怒りのバッグス・バニー

あるいは社会運動におけるミームの意味

  • 文: Max Lakin

理解を超えるものを理解するにはどんな手があるだろう。生ぬるいコミュニケーションのビュッフェにお粗末なメニューが並ぶ中では、ミームは悪くない選択肢だ。メッセージと時代のムードがパチパチ弾ける情報のパッケージは、それひとつで「今」という時代の奇妙さと、危うさと、諦念を伝える完璧な媒体に見える。とはいえ、たいていのミームはギャグとして消費され、他のビジュアルアートのように一目おかれることはめったにない。それはおそらくインターネットの持つ民主的性質によるのだろう。遠く広く、あらゆるものを飲み込む匿名性のスープの場合、鍋から噴きこぼれるもののほとんどは軽く受け流されてしまう。

といってこれは、ミーム全般への賛歌というわけではない。多くのミームは実にくだらなくて、ニュアンスをハンマーで叩きつぶしてめちゃめちゃにするし、文化的に些末なポイントにこだわり、やたら限定的なトピックをめぐる騒ぎを普遍的な問題に見せかけもする。しかし先月、警察がまたしても非武装の黒人市民を殺害し、米国で抗議行動が再び燃え上がったときには、あらゆるミームがその瞬間に向かって舵を切ったのがわかった。この国では公民権を求める苦闘は止むことがない。その形はうんざりするほど見てきたが、今回の主張は何かが違う気がした。そこには新しさがある。その感じは、われらがミームの中に見て取れる。その多くは僕らが偏愛してきたカートゥーン シリーズの姿を借りたものだ。たとえば、人気ミームアカウント@patiasfantasyworldの生みの親、パティア・ボルハ(Patia Borja)が投稿した、1990年代に流行したエアブラシ アート風の強烈なトゥイーティーは、グロック拳銃を握り警察を撲滅すると誓う。@sugarbombingstoreのアカウントはサンリオの「カワイイ」多元的宇宙からやって来たキャラクターたちを、反ファシストの活動家として採用しはじめた。パトカーを踏み潰すポムポムプリン。頭上には「警官反対、奴隷主反対 (No cops, no masters)」というコピーが浮かぶ。そんな絵をプリントした絹のハンカチを買うことだってできる。一角獣に乗って虹の橋を駆け、燃えるパトカーに火炎瓶を投下するハローキティの下には「私たちが夢見る新世界(A new world in our hearts)」というメッセージが書かれている。

ミームが絶え間なく複製を繰り返す手軽な視覚表現だとしたら、カートゥーンはそのオリジナルに当たる。カートゥーンは大衆の想像力の中にしっかり染みついているので、もはやそれ自体が感情表現の辞書になっている。気はいいけど怠け者といったらガーフィールド。コンプレックスはチャーリー・ブラウン。ミッキーマウスは文化絶対主義。カートゥーンは、いうなれば目で見るおふくろの味であり、どす黒い感情が渦巻く台風の中の救命ブイのごとく、不滅の存在として宙にぽっかりと浮かんでいる。バッグス・バニーが昔から寸分変わらぬ姿で、おどけた様子でニンジンをチラつかせながら、なぜか二本足で歩き回っていても、誰も不安を覚えたりしない。不変であることは最強だ。バッグス・バニーの姿は鎮痛剤であり、今よりも理不尽でなかった時代の記憶を蘇らせるシネカラーのマドレーヌだ。もちろん、人類史において理不尽でなかった時代などないので、それは幻想にすぎないのだが。とまれ新しい抵抗のアートにおいて、このふたつの発想が出会ったのは自然な成り行きに感じられる。たとえば、ピーター・サウル(Peter Saul)顔負けの陽気な陰惨さに満ちたイラストを描くジョニー・ライアン(Johnny Ryan)は、バッグスに過激な反警察のマスコットという新たな命を吹き込んだ。ゴムまりのように躍動感あふれるカートゥーンの世界で、バッグスはパトロール警官になった宿敵エルマー・ファッド(Elmer Fudd)にひどい目に遭わされたと思いきや、相手をめちゃくちゃに痛めつけ、バラバラにし、大砲の弾をぶちこむ暴力を繰り広げ、ファッド警官の尻をクリスマスのハムみたいに切り落とすなんてこともやってのける。

ヒステリックな警察の暴力という強烈な絵柄と、国家の残虐性と無関心に対する覚醒をきっかけに、こうしたミームは反射的な対処メカニズムとして、そして効果的な情報伝達手段としてのふたつの機能を果たすようになった。ミームがなければ蚊帳の外だったはずの多くの人々が、ミームによって政治的言説に取り込まれた。これまで政治はわかりづらい、あるいは退屈だと思ってきた人々に、その敷居を低くしたのがカートゥーンだった。Twitterでは、舌鋒鋭い書き手たちが、『シンプソンズ』あるいはそれをいくらか上品にした『キング オブ ザ ヒル』のスクリーンショットをせっせと利用して、複雑な思想を端的に表現し、大なり小なり反響を得ている。カートゥーンは本質的にエスタブリッシュメントに反する存在だという理解があり、ミームと化すことでささやかな反対意見の表明、いわば大量かつ広範囲に共有される「地下出版物」へと変貌する。

