暗号管理人の物語

クリーン コードと秘密保護のマニフェスト

  • 文: Sam Adler-Bell
  • アートワーク: Tobin Reid

9月がやって来ました。時の流れのなかへ後ずさりするような感覚を連れてくる月です。私たちの世界をあるべき場所へ収めるための慎ましい手順、集団を選び参加する方法、私たち全員の頭上や周囲や内側に存在するバブルに思いを巡らせる月です。私たちの居場所はどこにあるのでしょうか? SSENSEエディトリアルは、1週間をとおして、繊細に、個性的に、拡大し続ける私たちの居場所の定義を考察します。

僕が最初に受信した暗号化メールは、裸の女性がまだら模様の馬に乗っている絵だった。その前日、新しい上司に急かされた僕は、マサチューセッツ工科大学が保守しているデータベースに「公開鍵」をアップロードして、ひとつの数字列をツイートしたのだ。その結果、世界中の誰でも僕にしか解読できない秘密のメッセージを、僕宛てに送信できるようになった。僕が公開した鍵を正しく使用すれば、メッセージは暗号化されて一連の文字、数字、記号の列に変わり、僕の「秘密鍵」を使わない限り判読できない。

公開と秘密。この単純明快な区別が僕はとても好きだった。2013年、止むに止まれぬ理由がない限り一歩も家から出なかった痩身の30歳の人物が、3人のジャーナリストに米国国家安全保障局の極秘文書アーカイブを渡した。僕の上司はそのひとりで、当時は国家安全保障局に関する本を執筆中だった。件の30歳の人物そのものが暗号に等しい存在だったが、後になって解読されると、ごく普通の文字と数字と記号で構成された人物であることが判明した。エドワード・スノーデン(Edward Snowden)は、国を愛する者のひとりに過ぎなかったわけである。

上司に比べると、僕の仕事は地味だった。リサーチのメモを記録し、インタビューを書き起こし、米国の情報公開法(FOIA)に基づいて、政府が頑として存在を認めない記録や存在さえ否定する記録の開示を請求した。隠蔽的な政府の対応を、情報公開法の分野では「グローマー拒否」と呼ぶ。米国海軍海上輸送司令部に所属するヒューズ グローマー エクスプローラー号に因んだ呼び名だ。1974年、CIAは沈没したソビエト連邦の潜水艦を太平洋の海底から引き揚げたが、その際に使われたのがこの巨大な深海掘削船だったらしい。らしいというのは、このプロジェクトが、冷戦期におけるもっとも複雑で極秘裏に行なわれた諜報作戦のひとつだったからだ。何はともあれ、僕がアメリカ史上最大に数えられる国家機密漏洩の近くにいたことは事実だ。スノーデンから渡されたアーカイブの入っている金庫と僕の机は、文字通り、15メートルしか離れていなかったから。というわけで、僕には「オプセク」の特訓が必要だと判断された。「オプセク」は「オペレーション セキュリティ」の意味だが、このセキュリティ作戦名を口にするときの上司は、どうも決まりが悪そうだった。

僕は心配性で、自分の間違いがあちこちに影響を及ぼす恐れに固執する傾向がある。世界で発生した災害のうち、比較的小規模なもののいくつかは僕のせいだと思い込んだこともある。「オプセク」に関する限り、こういう思考形態は、大多数の個性や多様なナルシシズムと同様に良くも悪くも作用した。いつか、他ならぬ僕が犯す間違いのせいで上司の期待を裏切ってしまうに違いない。パスフレーズの複雑度が不十分だったり、うっかりリンクをクリックするだけで、上司の経歴に傷をつけ、執筆中の本だけでなく国家の安全をも危機にさらしてしまう。そう考えると、決まってうなじや肩甲骨の間がゾワゾワしたし、それはやがて馴染みのある感覚になった。

そこで神経を鎮めるために、僕は夜、当時のガールフレンドのベッドで、時には声を出して複雑な数学を読解した。おそらく典拠はロシアのハッカーたちだろうが、そういう知識こそ僕の頼りの綱であり、僕たちの安全を保証してくれるはずだった。さながら、扉に取り付ける錠の設計図を精査する広場恐怖症の有様だ。僕の上司は、後になって、委託された機密のために彼が講じた入念な保護措置はほぼ確実に不毛な努力だと、国家安全保障局の高官に言われたという。モチベーションの強烈な外国の諜報機関にはとても太刀打ちできない、と。もっと早く言ってくれれば、僕の苦悩も少しは軽減されたかもしれないのに。

