古き竹がつなぐもの
20年後の『Bamboozled』と『グリーン デスティニー』
- 文: A. S. Hamrah

この記事は、年2回刊行のSSENSEマガジン第3号に特集として掲載されています。
2006年4月、スパイク・リー(Spike Lee)監督が、デンゼル・ワシントン(Denzel Washington)主演の銀行強盗事件を扱った新作サスペンス映画『インサイド マン』の宣伝で、ナショナル パブリック ラジオ(NPR)の「Weekend Edition Saturday」に出演した。インタビューが始まってまもなく、番組司会者のスコット・サイモン(Scott Simon)は、当時の私が違和感を覚え、14年経った今も覚えている妙なことをした。彼は『インサイド マン』から話題を替え、スパイク・リーに向かって、同業の映画監督アン・リー(Ang Lee)について質問したのだ。二人の姓が同じであるという理由で。
その1か月前、アン・リー監督はふたりのカウボーイの忍ぶ恋を描いた『ブロークバック マウンテン』でアカデミー監督賞を受賞していた。同作は評論家にも好評で興行成績も申し分なく、画期的な問題作と認められた。スパイク・リーは、アン・リーは大学が同じで、自分の初期の短編に参加してくれたことがあると説明した。仲間がオスカーを受賞したことを喜んでいる、と言ったスパイクに、サイモンは、アン・リーは「あなたの映画で働いていた頃からずいぶんと出世しましたね」と言った。「そうですね」と、スパイクは言い、自分とアンは「ふたりのリー」だと言葉を継いだ。
すると白人であるサイモンは、ここぞとおどけてみせた。「おやおや、おふたりはご親戚ではありませんよね?」リーが相手をじろりとにらんだのが見なくてもわかった。「彼は中国人です。私はアフリカ系アメリカ人ですから」。サイモンはそこに込められた意味を汲みとらなかった。「なるほど、でもある意味、いわゆる『混合家族』みたいなものじゃありませんか。この頃では確かそんなふうに呼ぶんでしょう」ラジオ司会者はぎこちなく続けた。
サイモンは『インサイド マン』についてあまり訊ねなかった。それが1986年にリーが撮影した初長編『She’s Gotta Have It』よりも予算をかけた映画であることを指摘しただけだった。彼が『She’s Gotta Have It』を持ち出したのは、どうやらそのなかのレイプ シーン―長年、リーが入れなければよかったと発言していた場面について本人に質問したかったためらしかった。リーは、その場面は誤りだったと思うが、映画制作者はあとで後悔したからといってフィルムをカットするべきではないと考えている、と述べた。そして『Babes on Broadway』にブラック フェイスを施して出演したジュディ・ガーランド(Judy Garland)とミッキー・ルーニー(Mickey Rooney)、そして『ティファニーで朝食を』のユニオシ氏を演じたルーニーのイエロー フェイスを例に挙げた。今、これらの場面は歴史的事実だ、とリーは指摘した。その過去を覆い隠そうとすることは欺瞞のひとつのかたちです、と。
番組の視聴者はこのインタビューから何を受け取っただろうか? 大スターが出演する新作映画があるらしいと知っただろう。昔、レイプ シーンのある映画を撮ったスパイク・リーという黒人が、今はもっと金をかけた仕事をしていることも知っただろう。そして、彼と姓が同じで同世代のある中国人映画監督は、昔はうだつが上がらず彼に雇われていたが、今は、彼をしのぐ成功を収めていることも知っただろう。こうして、単にプロモーションが目的だったはずのこの番組で、視聴者はアメリカにおける人種関係史の縮図を目の当たりにすることになった。ある集団が別の集団と競わせられる。アジア人が黒人と並べられ、黒人の成功を上回る成功のモデルとして示される。その根本にあるのは、それを口に出すことはおかしいから、という口実だ。
