ロゴという名の遺産

Versace、Gucci、Burberry、Balenciaga…ブランドのロゴに秘められた意味をヘイリー・ムロテックが考察する

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    ジョヴァンニ・オランデーゼ(Giovanni Olandese)は、イタリア南部の街レッジョ カラブリアで成長した。職業は靴作り、信条は無政府主義。当時の反ファシズム グループ多数と関わりがあった。1920年に生まれた娘のフランカ(Franca)は10代になると医師になりたいと願ったが、父ジョヴァンニの政治観はそこまで進歩的ではなく、大学には行かせてもらえなかった。その代わりにフランカは、外科手術並みの精確さで服を仕立てる洋裁師になった。彼女は、型紙を使わず、マチ針と直感だけで布を裁断することができた。そうして出来上がる洋服は、パリのクチュリエが仕立てるファッション デザイナーの洋服になんら引けを取らなかったが、値段は半額だった。やがてフランカはアントニオ・ヴェルサーチ(Antonio Versace)と結婚し、4人の子供をもうけた。フォルトゥナータ(Fortunata)、サント(Santo)、ジャンニ(Gianni)、ドナテッラ(Donatella)である。

    デボラ・ボール(Deborah Ball)は、ヴェルサーチ一族に関する素晴らしい伝記『House of Versace: The Untold Story of Genius, Murder, and Survival』(仮題:ハウス オブ ヴェルサーチ / 天才と殺人とサバイバルの語られざる物語)に、レッジョはファシズム信奉で有名な地域だったと書いている。だが、父の信念を受け継いだフランカは社会主義者を自認した。そんな勇気を示す女性は、近隣にはほぼ皆無だった。ジョヴァンニの政治信念はよく知られていたので、ローマからファシズム政党の指導者がやってくるときは、警察が必ず事前に彼を牢に入れておいた、とはヴェルサーチ一族の語り草である。

    10代のジャンニは、毎日母の仕事場で午後を過ごし、裁縫を教えてくれと母にせがんだ。やがて、妹のドナテッラがジャンニのミューズ、マネキン、たったひとりのフォーカス グループになった。ふたりはあらゆる面でパートナーだった。ジャンニが作った洋服をドナテッラが着るのはもちろんのこと、両親が寝静まった後、ドナテッラが車の鍵を盗み出し、ジャンニの運転でナイトクラブへ繰り出し、夜通し踊り明かすのだった。1970代にジャンニはミラノへ行き、既製ニットウェア メーカーのデザイナーとして働いた。彼は、社会の大きな変革を引き継ぎ、さらに押し進める世代の一員でもあった。ボールの記述によると、70年代前半には4000件以上の政治的暴力が発生し、ついに「赤い旅団」を名乗るマルクス主義集団がアルド・モーロ元首相を暗殺するに至った。クチュールに限らず、旧弊な富の象徴を身に着けることは、当時、悪趣味とみなされるだけではなかった。それはファシズム的行為だったのである。

    現在の Versaceを象徴する要素は、ジャンニのキャリアを通じて、徐々に形成されていった。弱気になったときはいつも、夜なべをしてドレスを仕上げていた母のことを思い出す、そうやって進み続けてきた、とジャンニは語ったことがある。母フランカの厳しい水準は、ジャンニの頭に植え付けられただけではなかった。Versaceを立ち上げた当初、ランウェイ ショーの前にはフランカがレッジョからわざわざ車でやってきて、裾が仕上がっていないのなんのと楽屋で不平を言うのだった。1986年には2億2000万ドルの総売上を叩き出していたVersaceは、ミラノの不動産に投資を始め、以前リッツォーリ家が所有していた、総面積1765平方メートルの3階建ての大邸宅を購入した。リッツォーリ家は、戦後ムーブメントの先頭に立つ急進的な最左翼知識人を、頻繁に館へ招いていた。リッツォーリ家の地下の映写室は、フェリーニ(Fellini)の『甘い生活』が初めて上映された場所のひとつである。

