ラップ ファッションのファーザーたち

Sean John、Rocawear、Phat Farmが起こしたパラダイム シフトを振り返る

  • 文: Kevin Pires

これはファッションと忘れられた存在の物語である。そして、古いアイドルがまだステージを去っていないのに、もうハッシュタグが新たなアイドルの到来を告げる世界の物語である。また、現在の若きファッション信奉者世代が、 Yeezy のシーズンをカレンダー代わりにする時代の物語である。彼らの集団意識は、まさにアメリカの2度目のイラク侵攻と時を同じくして形成されつつあった。彼らにとって、Ye以前は、文脈を持たない様々な過去の出来事が霞のように浮遊する世界に過ぎない。歴史が新たなミレニアムを迎える前後の数年にかけて、一団のデザイナーが出現して、それまで彼らの存在を否定していたファッション業界に座を占めた。ファッション界の体制が当時その存在を認めてなかったブランドには、ディディ(Diddy)のSean John、ジェイ Z(Jay Z)のJay-Z、デイモン・ダッシュ(Damon Dash)のRocawear、ラッセル・シモンズ(Russell Simmons)のPhat Farmなどがあった。しかし、これらのブランドが業界に存在したことで、明らかに黒人と同義のスタイルが、独自のメインストリームになりうることを立証したのだ。

2002年、「ニューヨーク タイムズ」紙のベテラン ファッション記者ガイ・トレベイ(Guy Trebay)が、124万ドルのSean Johnショーを前にディディを訪ねた。トレベイはインタビューに現れたディディを、こう描写している。「ミスター・コームは、シンプルなホワイトのTシャツとバギーなジーンズという出で立ちを、まさにスペイン王女にこそふさわしいダイアモンドを散りばめた十字架とボトル キャップほどの大きさがある円形の宝石で、相殺していた」。 まさにコントラストの研究といったところ。ディディがニューヨーク証券取引所で開始を告げるベルを鳴らした際には、「立会場の中には、前回ミスター・コームがダウンタウンで公に姿を現したのは、ナイトクラブで銃を携帯していた件で、刑事裁判所で免罪を言い渡されたときだったのを覚えている人もいた」と報じた。Sean Johnで無視できない成功を収めたディディは、奇妙な例外的存在としてみなされた。国内でテロリストの脅威に晒されるというかつてない現実から逃げるべく、エンターテイメントを求めた同時多発テロ後のアメリカで、鳴りを潜めていたファッション業界に荒稼ぎにやってきた侵入者というわけだ。

新しいコレクションに正統派のテーラリングを取り入れたディディについて記述するうえで、トレベイは危うい対比を用いていることに自分でも気づいていないようだった。「(カジュアルな服装での出勤が許される)カジュアル フライデーという慣習の終焉」の可能性に言及しつつ、「現在より不健全であった過去の一部を削除したいという(ミスター・コームの)願望の結果かもしれない」と、トレベイは示唆したのだ。しかし、それは誤解だった。ディディが提示したのは、「不健全であった部分」が存在する過去と、サヴィル・ロウ仕立てのスーツに刺激を受けることの両方を兼ね備えた男の可能性だったから。

1990年代中頃から2000年代にかけては、ラッパーから転身したデザイナーのブランドが数多く世に出た。それらのブランドは過去10年間のスタイルを作り直して、後に続くカニエ(Kanye)その他が活躍できる基盤だけでなく、パラダイムが転換するほどストリートウェアが隆盛する基盤を築いた。そして、グランジにうんざりしていたアメリカに受け入れられて、商業的に大成功を収め、時代錯誤な論文を書くようなファッション界のインテリですらその存在を認めざるをない勢力となった。階級と服装を同一視するファッション慣習の打破、それが彼らのビジョンに共通した直感だった。彼らはブラック アメリカを、多面的なインスピレーションの源として主張するにとどまらず(認めはしないものの、それをやった白人デザイナーも存在した)、ブラック アメリカを前面に、そしてメインストリームに押し出すことで、自分たちのビジョンを実践した。

