体験レポート:Levi’s カプセル コレクション

サラ・ニコル・プリケットが描くデニムの夢

    このジーンズはスキニーじゃない。ストレートなんだけど、パパやボーイフレンドが穿いてるジーンズとは違うし、ママのとも違う。とりたてて愛する人を想起させないジーンズ。まさにマリリン・モンローとして知られる前のノーマのジーンズ。1945年の晩秋、北カリフォルニアの牧場で撮影されたジーンズ姿のマリリン・モンローは、まだマリリンではなく、金髪に染めていない無造作なブラウンのヘアがくるくるカールして、無垢な微笑みを浮かべている。戦時中の製造に関する情報の制限なのか、コピー商品だからなのかはわからないが、マリリンと同じように、そのジーンズにもブランドがついていない。赤いバンダナをベルト代わりにして、同じく赤いちっちゃなブラウスの裾は胸の下で結ばれている。縮んでいないごわごわしたデニムがヒップに触れる感触、ほのかに女性らしい曲線を描くお腹とジーンズのウエストの間に開いた三日月のような隙間…私もそうだけど、なんだか自分がスレンダーな感じがして、きっとマリリンもそういうのが気に入ってたに違いない。

    今まさに私が穿いている、そしてこの記事の主役であるLevi’sは、ブランドとしての主張を最小限に抑えている。ただし、ジーンズがジーンズたる所以のポケットとリベットは、きちんと揃っている。ゴールドラッシュも終焉に近づいていたころ、ネバダ州リノに住んでいたある婦人が、特大サイズの夫のために、丈夫なダック地のズボンを仕立て屋のジェイコブ・W・デイビス(Jacob W. Davis)に注文した。夫人から指示された細かい条件に応えるため、デイビスは銅リベットを使って股当て部分とポケットを補強する方法を考案した。それをデイビスは「リベット パンツ」として特許にしたかったのだが、費用の68ドルを捻出できなかったので、材料の仕入れ先だったリーバイ・ストラウス(Levi Strauss) へ話を持ち込んだ。ストラウスはデイビスと同じロシア系ユダヤ人の移民だったが、違いは現金を持っていたことだ。その結果、1873年、J.W.’sではなくLevi’sというブランドが生まれ、その100年後には、デイビスではなくストラウスの子孫がひとり残らずミリオネアになった。(肥満体の夫のズボンを注文した件の婦人に関しては、匿名のまま、社史にも言及がない)

    今、私が穿いてるジーンズは、はるかカナダから送られてきたもので、SSENSEが別注した数量限定のコラボレーションアイテムだ。Levi’sの際立った特徴のいくつかは姿を消している。まず、ステッチのカラーは、オリジナルのオレンジか褐色ではなく、ホワイト。ポケットはただの長方形で、後ろから見た時にすぐにLevi’sとわかるトレードマークの「アーチ形のステッチ」もない。ジッパー フライに代わって、ボタン フライ。1930年代半ばに導入されたクラシックなレッドのタグではなく、ネイビー ブルーのタグは、1950年代初頭のスタイルとの繋がりを示している。当時、ジーンズの値段は3ドル50セントだった。今の37ドルに相当するが、現在の価格はレッド タグが60ドルからで、ブルー タグなら148ドルから。そしてSSENSE限定版は190ドルだ。ひとつの違いは、2頭の馬のイラストを描いたパッチに、本物のレザーが使われていること。Levi’sは、コストを安く上げるため、1950年代以来コットンペーパーを混ぜたフェイク レザーを使ってきた。

    このように様々な要素を省略したジーンズでは、完璧なカットが際立つ。ほとんどトラウザーズに近いシャープな印象で、よく考えてみると、『帰らざる河』(1954年)でケイ・ウェストンに扮したマリリンが穿いていたLeeのジーンズを思わせる。デニムが登場した1870年代半ばを舞台にしたハリウッドのウェスタン映画だが、ケイにジーンズを穿かせたのは、二つの点で時代錯誤だった。第一に、カウボーイがLevi’sを穿くようになったのは、1920年代の初め、ベルト ループ付きの501シリーズが登場してからだ。第二に、女性用の701シリーズが誕生したのは1930年代半ば。明らかに、ヨーロッパからアメリカを訪れた金持ちの女性たちが、牧場の逞しい男たちを見て、デニムを羨んだせいだ。1935年頃の『Vogue』に掲載されたPR記事には、おしゃれな二人の女性と馬の写真が使われている。おそろいのジーンズは、裾を折り返し、ウエストにはきっちりベルトが巻かれている。広告のコピーによれば、「女性らしいラインに合わせて、しかもデニムらしさを損なうことなく、ほんの少しだけカットを変えました」