    周辺に屋敷を構えるミラノのエリート階級は、明らかに、ヴェルサーチ ファミリーの参入を快く思わなかった。とりわけ、ロック スターや女優といった、いわゆる成金が自分たちの領土へ出入りするのを嫌った。象徴に敏感なジャンニは、自分にとっての家の意味を考えるのに忙しすぎて、とてもほかの人間の考えていることまでは気が回らなかった。ボールは書いている。「玄関の2枚扉に取り付けられたノッカーの上に、奇妙な、不吉ではあるが神話に登場する象徴があるのに、ジャンニは気付いた。目にした人間をすべて石に変えるという伝説の怪物、メドゥーサの頭部である。発展しつつあるブランドのロゴを探していたジャンニは、カラブリアのギリシャ遺跡で遊んだ子供時代を思い出して、メドゥーサがぴったりだと思った。クラシックで、神秘的で、ドラマチックで、けばけばしく、危険なVersaceの感性にとって、メドゥーサはふさわしい象徴だった」。扉につけられたノッカーは来客を招き入れる道具のはずだが、ヴェルサーチ邸のノッカーは来客への挑戦だった。メドゥーサの呪いではなく、メドゥーサの力に目を向ける勇気が、あなたにはあるだろうか? ジャンニは、そんな勇敢な女性のために服を作った。

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    象徴にせよテキストにせよ、ロゴは文章として成立している。私たちは、その読み方を学ぶ。ロゴの源は、多くの場合、家族に伝わる教えや何らかの創作だ。例えば、Louis Vuitton、Hermès、Cartierなど、腕のいい王室の御用達職人が18~19世紀に作った高級ブランドは、以後何世紀にもわたってロゴの意味するところを累積してきた。これらのブランドにとって、ロゴは家紋の「のような」ものではなく、まさに家紋そのものである。ジャーナリストのダナ・トーマス(Dana Thomas)は、著書『Deluxe: How Luxury Lost Its Luster』(仮題:デラックス / どのようにしてラグジュアリーが輝きを失ったか)で、Louis Vuitton博物館を訪れたときのことを書いている。別名「旅の博物館」は、Louis Vuittonの最初の工場が建設されたパリ郊外の北西部、アニエールにある予約制の博物館である。今では見た瞬間にVuittonとして認知されるブラウンとベージュの格子柄を使った「ダミエ」トランクは、1888年、ルイ・ヴィトンの31歳の息子ジョルジュがデザインした。「いくつかの格子にまたがってLouis Vuittonの登録商標であることを示す『Marque Louis Vuitton Deposée』が白く記され、かくして高級を意図するブランディングがスタートした」と、トーマスは書いている。大昔から、「出所を示す」品質証明の印や印形は存在した。つまり「作り手」が明示された。中世の職人は、信頼性と品質を保証する職業別の組合に所属することが義務付けられていた。ところが、産業革命によって、個人の手から組み立てラインへ製品は移動した。そして企業は組合に代わり、だが一貫した水準を保証するという同じ目的で、ロゴを使うようになった。トーマスによれば「1950年代以後、商標やロゴはマーケティングや宣伝のツールとして利用される傾向が高まり、ブランドの象徴へと発展した」

    アパレル、クチュール、あるいはファッション業界のその他の形態を語るとき、地域の政治や社会規範に関する問題を、平たく言えば「どうでもいい」の一言で片付けるのは簡単だ。服は服だし、政治は政治。もう少し配慮した言い方をするなら、ヴェルサーチ一族には、家系を大切にする歴史とファッションがテーマの歴史というふたつの歴史があって、両者が常に交わるとは限らない。 だが、ロゴの意味を読み取り、理解しようと思ったら、ふたつの歴史は同じ程度に重要だ。

    「僕に関する限り、Versaceのメドゥーサさえついてたら、ゴミ袋だって熱烈に好きになる」と語るのは、ニューヨーク在住のスタイリストであり、ビンテージ ディーラーでもあるガブリエル・ヘルド(Gabriel Held)だ。彼のアーカイブについてやり取りしたメールによると、何であれ、ロゴがプリントされているものは俄然人気があるという。そして、スタイリストとしての視点から、ロゴは熱烈な固定ファンをつかんだ独自の商品だと考える。「Diorの『トロッター』やFendiの『ズッカ』はストライプと同じくらいクラシックな柄だし、Louis VuittonやGucciのイニシャルにも何十年という歴史がある」。トレンドとしては、「ロゴがファッションの絶頂に達した時期があって、その後、少しずつストリートウェアへ流れ落ちていった」が、「特定の時期というより、むしろ着る人のタイプの問題だね。いつの時代にも必ず、ロゴには熱心なファンがいるから。人気が衰えたときに敢えてロゴを着るのって、一種の反逆精神だと思うな」