馬上のポルノの類を転送するのに使うメールの暗号化は、数学の「一方向性関数」に基づく。すなわち、一方向には簡単に計算できるが、逆方向の計算は実質的に不可能な関数だ。説明しよう。まず素数。これは1と自分自身でしか割り切れない数を指す。桁数の多い素数をふたつ掛けると、巨大な桁数の半素数になる。ちなみに、僕が今の仕事を本当にやりたいかどうか自信をなくした年齢の26は半素数、割り切れる約数は2、13、1、26の4つだ。結局仕事を辞めた年齢の29は素数、1と29以外に割り切れる約数はない。

何百桁という十分に大きい数を使った場合、半素数を元の素数に手際良く分解する方法はいまだに見つかっていない。スーパーコンピュータをもってしても、組み合わせをひとつずつ推定していくほかないのだ。地球上のすべての処理能力を総動員しても、半素数から素数への分解には、僕たちが知っている宇宙の年齢よりも長い年月を要するだろう。もしもし、起きてるかい? 僕の説明をちゃんと聞いたかい? 宇宙の年齢だよ!

一方向性関数を知ったときは、まず気力を挫かれて狼狽し、次に目眩を感じ、最後はなんと美しいアイデアだろうと思った。高い橋から凍るほど冷たい湖目がけて飛び込み、テキスト メッセージの上で玉砕し、LSDに陶酔する感じだ。それは今でも変わらない。まったく簡単に実行できるのに、ほぼ絶対に元へ戻せないタスクは、理性を遥かに超える根源的な力で僕を惹きつける。解くのが困難であるがゆえに暗号法に利用される数学の諸問題は、落とし戸関数と呼ばれることもある。僕は「取り消し不能」という言葉が好きだ。ごく簡単に説明すると、僕の公開鍵と秘密鍵は、元の状態に戻せない方程式の両側に相当する。一方は他方に等しい。等号を挟む両者の関係は、唯一無二でありながら不透明だ。沈黙して結論を拒むその絆こそ、暗号化とその解読を可能にする。僕の秘密鍵がなければ、僕の公開鍵で暗号化されたメッセージを解読できる前に、宇宙は熱的死するかもしれない! これでも平静でいられるだろうか?

ここで話は馬と裸の女性に戻る。「オプセク」プロジェクト開始の第1日目、僕は暗号化メール ソフトを開いた。新しいメッセージが着信していた。アドレスは不明、件名なし。秘密の内容を目にするスリルが体を駆け抜けた。スパイにでもなった気分だ! メールを開き、僕の秘密鍵を使う。と、何かがおかしかった。匿名の文書は、依然として、文字、数字、記号が意味を成さないままに並んでいるだけだ。美しき数学は僕を裏切った。そう思った。だが、漫画チックではあるけれど紛うことなく扇情的な絵を拡大表示していくと、馬の斑模様も女性の乳房も、BやC、ドル記号、コンマ、括弧で構成されていることがわかった。こんなものを送りつけてくる奴は誰だ? おそらくロシアのハッカーあたりだろう。

困惑と疑心暗鬼と期待外れが入り混じったこの時の気持ちにも、そのうち慣れることになった。暗号の世界、ハッカーやスパイの世界は、世界史を揺るがすような危険と他愛ない無意味な戯言が同居する、この種の感覚に溢れている。

例えば、スノーデン文書の多くでは、外国要人(あるいは、無節操なリサーチ助手)の電子メール アカウントに侵入する非常に高度なテクニックがPowerpointで説明されている。スライドには、「pwn(出し抜く)」、「noob(素人同然)」、「l33t(凄腕)」といったインターネット上のスラングや、IRC チャットルーム、Reddit、4ちゃんねるなど、インターネット文化で最悪下劣な傍流サイトからインポートしたイメージ マクロがふんだんに散りばめてある。記憶に残っているのは「収集最適化」に関するスライドだ。なんと「Emo Cat」ミームを利用して、高性能掃除機みたいにオンライン データを吸い込み、シグナル(予測の手がかり)とノイズ(雑音)を見分けるという国家安全保障局の技術だ。そう、あの「エモ猫:誰もわかってくれない」ミームである。これが人の命を奪い、政府を転覆し、生活を破壊する技術であることを忘れないで欲しい。

もう一例を挙げよう。僕が使っていた当時としては最先端の暗号化プログラムは、「PGP」と呼ばれていた。「Pretty Good Privacy(かなり上出来なプライバシー)」の頭文字をとったもので、語源は、米公共ラジオ局NPRのバラエティー番組「プレーリー ホーム コンパニオン」に登場した「Ralph’s Pretty Good Grocery(かなり上出来なラルフ食料品店)」だ。ラルフ食料品店のモットーは「うちで売ってないものなら、なしでもかなり上出来に作れるはず」なのだから、「おいおい、大丈夫か」と言いたくなる。しかし、である。1970年代後半、僕と同じように元へ戻れない落とし戸関数の崇高な働きに感激しただろう人たちがPGPの基盤プロトコルを考案したとき、国家安全保障局は、核兵器輸送を禁ずる法による規制と禁止に努めた。

