素顔のサラ・ニコル・プリケット

雑誌「Adult」のエディター兼ライターをニューヨークの自宅でインタビュー

  • 写真: Brianna Capozzi
  • スタイリング: Mary Tramdack

「セックスにポジティブ、という表現は嫌いです。食べ物にポジティブ、とは言わないのと同じことです」とエディター兼ライターの Sarah Nicole Prickett は語ります。Prickett にとって、セックスは極めて幅広く複雑なトピックです。オンタリオで生まれ、その後ニューヨークに移住した彼女は、「T Magazine」、「The New Inquiry」、「Artforum」、「Interview」、「n+1」で、多種多様な題材のエッセイを発表してきました。そして彼女は、モダン エロティカ ジャーナル「Adult」の協同創業者およびエディターとして、セックスの本格的な探求に乗り出しました。

ウェブ ブラウザを通じて提供される従来のポルノが、肉体から切り離された欲望の捌け口であり、ポップアップ広告であり、日の当たらない暗部だとすれば、Adult はブラウザが置き忘れていた物語を伝える媒体です。2 冊の雑誌版は、エロティックなフィクションから、挑発的なエディトリアル、ポルノ スター Stoya やカルト的な人気を持つ俳優 Udo Kier のインタビューまで、ありとあらゆるテーマを網羅しています。一方、「最もスマートで、ときに最もダーティーなチャット ルーム」と称するウェブ版は、あらゆるパースペクティブからセクシャリティーを検証する、多種多様な投稿者の声を発信しています。また、「Morning After」という日記形式のセクションには、セックス中毒に関する告白やレイプ カルチャーに関する対談などが掲載されています。Adult のポリアモリーなアプローチを統合するのは、セックスを森羅万象への入り口とみなす、エロティカ文化への深い愛情と造詣です。

Brianna Capozzi がブルックリンにある Prickett のアパートメントで、Loewe、Lanvin、Marc Jacobs、Christopher Kane、Acne Studios に身を包んだ彼女をファインダーに収めました。そして、Mary Tramdack が Prickett と対談し、インターネット黎明期のエロティカにまで遡る Adult の起源、神経症に対する陽動戦術としてのファッション、そして人々の多様な価値観を紹介する Adult の使命についてインタビューを行いました。

Mary Tramdack

Sarah Nicole Prickett

メアリー・トラムダック:あなたのキャリアはファッション ライターからスタートしましたね。

サラ・ニコル・プリケット:私は常にファッション ライターとしての顔も持ち続けたいと思っています。フィクションを書くとしても、必ずファッションの要素を盛り込みます。たとえば、19 世紀のファッションについて長い物語を書いたりするのが大好きです。今後、どれほど年を取っても、どれほど賢くなっても、ファッションについて書き続けるつもりです。普通、ファッションに夢中になるのは若者だと考えられています。でも、年を取れば容貌は衰えていくかもしれないけど、ファッションのスタイルは年を取るほどに洗練されていくものだと思います。

年を取るにつれ、より上質なファッションが必要になるということですね。

私は、世の中に溢れている二者択一の考え方には賛同したくありません。たとえば、プリティーとインタレスティングの二者択一とか。でも、服装でプリティーよりもクレイジーな方向性を選ぶのは、選択の幅が広がるし、ありだと思います。私はありきたりな服装で街中を歩いているときでも、そのときの気分に応じてクレイジーに振る舞うことがあります。でも、私はプリティーな容貌に似合う服装をしてるので、クレイジーな振る舞いが逆に人を惹き付けます。そうはいっても、このプリティーな容貌はいずれ衰える日がやってきます。プリティーでなくなった私が、その後もクレイジーな振る舞いで人を惹き付けるには、衰えた容貌を洗練されたファッションで補う必要があります。アートの世界では、大勢の人々がそうした方向に進んでいます。その世界では、大勢の年を取った女性たちが、とてもクールでインタレスティングなファッションを謳歌しています。そして私は「素敵じゃない。貴女たちもクレイジーなのね」と嬉しくなります。

ファッション ライターになったきっかけは?