    馴染みの場所にいる著者Sarah Nicole Prickett、ライターThora Siemsen撮影 冒頭の画像:『アートフォーラム』オフィスにて、David Velasco撮影

    ジーンズの決め手はカラーだ。闇の中で艶を放つ、インクみたいなインディゴ。これほど深く鮮やかなブルーを出すには、ノースカロライナ州グリーンズボロのコーン ミルズ社工場がなくなった現在、メキシコのパラスにあるコーン ミルズ社工場でデニムを染色し、然る後、 トルコにあるLevi’s社の工場へ送る必要がある。私のもとへ届けられた小包を開いて、ネイビーの薄紙から艶のあるブルーがのぞいた途端、ジーンズにはこの色しかありえない気がする。寝室の戸棚に積み重ねたデニムにちらりと目をやると、エリザベス・ビショップ(Elizabeth Bishop)が『Brazil』(1962年出版)で描写したブラジル女性の気持ちがよくわかる。ショッピングに出かけたものの、目にしたものを理解できなくて、疑問に思うのだ。「アメリカみたいなお金持ちの国に住んでる人たちが、どうして色褪せたブルーが好きなのかしら?」。偽りのロマン主義、つまり、いつまでも青春を引き延ばすことへの執着だと、ビショップは解説する。もっと馬鹿らしいもうひとつの理由としては、いかにも着古した外見が、ジーンズの先どりを暗示すること。つまり、ジーンズを穿くことがまだ選択であったときから、いち早くジーンズを採り入れたことを示すというわけだ。だが現在の選択は、ジーンズを穿くか否かではなく、どのブランドのどのスタイルのジーンズを穿くか? 毎日延々と繰り返される作業のごとく、選択は無限だ。


    『ニューヨーカー』のスタッフとしてファッション批評を執筆していたケネディ・フレイザー(Kennedy Fraser)は、ジーンズを取り上げた1973年の記事で、「世界中の歩道の上にブルーの霞がたなびいている」と嘆息した。ジーンズの席巻をどう理解すればよいものか、途方にくれたらしい。フレイザーがファッションについて書き始めた1970年は、「平等を目指す全米女性のストライキ」の先頭で、ベティ・フリーダン(Betty Friedan)が若い女性と腕を組んでフィフス アベニューを行進した年である。ジーンズ姿だったその女性は、フリーダンの記憶では「ブルー ジーンズを穿いた若い急進主義者のひとり」に過ぎないのだが、当時のニューヨークで「ブルー ジーンズ」と「急進主義」はほぼ同義になった。ところが一方では、アメリカの軍放出品ショップで目にした物品にインスピレーションを受けたイヴ・サン・ローラン(Yves Saint Laurent)が、ブルー サテンのジーンズをLevi’sの10倍の値段で売りに出した年でもある。おそらくフレイザーは郵送されてきた『ヴォーグ』1971年1月号を手に取り、「Levi’s、プルオーバー、そして素敵なベルトが、イージーでアクティブなライフスタイルにぴったりの世界のユニフォーム」と謳った特集記事を読んだのではないだろうか。1971年3月3日の新聞ではリーバイ・ストラウス&カンパニーが上場企業となったことを、そして1972年8月6日の新聞では6か月で2億2600万ドルを売り上げたという同社の報告を、おそらくフレイザーは読んだことだろう。ちなみに、Levi’sの会長でありリーバイ・ストラウスの甥の娘婿にあたるウォルター・ハース・シニア(Walter Haas Sr.)は、「Levi’sはライフスタイルの表現になった」と語った。

    ついに、1973年9月12日にテキサス州ヒューストンのニーマン マーカスで行われた祝賀会への招待状を受け取るに至って、フレイザーは呆気にとられたのではないだろうか。会場では、「世界のファッションに対する、アメリカでもっとも重要な貢献」を称えて、Levi’sを代表するウォルター・ハース・シニアが表彰されたのである。急進的な若い世代がブルー ジーンズを愛用する現象と同時進行した「ネオリベラリズム」―この用語が当時使われていたとすればだが―と呼ぶにふさわしい流れだった。しかしフレイザーにとっては、「デニムが自由をもたらすという幻想」でしかなかった。惑わされやすい中流階級の中年層が服装の規範に「抵抗」を試みるよりもっとたちが悪いのは、もっと若くておしゃれなはずの消費者のデニムの着方だった。色褪せて、飾り気がなく、ラベルは引きちぎられ、だぶだぶで、くすんだ色のワッペンさえ付いていることがある。それを、フレイザーは「全体主義モード」と評した。

