デイジーの幻想

Prada、村上隆、ドレイクの共通点

  • 文: Rebecca Storm

デイジーがハイプの世界を席巻している。LoeweAcne StudiosPrada、そしてMarniのメンズウェア、2019年春夏コレクションのランウェイでも、デイジーが咲き乱れた。ここ数年の流行を見ると、タクティカル ギアがあり、全身黒のアスリージャーがあり、工事現場の作業員の色調があり、目もくらむようなハイテクを売りにしたスニーカーがあった。自己充足的で超効率的、好戦的ですらある、都会の住人のための服。2017年に始まり、2018年まで続いたウェスタン熱は、田舎から大自然への移動を示唆していたが、商業的感性が失われたわけではなかった。カウボーイは放牧地ではひとり孤独かもしれないが、これは無骨なまでに業界の姿を反映しているといえる。ちなみに、カウボーイの恋人やお気に入りの牛の名前にはデイジーが多い。となると、都会から出発したこの旅路の次の目的地が、都会の正反対、田園であるのは理にかなっている。

Marni、2019年春夏コレクション 冒頭の画像:Marni、2019年春夏コレクション

2019年の春夏コレクションで、Pradaはデイジーのモチーフをネクタイや、ショーツにまで広げた。Marniはデイジーに覆われたトラック ジャケットとバックパックを発表した。何もかもが無益に思えるようなとき、花の香りを嗅ぐと、気持ちが和らぐものだ。とはいえ、都会の中心ではそんなチャンスはほとんどないかもしれないが。都会で唯一、自然と戯れることができるのは、コンクリートの隙間から顔を覗かせるまばらに生えた雑草くらいだ。もしかすると、その雑草がデイジーなのかもしれないが、それならなおのこと、服として見につけた方がよいだろう。

作品のあちこちでモチーフに使われている、村上隆のデイジーに明らかになように、従来、デイジーから思い出すものといえば、レイブ カルチャーや90年代のドリュー・バリモア(Drew Barrymore)、反戦、平和主義、デイジーの花飾り、Marc Jacobs の香水などだった。こうした数多くのさまざまなシンボルを見てみると、デイジーは平和やセックス、サイケデリック文化などを同時に象徴するようになったと解釈できる。あるいは、デイジーは「始まり」を暗示しているとも言えるだろう。『GQ』の編集長、ウィル・ウェルチ(Will Welch)は、就任後第1号の表紙に、モボラジ・ダワドゥ(Mobolaji Dawadu)のスタイルングで、デイジー柄がプリントされたPradaのタートルネックを着たフランク・オーシャン(Frank Ocean)を起用した。「Daisy (デイジー)」という名前は、「day’s eye (デイズ アイ)」、すなわち「日の瞳」という言葉に由来する。日暮れとともに花を閉じ、朝日が昇ると同時に花を開く性質と、花の中心がぴったりなことから、このような名前がついたのだ。

デイジーは、従来、成熟した女性のものと考えられてきたが、2019年の秋冬コレクションでは、メンズウェアの至るところで見られた。「好き、嫌い、好き、嫌い」と花びらをちぎっていく花占いには、文字通りの花をもぎ取るという意味のほかに、比喩的には処女を奪うという意味が隠れている。花は、処女性の視覚的なメタファーであり、純粋さと無垢さを表す。デイジーの花粉を運ぶもっとも重要な昆虫は、南アフリカのナマクワランドに生息する、モンキービートルという、特殊なスカラベの一種だ。オスのモンキービートルは、夜になると花びらの間に入り込んで眠り、泡のような金色の花粉にくるまれてその身を飾り、昼になると、交尾相手を探して別の花へと飛んでいく。メスはデイジーの中でのみ交尾する。この二元的な「女性性」という理解、こそ、デイジーのイメージに対する私たちの先入観こそ、ここでデザイナーが挑もうとしていることなのかもしれない。

温室が発明される以前、花は、裕福な人にとってですら、限られた季節にしか手に入れられないものだった。オランダ黄金時代の花の静物画に見られるように、生気に欠け、花首が垂れ、ぼろぼろになり、開ききった牡丹の花が、ラグジュアリーの象徴だった。開花した花は希少だったため、これらの絵画では1度につき、ひとつの花ずつ構成されることが多く、完成には何年もかかった。そして、周囲を花で飾ることや、その飾られた花を多大な労力をかけて絵画にすることは、富と洗練された趣味を意味していた。ブートニエールやコサージュの先駆けとして、古代ギリシャでも、儀式や正式なイベントの際には、花や香り豊かなハーブの束が身につけられており、これらは悪霊を撃退すると考えられていた。花を身につけることが秘める贅沢の意味も含め、これは、現代でもスーツジャケットにアクセントとして花を挿す習慣として残っている。オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)によって、ラペルにグリーンのカーネーションをつけるスタイルが世に広まったが、これは彼の同性愛を表す暗号であるという噂もあった。花を身につけることは権力を持つことであり、同時にエンパワーメントされることでもあったのだ。