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    Burberryというブランドは、決して欲のあるブランドではない。目的を果たすことに価値を、役立つことに高級性を見出す。ただし、自社の製品を主張しないわけではない。むしろその逆だ。レインコートにとって、もっとも重要な防水性と通気性を兼ね備えた生地「ギャバジン」 を発明し、特許を取得したのはトーマス・バーバリー(Thomas Burberry)、その人である。ロゴの「エクエストリアン ナイト – 馬上の騎士」が掲げる旗には、ラテン語で「前進」を意味する「Prorsum」が書かれている。ブランドとしてのBurberryも常に、同じ方向を目指すと確信する人たちと、歩みを共にしてきた。

    ウェブサイトには、トーマス・バーバリーの発明が貢献したさまざまな実例が、誇らしく列挙されている。例えば1893年、後にノーベル平和賞を受賞したノルウェーの極地探検家フリチョフ・ナンセン(Fritjof Nansen)は、Burberryを着て北極圏へ向かった。ロンドンとマンチェスター間を初めて飛行したクロード・グラハム=ホワイト(Claude Grahame-White)も、Burberryを着用していた。第一次大戦と第二次大戦には英国軍の制服として採用され、ふたつの大戦の狭間にバーバリー チェックを開発し、商品登録した。トレンチ コートの「トレンチ – 塹壕」は、作られた場所ではなく、着られた場所を示している。正式には「タイロッケン」コートという、いささか呼びにくい名前だったので、「トレンチ」の方が定着したのであろう。何はともあれ、二度の大戦で英国が勝利を収める頃には、特色のある呼び名と裏地のコートが、戦地あるいは銃後を問わず、英国民としての忠誠と分かちがたく結び付いていた。トーマス・バーバリーは、1856年に21歳でBurberryを設立したが、ブランドロゴには、1999年に至るまで「Burberrys」が使われ、彼自身の所有物であるかのごとき響きを帯びていた。

    馬上の騎士が前進するにつれ、スタイルは新しい領域へ広まっていった。バーバリー チェックがミュージック ビデオに登場するようになった。2001年にはジャ・ルール(Ja Rule)が「Always on Time」でBurberryのバケット ハットをかぶり、2003年の「Bonnie and Clyde」では、「彼女がBurberryを着るのは泳ぐときだけ」というジェイ・Z(Jay-Z)のラップに合わせて、ビヨンセ(Beyoncé)がBurberryのビキニ姿で登場した。2002年には、イギリスのメロドラマ女優ダニエラ・ウェストブルック(Daniella Westbrook)が、娘と揃ってバーバリー チェック尽くしの散歩中にパパラッチされた。ウェストブルックはバッグとスカート、幼い娘も同じスカート姿で、これまたバーバリー チェック地の乳母車から抱き上げられている。『ガーディアン』紙は「しつこいくらい甘くて、途中で口から出したくなるキャンディみたい」と意地悪くコメントし、悪趣味な「成金」が好んで着るようになったらBurberryも終わりだと書いた。当時、イギリス社会が俗に「チャヴ」と呼んで揶揄する労働階級の若者たちもバーバリー チェックを好み始めていたから、ブランドの品位を落とすとして、ウェストブルックとひとまとめに冷笑された。だが、Burberryと一目でわかる商品がどんどん着られるようになったおかげで、海外へのライセンス供与が著しく増加し、世界中売上と人気がで大幅に上昇したことも事実なのである。

    デジタル メディア「Refinery29」で特集記事を書いているシニア ライター、コニー・ワン(Connie Wang)の指摘によると、Burberryはかつて労働者階級から距離をとろうとしたが、Burberryで最後となるコレクションを先頃の2018年秋冬ロンドン ファッション ウィークで発表したクリストファー・ベイリー(Christopher Bailey)は、とりわけストリートウェアの分野で大きくなったステータスと評価を取り込むことに尽力した。その結果、現在のBurberryはふたつの意味を持つようになった。すなわち「ストリートウェアに登場するバーバリー チェックは、『階級』やセンスに対して、ハイとロー、アップとダウンの逆転を表す」。「しかし、保守的な装いに登場するバーバリー チェックは、今なお非常に伝統的な趣味の良さを表現する」