そのインタビューでスパイク・リーもスコット・サイモンも触れなかったのが、リーの映画『Bamboozled』だ。2000年に公開され、アメリカのエンターテインメントにおける、ブラック フェイスのミンストレル ショーを痛烈に風刺した作品である。ブラック フェイスはふたりの話題にのぼりはしたのだが、サイモンは軽口を叩くチャンスと受け取り、「ミッキー・ルーニーの責任はじつに重大ですね」と言っただけだった。そこで『Bamboozled』が口にされることはなかったが、今年はこの映画の20周年にあたる。そしてアン・リー監督による18世紀中国を舞台にした愛と剣の壮大な物語、『グリーン デスティニー』も同じく20周年を迎えた。20年後の今、このふたつの映画を並べて振り返ってみたい。
『グリーン デスティニー』は米国でつかの間、武侠大作映画というジャンルを創り上げ、その美しさで観客の心を奪った。この映画はあまりに特別だったので、アメリカの観客が字幕は嫌だとごねなかったほどだった。他方、スパイク・リー監督の映画への反応はまったく違った。『Bamboozled』は観客を当惑させた。アメリカのメディアが黒人を貶め続けることを許してきた、無意識の人種差別から人々を目覚めさせることを狙った映画だったからだ。それはビル・クリントン(Bill Clinton)政権のアメリカから逸脱した醜悪な議論、アメリカが必要としない、ある種の異物として受け止められた。
『Bamboozled』は評価も興行成績もぱっとしなかった。リー監督がラジオでこの作品を取り上げようとしなかったのは、そのために違いない。しかし現在では『Bamboozled』はアメリカ文化における人種差別を映画的に分析した画期的作品と理解され、カルト的なファンを獲得し、重要な古典やコンテンポラリー作品を集めたCriterion Collectionでデラックス版がリリースされている。一方の『グリーン デスティニー』は全世界で大ヒットし、それまで米国で公開された外国語映画のなかで最高の興行収益を達成した。そしてアカデミー作品賞を含むアカデミー賞10部門にノミネートされ、外国語映画賞他、3部門で受賞を果たした。
おそらくその当初の輝かしい成功のためだろう。『グリーン デスティニー』は今、本来あるべき地位には到達していない。確かに今でも利益を生み出しているが、DVDやBlu-Rayで豪華なお色直しは施されなかった。高解像度のストリーミング サービスでは、多少の手直しをしているようだが、雑な印象で、まるでソニー ピクチャーズはこの映画をクラシックと見なしてはいないかのようだ。『Bamboozled』のシロアリ―、白人どもの無礼千万な態度は、人種差別に基づく不正義がはびこり続け、それを変えようとするBLM (黒人の命は大切だ) 運動が広がる社会とダイレクトに呼応する。だがアン・リーの伝説的フェミニズム映画は、中国の支配のもとで香港映画界が衰退していくのと足並みを揃えるように、エンターテインメントの奔流に呑まれてしまった。
2016年、ハーヴェイ・ワインスタイン(Harvey Weinstein)のプロデュースでNetflixにようやく登場した続編も助けにはならなかった。『Crouching Tiger Hidden Dragon: ソード オブ デスティニー』は1作目でアクション指導にあたった、高名なユエン・ウーピン(Yuen Woo-ping)が監督を務めたが、続編はお粗末な脚本を埋め合わせるCGエフェクト頼りの作品に終わった。ミシェル・ヨー(Michelle Yeoh)による伝説の剣士ユー・シューリン(Yu Shu-Lien)の復活も空振りだった。アン・リー監督の奥深さや明晰な洞察は失われ、むしろ、ワインスタイン製作で低評価に終わったNetflixのドラマ『マルコ ポーロ』と同じ匂いが漂っていた。なお、この『マルコ ポーロ』では、20話余りのエピソードでただの一度もアジア人監督は起用されなかった。
