2019年春夏シーズンの3つのコンセプト: 吸血鬼、無造作、機械
さらなるロマンスの要求、そしてトレンドを単なる流行りで終わらせないための指南
- 文: Durga Chew-Bose
ロゴではなく、もっと恋愛を──近年のファッションで流行った、しつこいまでのブランディング、文章やスローガンが踊るスウェットシャツ、モノグラム マニアへの甘美な崇拝が抑制されるなか、今シーズンの冬から春夏にかけてトレンドになっているシルエットを表現するには、新たなカテゴリーが必要だ。それはロマンス。
だが、一体それが何を意味するのか…言葉を見ただけではよくわからないし、カギ括弧に入れるような新たな呼称を作ったところで、同じことだ。ロマンスは、それが具体的にどういうものであり、どう着こなすべきなのかが明確になるよりも先に、人に取り憑いて、想起をさせるスタイルなのだ。言うなれば、疑似的な形や大袈裟なモチーフに溢れ、その背後あるストーリーや、ときに奇妙で一見エモーショナルに見えるリファレンスに訴えかけるようなファッション。ダークで、バロック的で、エレガントに身にまとうもの。つばの広い帽子、怪談。ベール。膨らんだ袖。ルイス・キャロル(Lewis Carroll)の『不思議の国のアリス』の主人公のごとく、ミニサイズからコーディネートのアクセントになるサイズ、ステートメント バッグのサイズからXLサイズまで、さまざまな大きさで展開するMiu Miuのボウ バッグ。絵画をそのまま身にまとったようなPyer Mossのドレス。Pyer Mossのタフト織のスカート。Pyer Mossのアシンメトリーのプリーツ。とにかく、Pyer Mossなら、何でも。
ラグジュアリー ワークウェアでは、ようやくブサイクでダサいスニーカーの人気に終焉の兆し見えてきたものの、ラウンジパンツやスニーカーの流行が続くのは避けられないだろう。いまだに特定のTPOに縛られないテクニカルな衣服に対する奇妙な崇拝が続いているのを見るにつけ、そう感じずにはいられない。一方で、例えば、悲しげな雰囲気、理想のデニム、わざとラフに着崩す、といったスタイルの台頭は、新たな可能性を示唆している。それは、自分の内面を見つめる手段としてのオシャレである。いわば、衣服の身体論だ。感触、肉体、回復、遊びへの回帰。ときには、由々しきものへの回帰も見せる。例えば、決して動きやすくはないが、重々しい雰囲気を醸し出すシルク。それから、あらゆるカットワークが駆使されたレースへの回帰。Off-Whiteのスポーティなレースしかり、Victoria Beckhamのヘビ皮のレースしかり。あるいは、サラ・バートン(Sarah Burton)が、ディケンズの名作『大いなる遺産』の登場人物ミス・ハヴィシャム(Miss Havisham)と鍛冶屋のジョー・ガージャリー(Joe Gargeryをランウェイ上で融合させたAlexander McQueen。まさに『大いなる遺産』の世界そのままに、ウェディングドレスに鍛冶屋の腰エプロンを巻きつけたようなそのドレスは、荘厳な雰囲気を放つ。
真のロマンスが再来は、無謀なスタイルを取り入れるチャンスでもある。意味をなさない、節度と機能性に欠ける服を着ることは、規範に反旗を翻す、情緒的行為である。それは、なんて素晴らしく、退屈と対極にある行為であろうか。今シーズンのスタイルは不完全性を謳歌している。不完全性とは欲望の最大の特徴。そして、欲望は、それが叶えられないときにしか存在しえない。ランウェイ上で行われる緻密な計算と未完成なフィクション。それらが相織りなす不完全性。他からは影響を受けないが、呪文をかけられたかのように人の心を奪うデザイン。着る人を現実とはかけ離れた世界へと誘い、未完成でありながら、うっとりするようなデザイン。
ここにひとりのエディターが、既存のコンセプトをベースに、今シーズンのランウェイで繰り広げられた新しいロマンスを紐解くための3つのコンセプトを提示する。

Marine Serre、2019年春夏コレクション
役に立たない機械
