田舎の未来主義

Architecture 建築批評家ニクラス・マークが、田舎のラディカルな可能性を考察する

  • 文: Niklas Maak

最近、1964年にペトゥラ・クラーク(Petula Clark)が歌って大流行した「恋のダウンタウン」がラジオから流れてくるのを耳にした。西洋世界で進行していた郊外化の真っ只中で作られた曲である。

まるで、地下の納骨堂から響いてくるアリアのようだった。

あなたがひとりぼっちで、孤独でも
いつだって行けるわ ダウンタウンへ
心配事や、厄介事や、急用があっても
ダウンタウンが助けてくれる
街を往来する車の音を聴いて
ネオンサインが素敵な歩道で時間を過ごすの
絶対に損はないわ
街の灯りは眩くて
悩みや不安は吹き飛んでしまう
だから行くの ダウンタウン 全てが素晴らしくなる
ダウンタウン 最高の場所
ダウンタウン 全てがあなたを待っている

歌詞の全てが間違っているように思えた。眩いライト、活力、開かれた世界、きらびやかにそびえる柱、自信に満ちた様子で鼻歌を歌いながら往来する人々、街の中心で奔放に混じり合う人々と文化…。私の家の近くのダウンタウンには、そんなものは何ひとつない。代わりにあるのは、人影もまばらなショッピング街、観光バス、馬車、ビア バイク(ビールを飲みながらペダルを踏んで走らせる車)、格子がはまった砂岩造りのファサード、高価なブティック、ショッピング モールの建設現場(感無量。オンライン ショッピングのおかげで、このような巨大な物体が国中で滅びつつある)、野心的な英語名(例えば「アッパーイースト」)を名乗るオフィスや高級アパートメント。密度、活力、未来…そのどれもがあまりに希薄過ぎる。

私たちは、大都市に未来を見る最後の世代なのだろうか? 大都市の中心地は、経済の流れだけに配慮し、裕福な退職者や観光客だけを引き寄せる場所として設計されているのだろうか?

都市の美学は終末を予言している。よじれ、穴を開けられた新築の高層ビルは、臆病そうに街角に立ち、今にも逃げ出しそうな人間さながら。主権、自尊心、権力の明るい展望は過去のものとなった。代わりに与えるのは、安全、快適、年金受給者のために時折用意されるけばけばしいドタバタ喜劇的文化。ロンドンに登場した、アニッシュ・カプーア(Anish Kapoor)の非常に複雑でバカげた展望台のごとく。あれは、建築家であり思想家であるレム・コールハース(Rem Koolhass)が言うところの、大都市特有の気まぐれ、そのものだ。薄弱の度を強める未来都市理論に対抗するものとして、コールハースが郊外理論に取り組み続けて数年になる。

新しい居住の地は、どのような外観で、どのように建設されるのか? 自己決定と引き換えに安全や快適を与える場所ではなく、自由や自己責任を育成する場所とは?

私たちは、大都市に未来を見る最後の世代なのだろうか?

近い将来、世界人口の半分以上は都市の密集地域に暮らすようになると、常々耳にする。無数のビエンナーレや書籍が都市の変容に疑問を呈してきた。にも関わらず、都市が対極へと変化する気配はほとんどない。もし世界人口の過半数が都市の密集地域に暮らすとしたら、それはとりもなおさず、世界人口の半分近く、つまり数十億人は田舎と呼ばれる場所に住むことを意味する。

田舎へ向かう方向性には、常に憂鬱な気分がつきまとってきた。大都市の喧騒、スピード、複雑、現代性に対処できないと告白するように。かつて田舎は、緑のコール天のズボンを履いた労働者が、貴族に憧れつつ夢想する場所だった。都市にある鏡張りのファサードに恐れをなし、駅にあるカントリー マガジンを読んで、牧歌的な木骨造りの家やヒマワリ、夕暮れの中を軽やかに駆ける馬を思い描く場所だった。言い換えるなら、大都市住人にとって、田舎は前近代的リラクセーション スポットのような場所だった。ところがよく見てみれば、今やその全てが真実とかけ離れている。むしろ逆と言ってもいい。

