雪あらしの日に

6人のスノーエンジェルの贈り物

  • 文: Marian Bull、Teo Bugbee、Allison P. Davis、Sarah Thankam Mathews、Madeleine Seidel、John Washington

窓から見るなら冬のワンダーランド、靴に入ればナイトメア「アフター」クリスマス。雪だ! これまで何度雪を見ていても、私たちは歓声を上げる。やれやれ雪か、ショベルで雪かきする朝を何度繰り返しても、私たちはやっぱりうめく。ここでは6人のライターたちが、雪にまつわる不可思議で、ユニークで、謎めいたさまざまな体験を考察する。

今年のホリデー シーズン用に―長い冬をアウトドアで過ごそうという目論見のもと―僕は鮮やかなブルーのスノースーツを手に入れた。Bognerのヴィンテージだ。買った瞬間から、そのスノースーツは小物の必要性を提案した。インシュレーション加工を施したスキー用グローブ厚底ブーツ。アイテムごとにゴツさが増していく。スノースーツは質量を賛美する。かさ高さに科学を感じさせる、過酷な自然に抗うラボ生まれのソリューションだ。根源的な耐久性を問われるという点で、スノースーツを着ることは、あなたが体験できる月面歩行に最も近いものかもしれない。

この宇宙探査との類似性が際立つのは、最近なら2018年冬季五輪のスノーボードアメリカ代表チームのためにBurtonが手掛けたデザインだ。NASAにインスパイアされたギアは、雪も光も、音すら跳ね返すことを約束した。ただしBurtonは、スーツが悲哀、退屈、失敗を科学の力で排除するとは売り込まなかった。まあ確かに、感覚というものは経験として定量化することは難しい。

チームUSAのラベルにNASAの書体を使ったBurtonのスーツがキッチュでないはずがなく、冬の憂さを晴らしてくれた。スノースーツ ファッションの全盛期は1980年代と90年代で、アルプスのダイアナ妃からコメディ番組の『ベルエアのフレッシュ プリンス』まで、猫も杓子も着ていたものだ。今、スノースーツを着るということは、黄金色に輝く思い出の温もりに守られることに等しい。

マライア・キャリー(Mariah Carey)を見れば一目瞭然だ。ホリデー シーズンの陽気な華やぎを歌う定番的名曲は、毎年12月のミュージック チャートにキリストさながら復活する。「恋人たちのクリスマス(All I Want For Christmas Is You)」は、今の世代には90年代ポップスへの郷愁を呼び覚ますが、この曲が時代を超えて愛されるカギは、それ自体に内包されるノスタルジアにある。ベースにあるのは、宇宙開発華やかなりし頃、クリスマスへの憧れを歌ったザ ロネッツ(The Ronettes)の長年聴き継がれてきたショーだ。1994年のミュージック ビデオのために、マライアが着たのは赤のスノースーツだった。

だが、たとえクリスマスの女王を混ぜたとしても、最も有名なスノースーツとくれば、1983年の映画『A Christmas Story』に登場する弟ランディが着ている1着ではなかろうか。映画のランディはスノースーツのおかげでひどい目に遭う。母親が羽毛の詰まったファブリックにあまりにきっちりくるんでしまったおかげで、ランディはダウンの膨らみに負けてどうしても腕を降ろせない。年長で意地悪な、自分より大きな少年たちとの喧嘩に巻き込まれても、転んだまま立つこともできない始末だ。スノースーツのおかげで身動きが取れず、どうすることもできないランディは、これ以上ないほど子どもらしい。

映画のなかではそれは屈辱の場面だが、大人になって『A Christmas Story』を観た僕は思った。ぐるぐる巻きにされることの何がそんなに悪いんだ? 寒さに耐えてみせるという決意以外の何かを感じるなんて素敵じゃないか。2020年がもたらしたあらゆる災いのあと、鏡を覗き込んで、子どもであることがどんな感じだったか思い出させられるなんて、なんておかしなものだろう。