こうして並べてみると、『グリーン デスティニー』と『Bamboozled』はアメリカ映画のメインストリームにおいて、黒人の映画監督や俳優陣が上り調子で、観客がアジアのスターやジャンルをオープンに受け入れていた短期間を指し示している。しかしブッシュ対ゴアの大統領選の訴訟騒動と、9/11後の対テロ戦争のあと、流れが変わりはじめた。縮小が始まった。アメリカ映画の観客たちは、スーパーヒーローものや、大西洋を越えてやってきた子ども向け映画や、テレビ ドラマのリメイク映画がかかるシネコンで列をなすようになった。新世紀に入って初めの10年間で『ハリー ポッター』シリーズ8作、『ロード オブ ザ リング』シリーズ3作、『バットマン』シリーズ2作がそれぞれ、約10億ドルの興行収入を達成した。2001年から2011年にかけて、世界マーケット、特に中国の市場が成長するにつれ、ハリウッドはパロディかと思うような、ド派手な白人主体の映画を輸出用に製作した。2005年頃には、「古き良き」アメリカを描いた70年代のドラマ『爆発!デューク』の映画版がアメリカで観客動員数トップを記録した。
デイモン・ウェイアンズ(Damon Wayans)が個性的で大胆な名演を見せた『Bamboozled』の主人公ピエール・ドラクロワ(Pierre Delacroix)は、あるテレビ局で働く一匹狼の黒人脚本家だ。マイケル・ラパポート演じる白人上司に「お前は黒人らしさが足りない」と言われることにうんざりした彼は、ゴールデンタイムにわざと人種差別的なバラエティ ショー『マンタン:新世紀のミンストレル ショー』という番組を制作、放映する。これでクビになればボーナスをもらって退職できると踏んだのだ。ショーに出演するのはセヴィアン・グローヴァー(Savion Glover)とトミー・デイヴィッドソン(Tommy Davidson)が演じるストリート タップ ダンサーのマンレイとウォーマック。成功に飢えたコンビはドラクロワの計画に同意した。黒塗りにした黒人芸人たちが、観客の前でヒップホップ グループのザ ルーツ(The Roots)が演じる縞の囚人服姿のバンド、アラバマ ポーチ モンキーズの曲に乗せて、スイカ畑を舞台にドタバタを演じ、そのステージを放映する。リー監督のギャグ―、正確には彼が逆襲し暴露したいポイントは、この古臭いダンス パフォーマンスがたちまち高視聴率を獲得するところにある。カントリー バラエティ『Hee Haw』のレベルにまで引き戻されたアメリカのテレビ視聴者たちは、ドラクロワの露骨に人種差別的なミュージカル ショーに熱狂していく。
芸達者なマンレイとウォーマックのおかげで、ステージを見守る主に白人の観客たちは、当初は戸惑うものの、その戸惑いはすぐ感心へ、そして喜悦へと変わる。まもなく彼らはこの状況に慣れてしまい、レトロなコメディ ショーに笑い声を上げ、リー監督がまだ歴史の遺物になっていないと主張するこの演芸様式を満喫する。グローヴァーとデイヴィッドソンはこのかつての人気演芸を、不穏で鬼気迫る見事な演技で現代に蘇らせた。それはまさにアジテーションとプロパガンダの交霊術だった。
リー監督はスタジオの観客がエキストラ出演にサインしたとき、彼らが何に参加するのかを知らせなかった。ショーの人気が過熱していくと、彼は観客全員をブラック フェイスと白手袋で出演させ、かつてアル・ジョルソン(Al Jolson)が演じたような黒人たちでスタジオを埋め尽くした。観客のひとり、アル・パラゴニア(Al Palagonia)が演じる白人の男が立ち上がりラップを始める。「何色だって関係ない/人種なんか関係ない/お前はイカすぜ/ブラック フェイスはかっこいい」これがもたらす効果は衝撃的だ。それは、アメリカ文化のなかに常に存在し、われわれが目を向けないように仕向けられてきたある事実を披歴する。すなわち、白人は、黒人として道化を演じるのが好きなのだということだ。彼らは黒人に、そんなの別に構わないよと言ってもらいたいだけではない。黒人たちにこのステレオタイプを考え得る限り最も異様な形でコピーさせ、しかもそのステレオタイプが事実であり真実であると確認させることを望んでいる。