    ベイリーの最後のランウェイ ショーでは、所有格「s」の付いたオリジナル ロゴ「Burberrys」が使われた。トーマス・バーバリーが会社を設立したとき、そしてロンドン証券取引所に上場して公開会社となったときも、社名には「s」が付いていた。ただし、今回は レインボー カラーだ。あのコレクションは自分自身の表現だったと、ベイリーは『ヴォーグ』に語っている。ヨークシャー州ハリファックスで15歳を迎えたベイリーは、地下のクラブにたむろする「DIY精神のティーン トライブのスタイル」を見て、初めてファッションのパワーを深く認識したのだった。「Time」と題されたコレクションは、ベイリーがクリエイティブ ディレクターとして在任した17年を含め、今日に至るBurberryの歴史のすべてを見せた。かつてBurberryが遠ざけようとした若者たちが愛し買い求めるライセンス商品に対して、ベイリーは正当な配慮を与えた。ベージュの地にタータン チェックを大胆にアレンジしたウールのセーターは、「あまり深刻に考えないで」と軽やかなスタンスを表現する一方、以前は免税品店で旅行客相手に売られていたようなスウェットシャツ、バケット ハット、シルク スカーフがランウェイの貫禄を帯びた。ファッション ジャーナリストのサラ・モーアが指摘しているように、ベイリーは、Burberryでの仕事を通じて何よりデモクラシーを大切にした。「だからこそ、あのような方法でBurberryに別れを告げることを選んだ。ベイリーは最後のコレクションに『ゲイ プライド』のシンボルをふんだんに散りばめ、LGBTQ+の若者の権利と心の健康を支援する慈善団体に多額の寄付を行なった」。Burberryは新しいクリエイティブ ディレクターとしてリカルド・ティッシの起用を発表したが、ベイリーは強烈に辛辣なフィナーレを飾ることで、まさにBurberry自身も自らのモットーを思い出す必要があると指摘したのではないだろうか。Burberryも前進しなくてはならないのだ。

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    ロゴは常に存在するが、「ロゴマニア」というトレンドは、その他のトレンドと同じように現れては消える。1980年代後半には、ロー ライフ クルー(Lo Life Crew)が登場し、Ralph Lauren Polo Clubが象徴するライフスタイルをコピーすることに、心血を注いだ。 帽子、セーター、ブレザー、バッグ…Ralph Lauren Polo Clubの商品を、考えうるかぎりの方法で着てみせた。何であれ、Ralph Lauren Polo Clubのロゴが付いたもので、ロー ライフ クルーが身につけないものは、ひとつもなかった。そして、ラルフ・ローレン(Ralph Lauren)が描いた「アメリカン ドリーム」のロー ライフ的解釈は、1980年代でもっとも明白なトレンドのひとつになった。ニューヨークとブルックリンで生まれたトレンドでありながら、あらゆる場所で理解されたのである。

    1982年、ダッパー・ダン(Dapper Dan) ことダニエル・デイ(Daniel Day)が、ハーレムにショップをオープンした。デイは、毛皮を扱っていた店舗を借りて、少しずつ自分の店に変えていった。ショップと同じ建物内でスタッフが服を作り、いつ客が来てもいいように24時間営業だ。店頭に並ぶのは、Gucci、Fendi、Louis Vuitton、といったブランドのロゴが飛び交う毛皮のコート、ジャケット、その他諸々。2013年にケレファ・サネ(Kelefa Sanneh)が『ニューヨーカー』に執筆した紹介記事によると、ダンはGucciのストアへ行ってはガーメント バッグを洗いざらい買い占めて、自分が作る服のヨークやトリムに転用した。スクリーン プリントが普及すると、ロゴをとんでもない大きさに誇張することもできるようになった。「旅行鞄では良識の象徴に見えたLouis Vuittonのロゴ模様が、膝丈のコートに使われると、まるでシュールだった。デイが楽しんだのはそれだ。彼は高級ブランドをハイジャックして、もっといいものを作りたかった」とサネは書いている。そのような方法で関連させた多くのブランドに訴えられたことも、一度ならずある。Fendiが起こした訴訟は、たまたま当時同社の法律顧問だったソニア・ソトマヨル(Sonia Sotomayer)の担当になった。争点は、ダンの作る服がブランドへのオマージュとみなしうるか否か。顧客を欺く意図で作られた商品は偽造であり、違法とみなされる。だが、ダンの場合はそうでなはかった。彼が作る服はもちろんブランド認知を利用してはいたが、ブランドをそのままコピーして顧客の横取りを狙ったものではなかった。