Teo Bugbee はニューヨーク在住で、労働組合オーガナイザーとしてフルタイムで活動しながら、ライターとして活動している


僕の父は5歳ぐらいの頃、家族でリトル・ウィリーと呼んでいた聖公会の司祭を交えて、スカーズデイルで雪合戦に挑んだ。木の後ろに隠れてひと息つき、ミトンの手に弾薬、つまり雪玉をつかんで、手ごわい相手方の様子を窺おうとひょいと頭を突き出したとたん、ボスンと冷たい塊が目を直撃した。見事に命中させた狙撃者は司祭で、数年後、彼は司教に叙任された。

雪合戦の最中の作意は証明できないが、父が司祭の娘のボニーにのぼせていたのは確かで、ひょっとすると―ほんとうにひょっとするとだが―、リトル・ウィリーは本気で父の顔に雪玉をぶつけようとしたのかもしれない。フランネルとフリースに包まれ、手袋をはめ、スノーパンツを穿き、マフラーをぐるぐる巻きにした身体―冬の人間小包から覗く顔は、まるで射撃の的そのものだ。

「雪玉」という言葉を聞いただけで閃く象徴的なイメージがある。耳当てや房のついた帽子をかぶった子どもたち。眩しく輝き、息が弾む朝。冷たすぎる雪はネズミのように啼く。だがもうひとつ、少なくとも僕の頭には、弾ける映像がある。顔にミサイルよろしく着弾する雪玉、氷が襟を伝い、雪に埋もれたブーツから靴下を重ね履きした足を引き出す。濡れたコットンを震えながら引っ張り上げるもどかしさとジッパーを手探りする痺れた指。忘れられないのはある冬の遊び場の1日だ。子どもたちの群れがアスファルトの塊そっくりの氷の板を、新入りの子ども―、僕に向かって投げはじめる。僕は平静を装いながら、どんどん過激になる悪ふざけを、一応無害で陽気な雪玉の投げっこへと軌道修正しようと必死になっている。

だが、それは一般的な雪合戦の展開とは違う。雪合戦は愉快なじゃれ合いと残酷さのあいだの境界を狭めるものだ。じゃれるつもりでちょっと投げた球が、「うっかり」力いっぱい命中し、次には言葉にならない本能が突如として解放される…が、実際のそれは殺意だ。あるいは少なくとも顔面を狙う意志ではある。そしてあらゆる冷ややかな敵意は、ちょうど雑に固めた雪玉のように、われわれ自身のお粗末な矛盾に迎え撃たれる。そうして見ると、雪合戦はTwitterによく似ている。わいわいと楽しい騒ぎが悪意に変わる瞬間を、試し、探り、誘導しさえする。それは外気にさらされ、寒さのなかで行う枕投げのいとこだ。枕投げだって、ベッドで弾み、ゆるやかに沈む重力の陽気な戯れから、羽の塊を顔に叩きつける野蛮な闘いへと変わり、底に潜む憎悪を暴きはする。だが雪合戦には温もりも官能もない。

僕が雪合戦の歴史について、初めてインターネットで検索したとき、まず現れたのが南軍兵士たちによる雪の大乱闘だった。その次が、「純粋な喜悦の一撃」―1897年にリュミエール兄弟がフランスで撮影した人々の雪合戦のひとコマだった。ただ僕としては奴隷制の忠実な支持者たちのお楽しみや、昔のフランスの雪合戦のフィルムに映る見知らぬ通りがかりの自転車を容赦なく攻撃するシルクハットの紳士たちのノリにはついていけない。

冬、散歩に出ると、リトル・ウィリーに人生の教訓を学んだ(?) らしき父と僕は、まず一時停止の標識を的にした射撃訓練から始めたものだった。「止まれ」を直撃したときのボスンというあの柔らかな音の素晴らしさときたら―。だが数分も経てば、必ず骨肉相食むぶつけ合いになってしまう。雪合戦はギリシャ悲劇に似て、因果が融けて現れる。本音を露わにしても平気でなければ、やめておいたほうがいい。

John Washingtonは移民および国境政策、刑務所、外交政策、ビール、帽子について、さまざまな媒体で記事を執筆している。雑誌『The Nation』および『The Intercept』の頻繁な寄稿者でもある。初の著作の、亡命政策と古い歴史を主題とした『The Dispossessed』が2020年にVerso Booksより刊行された。Washingtonの連絡先は@jbwashing


画像のアイテム:スキットル(Snow Peak)

