Reebok Classics の歴史解明

サブカルチャーが育んだ巨大スニーカー ブランドの歴史をGary Warnett が紐解く

  • 文: Gary Warnett

SSENSE が取り扱う Reebok Classicsのスニーカーは、いずれも過去数十年の間に数々の伝説を打ち立てたモデルばかりです。そして Reebokの起源は、Joseph William Foster が 1895 年に創業した J.W. Foster & Sons という、イギリス北部に居を構えていた小規模なブランドにまでさかのぼりです。経営は 1930 年に Foster の息子たちが引き継ぎましたが、Jeff と Joe は 1958 年に同社を離れ、サイクリング用のシューズを専門とする Mercury Sports Footwear を創業しました。その後、「Mercury」という名称の商標登録に失敗した彼らは相応しいブランド名を探し求め、最終的に南アフリカに生息する脚の速いガゼルの名前に目を留めます。そのガゼルの名前こそが、「Reebok」です。

Swift, RF-15a&b, 1961 A very early Reebok-made running spike featuring one of the first Reebok logos: the Olympic torch.

Mercury Sports Footwear 改め Reebok となった同社は、半ば必然的にランニング シューズの市場に参入し、やがて海外進出も果たします。その後、1969 年にはオレンジのスエードを用いた革新的なランニング シューズ「World 10」をリリースし、本格派のランナーたちを虜にしました。1970 年に Reebok のシューズを履いた Ron Hill がボストン・マラソンで優勝すると、シグネチャーであるストライプは世界中に知れ渡り、輸出先も順調に拡大していきました。

1978 年、米国でキャンプ用品の卸売業者をしていた Paul Fireman が、National Sporting Goods Association の見本市で Joe Foster と交渉し、米国、カナダ、メキシコにおける Reebok 製品の独占販売権を獲得しました。この販売権には、3 か国の消費者の趣向を製品に反映させる契約も含まれていました。1980 年代に始まったスポーツウェア業界における熾烈な競争の中で、Reebok の売り上げは当初は伸び悩みました。一方で adidasと Nike は、着脱可能なペグやエンカプスレーテッド エアなど、シューズのクッション性を向上させる高価な新技術を次々と投入し、市場で激しい覇権争いを繰り広げました。しかし、ランニングに主眼を置いた両社のマスキュリンなビジネス モデルは、当時の女性たちの間で徐々に高まっていた、エアロビクス ブームの波に乗り遅れる結果を招きます。

当時、エアロビクスは一過性のブームだと一蹴する意見もありましたが、カリフォルニアで Reebok のセールスを担当していた Angel Martinez は、この心肺機能と柔軟性を高めるエネルギッシュなグループ エクササイズが、未曾有の潜在性を秘めていることを見抜き、この先見性が 1982 年にリリースされた史上初の女性専用エアロビクス シューズ、「Freestyle」の誕生につながりました。ナイロンで裏打ちした柔軟なガーメント レザーのアウターに、テリー タオルのライナーを組み合わせ、アンクル固定用のダブル ベルクロ ストラップを装備した Freestyle は、ロー トップとハイ トップの両モデルともに市場の好機を捉え、瞬く間に爆発的なヒット商品となりました。Jane Fonda が VHS テープでリリースしたワークアウトのシリーズにも後押しされ、1980 年代半ばには、エアロビクスは 10 億ドル規模の市場へと成長しました。

Foster’s Running Pump, RF-1, photographed, 1909-1935 This shoe was made by J.W. Foster, the predecessor of Reebok. It is completely handmade. The shoe matched the softest and strongest leather upper available at the time with six 1.2 centimeter spikes on the sole.

ちなみに 1980 年代は、フィットネスによる身体美化が定着に至った 10 年でもありました。フィットネス クラブが雨後の筍のごとく乱立する一方、複数のスポーツを組み合わせたクロストレーニングの概念が確立され、多くの人々がジョギングの信奉者となりました。裕福なヤッピーたちはフィットネスに惜しげもなく金を注ぎ込み、引き締まったボディを誇示する新たなセレブたちが台頭を始めました。そうした中、Reebok はハードコアなランナーへのコミットメントを継続しましたが、ガーメント レザーのスニーカーも独自のサブカテゴリとして確立されていきます。なぜなら、膨大な数のカジュアルなアスリートたちが、手を出しやすい価格帯の、パフォーマンスとファッション性を兼ね備えたスニーカーを求めていたからです。Reebok は、そのスイート スポットを直撃する製品を大量に投入し、他社が Freestyle の競合製品をリリースする頃には、すでに市場での勝敗は決していました。

