次のイット スニーカーは既に存在する
フットウェアの流行製造工場のポケット図鑑
- 文: Vince Patti

ほとんどの人は「オシャレ」というのは主観的で、定義できないものだと考えている。だが実際のオシャレさは目新しさや懐かしさ、冒険性、不合理さといったもの集合体にすぎない。スニーカー カルチャーでいうと、オシャレであることは既存のルールを塗り替える原動力となるものだ。オシャレの名の下に、少し前に流行ったシルエットに新たな解釈を加え、オシャレには程遠いような特別なアイテムも取り込んでいく。前シーズンの「イット」スニーカーは、お年寄り向けのメディカル ランニングシューズに似ていたが、これは過去のトレンドには見られない傾向だった。このことが示唆するのは、次の流行は、ランウェイではなく、むしろカイトサーフィンやスカッシュのファンの服が載っているようなサイトから出てくる可能性が高いということだ。
では、それらがすでに存在するとして、次のオシャレ スニーカーはどこに潜んでいるのだろうか。

画像のアイテム:スニーカー(Rick Owens)、スニーカー(Vetements)
バロック
スニーカーが作り出してきたカルチャーやアイデンティティーは、より広い意味でのファッションとは明らかに異なるものだ。ひとつのステータス シンボルとして、スニーカーは、地位やファッションの影響力を表す独自のポジションを築き上げてきた。だがここ10年間、スニーカーはトレンドの主流に鎮座し、スニーカー文化のピークはすでに過ぎてしまった。そして、スニーカーおたくが熱狂する若干バロックな段階に入っている。とりわけBalenciagaとGucciは、豪華なディティールや華美な装飾を限界まで突き詰めた。次に来るスニーカーがどのようなものであれ、現在の靴のデザインのもつ複雑さや豪華さに対抗するものであることが必要だろう。
クラシック
このバロック風の動きに対して、デザイナーたちはすぐに、クラシックなスニーカーの再解釈で応じた。並外れたクオリティで模倣されたクラシック スニーカーからは、やはり時代が感じられ、それがかっこよくもありおかしくもある。これらの「定番」スニーカーは、純粋なオリジナルの持つ特別感に欠けるが、その類似性を純化し、洗練させ、改良することで、それを補っている。こうして、マス市場向けのクラシック系デザインも、デザイナーによる複製も、掘り起こした過去のフットウェアをかっこよく見せるため、音楽やネットや雰囲気の中に残存するノスタルジーにしがみついている。Converseなら1960年代、Stan Smithなら1970年、Fila なら1980年代、New Balance なら1990年代というように。
実用主義
デザイナーは、インスピレーションの源を求めて、さらなる深淵を探求するようになった。過去数年で、トレッキング ブーツ、ウォーター シューズ、メディカル シューズ、ボクシング シューズ、ソックス、コンバット ブーツのすべてが参考対象となり、デザインに取り入れられてきた。デザイナーの望み通りにこれらを新たなオシャレなシューズとする際に、土台となり、かつ課題となるのは、ノスタルジーよりも実用性の方だ。それでもなお、オリジナルのデザインとデザイナーによる解釈の間の葛藤は残る。オリジナルのスタイルが純粋に機能性を追求して生まれたものであるのに対し、デザイナーは自分の作るシューズがそうではないことをなんとか隠そうとする。これらのシューズはもともとダサいことが多い。だが、この文脈では、ダサいというのは新しく、新しいものは、ほぼ常にオシャレということになる。それは、履く者に、より広い範囲での社会的、文化的理解を促そうという試みなのだ。この点では、それはデザイナー「クラシック」の正反対に位置するものだ。とはいえ、新たなシューズが表現できるのはオリジナルの性質を理解したということだけであり、その性質自体を実現することはできない。

ゆくゆくは、アイデアの井戸が枯れ、斬新なアイデア (あるいはそれほど斬新でもないのかもしれないが) が牽引してきた飽くことのない成長も、鈍化するだろう。もしかすると、デザイナーがこの先イノベーションを続けるための唯一の方法は、デザインの基本にできる限り近づくことではないのだろうか。もしかすると、オリジナル スニーカーこそが、何よりもオシャレであり、他のものはすべて、オリジナルの残響や改変にすぎないのではないだろうか。あるいは、社会的現実としてのオシャレ スニーカーが、ますます実現不可能になっている可能性はないだろうか。
ちなみに、オシャレ スニーカーが「高級と低俗」というファッションの不朽のキーワードに沿っている必要がある点は、注目に値する。ラジュアリーの高級感が、低俗な労働者階級の実用性と混ざり合っているのだ。このことは、より広範囲な「ファッション スニーカー」の文脈では特に当てはまる。というのも、本来は大衆向けのアイテムが、ランウェイで見られるようなファッションのレベルにまで高められているからだ。過去においては、この点を押さえれば、オシャレとみなされるものを予想し推測する上で必ずうまく行ったようだが、昨今では、オシャレの予測には、より繊細なアプローチが必要になっている。実用本位のスニーカーの根幹にあるのは、階級の「盗用」なのだからなおさらだ。
ここに、フットウェアのインスピレーションの源として徹底的に研究され、それ自体で女性の靴の新しいカテゴリーが生み出されるに至った活動が存在する。ダンスがその答えだ。高級であり、最新技術が用いられ、見た目も美しい。バレリーナ シューズはその起源の物語がかすむほどに、あちこちで見られ、ありきたりなものになっている。私が言わんとしているのは、要するに、バレリーナ シューズが次のオシャレ スニーカーになるということだ。そんなことありえないだろうか。だが、ダンスシューズのカバーする範囲は広く、その上、この領域はまだほとんどのヒップスターやデザイナーが手をつけていない。しかもジャズダンス シューズやモダンダンス シューズは、スニーカーの形をしている。これらのシューズは、特別な技術的要件に基づいて作られた独自の外形とデザインをしているのだが、なおも、全体としてはスニーカーに似せられているのだ。Capezio Dansneakers® など、まさにこの時代のオシャレ スニーカーの最終形態となりうるのではないだろうか。

これらのシューズが、過去数年間、既に数々の異なるデザイナーやマス市場のスニーカーの土台にならなかったと言っているわけではない。とりわけ靴裏が前後に割れた独特なアーチのデザインは、既に色々なスニーカーに取り入れられている。とは言え、Capezioのシューズがこのささやかなトレンドの起源として、再び販売が開始されたStan SmithやNew Balanceのように熱狂的に取り上げられた気配は、今のところ全くない。これらのシューズは、高級と低俗の間に位置している。その起源はラグジュアリーに近いものでありながら、実際の使用目的と深く結ぶついている。オシャレ スニーカーという考えが、今日もなお有効であるならば、Capezioのシューズの出番がくる日は近いだろう。
Vince Pattiaはブルックリンを拠点に活動するアーティストである
- 文: Vince Patti
- 画像提供: Vince Patti