Wilk)、テッド・チャン(Ted Chiang)、ユージーン・リム(Eugene Lim)が、未来についてのそれぞれのビジョンと、未来を書くことの意味について語る。

子どもの頃、未来についての空想はどんなところから生まれましたか?

ケン・リュウ:

七つか八つのとき、祖父母と一緒に長い列車の旅をしたことがある。僕は退屈しのぎに、窓の外を飛ぶように過ぎていく景色を眺めながら、列車の端から端まで歩いた。古ぼけた村々、ピカピカの工業都市、森、草原、レゴのでこぼこみたいに作物がきれいに並んだ畑、遠くの山々が僕たちについてくる。

もし昔の偉大な英雄が―例えばカルタゴのハンニバルや漢王朝の武帝が、この列車に転送されてきて、その案内役をしなくちゃならないとしたらどうだろう、と僕は空想した。

「そうなんです、この鉄の竜は象を100頭合わせたよりも強いんですよ。いえ、こいつは戦いのやり方は知りません。ここをひねってみてください。管から水が出てくるんですよ。これまで、こんなに速く移動したことはありますか?」

彼らの仰天した表情や、目をみはる様子を思い浮かべた。すごい偉業や成功を収めた人たちだけど、この機械を見て、果たして現実として受け入れられるだろうか? 輝かしい栄光が色あせた数千年後、人類は、彼らが全人生で旅した距離よりもはるかに遠くまで、ほんの数日で移動するのだと信じられるだろうか?

ユージーン・リム:

僕はとにかく『スタートレック』にハマっていた。思ったのは、スポックとデータは、間違いなく「模範的マイノリティとしてのアジア系アメリカ人」という神話の犠牲者だということ。特に第2世代の韓国系アメリカ人。僕もそういう目で見られていると感じていた。

現実が夢想よりも奇妙だったらどうしますか?

テッド・チャン:

事実は小説よりも奇なりという主張がすごく嫌いだ。現実とフィクションを評価するときの基準って全然違うから。映画でしょっちゅう見ているようなことが現実に起きる事態になったら、頭がどうかしてしまう。今、僕らはテクノロジーが飽和した世界に暮らしていて、だからこそサイエンス フィクション(SF)はかつてないほど現実味を持っている。そうすると、僕らが生きる上でのテクノロジーの役割を無視しているフィクションは、分かってないなと感じる。SFは予言でもトレンド予想でもない。変化は避けられないということと、その変化に僕らがどう立ち向かうか、そういうことを考えるひとつの方法なんだ。

ケン・リュウ:

一部の作家は物語を語りながら、未来を「予言」していると本気で思ってるかもしれない。僕は全然違うけれど。「こうなるかもしれない未来」について書こうなんて考えもしない。僕の物語に出てくる未来はたいてい、意図的に、どう見ても起こるはずがないものにしている。スペキュレイティブ フィクションは、テクノロジーそのものと似た機能を持つと思う。つまり、人間の傾向や、既にある現実のいろんな側面を増幅する。

テクノロジーは力の増幅装置だ。抑圧したがる連中に、権力を振るう手段をさらに与える。でも同時に、自由を望む人々にとっては、反撃のための道具を増やしもする。一方、スペキュレイティブ フィクションは、僕らが暮らす世界を拡大して見せるレンズだ。社会的傾向を増幅し、テクノロジーは発展すると推測し、対立の萌芽を成長させて、その結果、僕らは現実のカリカチュアを通して、自分自身をよりはっきり見ることができる。未来を想像する行為は常に、現在についてのおそらくは欠陥のある理解に基づいていて、それにより、自分たちが生きている「今」、そして人間というものの本質をより深く掘り下げることができる。

エルヴィア・ウィルク:

作家のオマル・エル=アッカド(Omar El Akkad)がインタビューで、「僕の小説の根底にある発想が現実になりうるか、という問いにはあまり興味がない。というのは、この世界の多くの人にとって、それがすでに現実だという事実を知っているからだ。僕は自分が書くものをディストピア小説というより、現実を転位させるディスロケーティブ小説だと考えている」と言っていたけれど、この「ディスロケーティブ フィクション」という考え方がすごく好きだ。この瞬間を揺り動かして分解し、それを構成しているパーツを見せてくれるものだから。

サイバネティック文化研究ユニットが作った「ハイパースティション」という言葉がある。フィクションの要素が歴史の中に自らを書き入れ、あるいは、歴史を書き換えることによって現実になるプロセスのことだ。バラード(Ballard)が言ったように、フィクションは必ずしも現実を予言するものではなく、現実に影響を与えるのではない。現実に参加することで現実を作り出すもの。

資本主義そのものが「ハイパースティション」と見てもいいかもしれない。金融システムは未来への思惑、つまりスペキュレーションに基づいている。その推測は、システムが自らを正当化するためにどこからか引っ張ってくる、あるいは捏造するもの。フィクションとハイパースティションが、それ自体の将来の価値を予測して存在を正当化し続ける相互ループ、その上に私たちの経済システムは成り立っている。

その一方で、ループが狭くなって、どんどん閉じていくと、フィクションがものすごいスピードで現実になるかもしれない。作家は、どんな形で自分たちの作品が包摂される可能性があるかに用心しなくては。例えば、アーティストたちが企業的価値システムを批評しようと考えてフィクションのプロジェクトに取り組んでいたのに、それを本気の提案と受け取った―あるいは批評を内部に取り込むメリットがあると見た営利企業に、アイデアを盗まれるか、買われるかするケースもある。

ユージーン・リム:

リアリティ番組は脚本と編集ありきで、「ありのままの現実」を目配せつきで売るうまいやり方で、それが、少なくとも一時的には、コンセプチュアル アートやパフォーマンス アートを追い越した時期があった。一世代くらいの間、こういう芸術がリアリティ番組のシュールさに負けてしまったように見えた。そして今、リアリティ番組のスターが、世界最強の、おまけに核まで持っている軍隊の司令官ときている。こんな有様では、スペキュレイティブ フィクションの作家にとって、イケる、と思う風刺を思いつくのは至難の業だ。われわれは沈みゆく船のスケッチを描くことしかできないのかもしれない。あるいは、これは想像も及ばないような新たなステージに入る前の変曲点なのだ。こう言うとちょっと大げさだけど、そんなふうに僕は見ている。いずれにせよ、スペキュレイティブ フィクションは常に、未来についての想像を利用して、現在に批評を加えてきた。だから今の芸術は、これまで通り、「今」に参加するべきだ。うまくいけば、隠れているものを明確に言語化するという役目を果たし、名前のない、あるいは名付けようのないものに名前を与え、この世界の変容を、あるいは破壊を、僕らに認識させてくれるはずだから。

多くのスペキュレイティブ作品は、純然たる「イノベーション」の産物をめぐって展開します。皆さんの理解では、文化とテクノロジーの関係性はどんなものでしょうか?

ケン・リュウ:

イノベーションが完全に成熟すると、発明者の予測を裏切る作用をして、人々を驚かせることが多いように見える。インターネットも、黎明期に想像されていたような、かつてない大量の情報にアクセスできる夢のメディアというだけでなく、悪意のあるメッセージや過激主義、いじめ、ヘイト活動、監視、政府や企業、大衆によるありとあらゆる抑圧の温床にもなってしまった。でも、その種の「サプライズ」はテクノロジーの歴史においては例外ではなく、むしろよくあることだ。コンピューター、プラスチック、民主主義、ロケット エンジン、遺伝子工学―、あらゆるイノベーションを美しいものにも恐ろしいものにも変容させてしまうのが人間の常だから。