『Bamboozled』をテーマにした本を書いた、映画プログラマーのアシュレイ・クラーク(Ashley Clark)は、この映画についてのあるエッセーで「道徳的宇宙の弧は長く伸びているが、精神の卑俗化と全体的な心の崩壊に向かっている」と述べている。マーチン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King Jr.)の言葉をこうもじることで、クラークはわれわれの文化が60年代、キングが暗殺される前にようやく理解しはじめたある事実―、20世紀末までに人種をめぐるあらゆるイメージや概念はメディアのなかで作られ、そこで保たれるようになるということ―を示してみせる。それは『Bamboozled』のテーマだ。これ以外の媒介物はない。そうしたイメージや概念がテレビから離れて現実となったとき、道徳や精神に及ぼす結果は命にかかわってくる。
ミネアポリスで警官に殺害されたジョージ・フロイド(George Floyd)の動画は、黒人の死はこのように拡散されテレビで放映されるのだという直近の例であり、リーが『Bamboozled』で予見したとおりでもある。放映中にショーを捨てたマンレイは、マウマウズという急進的なラップ グループに誘拐され、のちにその処刑の一部始終がインターネットで中継される。そのマウマウズは警察によって銃で制圧され、その模様がニュースで生中継される。ただ、唯一の白人メンバーだけが銃殺を免れ、生き延びたことに文句を言う。
『Bamboozled』の直前にリーが撮影したコンサート ツアー フィルム『Original Kings of Comedy』で、バーニー・マック(Bernie Mac)がスタンダップ アクトのなかで「黒人にテロリストはいない」と主張する場面がある。なぜならダイナマイトを買おうとした瞬間、逮捕されるからだ。『Bamboozled』に黒人テロリストが存在するのは、前作のギャグに対するツッコミのようでもある。『Bamboozled』で、ポール・ムーニー(Paul Mooney)が演じるチトリンサーキットの偏屈なコメディアン、ジューンバグがそのことを仄めかしている。リーは『Original Kings of Comedy』のお笑いを裏返し、ドラクロワの番組スタッフのテレビ局員たちに突きつける。白人のコメディ ライターたちの大集団にとって、アメリカの黒人の暮らしに関する知識の仕入れ先は、『The Jeffersons』のようなシットコム以外には何もないのだと。
デジタル ブラック フェイスの現代において、誰でも黒人のGIF画像でお手軽に笑いをとれる。『Bamboozled』公開から20年経ってもなお、昔ながらのブラック フェイスは消え去っていない。ブラック フェイスのさまざまな実例が連鎖して、白人のTVパーソナリティーや政治家を次々に巻き込んでいる。『Real Housewives of New York』のひとりは、顔を黒く塗りアフロ ヘアのウィッグをつけて、ダイアナ・ロス(Diana Ross)の扮装でパーティーに出て、使った化粧品は普段使いのブロンザーだから問題ないと言い張った。トーク ショーの司会者アンディ・コーエン(Andy Cohen)は彼女を番組で非難したが、それは彼女が人種差別者であるからではなく、彼の記憶ではダイアナ・ロスはアフロ ヘアがトレードマークではなかったからだ。これに反応した保守派のニュース キャスター、メーガン・ケリー(Megan Kelly)は、仮装パーティーで顔を黒塗りにしても、個人的には気にしないとテレビで発言し、まんまと仕事を失った。
アメリカのニュース メディアの「わかっていない」現状が、2018年10月、愕然とするような形でまたしても露呈した。ケリーの降板に対して、『CBS This Morning』はブラック フェイスに関するコーナーを放映したが、その司会にモーリス・デュボワ(Maurice Dubois)―『Bamboozled』を観た人なら誰でもすぐにピエール・ドラクロワを連想しそうな人物を起用した。しかもライターで批評家のマーゴ・ジェファーソン(Margo Jefferson)がデュボワにブラック フェイスは今でも文化として生きていると語るあいだ、番組プロデューサーはジェファーソンの談話を例証するつもりで『Bamboozled』のトミー・デイヴィッドソンとセヴィアン・グローヴァーの写真を紹介した。人種差別の伝統への反対表明として作られたスパイク・リーのこの映画を、意味もわからず人種差別の伝統の文脈にあるかのように示したわけだ。「アホの箱に餌をやれ」という、ドラクロワの贅沢なコンドミニアムに鎮座したテレビの上の標語は真理を突いている。