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    1897年、グッチオ・グッチ(Guccio Gucci)はロンドンにあるサヴォイ ホテルのポーターだった。1902年、グッチは故郷のフィレンツェへ戻り、皮革製品の店で働くようになる。1921年には最初の店舗をオープンした。だが、1930年代に講じられた輸入禁止措置のせいで、皮革に代用できる素材が必要になる。そこで麻繊維の一種「カナパ」を選び、タン カラーの地にダーク ブラウンで細かくひし形をプリントした模様を考案し、以来これがGucciのシグネチャになった。1953年には、ホースビットをあしらったGucciローファーが登場し、長男のアルド(Aldo)がニューヨークのサヴォイ プラザ ホテル内に初のアメリカ支店を構え、その15日後にグッチオは息を引き取った。

    アメリカはGucciを愛し、有力者の家庭もGucciを招き入れた。ジャクリーン・ケネディ(Jacqueline Kennedy)がファースト レディーになった1961年、グッチは彼女が持っているバッグを「ジャッキー」と改名した。1985年には、メトロポリタン美術館の永久コレクションにGucciローファーが加えられた。色鮮やかな蝶、熱帯の花、咆哮する虎、バンブー、シルクなど、プリントや素材のカタログにもますます多くのシグネチャが加わった。Gucciから生まれるウェアやアクセサリーは例外なく、バカンスの始まりの朝、ホテルの窓から外を見るときの感覚を呼び起こす… 期待と自制。

    だが、Gucciというブランドと家族の近代史は、波乱に満ちていた。1995年、グッチオの孫のひとりで、代表者の地位にあったマウリツィオ・グッチが、別れた妻の雇った殺し屋の銃弾に倒れた。その後まだ世紀も変わらないうちに、トム・フォード(Tom Ford)の手腕に目をつけたベルナール・アルノー(Bernard Arnault)が、Gucciの敵対的買収を画策した。当時のフォードは、Gucciのクリエイティブ ディレクターとして、ウェアはもちろんのこと、特に広告でサディスティックなセックスを匂わせる豪華かつ優雅な挑発を表現し、商業的にも評価の面でも大きな成功を収めていた。ちなみに、1990年代のGucciを代表するイメージは、モデルの陰毛を「G」の形に剃り落とした写真だろう。代替素材を利用したブランディングと言えなくもないが…。アルノーはGucciをLVMHグループの傘下に入れようとしたが、主として記者会見の場で展開された熾烈な支配権争いの後、PPRのフランソワ=アンリ・ピノーが救いの手を差し伸べた。

    実は、もう少しで違う歴史が生まれるところだった。同族会社Versaceの上場を討議していたサント・ヴェルサーチが、VersaceとGucciの合併提案を持ち出したのである。両社が合体すれば、イタリア勢のコングロマリットとして、拡大を続けるLVMHに対抗できる。結局、Gucciとは規模が近すぎるとVersaceが判断したため、GucciはPPR、現在のケリング グループの傘下に入った。現在のGucciは、その伝統をインサイダーとしてもアウトサイダーとしても尊重するアレッサンドロ・ミケーレ(Alessandro Michele)の指揮下にある。

    ミケーレの視線は、生粋の貴族階級の固定客や支配を狙う熾烈な争いではなく、天上の世界へ、向けられてる。彼が好んでよく会場に寺院を選ぶのも、そこの天井に描かれた天上世界を意識している表れかもしれない。ミケーレは、ウェストミンスター寺院でも一度ならずランウェイ ショーを開催し、ウェアには頻繁に宗教と浪漫の関連が表現してきた。聖なるものと風刺の融合は、Gucciの上品なゴシック的表現として、明確な特色となりつつある。

    スノーボードでオリンピックに出場し、その後アーティストに転身したトレバー・アンドリュー(Trevor Andrew)は、2012年のハロウィーンに、Gucciの「G」模様のシーツにふたつの穴を開けただけのお化けコスチュームを急ごしらえした。「GucciGhost – Gucciの亡霊」だ。この「GucciGhost」という名前が評判になり、アイデアが反響を呼んだ。多数のフォロワーを誇るアンドリューのインスタグラムには、ダブル「G」をあしらったありとあらゆるものの写真が投稿され、Gucciが訴訟を起こすか雇ってくれるまで止めないとコメントした。ミケーレは2016年にアンドリューを迎え入れ、「GucciGhost」コラボレーションが実現した。滴るイエローのペンキで「REAL」とスプレー ペイントしたGucci バックパックのごとく、「GucciGhost」コラボレーションは現在も継続中だ。

