秋の夜長におすすめの8冊
日暮れが早くなる秋と暗い時代に、陰謀、ブリーチしたブロンド、ドン・デリーロ、ダンジー・セナを考察する
- 文: Sarah Nicole Prickett
- 写真: Thomas McCarty
- スタイリング: Romany Williams

4回目を迎えた今回の文学シリーズでは、ライターであり、エディターであり、かつ本を繰り返し読むことも好きなサラ・ニコル・プリケット(Sarah Nicole Prickett)が、回想録、ジョーン・ディディオン(Joan Didion)の1冊、簡潔かつ力強い説得力で訴える美の復権など、愛する8冊を紹介する。
プリケットが推薦する本に添えられた写真は、ロマニー・ウィリアムズ(Romany Williams)がスタイリングし、トーマス・マッカーティ(Thomas McCarty)がモントリオールのカナダ建築センター(CCA)で撮り下ろした。

モデル着用アイテム:コート(Pushbutton) 冒頭の画像のアイテム:コート(Acne Studios)、レギンス(Max Mara)、ピアス(Marni)、スカーフ(Loewe)、ヒール(Bottega Veneta)
ドン・デリーロ『リブラ 時の秤』
基本的に私は、ドン・デリーロ(Don DeLillo)はジョン・F・ケネディ・ジュニア(John F. Kennedy, Jr)を暗殺した犯人を知っていて、それを推測であるかのようにみせかけた小説を書いたと思っている。暗示するだけ。トランプのゲームみたいな心理戦。デリーロが「驚き」を語るときの口調があり、あるいは対照的に「歴史」を語るときの口調がある。本当の秘密を語っていないときに限って、「秘密」を語る口調もある。そもそも小説とは、暗に事実を教えることだけが、ただひとつの目的なのだ。『源氏物語』はフィクションじゃない。筆者が見聞したことの語りだ。まったくありもしない作り事を書きたい人なんて、いない。あるバーティーでのこと、デリーロの知り合いというホラ吹きが言うには、デリーロの妻はCIAで働いていた。彼はそのことを信じ切っている様子だったが、 私はそれほど興味を感じなかった。私の興味が刺激されたのは、「デリーロの妻」でグーグル検索して、彼女の名前がバーバラ・ベネット(Barbara Bennett)だと知ったときだ。ニューオリンズのラウンジ バーで歌っていた歌手が、同じバーバラ・ベネットという名前だった。彼女はクレイ・バートランド(Clay Bertrand)という男と顔見知りで、ケネディ暗殺犯とされたオズワルド(Oswald)を見かけたバーで、バートランドと一緒に飲んだこともある。ところがクレイ・バートランドは実はCIAと繋がりがあったクレイ・ショー(Clay Shaw)が名乗っていた偽名で、クレイ・ショーは、ケネディ暗殺事件に関して結局曖昧なまま無罪になっている。これが結局は偶然にすぎず、好奇心を掻き立てるような噂話ではなかったから、私は『リブラ 時の秤(原題:Libra)』を3回も読み返したのだろう。読み返すたびに、別の層が現れる。ジョイ・ウィリアムズ(Joy Williams)も、こう言っている。「ドン・デリーロは最前線にいる。彼がやっていることに追いつける人は誰もいない」。政府も含めて…。

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ジョイ・ウィリアムズ『The Changeling』
物語に幸せな妊婦が登場すると、決まって私は、ホラー映画のなかで階段を上っていく女性を見てるような気分になる。そんな私だから、『The Changeling(未訳)』が好きなのは当然だろう。一種モダニズム的なこの家庭小説の主人公は、パールという名前の母親だ。たったひとりの赤ん坊の世話で手一杯なパールなのに、成り行きから、数えきれないほど多くの子供たちがいる島で暮らす羽目になり、逃げ出すことができない。まだ若く、夫に先立たれ、異常なまでに無力で、非現実的で、いつも寒気を感じているパール。彼女に言わせると、子供の行動は、酔っ払いみたいだ。彼女自身、酒を手放せないのだから、酔っ払いのことはよくわかるに違いない。『The Changeling』の展開は、タロット カードのリーディングにも似て、予想がつかず、整然とした話の筋は無視されているような印象を与える。どうにか好奇心が満たされると、違う質問をすればよかったと悔やむタロットと同じ。とても写実的な、やりきれない小説だ。ドン・デリーロが言うように「ジョイ・ウィリアムズは、アメリカにとって欠かせない声だ。我々の時代の生きた言葉、傍流の意識、巧妙なユーモアを聞かせてくれる。それを我々は、時として平凡と勘違いすることがあるが、実は奇妙で激しいエネルギーに溢れた底流なのだ」
