映画「La Haine」から見るスタイルのレガシー
パリ郊外からランウェイへ、健在のスポーツウェア
- 文: Adam Wray

いつまでも色褪せない映画がある。状況がどのようなものであれ、人間が経験するぎりぎりの感情や現象を投影することによって、いつの時代にも共感を呼ぶ映画。一方で、世界が変化できないままであるために、時代を超越すると感じさせる映画もある。発表から21年の歳月を経たマチュー・カソヴィッツ(Mathieu Kassovitz)の「La Haine(憎しみ)」は、後者に当てはまる映画だ。
「La Haine」は、社会の階層化、権力の乱用、そして体制との暴力的で抑圧的な関係のなかで育つことがどのように精神の形成に作用するかを描いた映画である。カメラは、パリ郊外に住む、移民家族出身の3人組のとある1日を追う。ヴィンスは、どこか現実離れして、言葉にならない怒りに溢れている。サイードは、大きく優しい目をしたいたずら好きな男。ユベールは、物静かで慎重で、郊外を抜け出そうと躍起になっている。彼らの共通の友人アブドゥルが警察官から暴行を受け、昏睡状態になったことをきっかけに、警察に対する暴動が発生する。居住地区の周辺には緊張と疲弊が漂う。暴動鎮圧用の装備に身を包んだ機動隊が溢れ、騒ぎに便乗する報道陣は、安全なバンの車中からニュースに使えそうな発言を手に入れようと嗅ぎ回る。観客は願う、この映画が遠い昔の話に思えれば、と。



今の時代にも共鳴する唯一の要素は、ストーリーを推し進める張り詰めた空気や悲劇だけではない。登場人物たちのスタイルもまた、同じように馴染み深い。1995年発表の「La Haine」が描くフランスの若者たちは、アメリカのヒップホップ文化とその視覚的なシンボルに夢中だ。
郊外で暮らす若者たちは、ファッションと実用を足して2で割ったようなスポーツウェアやワークウェアを着ている。すなわち、Nike、Carhartt、Everlast, Reebok, Lacoste。ブレイクダンスをし、マリファナを回し、グラフィティが描かれた壁の前で無駄口を叩き合う。ナズ(Nas)のアルバム「Illmatic」のライナーノートから破り取ったような情景を生きる様は、まるでアメリカ最大の公営住宅クイーンズブリッジ団地がパリの郊外に移動してきたかのようだ。
映画の半ばあたりで、ヴィンスとサイードとユベールの3人が、パリを一望するバルコニーでカメラに収まるシーンがある。ヴィンスはNikeのウィンドブレーカーの上にMA–1、サイードはジャージにレザーのボンバー ジャケット、ユベールはオーバーサイズな迷彩柄の上下にシアリングのジャケットとCarharttのビーニー。彼らをそのシーンから抜き出して、2016年の今の同じ場所に置いても、何の違和感もないだろう。彼らが着ている服を、現在のフランスやアメリカのストリート スナップ写真やラップのミュージック ビデオに出てくる服と比べれば、近似は明らかだ。90年代のラジオDJや雑誌の編集者は、今われわれが経験している、電子世界と過密にコネクトして猛烈な速度で進行するメディア環境を、おそらく予想できなかったことだろう。しかし、現在も当時とほぼ同様の格好をしていることにこそ、もっと驚くかもしれない。単に、同じ大衆ブランドが人気を持ち直したという話ではない。中には一度もシーンから姿を消さなかったブランドもある。しかし、90年代のシルエットやスタイリングが非常に正確にコピーされているという事実だ。理由は、今や瞬時に手に入る大量の資料から盗作できるから、あるいはゴーシャ・ルブチンスキー(Gosha Rubchinskiy)のような90年代育ちがファッションの先陣を切っているから。そういうことにしておこう。理由は何であれ、私たちはそうした美学を持つ時代に、記録的なスピードで舞い戻ったのだ。



ストリートで発生するファッション ソースが、ランウェイで再生産され、自分の尻尾を追いかけて、行ったり来たり海を横断する
「La Haine」には、端役ながらも、非常に重要な役割を演じる凶暴な警官が登場する。彼はノートルダム大学のジャケットを着ているのだが、彼の洋服と行為は、文化が循環するループ上の重要なポイントを示している。ノートルダム大学は、19世紀に、フランス人の僧侶がアメリカで設立したカトリック系大学だ。この大学は校名を冠したアパレル ブランドを作り、それが後に、若々しくアメリカらしいファッションとしてヨーロッパに逆流した。
ノートルダム ジャケットに使われている書体は、アメリカのカレッジ グッズの典型であり、長年ファッション界に利用されてきた。2002年にはRaf Simonsが「Virginia Creeper」コレクションでこの手法を使い、カレッジ風ブロック体で「Nebraska」と書いたフーディを登場させた。デュシャン(Duchamp)が既製服で使ったと同じ手段、つまり、ありふれた視覚的要素を異なる文脈に置き換え、アート作品としてのウラを与えるやり方だ。Raf Simonsから15年。アメリカのカレッジ文化を体験し、クラウド ソーシングのデジタル イメージにファッション界での足掛かりを見出したもうひとりの90年代育ち、ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)は、Simonsの「Nebraska」フーディにひねりを加えて、自身のブランドOff–Whiteからリリースし続けている。ストリートで発生するファッション ソースが、ランウェイで再生産され、自分の尻尾を追いかけて、行ったり来たり海を横断する。


「La Haine」は、始まりと終わりを寓話で挟まれている。最初は男が、最後は社会全体が高層ビルから落下する話。「落下している最中、各階を通り過ぎながら、男は自分自身に言い聞かせるように繰り返す。まだ大丈夫。まだ大丈夫。今のところは、まだ大丈夫。しかし、どう落下するかは問題ではない。むしろ、問題はどう着地するかだ」。落下する時間が長ければ長いほど、自問する時間も長くなる。はたして地面はあるのか。そもそも自分たちはどの方向へ向かっているのか。高速で回転しているものは、静止しているように見えるのだから。

- 文: Adam Wray