レモネードが教える
テクノロジーの未来
田舎へ脱出するミレニアル世代
- 文: Rebecca Storm
- 写真: Rebecca Storm

インターネットの初代プレティーンたちは、電話回線が空いているときだけ、ダイアルアップで接続できた。若者たちは、監視されることもなく、NapsterでR・ケリーをダウンロードし、Yahoo!でネットをサーフィンし、Myspaceで好きな音楽を更新した。テクノロジーとの関係がもたらす影響は、無意識のうちに、体や心や経験に織り込まれた。うかつにも、脳は効率化され、飽くことなくサイバースペースをナビゲートする器官になった。そんな子供たちが成長して、現在はミレニアル世代と呼ばれる集団の大きな割合を占める。彼らの上には、連日のように、技術進歩が雨のごとく降り注いだ。そして、肌の中まで染み込んだ。ところが、あまりにも深くまで染み込んだせいで、今、奇妙な反動が生まれている。つまり、もっとシンプルな生活への欲求、田舎への回帰だ。
テクノロジーと共に育った人々は、飲み物のチョイスに過ぎないにせよ、シンプルを切望する
持ち手を付けた無印のガラス瓶から、手作りのラベンダー レモネードをちびちび飲むだけで事足りる人もいる。オーダーメイドの立派な革エプロンを着けたバリスタが、いちばん貴重な豆とピュアな氷河水を使い、今までは鍛冶職人だけが知っていたノウハウを駆使して淹れたエスプレッソで満足する人もいる。時間をかけて、確かで、しかもシンプル。今まで現実には享受したことのない田舎暮らしへの、ちっぽけな、取るに足らないような回帰。どうも、これは起こるべくして起こる進展らしい。良いモノに囲まれ過ぎると、当然、甘やかされる可能性がある。何らかの現象、つまり現代生活のほぼ全ての面を変容させた出来事を辿るには、時系列に沿った事実を見ていくのがいちばん簡単な方法だが、往々にして、もっとも有益なデータは渦中の人たちの経験から得られる。テクノロジーと共に育った人々は、それが飲み物のチョイスに過ぎないにせよ、シンプルを切望する。私たちは、不毛で不確定で、それでいて確実に脱工業化の未来へ向けて、しかも高速で、突き進んでいる。それに代わる未来を見つけようと思ったら、目を向けられる方向は過去しかない。楽観のバラ色のレンズを通せば、インターネット以前の長閑な日々も、古風な趣があり、田園的だ。

人との過剰なまでの触れ合いは魅力的だ。新しい驚きでさえある。冷たいスチール製のデバイスが取って代わり、薄れてしまった暖かさだ。そんなデバイスが存在する前の寓意的な時代へ私たちが戻ることを阻むのは、他でもない、まさにそれらのデバイスだ。私たちはそれらを手放すことができない。手放したりしたら、食用キノコと毒キノコを、どうやって見分ければいいだろう? タマゴテングタケとアガリクスの違いを、どうやって知ればいいだろう(Googleで検索してみてほしい。両者の違いはまさに生死を分ける)? 田舎暮らしの観念もテクノロジーに飲み込まれている。ネットワークから外れることは、ただ林の中へ入って行くよりはるかに難しい。田舎と都市の境界線はもはや曖昧だ。あまりに巨大化したテクノロジーが存在できるのは、今や広大な未開の場所だけだ。すなわち、人里はなれたサーバーファームあるいは大量生産企業。問題は、もはやネットワークから外れることではない。ネットワークの緩やかな場所へ行くことだ。それでもなお、あなたが太平洋岸北西部の祖父が所有する「秘密のビーチ」にいることを、精密な位置情報を含めて、Googleは掌握する。

ミレニアル世代の78%は、モノより体験を重視する。だが、都会人にとって、自然へのがむしゃらな回帰は長続きしない場合が多い。そんなとき目が向く先は、消費習慣だ。所有するモノが少ないことが、深遠とされる。こんまり先生が人気を集め、モノの処分に変化が生じている。身近にあるモノの数と相関するヒステリーだ。通常、「シンプル」はモノが少ない状態と解釈されるが、選び抜かれたわずかな貴重品だけで飾ったほぼ空っぽの部屋、という結果になることが多い。床にはマットレスしかないが、Dyptiqueのキャンドルはシーツ一式より高い。あなたと土いじりに対するあなたの素朴な好みは、よく茂ったモンステラに暗示されるかもしれない。すでに立派に育ったものをいい値段で買ったとしても。シンプルな本物の需要は高いかもしれないが、それが取捨選択の結果なら、それはそれで構わない。
もはやネットワークから外れることではない。ネットワークの緩やかな場所へ行くことだ
本物への欲求は、当然、本物の食べ物を求める需要を拡大する。冷凍食品は味気ない。マクドナルドは廃業しそうで、誰もが電子レンジを嫌う。田舎の観念としては、サステイナブルなやり方で、食料を探したり土地を耕せる。都心では、ほとんど不可能な企てだ。だが、行き止まりではない。都会の密集が作り出した食糧問題を解決しようと試みる力も、現在動き始めている。キンバル・マスク(Kimbal Musk)は、「Square Roots」のような都市型農業のプラットフォームを立ち上げ、食料が新たなインターネットになると確信する。適切なテクノロジーを使えは、都心のすべての屋上が耕作地として機能できる。ネットワーク上で本物の食料を育てられるなら、シンプルを求めてネットワークから外れる必要があるだろうか?

鏡に映った姿は見ず、どこか他方へ目をやる私たちの悪癖を改善できるまで、テクノロジーに疲弊した「開拓者」たちは山や森へ押しかける
本物の食を扱う業界の道のりは、ファッション産業の正反対だ。ファッション ブランドは大抵ちっぽけな存在から始まり、少しずつファンを獲得して、ラグジュアリーなステータスを確立する。食料技術のイノベーションは達成不可能な目標から始まり、拡張性や持続性によって、マーケットと利潤を拡大していく。最高級の名声をファスト ファッションと引き換えにするブランドなど、ありえない。ラグジュアリーと食料の最重要事項として、その忠誠の在り処を、私たちは突き止める必要がある。

自由至上主義は、現在の消費経路を自由化する必要性を促す。シンプルへの回帰は興味深いが、都市的未来の拡大が避けられないのに、田舎の理想だけは健在で、牧歌的な避難所として機能できるのだろうか? 外側と後方へ広がろうとする傾向は、私たちの欲求を正当化して、周囲の差し迫った都市問題をから目を逸らす。革エプロンを着けたバリスタはそれなりのコーヒーを淹れるかもしれないが、そもそもそんなコーヒーへあなたを向かわせた問題を解決することはできない。鏡に映った姿は見ず、どこか他方へ目をやる私たちの悪癖を改善できるまで、テクノロジーに疲弊した「開拓者」たちは山や森へ押しかける。そうすることで、従来時代遅れにされてきた空間へ、最先端のテクノロジーを押し込めていく。「二兎を追うもの一兎をも得ず」のとおり、まだ手に入れてない何かを追いかけるよりも、今自分が持っている、たった1台のiPhoneが頼りなのだから。
- 文: Rebecca Storm
- 写真: Rebecca Storm