三島由紀夫『スタア』
「ヘミングウェイ(Hemingway)を読むのは、立ったまま。芭蕉は歩きながら、プルースト(Proust)はバスタブに浸かって、セルバンテス(Cervantes)は入院中に、シムノン(Simenon)は汽車に乗っているとき、ダンテ(Dante)は楽園で、ドストエフスキー(Dostoyevsky)は地面の下で、ミラー(Miller)はタバコの煙るバーでホットドックとフライドポテトとコーラを前に…。 僕は、ぐったり疲れ、ベッドの横に安物のワインのボトルを置いて、三島を読んでいた。女はシャワーを浴びていた」。モントリオール在住で、ユーモアに溢れているのになぜか知名度が低いダニー・ラフェリエール(Dany Laferrière)が、1985年に発表した小説『ニグロと疲れないでセックスする方法(原題:How to Make Love to a Negro Without Getting Tired
)』に書いた一節だ。彼が読んでいたのは『仮面の告白』じゃないかと思うけど、私は、もっとフェミニンで、煌めきがあって、引き締まった短編の『スタア』のほうが好きだ。それに、かなり笑える。主人公は、三島と同じ血が流れている若き二枚目俳優だ。彼は、のこのこと人前に登場するなど絶対にしないのが本物のスターだと思ってるから、自宅で開催された24歳の誕生日のパーティーをすっぽかす。姿を見せるのは、関心を引かなきゃいけない二流俳優のやることだ。自分中心、マゾヒズム、人間である感覚からの乖離、代用品への嗜好、刀剣への憧憬、青白い腿、女性を愛することの「不能」、最後あるいは初めての実存の真の証としての自殺は、三島に一貫したテーマだが、『スタア』には、さらに名声の持つ破壊性という新たな洞察が加わっている。この小説を読むと、 スーパースターになろうとした三島の努力は、方向の転換であるよりも、死の願望が発展した形であったと思える。注目願望がある人は、ぜひ『スタア』を読むべし。私は淡い色をした発泡性のキュヴェを飲みながら読んだ。読み終わったときにはまだ3杯目が残っていたけど、立ちあがると、ふらっとした。
ジョーン・ディディオン『Democracy』
ジョーン・ディディオンの小説『Democracy(未訳)』には、何から何まで頷ける。
ダンジー・セナ『Where Did You Sleep Last Night?』
私が、ダンジー・セナ(Danzy Senna)が親子関係を書いた回想録を手に取ったのは、ダンジ―の母が書いた、50ドルと値の張る小説を、何度となく買い直さなければならないことに、疲れを覚えていたからだ。その小説は、例えようがないほど変わっていて、好みがかけ離れたどんな友人たちも、一様に、感銘を受けたと言ってくる。そのせいか、人に貸したら最後、絶対に戻ってこないのだった。私は、そんな作家に対する別の視点を知りたかったのかもしれない。「ユニークな」両親のもとに生まれ、満たされずに育った元子供たちの曝露本には、必ず破壊的な傾向があるものだ。ところが読んでみると、セナの場合、副題の「 A PERSONAL HISTORY – 私が辿った歴史」は、その手の本にありがちな内容とは異なり、どちらかと言うと、冷静に、家庭での場面を振り返って再建する行為に似ている。冒頭の一文は、完璧にハードボイルドだ。「1975年、母は父のもとを去り、今回は二度と戻らなかった」。 これだけで、母がファニー・ハウ(Fanny Howe)で父がカール・セナ(Carl Senna)だったなんてことを知らなくても、謎解きの緻密な追求に読者は引き込まれる。セナが知りたいのは、ふたりの詩人が離婚した理由ではなく、そもそも、アラバマ生まれでメキシコ人のボクサーと同じ苗字の黒人と、マサチューセッツで成長した上流階級出身の青い眼の娘が結婚することになった経緯だ(ネタバレ注意:これには、ケネディ暗殺事件が関係していた)。両親の結婚式の写真を見ながら、セナは書いている。「ふたりは、彼らを隔てた歴史をはねつけ、家庭の中に歴史と無関係なユートピアを一緒に作るつもりだった」。インド風のネール ジャケットを着たカールと、今見れば時代遅れなゴールドのミニドレスを着たファニー。「ふたりの結婚が決定的に破綻したとき – 歴史に捕まったようなとき – 、ふたりにとっても、離別を知った人たちにとっても、結婚の契り以上に大きな、誓約の瓦解と感じられたに違いない」
