マッシモ・オスティのリエンジニアリング

多作な
イタリア人デザイナーの
遺産を紐解く

  • 文: Romany Williams
  • 画像提供: Massimo Osti Archive提供、その他

近代におけるスポーツウェアの歴史は、ボローニャ(イタリア)にある修復された1930年代の農家の中で眠っている。6,000点を超える衣類と55,000点以上の生地サンプルには、それぞれに過去の歴史がまつわる。これらの大半は、マッシモ・オスティ(Massimo Osti)の手によって細心に収集され、研究され、分析され、新たな命を与えられた。

1970年代初頭、グラフィック デザイナーであったオスティは、Tシャツ デザインの誘いを受けた。そこで、自分で制作したグラフィックを、当時のイタリアでは一般的でなかったシルク スクリーンの手法でプリントした。小規模なコレクションは、ほぼ瞬時に完売した。このサイド プロジェクトの成功がきっかけとなって、2005年に59歳で没するまでの生涯にわたり、オスティは衣類の実験的イノベーションを続けることになる。1971年から2000年代の初めにかけては、C.P. Company、Stone Island、Boneville、Left Handといったブランドを立ち上げた。Supreme、NikeLab、KanyeGoshaなど、現在のファッション界に欠かせない存在からも高く評価されている。左腕にStone Islandのバッジを誇示したりC.P. Companyのゴーグル ジャケットを着ることは、多くの人にとって、流行より本質の重視を象徴する。「自然、車社会、汚染、都市での冒険...様々な環境を通して地球を飛び回る男のために、私は洋服をデザインする」。オスティは語っていた。「私の作る服は現実のニーズに対応しなくてはならない、それが私の考え方だ」

オスティはエンジニアであり、実用的な「着るオブジェクト」のデザイナーを自称した。いかなる状況にもシームレスに対応できる機能性を求めて、絶えず破壊と再創造を繰り返し、伝統と変革の融合に没頭した。特異な業績が立証する比類のない創意は、過去を尊重すると同時に未来を招来する遺産である。

TELA STELLA


1996年、オスティのスタジオの壁には、ボローニャの無名画家ピエロ・マナイ(Piero Manai)の作品が掛けられていた。マナイは、肉体が語る言語に魅せられていた。誇張した背骨の湾曲 、曲がりくねった足の靭帯。印象的に暗鬱な人物を描いた圧倒的な木炭画は、鑑賞者に切迫した内省を要求する。マナイの作品は体験の構造を露わにする。マナイが裸体を通して人間性を表現したのに対して、オスティは生地を通して語った。

Stone Islandは、1982年、軍用トラックに使用された防水布からスタートした。デザインに高度な研究が注がれる軍の装備を熱心に収集していたオスティは、防水布に可能性を見た。そのままではあまりにも硬すぎるので、ストーンウォッシュ加工で柔らかく処理した。そしてさらに実験を重ねた結果、新しい耐風生地「Tela Stella」(テラ ステラ)が誕生した。オスティは、人体の複雑な形状をテキスタイルで表すために、衣服と人体の恒常性を達成する生地を設計した。目的を内蔵した実用的な生地を着るオブジェクトに転換することで、私たちが身に着けるものと私たちの感触の共生関係に対する信念を表現した。

ICE JACKET


Stone Islandでは、1991年、感熱性によって情報を視覚化する「Ice Jacket」(アイス ジャケット)が完成した。気温の変動によって色が変化するIce Jacketは、まるでカメレオンのごとく色相を変える。実際的かつ合理的だったオスティは、知性に訴えるスポーツウェアを生み出した。

オスティが従来のファッション ショーを信頼しなかった理由は、ここにある。彼にとって、意図的に仕組まれたファッション ショーの雰囲気は、作品の特殊性を分析する妨げだった。1985年、オスティはブランドの専門性を紹介する目的で、「C.P. Magazine」と名付けたカタログ マガジンを編集した。原寸大の画像を生成できるCanon機器を完備したボローニャの写真スタジオでは、ジャケットを鮮明な大フォーマットで撮影、コピー、スキャン、ライトで照射し、詳細に解説することが可能だった。こうしたやり方は、CarharttやIssey Miyakeなどのキャンペーンにも影響を与えている。