1983 年、Reebok は Freestyle のメンズ バージョンであるシングルストラップの「Ex-O-Fit」と、野心的なネーミングのランニング シューズ「Classic Leather」をリリースしました。Aztec のようなハイ パフォーマンス製品をガーメント レザーで再解釈し、スタイルに敏感なユニセックスの顧客をターゲットにした Classic Leather は、スエードと軽量ナイロンに移行しようとしていた市場のトレンドに真っ向から挑戦しました。

いささか逆説的ではありますが、Reebok の新製品がユニオン ジャックを戴くようになる数年前の 1984 年、Fireman は大成功を収めた Reebok を Fosters 兄弟から買収し、ブランドを完全な米国企業に転身させていました。その同じ年、Reebok はマルチパーパスなジム用のスニーカー、「Workout Lo」と「Workout Mid」をリリースしました。Edward Lussier が率いるデザイン チームは、フィット感を向上させるためにユニークな H 型のサポート ストラップを採用し、これが後に Reebok のシグネチャーとなります。

DMX Run 10, RF-181,1997
The DMX Run 10 was the first shoe to use Reebok’s DMX moving air technology to deliver new levels of comfort, cushioning, and stability.

1985 年、当時のスター テニス プレイヤーだった Boris Becker と John McEnroe が「Newport Classic(近年になり NPC に改名)」を着用して登場し、Reebok の美学がテニス コート上に進出しました。Reebok のベストセラー製品は、テニス界のドレス コードが要求する厳格なミニマリズムと一致していたのです。これを契機に、Reebok はテニス シューズの大衆化に成功しました。Newport Classic のデビュー後、同製品ラインのデザインをベースにした「Revenge Plus(後に Club C に改名)」がリリースされ、カジュアルなアスリートたちの間でベストセラーとなりました。

Reebok が Nike を抑え、米国内のアスレチック シューズ市場を独占していた 1986 年、血で血を洗うようなブランド間の争いが激化します。この年を境に、製品のセールス ポイントとしてテクノロジーが前面にフィーチャーされ、アグレッシブなマーケティングと露骨な比較広告が用いられるようになります。その後、間もなくしてビジブル エアとポンプトゥーフィットが登場しました。

ホワイトに輝く Reebok のスニーカーは、長らく反社会的勢力の有名人に愛されてきました。ハーレムで名を馳せた元詐欺師、Azie Faison の回顧録「Game Over」には、殺害された伝説的なドラッグ ディーラーである Rich Porter が、新品の純白な Classic を愛好していたとするくだりがあります。また、ニューヨークを牛耳っていたマフィアのボスとして悪名高い John Gotti には、1986 年に警察に逮捕される際、ホワイトの Reebok NPC に履き替えたという逸話があります。

Roller Skates, RF-272a&b, C.1990 Not much research has been done on these roller skates at this time. However, it is the only pair of roller skates in the archive.

その後、各種のギミック、派手なネオン カラー、そして莫大な予算を投入したマーケティングに市場が侵略されると、1982 年から 1987 年まで続いた Reebok のガーメント レザーによる覇権は終焉を迎えました。熱狂は過ぎ去り、Freestyle の売り上げは減速し、王座から転落した Reebok は、再び Nike の後塵を拝します。Workout と Classic の命脈は、有名ブランドの公式サポートを受けていない一部のサブカルチャー界の手によって、細々と保たれることになりました。

一方のヨーロッパでは、汚れのないReebok が日常のアクセサリーとして長年愛されていました。ジーンズやトラックスーツにベストマッチする Reebok は、真のストリートウェアでした。Reebok のスニーカーを綺麗に保つのは困難だったため、常にある程度の買替え需要がありました。若者たちのカルチャーは、地元の環境、法律、スラング、店頭在庫に応じて多種多様でしたが、クリーンなスタイルを探求する力によって統一されていました。

ヒップホップの発信地としてニューヨークに世界の耳目が集まる中、トレンドから無視された地域では、Reebok が独自の地位を築いていました。トラップ サウンドがポップス界に進出する一方で、ニューオーリンズの音楽が地元で利益を挙げ続けるような現代の常識からすれば、あり得ないことが起きていたのです。殺害された地元の英雄、Soulja Slim は頻繁に Reebok について言及していました。Workout Mid のアイス ソールのモデルは「Soulja」の愛称で呼ばれ、「Souljas on my Feet」を始めとする各曲で称えられました。Lil Wayne や Juvenile も所属する Cash Money Records 初期のスーパーグループだった Hot Boys は、Reebok を「Rees」の愛称で呼びながら、繰り返し Souljas に言及しました。

Classic Leather, RF-1387, 1985-1985 Originally released in 1983. After the successful use of garment leather on the Freestyle, it was applied to a running model for the first time. Although it was aimed at “style-conscious men and women,” it was actually a formidable running shoe. It had a Bi-Density Shock Protection System for stability and some fairly forward-thinking air vents for breathability. Performance, practicality, class… even now, this shoe has it all.