    もっとも重要な出来事は、ミケーレがダッパー・ダンと協力関係を結んだことだ。実はその前に、ダッパー・ダンのデザインを取り入れてはどうかという軽率なアドバイスにしたがって、ダッパー・ダンの名前にもオリジナルにも明白に言及しないまま、あるアイテムをコレクションに登場させるという経緯があった。1980年代にダンが作った、バルーン スリーブのボンバー ジャケットである。オリジナルはLouis Vuittonのロゴを使っていたが、シルエットといいコンセプトといい、それ以外はまったく同じだった。その結果、Gucciのように権力と支配力を持つ大企業が、独立アーティストの斬新な作品を利用しながら、原作者の名前も出さず謝礼も払わないのは誠実さに欠ける、という当然の批判が巻き起こった。これを機にミケーレはダンに歩み寄り、今年の1月付けで正式の提携関係が成立した。ダンはもうガーメント バッグを買い集める必要はなくなった。素材はGucciから直接送られてくる。

    Gucciはハーレムに全予約制の店舗を構え、そこでダンはGucciの協力を得ながら、しかし創作に関する完全な自由を保証されて、カスタム メイドの服を作り続ける。両者のコラボレーションは、先のアカデミー賞で、フランソワ=アンリ・ピノーの妻である女優サルマ・ハエック(Salma Hayek)が、授賞式にラベンダー カラーのGucciのドレス、アフターパーティにピンクとゴールドのダッパー・ダンのツーピースを着たことで大きな注目を集めた。背中には、Gucciのシグネチャであるひし形の地に、クリスタルで綴った「Dapper Dan」の名前が大きく踊っていた。おそらくこれが、ミケーレの狙い通りの、本物と模倣、コラボレーター、マージナルなアーティストたちによる、今日あるべき提携関係の姿ではないだろうか。つまり、彼こそ本物であり、それ以外のプレーヤーは彼のゲームに参加することになる。ミケーレの最新ランウェイ ショーはダナ・ハラウェイ(Donna Haraway)の『サイボーグ宣言』にインスパイアされた。ハラウェイは、自分を人間以上、さらには女神以上のハイブリッドと考えよう、と読者に呼びかける。ハイブリッドは、多くの意味を帯び、はるかに大きな崇拝に値する。であれば、ミケーレが崇拝する聖なる三位一体が父と子とGucciGhostで構成されることも、驚くにはあたらない。

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    1990年代後半と2000年代初頭のロゴマニアは、『ゴシップ ガール』や『ジ オーシー』といったテレビ番組の定番だった。バーバリー チェックのリストバンドをした、可愛くて惨めな10代の少女たちが、Chanelの2.55バッグをさりげなく腕にぶら下げ、両側にロッカーが並ぶハイスクールの廊下を闊歩する。こういったトレンドのサイクルには若干の滑稽さを感じるものの、高級ブランドのアイテムは非常に真剣に受け止められていた。キュートであろうが、カジュアルであろうが、挑発的であろうが、とにかく本物として位置づけられたのである。1984年、Pradaは、パラシュート用のナイロン地とレザーのトリムのバックパックをデザインした。ロゴにイニシャルを薦めたファッション エディターがいたにもかかわらず、ミウッチャ・プラダ(Miuccia Prada)は、祖父が鞄につけた小さな三角形の復活を選んだ。高級ファッションのアイテムを持ちたいと願う若い女性にとって450ドルは手頃な価格だったから、このバックパックは非常な人気を博し、1999年の学園ロマンチック コメディ『恋のからさわぎ』では名セリフに織り込まれた。ビアンカが友人のチャスティティに向かって、「好き」と「愛してる」の 違いを教える場面である。曰く、Skechersは好きだけど、Pradaのバックパックは「愛してる」

