ジャパニーズ・デザイン・アヴァンギャルドの歴史年表

ライターであり雑誌「 Garmento」の編集者であるJeremy Lewisが、西暦250年にまで遡りジャパニーズ・デザインの軌跡を紐解く

  • 文: Jeremy Lewis
  • 画像提供: Jeremy Lewis

フィッティング中のYohji Yamamoto。撮影:Jeremy Stigler

ジャパニーズ・デザインは、ファッション界を魅了し、刺激を与え、メディアが目にするもっとも優れたデザイナーたちを世に送り出し続けている。ただし、革新性に対する彼らの高い評価は何も一夜にして得られたわけではない。文化の壁を破り、東洋と西洋という世界的な境界線を作り変えた、時間のかかる細かい進化の結果である。ここに、彼らが歩んできた道のりのを未完ながら簡単に紹介する。

西洋スタイルのビーチパジャマを着て、急速に近代化を進める東京をねり歩く女性(1928)。撮影:Kageyama Koyo

西暦250年: 古墳時代

(議論の余地はあるが)最初期の日本史の記録はここから始まる。まず中国と朝鮮からの入植者が住み着く。この時代の日本の衣服は、どれも端が縫い合わされた平らでゆったりした正方形の布がもとになり、体には密着しない。後に朝鮮を経由して仏教が取り入れられることで、神道の国にもヨーロッパのスタイルが受け入れられるようになる。

1967-1477: 応仁の乱

将軍足利義政とその実弟の後継問題が発端となり、無慈悲な内乱が巻き起こる。1473年を迎えると、将軍は疲れ果て自らの任務を息子に譲るとともに、自身は京都へ引きこもり文化的な活動へと没頭していく。同時期に禅が登場し、おそらく戦乱の暴力に対する反発もあり、義政は控えめで質素な装飾へと惹かれていく。そこから、シンプルさを受け入れる新しい文化的価値観が生まれるのである。もちろん、そうした価値観だけがこの時代を支配しているわけではないが、日本特有のものであり、来るべき数世紀にわたって日本のヴィジュアル・アイデンティティを特徴づけるものになる。

1968: 明治維新

それまで、単に象徴でしかなかった天皇に政権を帰すことで、将軍時代は終わりを迎える。1853年に武装したアメリカの艦隊が開国を求めて日本の海岸に来航したときにはっきりとしたわかったことがある。それは、近代化のためには改革の促進が必要不可欠であるということだ。

西洋のやり方を見ると、洋服が和服よりも優位になり、和服と洋服というコンセプトが危機に瀕することになる。日本は、長年続いた封建制度と優れた西洋の技術力とを調和するのに格闘する。つまり、日本がヨーロッパの衣服を取り入れるのはここからなのだ。

Kansai YamamotoとDavid Bowie(1973)。撮影:Masayoshi Sukita

1905: 日露戦争で日本がロシアに勝利する。明治維新下で押し進められる日本の近代化のスピードに世界が衝撃を受ける。

1923: 若い女性に洋裁を教えることと、上流富裕層女性の間に生まれたヨーロッパスタイルの衣服に対する流行に応えるため、並木婦人子供服裁縫教授所が開校される。

1936: 並木婦人子供服裁縫教授所が文化裁縫女学校と改称。

1938: Issey Miyakeが生まれる。翌年、 Kenzo Takadaが生まれる。

1942: Rei Kawakuboが生まれる。翌年、 Yohji Yamamotoが生まれる。

1994: Kansai Yamamotoが生まれる。Yohji Yamamotoとの血縁関係はない。

1945: Issey Miyakeは、広島にて原爆投下の場に遭遇する。その影響で生涯に渡り片足に不自由を負い、ユートピアを追い求め続ける。

1951: Hanae Moriが、活気づく日本の映画産業に衣装デザインを提供するためアトリエを開設。

1958: Kenzo Takadaが文化に入学する。それまで女子のみだった教育機関に、彼は初の男子学生のひとりとして迎え入れられる。

1961: Kenzo Takadaが、未来の日本ファションデザイン界のスター、 Mitsuhiro MatsudaやJunko Koshinoとともに文化を卒業する。