この一件を彷彿とさせるのが、リーの映画のダイナ・パールマン(Dina Pearlman)が演じた白人のメディア コンサルタントだ。彼女はドラクロワとその上司に対して、ミンストレル ショーが必ず直面する人種差別への非難にテレビ局がどう対抗するか、その方策を指南する。事態が悪化したら「民族衣装のケンテ布を着けてください」と彼女はテレビ局の重役たちに言う。この6月、まさにその通りのことをしたのが、ナンシー・ペロシ(Nancy Pelosi)、チャック・シューマー(Chuck Schumer)他、米国上院議員たちだ。彼らはジョージ・フロイドの殺害後、アフリカ系アメリカ人たちへの連帯を示す膝つきのパフォーマンスの際に、ケンテを着けたのである。『The New Yorker』誌のドリーン・サンフェリックス(Doreen St. Felix)が指摘したとおり、このシャッター チャンスをメディア向けに演出したことによって、議員らは「ただみずからを愚かな浅薄さの見本としたにすぎなかった」。チャック・シューマーはブルックリンにあるスパイク・リー監督の制作会社、40 エーカーズ アンド ア ミュール フィルムワークスから歩いてすぐのところに住んでいるが、だからといって『Bamboozled』を観たわけではないのだ。

トミー・デイヴィッドソンは『Bamboozled』でブラック フェイス コメディを蘇らせたことを、「笑いは痛みの反射作用だ」という言葉で説明した。ミシェル・ヨーは、『グリーン デスティニー』の、武侠というジャンルと女性登場人物に対するアプローチについて説明する際に、「戦いは抑圧からの開放だ」と語った。アン・リーによるこの映画の軽やかな優雅さは、対立の図に存在する。三つの世代を代表する女性たちは、武当(ウーダン)山にその名の由来をもつウーダン派の剣の達人、リー・ムーバイと同じ武術を極めようと鍛錬している。そしてチョウ・ユンファ(Chow Yun-fa)演じるこのリー・ムーバイと、ヨーが演じる女剣士、ユー・シューリンは、薄幸の恋人同士でもある。
清王朝時代を時代背景とするこの映画は、女性たちが決まった役割を与えられ、それを疑問に思わないのが当然だった時代に似つかわしい、脆さとしたたかさを併せ持つ。シューリンが食卓から払い落とした茶碗を、割れる前にチャン・ツィイー(Zhang Ziyi)演じる裕福な貴族の娘イェン(Jen)が無言でつかむシーンは、映画の序盤の重要な場面だ。イェンは忍びの術を身につけているが、それを指導したのはチェン・ペイペイ(Cheng Pei-pei)演じる碧眼狐だった。この碧眼狐は、リー・ムーバイの師であるウーダンの武芸者に捨てられた愛人だった。イェンと碧眼狐はウーダンへの恨みを抱き、イェンは彼女を弟子にしようというリーに、ウーダンなど堕落した魔窟だと言い放ち、申し出を拒絶する。
竹林でのリーとイェンの決闘は、映画のクライマックスとして記憶されるにふさわしい。一篇の詩のような、宙を浮遊する美、現実離れした意表をつくシーンは、アメリカとの共同制作に懐疑的な武侠映画の熱狂的なファンをも納得させてみせた。『グリーン ディスティニー』と『Bamboozled』に「bamboo(竹)」という共通点があるのは偶然かもしれないが、「ふたりのリー」が映画における重要な秘伝を会得しているのは明白だ。ダンス場面は役者たちの全身が映るように、フルフレームで撮影するべし。
アン・リーの映画が動のバレエなら、『Bamboozled』のタップダンスはハンディカムの映像のようなくすんだ世界に、鮮烈な原色を叩きつける。どちらの映画も、動きと音楽のフローによって、登場人物たちを彼らの前に立ちふさがる抑圧から浮上させる。両者ともスペクタクル ショーであり、ファンタジーだ。『Bamboozled』が風刺する白人による抑圧という破壊的ファンタジーは、黒人を卑屈に笑うカリカチュアに変える。『グリーン デスティニー』の希望を感じさせるファンタジーは、タン・ドゥン(Tan Dun)のリズミカルな音楽に乗ってたゆたう。