大都市の中心は田舎化している。髭を蓄え、フランネルの服を着た男性が営むカフェには、ふんだんに原木が使われ、とても大都市の中でグーグルに監視されているようには見えない。まるでグリズリー ベアが生息する森に囲まれているようだ。多くの都会人にとって、完全な管理や監視から逃れる唯一の方法は、携帯電話、カーナビ付きの車、ネットワーク化されデータ生成を行う「スマート」機能付きの歯ブラシ、ランニング シューズ、ヒーター、自宅を避けることだ。その結果、アナログの腕時計、クーゲルフィッシャー式燃料噴射装置を搭載した車、Falck社(ヨーロッパのレスキューサービス会社)製の地図、ストーブの付いた家といったノスタルジックな商品の購買に走る。祖父の世代が生活した1975年頃の暮らしだ。あるいは、アメリカ当局が衛星電話を盗聴し始めた途端、連絡手段を伝書鳩へ切り替えたコロンビアの麻薬密売人のごとく。このように素朴な生活は長きにわたって田舎と関係付けられてきたが、一方で、田舎特有とされたあらゆるネガティブな基準、つまり、均質的な人口構造、外国人嫌い(難民はいつも郊外へ追いやられた)、細い道、減速、牧歌的な美学を満たしているのは、都市内部の暴力的精神である。

都市に存在する全てがより小さくより田舎的になるにつれて、一方通行の道路が子供の遊び場となり、ラテ マキアートが自らの手で切り出したカウンターの上で供されるようになるにつれて、都市が減速的、牧歌的、手作り的に自らを減じるにつれて、コールハースが指摘するあらゆるすばらしい出来事は田舎で生じている。大建築物はパリやミュンヘンなどの都市で顰蹙を買い、超高層ビルは禁止されている。しかし、都市圏の外側には、巨大な流通・物流センターやサーバファームが建設され、倒壊した高層建築のごとく田園風景の中に横たわっている。

田舎への移行は、脱政治的行為、あるいは私的でノスタルジックな引きこもりだと、誤解されてきた。これは常に誤りだった

風景や宇宙の中をスーパーマシンで突っ走りたいという、私たちが現在目にしている新しくも奇妙な欲望。新たな高速拡張主義。先ずPayPalで名を馳せ、次に電気自動車会社テスラ(Tesla)でさらにその名を轟かせたイーロン・マスク(Elon Musk)は、超音速列車「ハイパーループ」の実現に意欲を燃やしている。ロサンゼルスとサンフランシスコを結ぶチューブ内を走る鉄道は、時速1200キロに達し、気送システムのごとく乗客を輸送する。マスクは、歴史上初めて私企業によって出資された宇宙プログラムとして、近い将来人類を火星へと連れて行くスペースXシャトル開発にも取り組んでいる。マスクは現代的な拡張の展望と真摯に向き合っている。しかし、未来は、資源の浪費や、オレンジ色の宇宙的球体を多用した60~70年代初頭の美学を想起させる、洒落たコンセプトの婉曲的表現以上のものであるべきだ。 仮想コミュニケーションの先駆者たちが、若かりし頃のアナログ世界を加速させる夢に数十億の資金を費やす現実は、一体何を意味しているのか?

そして、なぜ大企業は、海や自然保護区が見える郊外に本部を設置するのか? フランク・ゲーリー(Frank Gehry)がデザインしたFacebook本社は、自然と一体化して、まるで自然の一部のように見える。現在、巨大かつ平面的な本社ビルを人工的な風景と合わせて建設中の企業は、他にもある。ノーマン・フォスター(Norman Foster)による設計で、カリフォルニア・クパチーノの敷地200,000㎡に建設中のApple新社屋は、ガラスで覆われた巨大なドーナッツ状の建物になる予定だ。4階構造のリング状のビルには、12,000人の社員が勤務する。穴にあたる中央部分には人工ジャングルが作られる。公園の内部に建設される建物は、通りからほとんど見えない。