イノベーションについて、僕らが驚き続けることの根っこにあるのは、間違った物語を作り上げがちな人間の傾向だ。僕は、人間は生物として、世界を理解するためにストーリーを語るように進化してきたと思ってる。宇宙の無作為性にパターンを見出し、偶然の出来事に原因と結果をこじつけ、物語を通じた登場人物の変容―キャラクターアークを考案し、プロットを予測して、既に「ある」ものから「そうにちがいない」ものを推測する。そうしないではいられないんだ。でも現実には脚本はないし、歴史にはあらかじめ決まっているコースもない。だから、僕らがすでに知っているものが、次に起こることを決定づけるなんて考えては駄目なのだ。善は必ず悪に勝利するに違いないとか、世界は僕らが願うように進んでいくだろうという物語でいつまでも自分を慰め続けているわけにはいかない。

スペキュレイティブ フィクションは、画期的なイノベーションや革命を通じて、インパクトのある未来像を描き出すことが多い。でも現実の世界では、巨大な変化はほぼ必ずと言っていいほど、ごく小さな変化が着実に蓄積した結果だ。小さな変化を無視してはいけない。そうした変化を理解し、きちんと適応していくんだ。だけど、万事うまくいくと約束したり、破滅の絵を描いて見せたりする物語に心を奪われてはいけない。自分自身の未来を創るのは僕らなのだから。

エルヴィア・ウィルク:

イノベーションというのは、製品ありきの市場文化の中で使われるようになって、空虚になった言葉のひとつ。おそらく、本来の「イノベーション」の意味は単なる「発明」なのに、「営利」という意味を含むことで変化して、仮借のない至上命題になっている。それなら、発明を利益追求の動機から分離したらどうだろう?

ユージーン・リム:

思うに、僕らは永続的な認知の不調和の状態にある。一方には、ポケットに入るインターネットとかドローンが配達する分厚いピザなどが約束する、テクノロジーのユートピア。でも、もう一方には、孤立感や不安の増大や、専制主義や人種差別の台頭、地球温暖化による緩慢な世界の終焉などがある。最近、ずっと考えていたことがある。今の政治システムを二分し、いがみ合っている勢力は、ソーシャル メディアというひび割れた鏡によって再生産されていくけれど、それはフェイク ニュースやプロパガンダによって作られたというより、むしろ単純に窮地に追い込まれた、われわれ自身を正確に映し出しているのではないかということだ。半分は善で、半分は悪という。願わくば、人間が自分自身から自分自身を救えるだけの知恵があらんことを。

テッド・チャン:

僕はよく、SFは産業革命後のストーリーテリングの形態だと言っている。それというのも、産業革命以前はイノベーションの広がる速度がすごく遅くて、生きているあいだに新しい発明によって世界が変容するのを目撃した人間が誰もいなかったからだ。SFは、イノベーションが近代において僕らの生活をどう変えていくかに対する答えなのだ。

テクノロジーは文化を生み出す要素のひとつだ。歌やダンスのように、テクノロジーをまったく必要としない芸術形態もいくつかあるけれど、ほかの芸術表現は、たいてい材料に関わるテクノロジーの上に成り立ってる。新しい技術は常に、アート、つまり文化を生み出す機会を創出していくと思う。

権力と抑圧、そしてスペキュレイティブ フィクションはどのような関係にありますか? 書くことは抵抗の一つの形でしょうか?

エルヴィア・ウィルク:

オクタヴィア・バトラー(Octavia Butler)が、1988年にノートに書き連ねたアファメーションがすばらしい。「私はベストセラー作家になる…、私の本は1冊残らずLAT(ロサンジェルス タイムズ)、NYT(ニューヨーク タイムズ)、PW(パブリッシャーズ ウィークリー)、WPT(ワシントン ポスト)のベストセラー リストに掲載される」という具合。彼女は自分自身のハイパースティションによるループをはっきり顕在化させた。権力と主体性を主張しつつあるキャラクターを描くことで、権力や主体性を主張した見事な例だ。より広い意味では、あらゆる評論は包摂されうるから、芸術の評論は抵抗のひとつの形だとする伝統的な美術史的思考にしがみつくのは、私には難しい。今は、もっと密やかな抵抗の形が必要なのかもしれない。現実を転位させる本を書くことは、抵抗の形になりうる。新しい物語は私たちが生きている資本主義リアリズムの狭い領域に割り込み、そこに間隙を生じさせるから。そうした物語は政治的想像力を拡大するかもしれない。権力がそれ自身について語るストーリーを侵食することで、物語は権力に対抗できるかもしれない。

ユージーン・リム:

人権よりも富の集中に価値をおく経済システムの中で、何の役にも立たず、価値もなく、そんなことをしても貧乏になるだけだ、と言われるようなこと―つまり革新的なフィクションを書くこと―をやっているのは、僕に言わせれば間違いなく抵抗のひとつの形だ。それが「効果的な」レジスタンスの形かどうかは別問題だけど。

テッド・チャン:

SFに元型的なストーリーがあるとしたら、こういう感じだろう。初め、世界は馴染みのある場所として登場する。やがて新しいイノベーションなり発見なりが大々的な影響をもたらして、その世界は永久に変わってしまう。これは、伝統的な「善vs悪」のストーリーとは根本的に違う。後者では、悪に対する勝利は物事が平常に戻ることを意味するから。大雑把に言うと、善玉が悪玉をやっつける物語は現状の維持がテーマであり、SFは現状の転覆がテーマだ。だからこそ、SFは潜在的に政治性を帯びている。SFは変化についての物語だから。

昨年、批評家のマーク・フィッシャー(Mark Fisher)の言葉をたまたま読んだ。「解放の政治は、これまで不可能だとみなされてきたものを達成可能に見えるようにすることがその使命であるのと同じく、常に『自然律』という見せかけを打破せねばならない。必要かつ必然だとされるものが、実は単なる偶然にすぎないことを暴かねばならない」。これこそSFの目指すところだ。

芸術は未来を変えられるでしょうか?

ケン・リュウ:

先に、現実は筋書き通りに運ばないということを示唆したけれど、今からそれと矛盾するようで、実は矛盾ではないことを言おう。それは、未来は常に、物語の結果だということだ。

僕の言わんとすることはこうだ。人間は物語を通じて世界を理解するから、物語が普遍的だと、人間はその重要性を過小評価する。個人、家族、都市、職業、企業、国家…、あらゆるものは、僕が「起源の物語」と呼んでいるもの、つまり自分が何者なのかについての神話を通して自らを理解し、存在の意味を導き出している。

この種の本質にかかわるストーリーは、皮肉なことに、無意味なものとして退けられがちだけど、僕らの人生において絶対的に必要のものだ。例えば、アメリカの民主主義が健全に機能するために重要なのは、優れた制度とか法律をうまく活用することだけではない。人民として、僕らは何者なのかという共有された神話に依拠している。今、アメリカで最も危険で緊張をはらむ議論は、まさにそれだ。誰が「われら人民」に含まれるか、誰がアメリカの物語を語るのか、これまで沈黙させられ、疎外されてきた様々な声を含めるために、その物語はどう発展しなければならないか。こうした国家の魂をめぐる闘いが、僕らの生きる未来を決定づける。本当の合衆国憲法は紙に書かれていない。僕らが信じる共同体の神話なのだ。

個人のレベルでも同じことが言える。人生は偶然やめぐりあわせ、時空という織物のランダムな変則性がもたらした結果かもしれない。でも、僕らは人生を理解しようとするとき、ランダム性という原理は採用しない。過去を振り返って、筋書や自身の成長ストーリーを編み出し、自分の生きてきた道筋に意味を見つけようとする。