「Fashion Magazine」というカナダのファッション誌のインターンシップに応募したのがきっかけです。そのときの上司が、それはもうやる気のない人で、ほとんどの仕事が「うええ、私こんな仕事やりたくない。あなたやっていいわよ」という感じでした。ファッションのためでなければ、私はそれほど旅をしていなかったと思います。たぶん私はロンドンのテート・モダンに行って、Agnes Martin の絵を眺めながら 1 時間半も座って過ごしたり、適当に相手を探したりしてたと思います。奥さんをロンドンに残してバルセロナに来たはいいけど暇を持て余してるというゲイの銀行員に出逢い、彼とゲイ クラブに行って合法ドラッグをキメたり、ハッパを吸ったり、クレイジーな公園に行ったりしていたかもしれない。私に向いた別の世界を見つけていたかもしれない。なのでニューヨークに来たとき、私はたまたまアートのライターとして働き始めたんですが、それはとても自然な流れで、転向はまるで苦じゃありませんでした。ファッションが低俗でアートが高尚だという印象も受けませんでした。もちろん、アートのほうがファッションよりも知的な話法を必要とするのは確かですが。

ライターとしての専門分野が、ファッションから始まって、アートやカルチャーに移行し、最終的にエロティカに行き着いたわけですが、自分の中で一貫性は感じていますか?

自分でもおかしいなと思うんですが、自分自身の仕事ではそれほどセックスについて書くわけじゃないんです。でも人生のかなり早い段階で、セックスに関する読み物には夢中になっていました。インターネット上のエロティカで一番記憶に残ってるのは、Literotica.com のショート ストーリーです。いろいろな人たちと話していて知ったのは、本当に多くの人たち、特に女性と繊細な男性は、ポルノを「観る」よりも「読む」ほうを好むということ。ポルノを「観る」か「読む」かというクレイジーな二者択一はインターネットが生み出したものですが、イマジネーション豊かな子供、特にインターネット時代よりも前に生まれた子供は、1985 年生まれの私もその一人ですが、観るよりも読むほうを好む傾向が強い。私はインターネットが普及する前の時代を正確に憶えている。私は思春期と学生時代に起きた変革も憶えている。そして今、私はインターネットなしの生活が考えられない時代に生きている。でも、インターネットが普及する前と後、両方の時代を体験している私は、不本意ではあるけど、優れた感覚を備えてると思います。私よりも年上の世代は二者択一を迫られていないし、私よりも年下の世代は二者択一のない世界がどのようなものか分からない。あなたは何年生まれですか?

私は 1987 年生まれなので、同じ経験を共有しています。私もインターネットの黎明期を憶えているし、その頃にあった秘密のアイデンティティを探求する感覚も知っています。当時、オンラインの自分とオフラインの自分は、今ほど一体化していませんでした。

当時、初めてメール アドレスを入手したとき、本名を使うなんて考えられませんでした。私は「SparkleGirl69」みたいな、今から思えば Twitter のユーザーがふざけて使うようなアドレスを使っていました。このアドレスは、私がセックスを活発に楽しんでるという意味じゃなくて、何というか、当時のユーザー名はそんなものだった。今では懐かしさも覚えるような色々なオンライン カルチャーにも、私は入れ込んでいませんでした。でも、アングラなチャットルームにはハマっていました、逮捕されるまでは(笑)。

ファッションとセックスの両者は、読み物で扱われるときは特に、「男性に奉仕する女性」という Cosmopolitan 誌のようなスタンスで矮小化されることが多いと思います。でもファッションとセックスには、明らかにそれ以上のいろいろな側面がありますよね。

私がいつも気に入らないのは、まさにそれです。そうした矮小化は、必ずしも不正確ではありませんが、不完全だからです。女性がプリティーであること自体は非難されません。なぜなら、みんなプリティーな女性が好きだから。でも、女性がプリティーでありたいと願うことは非難される。そこには節度の過剰な押し付けが感じられます。無理難題を押し付けられて、命を削られているような状態です。