    「高級ブランドのアイテムは野球カードのように収集され、アート作品のように展示され、視覚イメージとして誇示され」、ブランドは「製品『そのもの』から製品が『象徴するもの』へ焦点を移動させる」ことで、真に民主的なラグジュアリーという目標を達成した、とトーマスが書いたのは2007年のことである。ロゴに意味を託すブランド側と、着方や使い方によってその意味を変質させてしまう消費者のあいだには、常に葛藤がある。「民主的な低価格帯のハンドバッグや香水を提供すれば中流層は満足するだろう、と高級ブランドは考えた」。トマスは解説する。「高級ブランドの経営陣が読み違えたのは、中流層の消費者が本物として通用するコピー製品で高級志向を満たしたことである」。「イット バッグ」をもてはやすトレンドと足並みを揃えてコピー製品の売買が急増したことは、確かに高級品への需要はあったものの、消費者は必ずしも本物を最優先しなかった事実を証明している。この時期に、マーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)はスティーブン・スプラウス(Stephen Sprouse)と組んでブランドのイニシャルのグラフィティ バージョンを作り、漫画的な桜の花をはじめ、数々のハンドバッグ デザインを村上隆に委託した。その結果、1896年にジョルジュ・ヴィトンがデザインしたダイアモンド、星、花という素朴なスタイルは視覚的に発展したが、もとはといえば、ジョルジュは初期のVuittonの模造品に対抗する手段として「ダイアモンド、星、花」のデザインを考案し、1905に商標として登録したのだった。それが1世紀後には、もっとも頻繁にコピーされ、偽者が楽々と本物を装って出回るバッグになった。

    「1990年代後半、2000年代中頃、そして現在のように、ユース カルチャー、パーティ カルチャー、過剰がトレンドの時期には、必ずロゴが復活した。若者たちが社会に向けて自分たちの存在を誇示したがるときには、必ずロゴの人気が高まるの」と、ワンは指摘する。 例えばVersaceのロゴは、特にマイアミやミラノ的な「過剰、享楽、大胆な挑戦」をアピールし、「パーティで一番最初に羽目を外す人間であることを示唆するのよ」。高級ブランドのロゴがプリントされた低価格アイテムは高級品の領域へ足を踏み入れる手始めになるが、「ロゴ付きのストリートウェアのおかげで、高級ブランドとの関係は格段に狭まったわね。Balenciagaのスウェットシャツを着ることには、一種のアイロニーがあるもの。 趣味の良さって何なのか、という問題。ベロアのスウェットスーツとかウエスト ポーチとか、これまで悪趣味とみなされたものが高級品の扱いを受けるのだったら、次は何?」 あるいは、もっと簡単な話なのかもしれない。「親をギョッとさせたい、それがファッション人間なんじゃないかしら」

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    クリストバル・バレンシアガ(Christobal Balenciaga)は、漁師の父とお針子の母のあいだに生まれた。育ちは慎ましかったが、意思は鉄の如く堅固だった。先頃ビクトリア&アルバート博物館で開催された展示には、1955年に作られたシルク タフタ ドレスのX線写真が公開され、素材を内側から美しく支えている構造を知ることができた。ことBalenciagaに関する限り、大切なのは隠された内側ではないだろうか。当時から現在に至るまで、もっとも熟練したデザイナーに数えられるバレンシアガは、ファッション業界の型にはまった体制にはまったく関心を払わなかった。クチュール組合への加入を拒絶したし、パリのランウェイ ショーが終わった1か月にコレクションを発表するやり方を譲らなかった。現在Balenciagaのクリエイティブ ディレクターを務めるデムナ・ ヴァザリア(Demna Gvasalia)と似ていなくもない。ヴァザリアは、過去数年、Vetementsのショーを各地のファッション ウィークの合間に開催したり、時によってはプレゼンテーションを重視して、ランウェイ ショーを行わないこともある。

    現在のロゴマニアは、ブランドを、貴重と平凡の両方の要素で認知する。どこにでもある平凡なロゴだからこそ、貴重な存在とみなす。ロゴによって、確たる特色を明瞭に表し、一目で身元を示すことを意図する。すっかりお馴染みになったこのトレンドを、Vetementsの2016年春夏ショーに遡る人もいるかもしれない。明るいイエローにDHLのロゴをプリントしたTシャツをデザイナー仲間のゴーシャ・ラブチンスキーに着せて、ランウェイに登場させたショーである。高級ブランドVetementsと関連されたことで、業務の確実な遂行を唯一の目的とするDHLは、ハイ ファッションの世界へ格上げされた。Tシャツが売れれば収益を手にするのはVetementsだが、着られることでDHLは認知を得る。DHLのトップさえ、あのシャツを着て写真に写っている。