国家安全保障局にとって、一方向の美しき数学である公開鍵暗号は原子爆弾級の危険を意味したのである。一般人がこの使いやすい(やすそうな)暗号方法を使い始めれば、責任を問われることなく、いとも簡単に通信傍受して、僕たちのプライバシーを覗く諜報の特権が危うくなるからだ。フォントで描いた「まだら馬に跨る巨乳ブロンド」を送信してきたハイテク オタクのふざけたTwitter民は、かつて米国政府が「危険な武器に相当するシステムであり、正式な許可なく流布した場合は相当の年数の懲役刑に処すべき」とみなした技術を使ったわけだ。どうだろう、この馬鹿らしさと命懸けの過激な組み合わせは!

とは言え、馬とヌードの体験は汚れた印象を残した。デジタル プライバシーの世界では殺菌消毒の言い回しが多用される。サイバーセキュリティの専門家は、システムへの侵入を狙うクッキーやウィルスやハッキングとの接触を低減するために、「デジタル ハイジーン」なる予防策の実行を推奨する。この専門用語に出会うと、僕はいつもトッド・ヘインズ(Todd Hayne)監督の1995年作品『SAFE』を思い出す。ジュリアン・ムーア(Julianne Moore)が演じたキャロル・ホワイトは、高級住宅地のサン フェルナンド バレーで暮らす抑うつ気味の主婦だ。キャロルは大気汚染や工業化学の物質に敏感なために、漠とした、おそらくは心因性の症状を呈して、どんどんと孤立の度を強めていく。長続きしないダイエットを気まぐれに試す陽気な友人たち、無頓着で横柄な夫、不機嫌な義理の息子から遠ざかり、最後に行き着いた先はニューエイジ信奉者たちのコミュニティだ。この「環境病」患者の保護区は、ピーター・ダニング(Peter Dunning)演じるHIV感染者の導師ピーター・フリードマンに支配され、毎週の説教では「我々は我々を創造した力と一体である。我々は守られており、世界には一切の問題がない」と繰り返される。

動揺し、無視され、人種差別に端を発する犯罪や混沌やAIDSの汚染を恐れて都市を逃れ、自らを隔離するキャロルにとって、孤立は病であると同時に癒しでもある。「結果として、私は…以前より意識が高まった」と彼女は言う。キャロルの不安を生むのは、行き着くところまで行った資本主義だ。エコロジーとウェルネスを洞察するカルチャーは、それに対して名前をつけこそすれ、対峙することはしない。最後までキャロルは病気のまま。それどころか症状は悪化している。自分でコントロールできる感覚は強まったが、まったくの孤独だ。中流層の暮らしが意味する諸々からは解放されたが、怪しげなコミュニティと自制という別の囲いの中へ遮蔽された。

キャロルの病と同じように、デジタル ハイジーンに関する僕の偏執的なこだわりも、現実であると同時に、神経のなせる結果でもあった。発症を促した状況が、履き違えた不安によってさらに悪化する。オンラインの世界に露出している限り、僕たちは安全ではない。だが、綿密な努力を重ねて露出を減じれば減じるほど、コミュニケーションは難しくなる。自分で施錠した扉の向こうの世界は遠ざかる。かくして、僕たちは安全で、近づきにくく、隔絶し、そもそもデジタル空間に惹かれる理由だったはずの孤独を和らげることはできない。セキュリティの強迫観念に取り憑かれると、同類としか交流しなくなる傾向がある。同じように取り憑かれた「意識の高い」仲間だ。

「プライバシーとは自己の権利だ」と、2016年にスノーデンは言った。「自分を、自分の言葉で、世界と共有できる能力だ」。なんと馬鹿げた発言だろう。この種のプライバシーは、自分の頭から自己像を捻り出す制御の届かない内的空間であり、そんなものを持てるのはほんのひと握りだ。たとえ成功しても自己満足の空想に過ぎない。僕たち大多数は、必要に迫られて、相互に依存した生活を送り、社会的にも心理的にも多くの他者と絡み合っている。選択の余地はない。僕たちは、自分のためではなく、相互への誠意からプライバシーとプライバシーを守るツールを擁護すべきなのだ。監視のもっとも有害な点は、コミュニティの絆を破壊して互いを孤立させうることだ。互いの愛し方を忘れるのなら、「安全」が何の役に立つだろうか?