1961: パリへの旅と、ココ・シャネルのオートクチュールサロンで洋服を誂えた経験によって、Hanae Moriの気持ちは揺るぎないものとなる。まもなく、彼女は自身の既製服コレクションに取りかかる。東京、パリ、ニューヨークで女性のために洋服をデザインし、彼女は初めて世界で認められた日本のデザイナーになる。彼女の洋服は、後に名を馳せる日本のデザイナーたちのデザインよりも遥かに保守的ではあるものの、自分が草分けとなり後に続くデザイナーたちに道を開いている。

Hans Feurerによって撮影されたKenzoのキャンペーン(1983)。

1964: Kenzo Takadaはパリに移り、雇われデザイナーとして働き始める。

1965: Issey Miyake、多摩美術大学図案科を卒業。国内の美術展にファッションデザインが含まれてないことに疑問を抱く。 Miyakeはパリに渡り、パリ洋裁組合学校「サンディカ」でオートクチュールを学ぶ。

1966: Yohji Yamamotoが、不承不承ながら法律の学位を取得し慶応大学を卒業。

1968: Issey Miyakeは、Hubert De Givenchyのアトリエで見習期間中にパリで起こった学生の暴動を目にする。革命の精神に喚起され、Geoffrey Beeneのもとで既製服を学ぶためニューヨークへ渡る。

1969: Yohji Yamamoto、今回はより熱心に学業を修め文化を卒業する。

1970: パリでKenzo Takadaが初のコレクションを披露し、ショップ「Jungle Jap」をオープンする。 Miyakeが帰国しIssey Miyake Design Studioを設立。翌年、ニューヨークにて初のコレクションを披露する。

1971: Kansai Yamamotoがロンドンでコレクションデビュー。そこで彼は、後に日本のファッションが獲得する漆黒で知的という評判を引き立てる役目を果たす。カラフルで装飾的でユーモアがあり、彼の洋服の魅力はポップで低俗な物を芸術にまで高めるところにある。彼自身がポップの象徴へとなる。David BowieがKansai Yamamotoの洋服に惚れる。

1973: 大学で美術と文学を学び、繊維業界の大手、旭化成の宣伝部で仕事を終えると、 Rei Kawakuboは服作りに専念し東京に株式会社Comme Des Garçonsを設立する。

Comme des Garçons「Destroy」コレクション(1982)より、意図的にほころばせたセーター「lace」。撮影:Peter Lindbergh

Issey Miyakeのコート(1976)。撮影:Anton Perich

1971-1980: 第一の波

1960年代の始め、DiorBalenciagaが君臨する高貴なオートクチュールの世界は、Cardin、Courrèges、Rabanne、Ungaroといったスペースエイジ的なデザインを特徴とする新勢力に取って代わられる。しかし彼らが夢見たハイテクの美も、およそ10年でより現実的なアプローチのデザインへと道を譲ることになる。パリでは、現状を打破しようと学生たちが立ち上がり、ベトナム戦争によって人々は世界情勢に不安を抱き、第二波フェミニズムの動きのおかげで女性たちに今までにない社会的な力を獲得する。1970年代になると、ファッションの持つ強みは、それまでの脆いファンタジーから、強く確固とした現実から湧き出る美へと移行していく。Kenzo TakadaとIssey Miyakeは、東洋独特の視点と産声を上げたばかりのビジネスを携えて やる気に満ち満ちている。

TakadaとMiyakeの独創的なカッティングや多種多様な文化の衣服からの借用、炸裂するエキゾチックなオーラによって、彼らはファッション界を席巻する。数年で業界の階段を駆け上り、なくてはならない流行の仕掛け人として一目を置かれるようになる。さらに彼らは、既製服の新開地を切り拓き、大胆で抜け目のないデザインによって、まだまだ目新しいこの洋服の作り方がオートクチュールにも匹敵する創造性を持てることを証明した国際的なエリートデザイナー集団の仲間入りを果たす。ファッションがフランス人の専売特許ではなくなるのは時間の問題である。この若き異端児たちの集団には以下のような名前がある。Sonia Rykiel、Thierry Mugler、Jean Charles de Castelbajac、Claude Montana、Walter Albini、Giorgio Armani、Gianni Versace、Ottavio and Rosita Missoniなどなど。

1977: Hanae Moriは、パリ・クチュール組合に初の日本人デザイナー(さらに言うとアジア人デザイナー)として迎え入れられる。Yohji Yamamotoが東京で初のコレクションを発表。 Tsumori ChisatoがIssey Miyakeで働き始める。