同じ頃、英国ではハードコアやジャングルが中心だったダンス ミュージックが、ソウルフルなコーラスを特徴とするミュータント ハウスの血脈へとシフトしていきます。そして 1990 年代末、Armand Van Helden や Todd Edwards を始めとする米国人プロデューサーと、M.J. Cole に代表される英国のベッドルーム ミュージシャンの手掛けた作品群から、異端な 2 ステップのサウンドである UK ガラージが誕生しました。UK ガラージでミックスされるダンス フロアでは、従来のラフでラギッドな服装ではなく、Moschino、Iceberg、そして小綺麗なシューズで着飾るのが主流となりました。多くのパブやクラブが悪名高い「帽子とスニーカー禁止」ルールを導入したにもかかわらず、Reebok は英国の制服を構成する必須アイテムとして、ロンドンから各地へと広がっていきました。UK ガラージは最終的にグライムを生み出し、スリム ジーンズとプリント シャツの地位はトラックスーツに取って代わられました。しかし Reebok は、レトロ フットウェアの需要に応えるために新たにローンチされた「Reebok Classics」部門を通じて自らの地位を堅持しました。そして UK ガラージのパイオニアである Wiley や、Streets の Mike Skinner は、アイス ソールの Workout を愛用しています。

Reebok Classicsのレガシーは、近年のコラボレーションにも反映されています。Palace の Classic と Workout は、誇り高いサウスバンクの地元スタイルの血統を受け継いでいます。スケーターの Reese Forbes は Classic に加えて、2000 年代中頃にリリースされた DGK Workout の Stevie Williams シグネチャー モデルと、Club C を好んで着用しています。ウェスト・コーストの伝説的存在である Kendrick Lamar は、今でもホワイト レザーの Reebok を履いてヒップホップ界を牽引しています。Gosha Rubchinskiyが手掛けた Ex-O-Fit と、1984 のテニス シューズ「Phase 1」のアレンジ バージョンは、Reebok が Nike に先駆けてロシア上陸を果たした当時の熱狂を思い起こさせます。

Freestyle, RF-179a&b C.1987 (original released c.1982, earliest in archive) As you’ve probably already guessed, the Freestyle Hi was the high-top version of the Freestyle Lo. It featured everything that made its low-top sister a success, plus the ankle-friendly addition of two leather Velcro straps that upped its street cred and support. Heel and toe wraps also guaranteed stability. Perhaps most importantly, the shoe was incredibly flexible, thanks to the split forepart of its innersole board. Its soft garment leather has always meant that the toe box creases slightly, which is one of the shoe’s cult-quirks. At its peak it was commonly referred to as the “54.11” due to its price in U.S. dollars (without tax, we may add). In bold colors that would make even a rainbow blush, the Freestyle was a game changer, helping Reebok pioneer the 80s fitness craze.

アンダーグラウンドのムーブメントが日の当たる場所への一歩を踏み出すうえで、Reebok Classics のラインが大きな役割を果たしたことは、否定できない事実です。Paul Fireman の率いる経営陣が 1980 年代に大きなリスクを冒したからこそ、現在の Reebok があります。Reebok が成功したのは、有名人を多用する派手なマーケティング手法のおかげではありません。Reebok は親しみやすいブランドであるからこそ、多様なサブカルチャーの発生過程で、繰り返し大きな役割を果たすことになったのです。兄弟、姉妹、甥、姪、息子、娘の全員が、年長者のステータス シンボルとして着用される Classic の姿を目撃しながら育つことで、Reebok のレガシーは親から子へ、子から孫へと受け継がれていきます。Workout、Club C、Classic の飾らないシンプルなスタイルは、時代の転機を映し出す銀幕として、常に不屈の精神を反映していました。Reebok のスニーカーは、こうして不滅の伝説を打ち立てたのです。

  • 文: Gary Warnett
  • 画像提供: Courtesy of Reebok Archive