個人の露出を強制し、一方で自己所有権を体制的に侵害するシステムを信用しないのは、至極当然のことだ。僕たちは、デジタル ライフに参加する条件として、ウェブのあちこちで自分の細片を投げ捨てるように誘導される。その状況に僕たちは手も足も出せないという前提の上に、監視資本主義は成り立っている。セキュリティ専門家はそのような痕跡を「デジタル エグゾースト」と呼ぶ。「デジタル空間に排出される情報」という表現は、排出ガスを連想させて、きっとキャロル・ホワイトの気に入っただろう。オンラインに映し出される自分の姿を、輪郭や陰影に至るまで仔細に修正したいという欲求は、妥当でもあるし神経症的でもある。「自己の権利」がもっと広く保証されていれば、と僕も願う。ただし僕は、その権利を「プライバシー」とは呼ばない。僕の言う権利は、ウォーレンとブランダイズ(Warren and Brandeis)の共著で有名になった「放っておいてもらう権利」であり、暗号や孤立によって達成しうるものではない。押しつけられた義務を背負うことのない生活、カリフォルニアの富裕で内向的な若者たちの金銭ずくの動機ではなく、僕たち自身の欲求と必要性に応じて組み立てた生活を実現するには、僕たちは相互との汚染を増やす必要がある。減らすのではない。

僕たちは安全で、近づきにくく、隔絶し、そもそもデジタル空間に惹かれる理由だったはずの孤独を和らげることはできない

新型コロナ ウィルスによるパンデミックは、似たような苦境を作り出した。ノイローゼと疫学的に適切な慎重さを、どう区別するか? 倫理として求められる自主隔離と連帯を、どう結び付けるか? 僕は、マスクを着用するのと同じ理由で、Signalのような簡単な暗号化ツールを使う。他者への配慮だ。万全ではないにせよ、僕たちが望む世界を建設するためには必要な条件だ。僕自身の安全ではなく、自分の外側へ出て他者の安全へ、特に僕より傷つきやすい人々の安全へ注意を向けることに、僕は唯一の慰めを見出す。君は特別な人間じゃなくて、何も隠す必要はないのかもしれない。でも、もしかしたら、君が愛する人の事情は違うかもしれない。

秘密には秘密にふさわしい場所がある。1年前のことだが、ガールフレンドが以前のボーイフレンドのために大切な秘密を守り続けていたことを知った。それは個人ではなく職業にまつわる情報で、間接的には僕にも関係があった。要するに、できれば僕も知っておきたかったけれど、知る権利のない秘密だった。事実、この情報に関して僕のガールフレンドが果たした責任は、彼個人への責任だった。自分が愛した人や自分を愛してくれた人に決してせがんだりしてはならない類の秘密だ。ルシンダ・ウィリアムス(Lucinda Williams)も歌ったではないか。「たったひとつのお願いは、あなたに話した秘密を誰にも教えないこと」と。にもかかわらず、彼女が彼の秘密を僕に教えなかったことは、僕への裏切りみたいな気がした。そのことが明るみに出てからは、彼女と彼、そして彼と僕を繋ぐ目には見えない三角形の線に火がついた。

最近、友人に教えられたことがある。曰く、「誰かに教えるまで、秘密というものは存在しない」。あるいは「秘密と思考の違いは、秘密には暴露される不安があることだけ」。実は、ガールフレンドが昔のボーイフレンドの秘密を守り抜いたのは、単に、自分が秘密を知っていることを忘れたせいだった。彼女にとっては、さほど興味のない情報だったのだ。だが、僕がそのことを知り、愚かにもそのことで彼女を問い詰めたとき、情報は時を遡って再び秘密になった。

彼女との対立、絡み合った責任を解きほぐす方法があったとしても、僕はそのどれにも満足しなかった。僕は、何よりも自分自身のナルシシズムに傷ついた第三者に過ぎなかった。だがこの経験から、秘密には人を結び付ける力、親近感を煽って結束を生み出す非常に大きな力があることに気づいた。十分な人数が知れば、秘密は共謀になる。共謀ともなれば、安全は身勝手な重荷ではなく、グループ全体の必然だ。そんな場合は、クリーンなSignalを利用することを、僕はお薦めする。

Sam Adler-Bellは、ブルックリン在住のフリーランス ライター。『Dissent』マガジンのポッドキャスト『Know Your Enemy』で、共同ホストを務める

  • 文: Sam Adler-Bell
  • アートワーク: Tobin Reid
  • 翻訳: Yoriko Inoue
  • Date: September 22, 2020