    「デニムという同一性に身を包むと、むしろ着る人の個性が際立ち、肌になじむブルージーンズが身体の多様性を現すものとなる、というのが60年代ジーンズ派の言い分だったが、当時はまだしも、アクセサリーや装飾を使った自己表現が許されていた。現在の新しいスタイルは、実質的に、そんな気紛れさえ排斥する。社会の20代や30代といえば、元来自由な表現が一番大切だったはずなのに、狂信的なほど着衣の色彩や個性を拒絶するのは、ひとつの時代が終わったことを示すもうひとつの指針だ。60年代後半のブルー ジーンズは、多少なりとも闘争の象徴であったし、ブルー ジーンズを穿く行為で、戦争の終結と体制の変化を要求していた。ところが今やジーンズは、おとなしく身を屈めて面倒に巻き込まれない姿勢の表れだ」

    ダウンタウンの元急進主義者たちに向けられた鋭い批判と比べ、社会への関心は低くスタイルへの関心は高いアップタウンのワイフたちが、おかしな具合にジーンズをとり入れていることに対して、フレイザーの視線はもっと優しい。

    「デニムを愛好するこのグループは、手入れの行き届いた肢体を誇示するタイトなジーンズを選ぶ。最新ファッションだと信じて一生懸命に追いかけているけれど、デニムの世界では奥手…確かにファッショナブルだけど、古臭いファッショナブルでしかない」

    ふと、そんな「デニム ファン」になった私を鏡に映してみたくなる衝動に駆られる。そこで、お金持ちの女性になった気分で、ネイビーのラッピング ペーパーを開く。出てきたのは、ジーンズのほかに、マッチしたクロップ ジャケット、ボタン留めのシャツ、そしてロング スカート。タグ類を全部とってしまうと、私は着てみることさえせず、すべてを大きめのスーツケースに詰め込んでニューヨークへ飛んだ。

    現実にはお金持ちでないことの問題を再認識したのは、スーツケースを開いたときだった。完璧にシャープなフィットと艶のあるインディゴのジーンズと一緒に着ると、いつも愛用しているTシャツやセーターが、おろしたての真っ白なスニーカーを穿いたときよりもっと、くたびれ、みすぼらしく見えて、シックには程遠い。つまらないスタイルで過ごすことが多くなっていたのが、一目瞭然だ。いつも同じ気候の砂漠暮らしに馴れてしまって、レイヤードやミックス&マッチ、一言でいうなら文明社会にふさわしいスタイルを忘れてしまった。スニーカーかフラットなシューズの代わりに、私が持ってきたのはパーム スプリングスのドラッグストアで買ったプール スライドとプール スライドみたいなデザインのホテルの備品のスリッパ。軍の放出品は揃っているくせに軍服はなし、といったところだ。SSENSEが4点を届けてくれたのは、サービス過剰などではなく、まさに僥倖だった。このジーンズに似合うのは、まったく同じ生地のジャケットしかありえない。カナディアン タキシード、ただしフレンチ フライがフランス式である程度にカナダ式という意味で。

    まとわりつくような蒸し暑さと肌寒さを行ったり来たりしていたと思ったら、何の前触れもなく突然、上に着ているものを脱ぎたくなるほど気温が上昇する…そんな9月初旬の気候は、新学期の最初の登校日を思い出させた。家を出るときはコーディネーションに満足してたのに、お昼休みになる頃には、むず痒くて暑苦しい。

    著者の夫Jesse撮影

    正確には、SSENSEのジーンズとジャケットを着ると、すぐに頬を赤らめる内気な少女だったハイスクール2年生の私に戻った気がする。全てにおいてそうだったように、デニムに関しても奥手だったティーンエージャー時代の私は、みんながヒップボーンのベルボトムを穿いてる中でダーク ウォッシュのストレート レッグだったし、ミシガン州サラトガのGapのアウトレットでジーンズに合わせるデニム ジャケットを買ったのは、ハイスクールの3年生になる前の夏だった(今日に至るまで思い出すたびに胸が痛むのは、自転車のアクシデントでジーンズが裂けてしまったことと、新学期の半ばにコンピュータ教室の椅子の背にジャケットを置き忘れてしまったこと。どちらも、取り返しのつかない思いを味わった)。それから、2年前に『POP』マガジンの表紙に出たブルック・シールズ(Brooke Shields)みたいな気分もする。彼女がハイスクール2年生のときに起用されたかの有名なCalvin Kleinキャンペーンに捧げるオマージュだったけど、もちろん、私の場合は「ブルック・シールズみたい」には見えない。