最近話題のミームはアーティストのマルティーヌ・グティエレス(Martine Gutierrez)による、ハリウッド映画の製作スタジオやシットコムのタイトルのモンタージュを抗議運動のスローガンに変えた作品だ。ディズニーのフォントで書かれた「警察の資金を止めろ(Defund police)」は、ビルボード解放戦線(Billboard Liberation Front)のやり方を彷彿とさせる。ビルボード解放戦線は、たとえばキャメル煙草の看板のネオンライトに細工して宣伝文句を「俺はまだ生きてるか(Am I Dead Yet?)」に変えるなど、90年代、屋外広告に周到な加工を施しては大企業の悪事を露呈させていった。ストリートウェア ブランドのIgnored Prayersがインスタグラムに投稿した、スケボーに澄まして寄りかかるバート・シンプソン(Bart Simpson)のイラストの吹き出しには、お馴染みの「くそくらえ」の代わりに、「ブリアナ・テイラー(Breonna Taylor)を殺った警官を逮捕しろ(Arrest the cops who killed Breonna Taylor.)」とある。警察のテイラー殺害に正当な裁きを求めるこうしたミームの呼びかけは、不謹慎だと批判されている。そう、確かに不謹慎ではある。だが、その意図と媒体の本質に変わりはない。つまり情報の伝達、そして人間性の尊重を切望する声という共通分母だ。

こうした表現は、ネットの外へと流れだす。壁にスプレーで描かれたずんぐりした猫のガーフィールドが「おいらは月曜と警察が嫌いだ(I hate Mondays and cops)」と宣言し、『ピーナッツ』の仲間のひとり、フランクリンの絵がスヌーピーとチャーリー・ブラウンを引き連れてブルックリンの「BLM(黒人の命は大事だ)」運動のデモに参加し、あるいは警察活動の人種差別的な歴史を紹介するパンフレットに使われるといった具合に。ちなみにスヌーピーがアバターとして非常に優秀なのは、この漫画が多様な社会における良心の縮図だからである。そして、イラストレーターでカートゥーン作家のエリック・コスティウク・ウィリアムズ(Eric Kostiuk Williams)も、ようやく運命をつかんだ神経症気味のヒロイン、キャシーの「ACK-AB!」という悲痛な呼びかけにさりげないアレンジを加え、彼女が警官の頭を踏みつけて泣き叫ぶ絵を貼り歩いている。

こうした中でも特にすぐれた作品は、シチュアシオニストが「スペクタクル」と呼んだものに働きかける。スペクタクルとは資本主義が人々を宥めすかし、抑圧と隷属の手法からその目をそらさせてきたやり口だ。カートゥーンは善意という輝きをまとってはいるが、その多くが宣伝と消費主義の道具としてデザインされ、あるいは後になってそうした目的に利用されてきたという事実がある。表面上は子ども向けであるために、たとえファスト ファッションやハンバーガーの売り上げに利用されても、その純粋さに傷はつかないと当然のように思われている。シチュアシオニストはマルクス主義とシュルレアリスムの強烈なカクテルの中で、人々の意識を劣化させる資本主義の力を指摘し、それを破壊しようとした。アーティストのロン・イングリッシュ(Ron English)は、トニー・ザ・タイガーやロナルド・マクドナルドのようなカートゥーン風マスコットを、それぞれの企業がもたらす壊滅的な影響をまざまざと映し出すグロテスクな姿へと変える。そうした彼らと同じく、消費主義的なアイコンを警察の残忍さや、社会の構造的な人種差別主義への批判へと転換するミームも、警察活動によって維持される資本主義の牢獄に対する巧みな批評になる。歯が浮きそうに甘ったるいハローキティが警察国家の解体に一役買う、という認知的不調和は衝撃だ。

抗議のアートとしてミームはキャラが立っている。ストリートの壁画やグラフィティほどむき出しでなく、グラフィック デザインや絵画ほど洗練されていない。しかし、語りかけてくる場所は同じだ。上っ面だけ、あるいは傍観的に見えたとしても、騙されてはいけない。それを無視して損をするのはあなただ。バンビの友達のとんすけが大きな目を瞠り、来るべき社会の崩壊に備えよとせっついてきたら、大概はそれを信じるものなのだから。

Max Lakinは、ニューヨーク シティで活動するジャーナリスト。『T: The New York Times Style Magazine』、『GARAGE』、『The New Yorker』、その他多数に記事を執筆している

  • 文: Max Lakin
  • 翻訳: Atsuko Saisho
  • Date: August 13, 2020