セナ自身の複雑な感情は抑制され、メモパッドに残ったわずかな筆跡を解読するように、間接的に伝わってくる。当然ながら、セナは小説家だ。そして、一種奇妙でアイロニーのある客観性を持っている。その声からは、ファニー・ハウの子供であった痕跡もカール・セナの子供であった痕跡も拭い去られている。作中で私が好きなのは、ロサンゼルス公立図書館のダウンタウンにある分館の場面だ。窓脇のテーブルに、ハウ(Howe)、クインシー(Quincy)、デウルフ(DeWolfe)に関する本が積み上げてある。いずれも母方の家系に連なる名家の姓だが、母方の歴史が豊かであるのと反比例するかのように、父方の歴史は貧弱だ。セナはテーブルの傍に立ち、ブラインドの隙間から外を見やってホームレスを見つめる。周囲から切りはなされた彼らの居場所は、彼女自身が選んだかもしれない場所だ。「カレン・カーペンター(Karen Carpenter)みたいにやせ細ったひとりの女が、白昼公然としゃがみこんで、水の止まった噴水の中に排便するのが見えた」
エレイン・スキャリー『On Beauty and Being Just』
以前、あるツイートが目についた。「白人」という接頭辞が付く「女性」に対して、頭の悪い悪口を浴びせたい気分で書かれたらしい。曰く、天才にブロンドはいるか? 答えはイエス。ジャクリン・ローズ(Jacqueline Rose)がいる。ジョーン・ディディオンがいる。もっとも、ディディオンの場合は、くすんだブロンドだったけどね。エレイン・スキャリー(Elaine Scarry)は、ブロンドの中でも極めつきのブロンドだけど、最高に聡明だ。

モデル着用アイテム:コート(Acne Studios)、レギンス(Max Mara)、ピアス(Marni)、スカーフ(Loewe)
ジャクリン・ローズ『Women in Dark Times』
ジャクリン・ローズが、歴史に立ち向かった女性たちを総体的に考察し、集大成として発表したのは2015年の夏のことだ。当時は「女性のエンパワメント」が高まりを見せ、何が起こるのか、誰にも見とおせない状況だったが、ローズにはわかっていたらしい(ちなみに、本作中、「ヒラリー」の名前は一度たりとも登場しない)。その後はご存知のように、本質的に権力と繋がる男性の在り方が大々的に問題視される半面、権力を乱用された被害者や認識を正しく改めた人々に対して、並外れて大きな反発の波が押し寄せた。ひとつには風向きが変わったこと、もうひとつには、多くの場合、根拠 – 自由な対話ってことだろうと私は思うけど – が不十分なせいだろう。同時に、私たちは強い葛藤を感じている。女性蔑視は非常に不快であるがゆえにクールとみなされ、ヘソ曲がりな反対論者や飽きっぽい人たちのトレンド志向な精神にアピールするし、どうでもいい当たり前なことで女性の権利云々を大騒ぎしていると思われている。実質的には、その「当たり前」さえ実現されていないというのに…。ある人気男性小説家が、ヒットラー(Hitler)のマニフェストにちなんで題した回顧録で書いたとおり「暗黒の時代が、現在ほどにその闇を増したことはなかった」
『Women in Dark Times』には、「時代に先駆けて」「真実を突きつけた」女性の代表として、トップの3人が挙げられている。ポーランド系ユダヤ人の革命家ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg)、ドイツ系ユダヤ人の画家シャルロッテ・サロモン(Charlotte Salomon)、「完璧にパフォーマンスしてみせる素晴らしいアーティスト」だったマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)だ。モンローは、女性代表としてはちょっと特殊なケースだ。心情的に労働者階級だったモンローは、自分のことを、己のためというよりも、むしろ大衆のために存在する人間だと思っていたから、映画会社に所有されることを嫌った。注目や関心に金銭的な価値がないことは誰よりもよく知っていたはずのモンローだから、稼ぐのは「もっと大きな経済的存在に、運命を左右されるのを阻止する」ための手段に過ぎなかった。正当な敬意が払われない場合は、見返りに時間を奪った。「彼女自身の話によると、遅刻をするようになったのは、ローレンス・オリヴィエに、ただセクシーでいるようにと侮辱されたせいだ」と、ローズは書いている。