私の冷蔵庫の扉ポケットでいつもカタカタ鳴っているのは、飲みかけのベルモットの瓶。買うのは上等なのがいい。最高級品というわけではなくて、ストレートで飲んで、あらこれ美味しい、と思うような。ベルモットってシックだ。もちろんカクテルにも入れるから、ある意味、実用を兼ねた贅沢でもある。どうせ必要なんだもの。面倒なときは、炭酸水を入れたグラスに注いで、適当に「ドリンク」と呼んでいる。ドリンクのDは大文字だ。ドライのベルモットは優美な感じ。単にジン マティーニにまつわるイメージかもしれないけれど。そして甘いベルモットは熟しきった大人のジュースの味だ。

この頃、私が一番作りたくなるのがバンブーだ。酒について私よりずっと物知りで、時折、ブレザーを着る友人から教わったカクテル。私たちはふたりのお気に入りのバーで会っては、仕事についての噂話に興じる。あるとき彼がバンブーを飲んでいた。まだ飲み物をシェアすることが礼儀に反しなかった頃だったから、私は彼のバンブーを味見し、そして恋に堕ちた。基本はシェリー ベースのマティーニで、シェリーを少し、ベルモットを少し、時にはビターズを少し入れることもある。彼の1杯目とお代わりは別の生き物だった。1杯目はすっきりと精悍で、2杯目はまろやかで酸味を帯び、どちらもグラスで供され、すすり心地よく、ジェントルだった。

ずっと考えていたのだが、このカクテルはスキットルに入れるのに最高に向いている。私が気に入っているのは、バンブーが私たち素人にとって、遊べるコンセプトにすぎないところ。お店に行き、2本の酒を買い、それらの相性を確かめる。シェリーはベルモットに負けず、探索しつくせないほど膨大な個性があるけど、要はアルコール度数を高めたワインの一種で、製造法が違うだけだ。炭酸水で割るにもいいし、冷蔵庫のなかでカタカタ鳴っているのもいい。私たちが今ここでやっているみたいに、いろいろと遊んでみるのにぴったりだ。しかも種類が幅広くて、超辛口のフィノ タイプからデザートのように甘いペドロ ヒメネスまで、あらゆるムードに向いた1本が見つかる。

ネット上には現代風に改良されたバンブーのレシピがたくさん転がっている。一度は禁酒法とともに失われ、2007年頃に発掘されたこのカクテルは、マンハッタンの名物カクテル バー、Death & Co.が提供をはじめた。この店のレシピでは、同量のフィノ シェリーとベルモットの白に、砂糖シロップとオレンジ ビターズ、そしてアンゴスチュラ ビターズを加えて仕上げる。もっと複雑、あるいはキュートにアレンジしたレシピもあり、スイート ベルモットを使ったバンブーは、愛らしいアドニスという名がついている。バンブーをスキットルに注ぐのは簡単だ。氷を少し加えてよくステアし、じょうごを使って移す。大事なのはなるべく冷やしておくこと。雪土手を見つけたらその上にでも置いておこう。

Marian Bullはブルックリン在住のライターであり、陶芸家である


条件反射のように魂をかき乱し、有無を言わさぬ欲情を呼び覚ますものがある。私にとってそれは、ある決まったリズムのベースライン、かすかに漂うマリブの香り、たっぷりと水を孕んだ空が割れて巻き起こる午後の嵐。ベースラインは胸の鼓動を高め、マリブは学生時代の享楽の日々を蘇らせる。激しい雷雨は、高校の頃『嵐が丘』を読み返しすぎたせいだ。ヒースクリフをひとりエッチのお供にしたのもあるかもしれない。

詩人メアリー・ルーフル(Mary Ruefle)にとって、それは雪の日だ。彼女の詩「雪(Snow)」を読み返してみて、正直言って詩の出だしの一行にこれほど激しく共感したことはなかった。「雪が降りはじめるといつも、私はセックスしたくなる (Every time it starts to snow, I would like to have sex.)」。

「嵐=淫靡な気分」の法則に従って盛り上がっていたせいかもしれないけれど、これは単純に腑に落ちた。雪の日の最良の過ごし方は、もちろんファックだ。それも一刻も早く。

雪片が舞いはじめると、それは今やっている作業をすぐさま中止し、可及的速やかに責任を放り出す、文字通りの白紙委任状となる。そして雪に振り込められる前に、あなたには最も根源的で大脳辺縁系に分類される欲求を満たす時間ができる。もしかするとにわか雪で終わるかもしれないが、私たちは申し合わせて見て見ぬふりをし、2インチの積雪だってすぐに12インチになるかもしれないという結論に至る。