60年代半ば、戦争と軍によるリソースの浪費が、自由奔放に生きる平和主義者のカウンター カルチャーを生んだ。またこのカルチャーには、多分にサイケデリックな側面があった。1964年、JFKの死の結果大統領に就任したリンドン・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)は、大統領選選のキャンペーン中、物議を醸す政治広告を放送した。そこでは、少女がデイジーの花びらを摘みながら、おぼつかない様子で10まで数えている。すると突如、映像が止まり、核爆発の映像が流れ、アナウンサーの声が響き渡る。「これには未来が賭かっている。神の祝福を受けたすべての子どもたちが生きていける世界を作るのか、暗黒の世界に落ちるのか。私たちは愛で結ばれるか、死ぬしかない」。ジョンソンは地滑り的に勝利した。この勝利はもしかすると、「デイジー」の広告としてよく知られる、1回だけ放送されたこの政治キャンペーンのおかげだったのかもしれない。60年代後半、バーニー・ボストン(Bernie Boston)が撮影した「フラワー パワー」の写真は、ベトナム戦争に対して抗議する人が、1輪のカーネーションをライフルの銃身に滑りこませる姿が写っている。もしかすると、均衡を要する自立したエコシステムこそ、平和の完璧なアナロジーなのかもしれない。花の中でも特にデイジーは反戦運動のシンボルとなり、アレン・ギンズバーグ(Allen Ginsberg)は、それをフラワー パワーと呼んだ。花は繊細で、すぐにバラバラになってしまう。そして長くは持たない。だが、その種子は違う。

レイブ フライヤー、Aaron Ringe

Acne Studios、2019年秋冬コレクション

60年代から70年代にかけての反戦のイコノグラフィーは、90年代の楽観主義的な冷戦後の風潮にもうってつけだった。デイジーは、レイブ カルチャーや、平和、愛、団結、尊敬というPLUR的楽観主義、そしてユートピアのシンボルとなった。今日では、もはやデイジーをこの歴史的背景を抜きに語ることはできない。Acne Studiosの2019年秋冬メンズウェアのコレクションでは、透明のアセテートに押し花を閉じ込めたブローチやボタンをつけた、セーターやコートを着たモデルたちが、ランウェイを歩いた。ショーはマジック マッシュルームでのトリップに対するオマージュを表現していた。Raf Simonsの2019年秋冬コレクション、およびEastpakとのコラボレーションで、バックパックやコート、シューズを作ったが、そのすべてにデイジーの花飾りが並んでいた。あちこちを飛び回るモンキービートルのように、デイジーの実り多いシンボルを、人々の考えに授粉して回っているのだ。『資本主義リアリズム』の中で、マーク・フィッシャー(Mark Fisher)は、「文化的対象は、それを見ようとする新しい目がそれ以上存在しなければ、その力を保ち続けることはできない」と書いている。となると、私たちが自由や平和を信じるのであれば、デイジーを身につけることは、ほとんど義務と言ってもいいのではないだろうか。

ファッションはあいわからず、より広範囲において、トリップ状態に向かっている。これは、日常の窮状から逃げ出すための、ひとつの方法だ。私たちが自然に視線を向けるのは、言うまでもなく、そこにトリップに必要なあらゆるツールがあるからだ。マリファナも、マジック マッシュルームも、メスカリンもあるし、5-MeO-DMTのヒキガエルもいる。意識が変化するにつれ、私たちは、自分自身の外部にあるものと、もっと繋がっているような気がする。生きて、息をしている振動を感じる。この大都市での生き方を理解するための手段なのだ。現実的には、私たちはその境界に長く留まることができない。だから、その境界から戻ってくるときに、何かを一緒に持ってくる必要がある。2017年のアルバム『More Life』に先駆け、ドレイクはデイジーのタトゥーを彫った。そして2018年には、OVOのカプセル コレクションで村上隆とコラボレーションを企画した。デイジーは皆のためのものだ。どうか思い出してほしい。花の匂いを嗅ぐため立ち止まること、せめて、花のモチーフを使ってそれを装うことは、自分のためにできる何よりも大切なことなのだ。デイジーを見せること。それがフラワー パワーなのだ。

Rebecca StormはSSENSEのフォトグラファー兼エディター。『Editorial Magazine』のエディターも務める

  • 文: Rebecca Storm