ジャメイカ・キンケイド『Talk Stories』
25歳で『ニューヨーカー』スタイルのニューヨークを象徴するライターなったとき、180センチを超えるキンケイドは、髪をブロンドに漂白し、眉毛を描き、唖然とするような服で現れる奔放なフラッパーだった。ライターとして名を成した1970年代後半は「私の人生の中で、特に軽薄であることに興味があった時期」だったと、2013年のインタビューで語っている。『ニューヨーカー』がお洒落な散文ライターをもっとも厚遇した時代でもある。「私は、ちょっとした有名人だったわ。何時間もかけてめかし込んで、『ニューヨーカー』のオフィスへ顔を出して、友達のイアン・フレイジャー(Ian Frazier)やジョージ・トロウ(George Trow)と駄弁って、それからどこかへ飲みに繰り出す。でもあれは、軽薄さ加減を見せつけるための一種の見せかけに過ぎなかった。私、トランスジェンダーでアンディ・ウォーホル(Andy Warhol)のミューズのひとりだった、ホリー・ウッドローン(Holly Woodlawn)の後ろで歌ってたの。それほど歌は上手くないから、かねがね、リード シンガーじゃなくて後で歌うバックアップ シンガーになりたいと思ってたわ」
その後キンケイドは小説を書くようになり、その抒情的な文体で評価されることが多くなった。だけど、ルー・リード(Lou Reed)やスージー・スー(Siouxsie Sioux)やビリー・ホリデイ(Billie Holiday)と同じように、キンケイドは生まれつき素晴らしい声に恵まれているから、歌う「必要」はないのだ。彼女が『ニューヨーカー』の「トーク オブ ザ タウン」に書いた記事は、従来の規定に従って無記名だが、キンケイドらしさ全開の文体を見る限り、署名が透かしで入っているようなものだった。美人コンテストであろうが、ディスコ パーティのビジネスであろうが、ニューヨーク市長から果ては駐車場係まで、さまざまなマンハッタン人種がある秋の日にやったことであろうが、題材に関わりなく、キンケイド独自の雰囲気があったし、今もある。その簡潔な文体は、消して軽薄にならず、同時に軽やかさを保っている。ノンフィクション ライターにとって、もっとも失敗しやすく、コントロールしにくい効果のひとつだ。そして自由に生きることについて天賦の才能を持つキンケイドは、信頼の置けるライターだ。独立記念日である7月4日の記事といえば、アメリカへ最大級の愛情を捧げるレポートが読めるはずだが、キンケイドは父から受け取ったアドバイスを読者へ手渡す。「いつの場合も、クールな人たちと行動を共にするべし」。誰がクールで、どうして彼らがクールなのか? それについては、一言の説明もない。どんな本を読めばいいか尋ねられて、その人の好みがわからないとき、あるいはあれこれと考えるのが面倒なとき、私はいつもキンケイドの名を挙げることにしている。
Sarah Nicole Prickettは、カナダ出身のライターである
- 文: Sarah Nicole Prickett
- 写真: Thomas McCarty
- スタイリング: Romany Williams
- カメラアシスタント: Devon Corman
- スタイリング アシスタント: Kimberley Bulliman
- ヘア & メイク: Carole Méthot
- モデル: Hunter / Elite Toronto
- 制作: Alexandra Zbikowski
- 制作アシスタント: Yza Nouiga
- 撮影場所: Canadian Centre for Architecture
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: September 20, 2019