建物が巨大化するにつれ、都市からの距離は遠くなる。そこに誕生する未来には、語るべき人間がほとんどいない。何千もの衛星カメラや監視カメラは、機械によってのみ分析される映像を中継する。ネバダ州には、通りや建物を完備しながら、破壊行為を見張るガードマン以外もはや無人となった巨大なエリアが存在する。Sony、Google、eBayなどを顧客として、シリコンバレーのあらゆるデータを蓄える全長800メートルのSupernapと呼ばれるサーバファームがそれである。それだけで37,800㎡を占めるSupernap 7コンピュータが設置されたデータセンターは、70,000㎡の床面積を誇る。Superloopの名前で知られる全長800㎞のネットワークは、将来ハイパーループが往復予定のロサンゼルスとサンフランシスコを、サーバーで結んでいる。ハイパーループの乗客は、おそらく車内でも(おそらく火星に行っても)牛肉を食べたいだろうということで、ネバダのサーバファームのほど近くには、自動化された肉牛農場がある。これらの農場はカリフォルニアの人たちの食肉需要を満たすのだが、牛乳を絞り、健康状態をチェックし、餌に薬を混ぜるのは自動装置とロボットだ。ロボットが動き回り、巨大なパソコンのハードディスクのように設計されたAmazonの配送ステーション内で、積荷を準備する。

このようなポストヒューマン世界と、その世界における物事や現象の脱身体化。これを手掛かりに、推進者たちが身体に挑戦するプロジェクトに資金を投下する理由を理解できるのかもしれない。火星着陸、2つのエンジンを搭載した700馬力のテスラ列車、風景の中を弾丸のように貫くハイパーループ チューブ。恐らく、これら全ては、触れ得る物理性への切望から来ている。静かなるスマートフォン、スマートカー、スマート ホームがあったとしても、なおかつ身体で体感できるものを欲する願望だ。

田舎への移行は、脱政治的行為、あるいは私的でノスタルジックな引きこもりだと、誤解されてきた。これは常に誤りだった。ベネデッタ・カッパ(Benedetta Cappa)の未来派絵画やジョン・バージャー(John Berger)の著作に目をしたことのある人なら、田舎が、都市の緩慢や無気力や博物館のような空気感から一時的に逃れ、希望に満ちた加速や政治的行為の場となりうることを理解できるはずだ。

遅くとも2008年の11月から、フランスで最もよく知られ、また、その名声に相応しいタルナックという村を例にとってみよう。当時この場所は、150人の警察官と村の上空を旋回する数機のヘリコプターに包囲されていた。ついにある朝早く、特殊部隊が突入し、一種のコミューンとして暮らしていた20人の男女が確保された。罪状は、少なくともサルコジ大統領と犯罪学者アラン・バウアー(Alain Bauer)によれば、テロ行為であった。バウアーは、ネット上で偶然、匿名集団「来たる反乱(L'insurrection qui vient)」による文章を目にしていた。その論旨によれば、フランス社会は根こそぎ的な消費、対立を呼ぶ自己中心性、根本的な視点の欠如にとらわれており、今唯一の希望は、すでに郊外で発生している反乱を拡大させることであった。

この論考の最終章では、革命の手引きを提示すると同時に、スーパーから食料を盗み、高速電車、サーバー、近代資本主義のインフラ全体を麻痺させようと呼びかけていた。人々が実際にリムーザン地域の高速電車を妨害したとき、タルナック警察は疑わしい活動に対する数ヶ月に及ぶ監視を始めた。主たる対象は、主にパリやボルドーや他の都市出身の学生グループだった。彼らは古い農場に移り住み、労働や議論を行ない、米国で進歩的な芸術教育を行なったブラック マウンテン カレッジと、スイスの山あいで反近代的コロニーを築いたモンテ・ヴェリタ、イスラエルの集産主義的組合キブツを組み合わせた生活様式生活を実践していた。