    ジャケットスカートを着ると、オクラホマ州タルサにある、聖書を律義に信仰する福音派の巨大な教会で、日曜日の長い時間を過ごせそうだ。シャツのボタンを上まできっちり留めて裾をスカートの中に入れると、風に転がるタンブルウィードの草のように、空想の恐怖が忍び寄る。今にも少年が馬で駆けつけ、町の銀行が強盗に襲われて、夫の保安官が撃たれたと告げるのではないかしら。

    だけど、シャツのボタンを外してジーンズにベルトをすると、ミツキ(Mitski)が最新アルバムで表現した「カウボーイ」風になる。

    ハリウッドのウェスタン映画に煽られて、リーバイ・ストラウス&カンパニーが市場を支配するに至った頃、構造主義が絶頂期を迎えていた。構造主義はフランスの言語学者であり民族誌学者であったクロード・レヴィ=ストロース(Claude Levi-Strauss)が打ち立て、ロラン・バルト(Roland Barthes)らの信奉者や批評家が続いて有名になったのは、至高の摂理が作用した偶然に違いない。だが、構造主義に偶然は存在しない。リーバイあるいはフランス語読みでレヴィという名称は、「結びつけるもの」、まさに銅リベットを意味する。ブルー ジーンズの注文―それも主にアフリカからだったが―が入らない年は、人生を通じてほとんど皆無だと語ったリーバイ・ストラウスは、そう語ることでジーンズの需要がいかに高いかを言いたかったのかもしれない。たが同時に、ある明白な事実について素通りした可能性がある。それは、労働者のための着衣が、それを共に考案した労働者と仕立て屋ではなく、特許申請料を支払った資本主義の仕立て屋によって特許を取得された時点で、ジーンズの宿命は定まったということだ。さらに言えば、同じ原材料、同じインディゴ染めという条件が揃えば、世界のあらゆる場所でリーバイ・ストラウスが登場していた可能性だって当然ある。

    [[構造主義の一例:
    カルバン・クライン曰く、ジーンズ = セックス。だけど、もし本当にジーンズがセックスを代用するようになれば、この定式自体が意味を失う。ホルストン(Halston)は、Calvin Kleinを評して、ブルー ジーンズに自分の名前を書くのは豚くらいのものだと言った。トミー ・ヒルフィガー(Tommy Hilfiger)は、マリリンが1954年の映画セットで着用したジーンズ3本を計5万ドルで買い取ったと、タブロイドで読んだことがある。それらのジーンズに自分の名前を書くかもしれないと言ったらしいが、たぶん「冗談」だったんだろう。]]

    先頃『ニューヨーカー』に執筆した自伝的なエッセイで、ジャネット・マルコム(Janet Malcolm)は、小学生だった1940年代に、アンナという名前の同級生のすべてを羨んだことを回想している。「とりわけ、彼女のはいている褪せた色合いの柔らかなブルー ジーンズが羨ましかった。それに引きかえ、私のはいつも紺色でごわごわしていた。当時は予め色落ち加工されたジーンズを買うことはできなくて、明るいブルーと柔らかさは自分で手に入れるものだった」。ここで、「手に入れる」という言葉が大きな意味を持つ。マルコムはのちに、アンナのジーンズが程よく褪せた色合いだったのは、年上の兄弟からのお下がりだったからかもしれないと気づくのだが、いずれにしても、アンナも彼女の素敵なジーンズも、途方もなく遠い存在に思えたのだ。曰く、「私は、秘かに想いを寄せながら、我知らず、想いが報われないことに安心を感じる、ごく普通の目立たない少女たちのひとりだった」