その同意には快楽主義的な何かがある。あなたはいるはずのない時間に家にいて、バタバタしているはずの時間に静寂に飲み込まれている。映画を27本、続けざまに観たっていいし、好きなだけ食べて気を紛らわせてもいい。琥珀色のウィスキーをじっくりと舐めることもできる。

ルーフルの詩には私が大好きな一節がある。そこに描かれる彼女は、降る雪を見つめながら、自分が何の合図もしないのに、雪が掻き立てる欲望に気づいた恋人が一目散に家に駆け戻ってベッドに飛び込むところを空想する。それぞれが別々に、同じものによって欲情するなんて、すごく燃える。ふたりは激しくぶつかり合わずにはいられない。あたかも性器に磁石がくっついているみたいに。

だから、もしすでに条件が整っているなら―、日常の禁を侵し、温かな肉体の催促にチューニングしながら室内でほっこりしているのなら―、セックスより魅力的に響くものはあるだろうか? クルー ゲームなんかとんでもない。誓って言うが、次に雪が舞いはじめたら、私はそのとき誰と一緒にいても、相手に向かってルーフルのあの別れの挨拶を繰り返すだろう。「雪が降ってきたから、帰ってセックスしないといけないの。じゃあね」と。

Allison P. Davisは『New York Magazine』で特集記事を執筆するライター。お気に入りのエロティック・スリラーは『イン ザ カット』


居心地のよさと閉所恐怖は紙一重。このことを何よりもうまく説明してくれるのが雪の日だ。外の世界を逃れてぬくぬくと巣ごもりしたはずが、一転、外界から隔絶され、他者と―あるいはもっと恐ろしい自分自身と―取り残されたような気がしてくることもあるからだ。

この真実を見事に内包する映画といえば、スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)監督による1980年の映画『シャイニング』をおいて他にはない。ジャック・ニコルソン(Jack Nicholson)演じるジャックは、シェリー・デュヴァル(Shelley Duvall)が演じる妻ウェンディと幼い息子とともに、オーバールック ホテルの冬季管理人として雇われる。冬が深まり天候と歩調を合わせるように、家族は現実を見失いはじめ、伝説的フィナーレへと突き進む。そこでジャックは凍死し、母と息子は亡霊に取り憑かれているらしいホテルの魔の手から脱出する。

『シャイニング』の撮影そのものもホラー ストーリーとなった。イングランドのハートフォードシャーにあるエルスツリー スタジオで行われた撮影では、遅れは日常茶飯事、セットは火災に遭い、シェリー・デュヴァルに対するキューブリックの要求はハラスメントの域に達した。このセットでの機能不全ぶりが、キューブリックの娘で当時18歳だったヴィヴィアン(Vivian)によってフィルムに収められている。彼女はセットでの日常を撮影し、そのフィルムをもとにBBCに依頼されて20分間のドキュメンタリー『Making of The Shining』を制作した。そこに映るのは、オーバールック ホテルのセットの狭い廊下にひしめき合う大勢のクルー、内輪もめ、気まずい雰囲気、画面の外のヴィヴィアンに対するニコルソンの憎々しい発言などだ。

ヴィヴィアンのドキュメンタリーで私たちが目にする諍いは、『シャイニング』そのものと重なる。オーバールック ホテルの3人は外界から切り離された圧力釜のなかに閉じ込められ、争いながら、ゆっくりと狂っていく。シェリー・デュヴァルはこう語った。「ジャック・ニコルソンの役は四六時中、クレイジーで怒り続けなきゃならなかった。そして私は、演じながら1日12時間、朝から晩まで泣きっぱなし。後半9か月ぶっ通しで、週に5日か6日もよ。あそこには1年1か月いたの…原初療法って確かに効き目があるわね