映画前半のイェンの軽はずみな行動がリー・ムーバイの死を招き、シューリンから幸福になる夢を奪う。アン・リー監督はこの金持ちで甘やかされた支配階級の娘について「ある意味、この映画の悪者」だと述べている。彼女はなんとも捉えがたいキャラクターだ。あまりにも自分しか見えていないために、周囲の人々のつながりがいかに儚く、簡単に壊れてしまうかを理解できない。
イェンはついにそれまでの憤懣からみずからを解き放ち、禁を破って親の決めた嫁ぎ先から逃げ、チャン・チェン(Chang Chen)が演じる新疆の砂漠から来た盗賊ローと真の愛に生きようとする。それなのに、彼女は古い伝説の通り、ウーダンの山を取り巻く霧のなかへひとり飛び立つ夢を見て、映画の幕を閉じる。
イェンとローのロマンスの筋書きは、盗賊とその捕虜という1921年のルドルフ・ヴァレンティノ(Rudolph Valentino)が主演した『シーク』の時代からほとんど更新されていない。高貴な生まれのお転婆娘が男装して砂漠の族長に抵抗するが、やがて彼の愛に屈するというものだ。ローがイェンに「俺と一緒に荒野へ行こう」と哀願する場面は、サイレント映画の口説きを思わせる。香港、マレーシア、台湾、中国のスター俳優を結集し、2000年に製作された中国とアメリカの合作映画という文脈で振り返ると、この作品は、映画のなかでのみ実現する幻の調和、中華圏統一の見果てぬ夢のようにも見える。
ローはおそらく、ヴァレンティノ同様、ムスリムなのだろう。『グリーン デスティニー』の舞台の一部は新疆に設定されている。現在、この地では中国政府がムスリムのウイグル人住民を厳しく弾圧し、何十万もの人々を強制収容所に押し込めている。ウイグル民族の分離独立の動きは毛沢東の時代に遡り、約165万7600平方キロの面積を持つ新疆自治区は、18世紀後半、つまりこの映画の清王朝の時代までは中国の一部ではなかった。香港のクルーが中国全土を駆け巡って『グリーン デスティニー』を撮影した当時、香港の映画界はまだ独自の自律性を保っていた。今、香港映画産業も香港そのものと同じく、北京の意向による抑圧のシステムに踏み潰され、飲み込まれつつある。
アン・リーは台湾人として、そしてアメリカの映画監督として、国家の分断がもたらす悪を理解している。『グリーン デスティニー』の前に彼が製作した1999年の映画『シビル ガン 楽園をください』は、1860年代の南北戦争中にカンザス州境で北軍と戦った、ミズーリ州の南軍ゲリラ兵、ブッシュワッカーたちの物語を描いている。そのひとり、ジェフリー・ライト(Jeffrey Wright)演じる解放奴隷は、映画の冒頭で歴史の間違った側に忠誠を誓ってしまった。この作品は興行的には『グリーン デスティニー』のような成功を収めなかった。後者に惹かれた多くの大衆にとって、あまりに悲劇的で、あまりに英雄的要素に欠けていたのだ。
アン・リーの映画の力は、一つ一つの場面が繊細な、しかし爆発を秘めた感情に満ち、悲劇を予感させるところにある。20年間、彼は撮る作品ごとに、ほとんど目につかないようにそれをやり遂げてきた。今、リーはよりマニアックな、演出と膨大なコストを要する革新的テクノロジーの融合という目標に挑んでいる。2016年の戦争ドラマ『ビリー・リンの永遠の一日』も、ウィル・スミス(Will Smith)主演のSFスリラー『ジェミニマン』も、上映できる映画館は数少ない、スーパーハイフレームレートの3Dデジタルで撮影された。なぜリーが、あの『アイス ストーム』、『いつか晴れた日に』、『ラスト、コーション』を撮った監督が、この種の特殊な作品に打ち込んでいるのか、筆者の見るところ、その理由を完全に理解できる者はないだろう。『グリーン デスティニー』の偉業は、この映画がデジタル エフェクトを使わずに製作されたことだった。いや、ひとつだけ例外がある。俳優たちが自由自在に動き、壁を登り、屋根の上を飛び回り、竹の梢でバランスをとることを可能にしたワイヤーを、リーはデジタルの力で消去したのだった。