    DHLに限らず、ファッション業界は運送会社に大きく依存している。スタジオからランウェイにサンプルを運ぶ、工場から店舗へ送る素材や製品の輸出入を仲介する…その他、あらゆる類の配送に莫大な金額を支払っている。DHLは、実際面の多くで、デザイナーやクリエイティブ ディレクターと同じ程度に不可欠な存在だ。DHLの制服を着て確実に製品を通関してくれる人たちがいなかったら、一体どうなるだろう。DHLはすでに、 Vetementsを含むファッション ブランドの役に立っている。それならいっそのこと、DHLという名前にもVetementsのためにひと働きしてもらってはどうだろう – これが、あのTシャツの趣意である。ヴァザリア自身が『ビジネス オブ ファッション』に語ったところによると、日常でしょっちゅうDHLのロゴを目にするからTシャツにしたという。毎日毎日、仕事の書類を託し、小包を手渡すたびにDHLのロゴが目に入るのだ。

    かつてBalenciagaは、免税店で販売される製品にライセンスを与えていた。批評家が指摘しているように、そんな古いライセンスの対象であったプリントを、クリエイティブ ディレクターのヴァザリアは故意に復活させている。Burberryのベイリーと同じく、ヴァザリアもまた、高級な土産物として販売された低価格のステータス シンボルに注目している。モーアが『ヴォーグ』に書いているが、Maison Martin Margielaでキャリアをスタートしたヴァザリアにとって、「平凡なものを流用することは完璧に彼の流儀の延長」であり、現在も「企業として」継続する「サブテーマ」の一環だ。年代物のBalenciagaではライニングぐらいにしか使われなかった斜めのプリントが、今ではセーターやカーディガンやヒール、それどころかサングラスにまで登場する。Balenciagaの名前はついているものの本物のコンセプトはまったく無視されていたライセンス製品が、本物のBalenciagaとして生まれ変わる。かくして、ブランドとしてのBalenciagaは正しく認知され、ステータスは回復された。微妙なニュアンスは存在しない。それはヴァザリアが評価する属性ではないのだから、当然のことだ。

    Balenciagaでのヴァザリアは、 ChampionやJuicy Coutureといったブランドのロゴも利用している。また、記憶に新しいミームの好例として、大統領選に出馬したバーニー・サンダース(Bernie Sanders)のキャンペーンの図案を流用し、「Balenciaga」に書き換えたデザインも使っている。「僕が想定している人たちは、ロゴに託された深い意味なんか、気に掛けないと思う」と、彼は同じく『ビジネス オブ ファッション』に語っている。「必ずしもパワフルなメッセージや意味を隠し立てしないで、企業や組織との繋がりを視覚的に暗示することが大切なんだ。実際のところ、舞台の裏側、いわば業界の台所で何が料理されているかを知ってるファッション業界人に受けるデザインさ」。Balenciagaから発表する2度目のメンズウェア コレクションには、「Kering」とプリントしたスウェットシャツが登場した。Keringは、Balenciagaのほかに、Gucci、Saint Laurent、その他多数の高級ブランドを傘下に抱えるコングロマリットだ。「僕が置かれている環境を反映しただけ」と、ヴァザリアは言う。クリエイティブ ディレクターという役職を同じくするミケーレもそうだが、ヴァザリアは組織の力学を承知している。どこに属していて、ボスは誰か。だが精神世界に目を向けるミケーレに対し、ヴァザリアは台所、すなわち巨大な企業体の内情を示唆する。

    ヴァザリアはBalenciagaのオリジナル ロゴを裏方から表舞台へとひっぱり出したが、現代版のロゴも誕生した。2017年9月に発表された新ロゴは、「公共交通機関で使われている明瞭な標識」にインスパイアされたという。若干、シュールなジョークの決めセリフのように聞こえなくもない。豪華なクルーズ船に山と持ち込まれるトランクを製造した一族の歴史、免税店での販売、グローバル化したファッション業界の加速、同じ組織の下で、同じ旅路を辿り、同じ目的地を目指す運送業者とファッション デザイナー。それらすべてを同じ類のものとして捉え、そして結局そんなものに大した価値などない、というオチで終わるジョーク。社会のあらゆる領域に偏在するロゴマニアにとっては、ファミリーなどという概念では物足りないのだろう。空港に匹敵する規模のブランドになれるとき、どうしてバッグを作ることで満足する必要があるだろうか? 事実上国家の規模になれるなら、市民であることにどんな意味があるだろうか? だがそれは、この考察を始めた最初の疑問と同じく、素朴な疑問かもしれない。すなわち、ファミリーなくしてビジネスとは何だろう?

    Haley Mlotekは、ブルックリンを拠点として活動しているライター。『ニューヨーク タイムズ マガジン』『ニューヨーカー』『n+1』『リンガー』などで記事を執筆している

    • 文: Haley Mlotek