彼女の言う張り詰めた感覚はあらゆるシーンに満ちている。オーバールックの名も知れない家具。静かに崩壊していくニコルソンの表情。あらゆる物陰に潜む、冬に誘われた狂気の警告。ヴィヴィアンの撮影するセットは、まるでジャックを死に導くトピアリーの迷路のようだ。彼女が捉えたかすかな不安を帯びた表情を通して、私たちはキューブリックが、ニコルソンが、デュヴァルが、懸命に出口を探す姿を見る。

気づいたことがあった。この映画は、恐ろしい雪の日を、孤立し狂気を呼ぶその地獄で表現したにすぎないのだ。囚われの家族は、磁石のように引き寄せる家の力を感じながら、家族の残骸と、互いと自分自身への怒りのなかで座っている。雪に埋もれた過去の家族たちと、彼らの残した同じように陰惨な痕跡が廊下をうろついている。私たちの雪の日がすべてホラー映画とは限らない。しかしふたたびの冬、ふたたびの隔離のときが近づくにつれ、同じ問いが私の心に繰り返し浮かぶのだ。自分たちだけで放っておかれたとしたら、私たちはどう行動するだろう。この世界によって、雪降る山と引き離されたら、と。

Madeleine Seidel はブルックリン在住のキュレーター兼ライター。ホイットニー美術館およびアトランタ コンテンポラリーでの勤務経験がある。映画、パフォーマンス、アメリカ南部のアートをテーマとする記事がこれまで『Art Papers』、『frieze』、『The Brooklyn Rail』他に掲載された


私が生まれて初めて見た雪は、ドバイの室内スキー場、スキー ドバイの雪で、それは痛かった。人工的に生成された氷の粉は、押し固められて硬くつるつるだった。私たちはオマーンからやって来た。おばとおじが気前よく、手のかかる子どもたちをぞろぞろとスキー ドバイへ引率してきてくれたのだ。なんの変哲もない安全扉をいくつか抜けると、だしぬけに現れるナルニアの世界。ショッピングモール「モール オブ ジ エミレーツ」にすっぽりと収まった85メートルの山もついていた。橇も、トボガンも、世界初の上級者向け屋内コースもあった。私は顔から転んで―どう転んだかは覚えていないが―痣を作った。いとこはシナモン ロールを食べすぎて大変なことになっていた。

ドバイでは、姉と私はまるで田舎のネズミだった。オマーンでの私たちの生活はずっと質素で、厳格で、物がないことがもっと当たり前だった。なのに、私は期待していたほど感激しなかった。頬の疼きと、みんなでまた砂漠の熱く眩い空気のなかに出てきたとき、粗い雪が手のひらに溶けていったことは覚えている。お話の本に出てくる雪は、何かが違うような気がした。もっと魔法の香りが漂っているような。私は自分に約束した。いつか本物を見てやろう、と。

寒さとは無縁で育ったので、冬に関する私の儀式は移民後の人生にだけまつわるイベントであり、自分で拵えたものだ。新年の初日、轟く海沿いを散歩する。髪と顔にオイルを塗り、乾燥し凍てついた空気から守る。史上最高のパスタ ソースの素、スーゴを手間暇かけて作る。ニューヨークのベッドフォード スタイベサント地区にあるアパートで、アナログ盤のベッシー・スミス(Bessie Smith)とカウント・ベイシー(Count Basie)をかけながら、オマーンのカラクティーを淹れる。カルダモンとブラック ティー、クローブにシナモン、砕いたジンジャー、秘訣は缶入りの甘いコンデンス ミルクで、それらが溶け合った味は背徳的なまでに美味しい。私はガウンにくるまりウールの靴下を穿いて読書する。スマホはべつの部屋においてあり、画面が点滅してもブザーが鳴っても知らんふりだ。移民してきてから毎年、本格的に雪が降り出すと、私は必ず表を散歩する。雪は街を覆う白い無のブランケット、世界の歩みを緩めるブレーキだ。

この国に来て初めての冬に、私は17歳になった。その2日前、祖父が死んだ。わが家の事情は4枚の国際便のチケットを買うことを許さず、父がひとり、自分の父親の葬儀に出るためインドに戻った。葬儀はたまたま私の誕生日に当たっていた。父は泣かなかった。といって私は見たわけではないけれど。私たちはイリノイ州の小さなタウンハウスを借りていて、私の目に映るその家は、息が止まるかと思うほど途方もなく醜かった。私の部屋の一方の壁に穴が切り取られていて、ロフト式だったおかげで、リビングに座っている人が見上げれば、私がなにをしているか見えてしまう。ティーンエージャーだった私にとって、これはジュネーヴ諸条約に訴えるにふさわしい拷問のような経験だった。