今世紀の初め、アメリカのシネコンでは再編集したジャッキー・チェン(Jackie Chan)の映画がまだ封切られていた。アジア人とアフリカ系アメリカ人のスターのコンビはドル箱だったのだ。チェンとクリス・タッカー(Chris Tucker)のコンビは『ラッシュアワー 2』でシリーズ最高の興行収益を叩き出した。『グリーン デスティニー』のチョウ・ユンファの役を断ったと言われるジェット・リー(Jet Li)は、『ロミオ マスト ダイ』で映画初出演のアリーヤ(Aaliyah)と共演した。映画が興行ランキング1位を達成した数か月後、彼女は飛行機事故で亡くなった。2002年頃には、こうした人種の枠を超えた映画は姿を消した。スパイク・リーの新作で、ベトナムを舞台にした『ザ ファイブ ブラッズ』のなかにそのつなぎ目がある。『スター ウォーズ:最後のジェダイ』に出演したベトナムの映画スター、ヴェロニカ・グゥ(Veronica Ngo)だ。彼女は『Crouching Tiger Hidden Dragon: ソード オブ デスティニー』で剣士を演じ、『ザ ファイブ ブラッズ』ではハノイ・ハンナのおいしい役どころを得た。後者で、彼女は米軍の兵士たちに戦いをやめて故郷に帰るように呼びかける。「黒人GIのみなさん、あなたがたのソウル シスターやブラザーが122もの都市で怒っているわ」マーチン・ルーサー・キングの暗殺後に米国で起きた暴動についてラジオで報じながら、彼女は言い放つ。「あなたがたが私たちと戦っているあいだに、奴らはあなたたちの仲間を殺してる」
後記:この記事を印刷に回したあと、まだオンラインで公開される前に、私は『Bamboozled』でハニーカット役を演じたトーマス・ジェファーソン・バード(Thomas Jefferson Byrd)が70歳でアトランタで死去したニュースを目にした。彼は10月3日午前1時45分に背中を数か所、銃で撃たれて死んだ。彼の殺害事件を調査している警察の話では、容疑者は見つかっていない。
ハニーカットは『Bamboozled』の司会者だ。ドラクロワとスタッフが『マンタン:新世紀のミンストレル ショー』のオーディションで見出した痩せた背の高い人物である。彼のオーディションは『ハムレット』の「生きるべきか死すべきか」の独白のセリフ読みにはじまり、『ハムレット』の一場面の説明を経て、「ニガーは美しい」のテーマでアカペラのラップに入るというものだった。彼は映画のなかでダ ボム モルトリカーのコマーシャルに出演したが、一番のポイントは、彼がショーの前座でブラック フェイスのアンクル サムと、ブラック フェイスのエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)の姿で現れ、生放送のスタジオの観客に人種差別的な掛け声をかけるようにけしかけたことだ。
そうした場面が作られたことは語り継がれるべき歴史だ。そのなかでリー監督とバードはそれまで一度もなされなかったことをした。つまりアメリカのテレビ視聴者の現状と人種差別に加担することへの彼らの居心地の悪さを、映画のなかのエキストラに対して入念に練られたきついジョークをかますことで再現してみせたのだ。バードは『Bamboozled』以外にもスパイク・リーの多くの映画や他の監督の作品に出演し、シェイクスピアに造詣の深い、卓越した舞台俳優だった。彼のハニーカットの演技は特異な造形だ。それはハリウッドのカウボーイ俳優アーサー・ハニーカット(Arthur Honeycutt)を、19世紀アメリカ文化―リー監督が描くレイシストのおもちゃにされた黒人たち―という奇妙なポータルを介して、『ツイン ピークス THE RETURN』の煤だらけの木こりにリンクさせる。
バードはこの映画で、白人が作り上げた黒人像を演じ、一方で黒人として、ブラック フェイスを施した白人を演じるという難しい芸人の役柄にその才能をいかんなく発揮した。一部の黒人芸人が、評論家の故スタンレー・クラウチ(Stanely Crouch)の言葉のとおり、「みずからが入れられた檻を、みずからの才能によって補強」せざるを得なかったことを、彼は体現してみせたのである。
- 文: A. S. Hamrah
- 翻訳: Atsuko Saisho
- Date: October 20, 2020