ここで、さっき僕が言ったことと、今言ったことの見かけ上の逆説が解消する。つまり、未来はすでに語られた物語ではなくて、語られつつあるということだ。僕らは「イノベーションがもたらす驚異がどんな問題も解決してくれるだろう」と楽観できないけれど、「憎しみの勢力が支配するテクノロジー監視社会のディストピアが必ず来る」といって絶望に打ちひしがれるのも間違っている。未来の物語は今、この瞬間に、日ごとに書かれている。そして僕らは作家だ。僕らは、僕らが望む物語を語らなくてはいけないんだ。

エルヴィア・ウィルク:

芸術の仕事は、明確な因果関係があるという意味での手段になってはいけないと思う。特定のイデオロギーに仕える芸術はファシズムになる、とハンナ・アーレント(Hannah Arendt)なら言うだろう。私は、「問題を解決する」とか「特定の変化を引き起こす」と主張する芸術全般に懐疑的。芸術は可能な限り、包摂に抵抗し、独立を守るべき―。おそらく、そもそも人間主導による変化に至上性はあるのか自体を疑うことによって。

ひとつ、芸術にできることは、どうしようもなく無意味に見える状況で、新しい意味作りの形を提供することだ。そこでの「意味」は、知識の伝達や、ユーモアを見出すこと、共感を築くこと、主観の共同性である間主観性を生み出すことといった形をとるかもしれない。例えば、スペキュレイティブ フィクションを読むことは、私にとって、人間の大きさと惑星や宇宙の大きさ、人生と永遠、自分の経験と人間に限らず他者の経験をつなげる役に立っている。この助けを借りて、私は経済と価値のシステムから意味を作り上げる。それがなければ、システムの非合理な恣意性に押しつぶされてしまう。

テッド・チャン:

芸術を持たない世界が、芸術に満ちた世界と同じコースをたどるか、と言ったらその答えは明らかにノーだと思う。ということは、芸術は確かに物事のありようを変えるのだ。芸術は人々に閃きを与え、彼らの行動に影響を及ぼす。ある芸術作品と、大きな歴史的出来事を明確な線で結んでみせることは簡単ではないかもしれない。でも、それは選挙の投票や抗議活動も同じ。

どんなものに希望を見出しますか?

テッド・チャン:

ティーンエージャーたちが、気候変動や銃規制、移民といったあらゆる問題を取り上げてデモや集会を開いてる。僕が10代を過ごした80年代、そんなものがあった記憶はまったくない。だから、目の前で政治活動がカムバックを果たしたことが嬉しい。

ケン・リュウ:

人々が極端につながり合った世界がもたらしたもののひとつが、距離感の喪失だ。ソーシャルメディアでは、世界中の恐ろしい行為の画像がどんどん流れてくるし、何千マイルも遠く離れた赤の他人が意識の中に侵入してくる。おかげで僕らは無力感や、怒りに飲み込まれそうな感覚に脅かされている。

この問題への答えは、人との交流を人間らしい範囲に戻して、目に見える変化をもたらす方法を見つけることだ。ソーシャルメディアのフィードを選別し、ブロックし、バッサリ切って、人間としてちゃんと知っている相手とのやりとりに縮小する。それから、ボランティアをしたり、誰かを教え導いたり、励ましたり、応援したりする。コミュニティに献身的にかかわって前向きなエネルギーを貰い、そのエネルギーをシェアする。そういうことが助けてくれると僕は本気で信じている。僕について言えば、ほかの作家が語りたいと思っている物語を「語ってごらん」と励ましたり、自分がもっと大勢に聴かせたいと思う声のヴォリュームを上げたり、世界の片隅に咲くささやかな美やその素晴らしさを指し示したり。そんなチャンスに恵まれるたび、僕は自分自身の人間性を少しだけ取り戻す。僕たちが生きているる、なにもかもが商品として扱われるような、非人間的な監視社会からね。