1981-1989: 第二の波

落ち着いて穏やかだった1970年代が過ぎ、1980年代に起こった尖ったけばけばしく派手な美への回帰により、Balmainですら控えめに見える。Rei KawakuboとYohji Yamamotoは東京で洋服を作りコレクションを発表し続けながら、パリを目指すことに決める。結果は「壊滅的」だった。不可解にも「ヒロシマ・シック」というレッテルを貼られ、2人は西洋のファッションの常識を破壊し、意識することなくゲームのルールを書き換えるのだ。

KawakuboとYamamotoは、過剰な趣味の80年代に対して真逆の提案をする。頭に訴え、知的で、脱構築的で、飾り気がない。 彼らの洋服は、切り裂かれた着物を重ね合わせた襞によって着用者を包み込む、まるで黒いズタボロの布切れで表された実存主義的難題のようである。西洋の美が持つ固定観念への攻撃手段として、彼らは拒否するのと同時に好き勝手にするために、不調和の姿勢を示す。ファッション界の支配者層たちは、瞬く間にふたつの勢力に分かれる。理解できる者とできない者。そして多くは後者に収まる。そこで、Comme des GarçonsとYohji Yamamotoは事情通であるファッションエディターの非公式ユニフォームとなるのだ。

Yohji Yamamoto、東京にて(1981)。撮影:Takeyoshi Tasuma

Issey Miyakeの「seashel」コート(1985)

1984: Junya Watanabeが文化を卒業しComme Des Garçonsで働き始める。

1988: Issey Miyakeがプリーツの実験を始める。Jun Takahashiが文化に入学する。

1990: Tsumori ChisatoがIssey Miyakeを離れ、自身のブランドを立ち上げる。 Chitose AbeがComme Des Garçonsで働き始める。

1993: Issey MiyakeがPleats Pleaseを立ち上げる。繊維工業を重視するデザイナーにとって、新たな始まりを示す革新的なライン。Junya WatanabeがComme Des Garçonsから支援を受けて、自身の名前でデザインを始めてパリでコレクションを見せる。Jun TakahashiがUndercoverを設立。Kenzo TakadaはLVMHに会社を売却。

1999: Kenzo Takadaはアートを探求するためデザイナー職から退く。Issey Miyakeはファッションの世界から身を引き研究に没頭するためデザイン職をNaoki Takizawaに引き渡す。Chitose AbeがSacaiを始める。

2003: Jun TakahashiとTsumori Chisatoがパリにて洋服を発表し始める。

2003-2010: 第三の波

東洋と西洋の衣服を融合させるという他にない革新性で、今では日本のファッションは世界中で高い評価を受けている。ファッション業界は、慣例にとらわれない日本のファッションの動向を新たなアイデアの源として注視するようになる。かつてフランスのオートクチュールに起きたことと同じである。日本がもたらしたインパクトは、すでに、Yohji YamamotoとRei Kawakuboの洋服に熱狂してるベルギー人デザイナー、Ann DemeulemeesterMartin Margielaの仕事の中で見ることができる。「ヒロシマ・シック」以後数年の間に、日本の新世代デザイナーたちが頭角を現し始める。戦後生まれで、恵まれた経済状況の中で育つ世代。比較的幸運ではあるが、彼らの道は先人たちの精神を尊重して進んでいく。 Junya Watanabeがその集団を率い、後にTsumori ChisatoやJun Takahashi、SacaiのChitose Abeなどなどが合流する。

2013: Issey Miyakeは、Reality Labでの試行錯誤の結果、待ち望まれていたPleats Pleaseのメンズライン、Homme Plisséを発表。

2016: Issey Miyakeが東京の国立新美術館にて大回顧展を開催する。現在までに彼が成し遂げた仕事と革新が初めて一堂に会する。Rei Kawakuboは、18世紀の物々しさと優雅さを用いてパンクを再定義するコレクションを披露。彼女の手による西洋の美の解体は続く。Yohji Yamamotoは、今も業界随一のカッティングセンスを持つすご腕である。そしてファションは今でもわかるかどうかで分断されているのだ。

  • 文: Jeremy Lewis
  • 画像提供: Jeremy Lewis