そこは避難所ではなく、iPadや不動産のローンによってエネルギーが根こそぎ枯渇されることのない市民のベースキャンプなのだ

2008年11月11日の朝、当局は22歳から34歳の男女20人を逮捕した。この伝説的タルナック グループのメンバーであったギヨーム・メグロン(Guillaume Maigron)、ドキュメンタリー映像作家フローレン・ティロン(Florent Tillon)、ベンジャミン・ロズー(Benjamin Rosoux)は、今年、パリ近郊のマルヌ・ラ・ヴァレにある都市国土建築学院大学の展示会で、既成部品に基づく斬新な住居建築プランを発表した。小区画モジュールを組み立てれば、難民家族だけでなく、8~10人の友人グループ、コミューン、独り暮らしを嫌う80代の老人グループなど、必要に応じて住居の大きさを変えられる。要するに、自分が望む生活を送れる住居がない人々のための建築である。まもなくボランティアたちがこれらの住宅を作り始める予定で、やがてフランス全土で複製されていくだろう(と、発明者は願っている)。これまでとは違う方法で生活し、仕事をし、住居にかかる費用を軽減し、より多くの時間を政治教育や全国規模の抗議活動の計画に費やす集落。言わば、反乱の村である。都市を拒み、国民の再定住を試みるアナーキーな建築プロジェクトだが、同様の動きは他にもある。タルナックの活動家は、隠遁の地ではなく、もはや博物館的な都市では生まれようのない、新たな社会におけるユートピアの中心地としての村落を確信している。

多くの人にとって都市が魅力を失いつつあるのは、主に、高騰した家賃と生活費が原因だ。「Monocle」誌の「新たなヴィレッジ・ピープルに会いに行く」と題された号では、今都市を離れるべきかを問い、紙面の半分以上を割いて移住に最適な村々を紹介している。

ここ田舎では、不動産の価格に失望した都市の住人たちが、地元の住民のうんざりした顔と向き合うことになる。交通渋滞、工場、高層オフィスビル、騒々しい通りの不在が意味するものは、牧歌的な生活ではなく失業だ。Amazonの倉庫や、大都市の企業データが保存精査されるサーバファームが広がる場所。ノコギリで切り出したままの原木を使ったカフェに座り、グーグルで検索して「いいね!」をクリックする都市住人の行為は、田舎にあるサーバーファームによって予測され、操作されている。このアルゴリズムに基づいたエゴの予測、10分後もしくは10年後の欲求の先読みは、ノスタルジアに浸る都市生活者が素朴な生活が残された場所だと考える、まさにその場所からやって来る。

他のDIYとは違って、ネオヒッピーが形成する新しいコミューン村落は、木板でデータの流れに抗う素振りは見せない。そこは避難所ではなく、iPadや不動産のローンによってエネルギーが根こそぎ枯渇されることのない市民のベースキャンプなのだ。オンライン ショッピング流通センターを始めとするイノベーションは、地元の製造業者にグローバル市場への扉を開いた。インターネットに依拠した新たな労働環境は、効率性とは空間的にひとつの場所に集約することではなく、知的なネットワーキングの問題であることを意味する。

これが真実であれば、田舎暮らしのノスタルジア化に対抗する未来のカウンターモデルは、すでに存在するテクノロジーとのゲームということになる。それは決して、少数の大企業の手中にだけ握られているものではない。スマートホームを大手のデータ ストリームに繋がず、グーグルなどの大企業グループがアクセスできない自足的なネットワークに繋ぐこともできるわけだ(Thor Browesrを参照のこと)。過剰に個人情報を漏らすことなく、Facebookを使って情報交換することも可能だ。極小グループの移住や大規模データ収集業者を回避するネットワークは、未来における最も重要な技術的挑戦のひとつだ。田舎とは何か?山、広野、砂漠、サバンナに囲まれた場所、つまりコントロールしにくい場所なのだ。

「始まりを想像しよう」とティックン(Tiqqun)は、著書「これはプログラムではない(This Is Not a Program)」で書いている。「規定は容赦なく存在する。しかしまた、この容赦のなさは、規定と戯れる膨大な自由、自動制御を破壊するチャンスの膨張をも意味する」

  • 文: Niklas Maak