    私はこのジーンズを穿いた私自身を好きだろうか? 長年にわたって「デコンストラクト」という形容が一番ふさわしいデニムを穿き続けた後、Unicode 1.0の絵文字のごときLevi’sに穿き替えた私は、まるで別人になった気がする。いわば、真顔で「常識」という言葉を使いながら「社会」と言うときには皮肉っぽく“カギ括弧”を作るジェスチャーをして見せる人、ポスト構造主義に強く反発しながら脱構築的テキストの理解を自慢げに拒否する大学生、あるいはタトゥーを入れないこと、ふしだらではないこと、クィアではないこと、異性と核家族を築くことのほうが、そうしないことより実はもっとラディカルな行為だと言い張る人のような…。あるいは、教育があり洗練された人口層が共有する進歩の幻想から離れるようとする際に、つまずいたあげく、後ろ向きに淀んだ有害な沼にはまり、聖書を引き合いにするようになってしまった人みたいな気分だ。このジーンズの厚みと張りは専門的に言えば「リジッド デニム」だし、それに相応しい思考方法の方向を指しているかのようだ。往々にして、興味を感じさせるのではなく、「馬鹿正直」な考え方を持つ人々のように。

    Stephanie LaCava撮影

    前出のフレイザーが味わった「気まぐれ」に対する郷愁を思い出し、硬さには装飾で打ち消すのが賢いやり方ではないかと思い付いた私は、スーツケースを掻き回して、古着屋で買ったもっと明るく派手なアイテムを選び出す。オリーブ グリーンのスエードのハイ ヒールに、ライムのロー ヒール。にぎやかなアニマル プリント。ヘアは、マリリン風あるいはソビエト女優のスヴェトラーナ・スヴェトリクナヤ(Svetlana Svetlichnaya)風、あるいはマリリンやスヴェトラーナを真似た、ソビエト時代のロシアにいそうな空想上の女の子のように、ブロンドにブリーチして、トーニングは一切なし。そうして、ぐずぐずといつまでも灰色に垂れこめた空とは対照的に、私の出で立ちは時として初期テクニカラーに近い様相を呈すようになった。私としては新境地だし、知り合いの人たちでさえ私だと気づくことが少なくなったのは、多分そのせいだと思う。

    ラッキーなことに、私は、自分で自分について考えることより、他人が私について言うことに興味がある。ファイアー アイランドのビーチ ハウスで、知人のボーイフレンドが、私と同じイニシャルのライターについて話し始めた。最初は私のことだとはわからなかったし、明らかに彼も本人が目の前にいることはわかっていなかった。知り合って間もない友人には、私が自分で「クールだと思う」かと尋ねられた。冗談じゃない。その証拠に、ほぼ6年の付き合いになる友人が私のことを説明するのに使った表現は、私がママを描写したときに使った表現と同じだ。これも冗談であってほしかったが、彼女は本気だった。「あなた、ほとんどアメリカ人みたい」とのたまったもうひとりの旧来の友人とは、アッパー イーストのギャラリーで顔を合わせた。かつてローワー イーストサイドで幅をきかせていたけど、今はすっかり改心した不良アーティストの新しい作品を見るべく、待ち合わせたのだ。私が立っていた横に、とても写実的に星条旗を描いた作品があったのも功を奏した。床屋をやっているという男性がダンボ エリアのバーの外で私に言ったお世辞は、あまりに面映ゆくて、とてもここには書けない。ともかく彼は、飛行機のチケットを買ってあげるから、そのうち会いに来てくれと申し出た。「一体私を何だと思ってるの?」と聞き返したが、その答えを聞きたいと思ったのも、答えを聞いた後にさほど後悔しなかったのも、我ながら意外だった。

    このジーンズは、多分、空の色に色褪せるまで穿き続ける最初のジーンズになるだろう…私の人生がそこまで長ければ。おそらく、表面的には反資本主義の粛清として、持っているほかのジーンズを全部処分するだろう。これを書き始める前に読んだ本は、映画監督デレク・ジャーマン(Derek Jarman)の回顧録『Smiling in Slow Motion』(1991年出版)だった。彼が追想するのは、パットという名前の男性だ。貴族趣味で、三流映画が好きで、ディナー パーティに同伴するにはうってつけのパットは、いつもブルー ジーンズとカウボーイ ブーツ姿のジゴロだった。パットは「常に無垢な白紙、一種の神秘を感じさせる空白で暮らしていた」と、ジャーマンは言う。ノーマが穿いていたジーンズの神秘とよく似ている。いつも文無しで、あちこちを泊まり歩きながらも、パットは「すぐに笑い、よく笑い、さっさと見切りをつけて別の目標に向かうことができた」。写真さえ見たことのない、「スタイリングのアイドル」がいるのは、美しく新しい体験だ。

    Thora Siemsen撮影

    Sarah Nicole Prickettはカナダ出身のライター

    • 文: Sarah Nicole Prickett