同じくらい大切なのが、モノを作ることにしがみつくことだ。現代の世界は商品だけでなく、商品化されたサービスを要求する。その結果、ほとんどの仕事が単調な反復作業や、ただの手順や、オフィスでの退屈で疲れる仕事になり果てている。しかも、それはもう少しで機械にとってかわられる。今、自分の人生に意味や目的を見出すには、自分の魂のかけらを宿した美しいものを作らなくてはいけない。これまでにもまして。そこにしがみつくことから希望は始まる。

エルヴィア・ウィルク:

私は、信念を持った人たちが、断固として結束していく姿に希望を見出している。2019年の後半に世界中で始まった抗議運動は、今はもうニュースにならなくなったかもしれないけれど、その抵抗は弱まっていない。2019年の秋に6週間、香港に滞在とき、誰もその物語を伝える人がいなくても、ニュース性を超えて、抵抗という目的そのもののために粘り強く抵抗が続いていた。そんな姿に希望が湧いてきた。

ジェム・ベンデル(Jem Bendell)という持続可能性の専門家が2018年に、「Deep Adaptation」という論文を書いて、レジリエンス、つまり回復力について説明している。それによると、人類の、あるいは自然界の回復力は、破滅的な状態が起きたとして、それが起きる前の状態に戻る能力のことではない。レジリエンスとは、すべてが前とは違うという事実は変わらなくても、自分が最も大切にするものを保ち続ける力のこと。だから、問うべきなのは「私たちが知っている世界は崩壊するだろうか?」ではない。それは不可避なのだから。「世界が崩壊するとき、私たちは何を守りたいだろうかか?」と問うべきなのだ。

地球は何とかなるだろう、生物多様性は維持されるだろう、富の階層化は続かないだろう、それとも、人類はあと千年、生き延びるだろう、と信じることと希望はイコールではない。私には地球の温暖化が止まるとは思えないし、それ以上に、時計が逆回りするとは思えない。状況は絶望的だ。にもかかわらず、人間同士のつながりと創造性が執拗に生き延び続けることに望みをかけている。こんな希望を抱くのは、世界がもうすでに、私が思いつけるどんな想像をも超える、奇妙な場所になってしまったから。

Ken Liuはスペキュレイティブ フィクション作品で知られる米国の作家である。ネビュラ賞、ヒューゴー賞、世界幻想文学大賞の三冠を達成。過去の東アジアに着想を得た新ジャンルである「シルクパンク」の長編ファンタジーシリーズ『蒲公英王朝記』、『紙の動物園』、『The Hidden Girl and Other Stories(未邦訳)』などがある。ほかに、スター ウォーズをテーマにした『ジャーニー トゥ 最後のジェダイ―ルーク・スカイウォーカーの都市伝説』。専業作家となる前は、ソフトウェア エンジニア、企業弁護士、訴訟コンサルタントとして働いた経験がある。未来志向、暗号通貨、テクノロジーの歴史、本づくり、折り紙の数学など、得意とする分野のさまざまなトピックについて頻繁に講演を行っている

Elvia Wilkはニューヨーク在住の作家であり、編集者である。初の小説『Oval』がSoft Skull Press社より2019年に刊行された。2019年度Andy Warhol Arts Writers助成金を授与され、現在はバーグルエン インスティテュートの2020年度フェローである

Euguene Limは作家で、『Fog & Car』(2008年、Ellipsis Press)、『The Strangers』(2013年、Black Square Editions)、『Dear Cyborgs』(2017年、FSG Originals)の作品がある

Ted Changは米国のSF作家である。ネビュラ賞4回、ヒューゴー賞4回、ジョン・W・キャンベル(John W. Cambell)新人賞、ローカス賞4回の受賞歴がある。短編小説『あなたの人生の物語』は映画『メッセージ』(2016)の原作となった

  • 文: Elvia Wilk、Eugene Lim、Ken Liu、Ted Chiang
  • アートワーク: Skye Oleson-Cormack
  • 翻訳: Atsuko Saisho
  • Date: April 9, 2020