不要の過剰な集積
ミニマルなライフスタイルの内実
- 文: Adam Wray
- 写真: Rebecca Storm

太平洋の真ん中に、「太平洋ゴミベルト」と呼ばれるゴミの渦が旋回している。自然と人工の体系のおぞましい絡まりは、渦を巻く海流に引き寄せられ捕らえられて、拡大を続ける廃品と化学汚泥の塊である。その中を横切る船からでさえ、目にするのはほんの一部に過ぎない。太平洋ゴミ ベルトは、ポスト産業化時代の不健全な副産物として地球上に存在し、成長と循環を継続する。
私たちのライフスタイルが混沌の塊へ向かっている事実に、これ以上ふさわしいメタファーがあるだろうか。宇宙に存在するゴミの塊は、ほぼ目にすることはなく、したがってそれについて考えることもない。しかし、私たちが望まざる不要物は、視覚的にも物質的にも、私たちに影響を及ぼす。私たちのクロゼットは滅多に袖を通さない洋服で溢れ、結局はゴミ袋に詰められて、通りに点在する寄付用のコンテナに投げ込まれる。私たちが日々移動する環境はあまりにも広告で飽和し、もはや気付くことさえ滅多にない。デジタル空間も、さほどましなわけではない。アドブロックが機能していても、インターネットは目まぐるしい。ケーブルでさえ、引き出しの中に放置しているうちに、なぜか絡み合ってしまうような気がする。

2000年代初頭、アート、建築、デザインの世界で再浮上したミニマリズムの美学は、たちまち、家内工業や自分のライフスタイルを公開するライフスタイル ポルノへと発展した。不確定な圧倒的世界のなかで、自分の周辺を今一度自分のコントロール下に置く方法として、ミニマリズムの枠組みが利用された。そして、ミニマル スタイルの流行から非常に多くの書籍や記事、趣味の良い衣服や家具などが登場した結果、皮肉にも、ミニマリズム自体がほぼ一種のガラクタの山と化してしまった。映画「ファイト クラブ」で耳にした寮の部屋の哲学、つまり「所有する物に最後は所有される」の裏返しだ。私たちは、「少なさ」へ固執することによって、新たな方法で物に支配されるようになった。

ガラクタと共に暮らすことはモラルの欠如であり、自分自身と自分自身の周辺環境を制御する能力の不備であると、ミニマリストの教義は暗味する。本を売ったりクリック数を稼ぐには効果的なシナリオだ。しかし、私たちが共有する文化的な問題の重荷を個人に押し付けるのは不公平だ。私たちは、産業革命で幕を開けた集積の時代に生きている。その間、物を生産し消費する能力と欲望は、足並みを揃えて前進してきた。より速く作り、より効率的に流通し、より安く売る。金銭が連鎖を移動する一方、物は沈殿物のように堆積する。

このような社会的機運に抗うには、飛び抜けたリソースが要求される。少量ではあるけれど良質なものを持つには、それらを購入しなくてはならない。メールの受信箱を常にゼロであるなら、受信するメールに片端から返信する時間がある、もしくは常に受信箱を空にする時間があるということだ。今や、「少ない」ことは贅沢だ。
ガラクタのないミニマルな生活スタイルは魅力的だし、明らかに訴求力がある。道楽として、対処のメカニズムとして、苛立ちのエネルギーの捌け口として機能するし、美しくて優れたものを求めることには何の問題もない。その上、インスタグラムでも見栄えがいい。大洋海の真ん中では、今日もまたゴミの塊が花弁が開く。
- 文: Adam Wray
- 写真: Rebecca Storm