私たちは悲しみに暮れていた。母、姉、そして私は、その日それぞれの部屋に閉じこもり、父は海の彼方にいた。私たちは夜8時まで明かりもつけず、適当に夕食を漁った。キッチンの入り口で私を見かけた母は、きまり悪そうに言った。「ああ、お誕生日おめでとう」

私にとって、冬は喪失を予感する季節になることはあれ、深く秘められた喜びの季節にはなり得ない。冬になると飢えが強まり、美味しい食べ物を、大切な人々を、安らぎを、愛を求めたくなる。私は心もとないのだ―自分自身が、そして他者が。今はとりわけそうだ。ブレーキをかけられた自分の1年に感謝しながら、Amazonの倉庫で働く人々から郵便配達員まで、労働との関わり方によって今が最も過酷で多忙な時期になってしまったすべての人々に思いを馳せる。パンデミックのこの冬、フード バンクや相互扶助団体は、コミュニティの要請に応えようと擦り切れそうになっている。その要請は、私たちの世界を作ってきた搾取という巨大な網によって生まれたものだ。空っぽの、無に覆われたこの季節に、私は何かよりよいものを、ほんの少しでもより人間的なあり方を想像しようとする。

祝われることのなかった17歳の誕生日、自宅の電話が鳴るまでのあいだに、私は2度泣いた。ゆがんだ自己憐憫の発作を2度起こしたのだった。電話に出たい気分では全然なかった。母の手招きに呼ばれ、懐かしい声を聞いて、私はカナダの国番号に目を止めた。親友のアレクサンドラがオンタリオ州ミシサガから長距離電話をかけてきてくれたのだ。「誕生日おめでとう、ベイビー」彼女は高らかに言い、すぐに付け足した。「郵便見た?」

見ていなかった。「見てきて!」彼女は金切声を出した。「今すぐ見てきて! せっかく1時間かけて、ぴったり今日に着くようにタイミング計ったんだから!」

「電話の後で見てくる」と私は文句を言いかけしたが、却下された。室内スリッパを履いたまま、母のコーデュロイのコートを羽織り、私は足を滑らせながら通りの端の集合郵便受けまで行って、アレックスの弾むような文字が躍る保護封筒を破って開けた。

ムーンストーンのネックレスが手のひらに滑り落ちた。そして手紙。何ページもの、彼女からの分厚い手紙。そこに書かれていたすべては思い出せない。ずっと昔のことだから。あの日の心の痛みにまつわる、本当の記憶を薄れさせるほどには遠い過去の。私がしっかり記憶しているのは、彼女の贈り物を胸に押し当て、どっと涙を溢れさせたことだ。誰かは覚えていてくれた、と思った。そのことは、誰かが自分を愛してくれているのと同じ気がした。私の周りの2月の雪は、黄みがかった氷に変わりかけていた。だがムーンストーンは、私が生まれて初めて見た空から舞い降りる雪そのものだった。灰がかった乳のような白に、虹色の光がきらめいていた。

私のキッチンで、恋人が友人たちや家族に届けるために自家製グラノーラを瓶に詰めている。友人のハナは、物知りで何に対しても興味津々な人で、私の恋人の手を借りて織機を手に入れ、今、手作りブランケットを私たちへの贈り物として織ってくれている。冬のことを思うとき、私はシカゴ郊外の郵便受けのそばで感じたあの胸の高鳴りに回帰する。あの感覚は私のなかを駆け抜け、すべてを教えてくれた。逃げ場はあること。私は自分で思っているより幸運であること。死と悲しみは人生の一部であること。そしてどこかで誰かが私を愛してくれていることを。

Sarah Thankam Mathewsはブルックリン在住の作家であり、相互扶助ネットワークBed-Stuy Strongの創設者。小説『All This Could Be Different』がVikingより近日刊行予定

  • 文: Marian Bull、Teo Bugbee、Allison P. Davis、Sarah Thankam Mathews、Madeleine Seidel、John Washington
  • 翻訳: Atsuko Saisho
  • Date: January 15, 2021