MILLE MIGLIA


1988年、猛烈な研究開発がC.P. Companyの「Mille Miglia jacket」(ミッレ ミリア)ジャケットとして具体化した。かねて日本の自衛隊が使用するガス防護フードを収集し、研究を重ねていたオスティは、ゴーグルを現代に合わせることを決定した。そして、C.P. Companyがイタリアの伝説的なクラシックカー レース「Mille Miglia」のスポンサーになったとき、オスティの作品は完璧な名前とふさわしい場所を獲得した。C.P. Companyのアイテムには例外なく、「Ideas from Massimo Osti」(マッシモ・オティスのアイデア)と記したタグが付いている。

当時、イギリスではまだマーガレット・サッチャーが首相を務め、高い離婚率、失業率、貧困率を記録していた。Mille Migliaはそこでも存在意義を見出した。上層階級による支配がますます進行しつつある体制で、フーリガンや権利を持たない無力な若者たちが欲求不満を表現する理想の器になったのだ。C.P. CompanyとStone Islandが提供したオスティの創作は、サッカーに熱くなるイギリスで、スタジアムの観客席から独自のファッションを生んだテラス サブカルチャーや、警察との接触を回避したり相手チームのファンを威圧する目的で高価なデザイナー アパレルを選択したカジュアル サブカルチャーにも歓迎された。イタリアでは、パニーニ カフェにたむろする若者たちが、その優れた融通性に魅了された。

未来を読むデザイナー、オスティは、過酷な世界状況に備える衣服の重要性を予見していた。「彼はある種の社会学者だったわ」と夫人のダニエラ・ファキナート・オスティ(Daniela Facchinato-Osti)は言う。「人々を観察して、足りないもの、まだこの世にないもの、必要なのに人々がまだそれと気付いていないものを理解しようとしてた」。今日、Mille Migliaのビンテージは、オンラインで約17万円近い値がつく。不平等が蔓延する世界で、生き残りにはプレミアム価格が要求される。

ICD+


1996年、イタリアの映画監督ガブリエル・サルバトーレ(Gabriele Salvatores)は、今やカルト的なサイバーパンク映画となった「Nirvana」を製作中だった。主人公のジミーはコンピューター ゲームのプログラマー。デジタルでデストピア的都市の景観を作り続け、絶えず闇の中でスクリーンの青い光に照らされている。この奇妙に安定した環境にふさわしい衣装をジミーに着せたいと考えて、サルバトーレはオスティに打診した。相談に触発されたオスティは、コンピュータ画面のバックライトからの不穏な光を反射する、ポリ塩化ビニールを素材としたテクニカル アウターウェアの制作に取り掛かった。

2000年、ICD+コレクションが登場した。PhilipsとLevi’sの協力を得てオスティがデザインしたIDC+は、ウェアラブル電子装置を搭載した商業的に初の衣類だと広く認められている。テクノロジーが人間体験に不可欠な要素になることを、オスティは理解していた。多忙中毒の社会では、効率が要になるはずだった。4種類のスタイルが発表されたIDC+ (Industrial Clothing Division)ジャケットには、Philips社の携帯電話用、Rush MP3プレイヤー用、ヘッドフォン用のカスタム ポケットがあり、それぞれが着脱可能なワイヤー ハーネスでコネクトする。各端末が人間工学的かつ見た目にも美しいパッケージとして同期するICD+は、着る人をデジタル化されたパーソナル エリア ネットワークへと転換した。たったひとつのiPhoneが私たちのあらゆるニーズを十分に満たすようになる何年も前に、オスティはひとつのジャケットで生活と仕事を融合した。

1981年、ボローニャ。C.P. Companyの最新コレクションを仕上げる直前、オスティは工場が全焼したことを知らされる。すべてのオリジナルのサンプルとブランドの歴史の大部分が灰になった。翌年、新しく立て直した工場に銃で武装した8人の男が押し入り、オスティの2番目のブランドBonevilleのデザインとスケッチを根こそぎ強奪した。スケッチを盗んだのは競合ブランドのひとつだと、オスティは確信していた。しかし、彼は真の発明家らしく行動した。再び、ゼロから着手したのである。

  • 文: Romany Williams
  • 画像提供: Massimo Osti Archive提供、その他