これらのブランドが連想させる柔らかな光沢ベロアのトラックスーツによって、権力を顕示する服装は、軌道修正された。かつて企業資本を象徴したスーツは、スタンダードではなく、単なるオプションのひとつになった。職場における服装規定の解体、アスレジャーの隆盛、さらには、Vetements を始めとするブランドの土台になったこれらのモチーフを用いたラグジュアリーな追求は、決定的なDNAの鎖をここで見つけたに相違ない。長きにわたってファッションが生まれ出でる場所と考えられたヨーロッパに目を向ける代わりに、これらのブランドは自分たちの内面に目を転じ、黒人文化のみならず、アメリカン スポーツウェアのテーマを繰り返し取り上げた。

Rocawearの広告にはジェイ Z自身が多用され、様々な役割の主人公を演じた。オペラ会場のジェイ Z、スキー ロッジのジェイ Z、サファリのジェイ Z、クラブのジェイ Z。着想は初期の広告に掲げられた1行に抽出されている。すなわち、「出身は関係ない。大切なのはロック」。ディディも同じことをした。Sean Johnの広告では、何年も、ヘリコプターに乗ったディディ、ペントハウスのディディ、カメラを見据えてこちらへ指を突きつけたディディが登場した。ディディに代わってディディの息子が会議テーブルの上座に座っているSean John Kidsの広告は、Ralph Laurenなどのアメリカン スポーツウェア ブランドを支えた、世代を超えて引き継がれる富のイメージを、ディディ流に表現したものだ。しかし、「クラシック アメリカン フレイバ」や「ニュー アメリカン ドリーム」といったキャッチコピーで、焦点をもっとも明白に主張したのはラッセル・シモンズ(Russell Simmons)だった。何が争点なのか、消費者もわかっていた。1994年のある記事では、ブロンクス出身の17歳メリッサ・グルエンラー(Melissa Gruenler)がソーホーにオープンしたシモンズのPhat Farmストアを紹介して、「ヒップホップ スタイルをクラシックに見せる試み」と簡潔に記している。

これらが連想させる
柔らかな光沢ベロアの
トラックスーツによって、
権力を顕示する服装は、
軌道修正された

ファッションは常に幻想に関連していた。少なくとも、そういう振りをすれば、幻想が束の間の現実になりうるという暗黙の理解があった。本当に成功するまでは、成功した振りをするということが、業界を支える神話のひとつであり、アメリカを支える神話のひとつでもある。我々が周囲にめぐらす関連性は、互いから分離しては存在しない。我々は星の形に自分を変えて、既存の星座に加わる。メインストリームに無視されていた市場に訴える服をデザインすることで、ディディ、ダッシュ、ジェイ、そして現在のカニエは、彼ら自身の星座を作り出した。それは若さを取り戻そうとする試みでも、自分がクールであるかのような振り(ファッションが往々にしてとり憑つかれる強迫観念)でもなかった。自分たちに拒絶されていた行為主体性を主張する試みだった。音楽、デザイン、モノローグを含む、カニエの広範なプロジェクトは、時として閉塞的であるにせよ、黒人文化の産物は称賛するが産物を生み出した者を滅多に評価しないという二重基準を段階的に分解していく。2013年放送の「ジミー・キンメル・ライブ!」に出演したカニエは、パリのショーで、最後にランウェイに登場するデザイナーに黒人男性が少ないことを挙げ、とても気にかかると説明した。2016年に「ワシントン ポスト」紙のインタビューを受けたディディも、カニエの方向性と主張に耳を傾けてほしいという自分自身の方向性は違うとした上で、カニエの意見に同意している。それでもなおかつ、ファッションは黒人文化を利用し続ける一方でその功績を認めることは都合よく忘れる。

このインタビューで、ディディは過去にインスピレーションを受けたRalph LaurenとTom Ford の作品を回想しながら、カニエから「おい、オレのムードボードはオマエでいっぱいだ! 」というメッセージを受け取ったことを語った。新しい世代のデザイナーがTumblrをスクロールしながら次シーズンのインスピレーションを探す現在、ディディやジェイが作り上げた業績は、今一度、我々の衣服規範に刻印されつつある。たとえ薄目しか開いていなくても、世界中に彼らが残した影響を見て取れる。彼らのデザインに初めて接した若者たちは、興奮しながらその真価を認め、自分なりの解釈を加えている。かつてのディディたちとジェイたちは、現在のラルフたちである。

我々は星の形に
自分を変えて、
既存の星座に加わる
  • 文: Kevin Pires