欺瞞ですね。

価値のない欺瞞です。女性に対するこうした考え方は、すべて初期キリスト教のテルトゥリアヌスの時代から存在しました。虚飾に通じるとして、女性に自らを飾ることを禁じるような考え方です。私たち女性は、上辺だけフェミニズムをうたう、古臭い美的観念に基づいた、抑圧的で性差別的な男性視点を、長年にわたり野放しにしてきました。でも、そうした視線を向けてくるのは、実は男性だけじゃありません。以前にとても尊敬していた女性フォトグラファーと仕事をしたときのことを思い出します。私は 90 年代の女性フォトグラファーに関する自分の博識ぶりが、彼女に感銘を与えているとばかり思っていました。でも、私に電話がかかってきて彼女の側を離れたとき、彼女が私の友達に言ったのです。「あの超ホットな子はだれ?」と。その言葉を耳にした瞬間、私は「ちょっとあなた、男と同じくらいタチが悪いわね」と思いました(笑)。私はそのとき、確か小麦色に日焼けしていて、レザーのビスチェとローライズのブルー ジーンズを履いていたと思うんですが、まるで Britney Spears であるかのような言い方をされたわけです。「ホット」にはいろいろな意味が込められています。そして、その言葉を使うのは男性だけじゃないのが現実です。

Adult はフェミニスト向けの雑誌だと考えていますか?

私自身にそうした考えは微塵もありません。でも Adult に関わる人は誰しも、自分のことをフェミニストだと考えていると思います。これは別に難しく考えることじゃありません。男女平等を信じている人間には、多かれ少なかれフェミニスト的な側面があるはずだから。でも、Adult の制作に関わっているスタッフの間でも、フェミニズムの定義は人それぞれです。フェミニズムやセックスに対する考え方の違いについて議論するのは、重要だと思います。同じ考え方の人間ばかりが集まったら、その人間関係は力と魅力の大半を失ってしまう。性的な人間関係ならなおさらそう。人はそれぞれ違い、そこから力が生まれる。ただし、その力を濫用してはいけない。

協同創業者と Adult を立ち上げた動機は、既存のポルノとエロティカの業界に対する不満があったからだということですが、Adult は人々の多様性や、さまざまなダイナミズムに焦点を当てる媒体だと考えていますか?

もちろんです。Adult では、フェティシズムやオブジェクティフィケーションなど、多種多様に異なる趣向を持つ人たちから、最大限の主観性を引き出すことを目指しています。フェティシズムとは、極めて高度に分析した場合、人間の脳と、脳以外の身体部位とのつながり方を示す概念です。また、とても大雑把なくくりになりますが、80 年代以降、「ポルノは文化の一部であり、社会の進歩を促す要素である」という発想を拒絶する点で、フェミニストと保守的な層の目指す方向が一致したという考え方が気にいっています。私たちが生きている社会は、正しい方向性を模索しています。Adult を愛しているアーティストであり、私が愛しているアーティストである Marilyn Minter は、ポルノやヌードから得たインスピレーションに従って、巨大で、グラマラスで、派手で、淫らな側面を持つアートを創り出します。しかしフェミニストたちは、その他のさまざまな勢力と同じように、たくさんのペニス、たくさんのアート、Betty Tompkins が創り出すたくさんのアートを検閲してきました。フェミニストたちからすれば、「楽しむなんてもってのほか! 女性として生きるなら、そして女性としての立場を代表するなら、少なくとも女性にふさわしい惨めな外見で過ごしなさい」というわけです。そして今、そうした抑圧に対する反動が起き始めているのです。

ポルノが私たちの生活の否定できない一部になるうえで、インターネットは間違いなく大きな役割を果たしました。そして現在、ポルノに対して以前よりもオープンな立場がある一方で、公私の間に従来よりも奇妙な一線が引かれています。あなたは情報過多に悩まされることはありますか?

ええ、もちろんあります。でも人が想像するほど頻繁ではありません。現在、行き過ぎと思われるような情報発信を擁護する風潮がある一方で、行き過ぎた透明性は情報の受け手に不安感を抱かせる場合もある。興味深いパラドックスです。Adult の記事を書いていて面白いと感じるのは、記事の多くが、性的に裸である以上に、感情的に裸であるということ。ときどき私は、この世界には行儀のよい切望に関する物語はたくさんあるけど、生々しい欲望に関する物語が少なすぎると感じることがあります。私にとって欲望とは、この世で最も複雑な話題です。欲望は、私の一生をかけても語り尽くせるものではないと思います。私にはいろいろな欲望がありますが、なぜ特定の欲望が生じているのか説明できるようになった瞬間、その欲望は失われてしまうと思います。

  • 写真: Brianna Capozzi
  • スタイリング: Mary Tramdack
  • インタビュー: Haley Wollens