1966年に出版されたイタリア人アーティストで発明家のブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari)は、著書『芸術としてのデザイン』において、自身が言うところの「役に立たない機械」の制作を記録している。たびたびアレキサンダー・カルダー(Alexander Calder)の鉄のモビールと比較されるムナーリだが、彼が「機械」の作品を通して意図したのは「現実世界の空気感、我々が吸っている今の空気に敏感」であり続けながら「絵画の静的な性質」から自由になった形を作り、最終的にはそれぞれのパーツを繋ぎ合わせひとつにすることだった。ムナーリは形を切り抜き、糸を通し、ワイアーで結び、それらに弾むような調和の感覚を与えた。この何の役にも立たない機械は、美意識の世界に属し、不可解であり、動的だった── 吊るされ、旋回し、その動きに特に意味はなかった。人の手では制御できないオブジェだったのだ。作品が抽象的なのは、我々に問いかけているから。 美しいのは、美しくあってはならない理由がないから。 ファッションの世界でも、同様のことが当てはまる。例えば、川久保玲の創る「こぶ」を例にとってみよう。彼女は服という概念に対して見事なまでに挑戦してきた。ヴェルヴェットの突起や変形させた格子柄の持つ可能性、あるいは、花柄模様に寄生する力を与えたり、同調するためではなく妨害するためにスーツを作ることに、可能性を見いだしてきたのだ。川久保にとって、スリーブはただスリーブとして存在するのではなく、触覚であり、爪であり、口である。川久保の鋭い感覚を持つデザインは身体から解き放たれている。そして人々に崇拝される「祭壇」であり続けるのだ。それは「優美な屍骸」のゲームを彷彿とさせるモデルを次から次へとランウェイへ送り出すSacaiにも共通する雰囲気だ。Sacaiの手にかかれば、ほつれたリボンと再解釈されたラグビーシャツ、リベット、プリーツ、未来的なドイリーが、タキシードや騎兵隊の雰囲気をまとう。どれも一見「役に立たなさそうな」デザインでありながら、着る人の心をくすぐる。阿部千登勢の十八番とも言うべき、ジャンルを超えたミックスだ。単にリファレンスや過去のレガシーを参考にするだけでなく、それらを揺さぶるのが彼女の長所だ。ハイブリッドなファッションというのは、純粋に機械の流れをくむ。だが、明確かつ痛快なまでに、本質的に役に立たない。なぜならハイブリッド ファッションは、「着る」というごく単純な行為のためにデザインされているにもかかわらず、まるでルーブ ゴールドバーグ マシンのような手の込んだやり方で作られるからだ。
さらに、Marine Serreのカーゴ ポケットで覆われたドレスも、今シーズン引き続き根強い人気を誇る。このドレスは、まさに美意識の賜物であり、実用性を極端に解釈することで、実用性そのものを打ち消している。ポケットのワンダーランドとでも言いたくなるような、空気力学的な形状が、ドレス全体や動きと衝突し合っている。挑発的な試みを続けるデザイナーならではの、シュールレアリスムに基づいたスポーツウェア…あるいは、ダリ(Dali)のディナーパーティにうってつけの服だ。これほど「余剰(サープラス)」を感じさせる軍放出品(アーミー サープラス)もないだろう。

Junya Watanabe、2019年春夏コレクション
ヴァンパイアのロマンス
「生き返った死体」、哀悼者、シルクに覆われた亡霊。今シーズンのヴァンパイアを定義するのは、雰囲気やテーラリング、そしてクリノリン生地だ。例えば、Junya Watanabeは、紙のように薄い素材やペイズリーに、チョーカー、有刺鉄線、死人を包むために使われる蝋引き布を彷彿とさせる褐色のコットンといった要素を、硬派な繊細さで組み合わせた。デザイナー渡辺淳弥は、ホワイトTシャツとコーディネートすることでエッジィな要素を中和し、淡い色のデニムを「ダーク」なものに変えるためにチュールやパッチワークを取り入れた。彼のショーに出演したモデルたちは楽しんでいるようだった。というのも、モデルたちは、皆そろって何やら良からぬことを企んでいるように見えたからだ。バイアスカットのフィッシュテール、黄色や緑や赤のネオンカラーに染められた髪を目の上でパッツンと切り揃えたヘアスタイルなど、愛らしい遊び心が垣間見える。ほつれ、パンク、ブルーが織りなすロマンスも感じられた。まるでJunya Watanabeのショー自体が映画『The Lost Boys』のサウンドトラックに使われた「Cry Little Sister」を奏でているようだった。その映画も、ヴァンパイアと同様、キャラクターが全く成長しないジェームス・マシュー・バリー(J.M. Barrie)の著作『ピーターパン』に影響を受けている。モデルが連なって歩く巣が姿が、デザイナーのヴィジョンに取り憑かれただけでなく、まるで夜にだけと生き返ったかのように見えるとき、一種の神話が生まれる。
Simone Rochaも同様のファンタジーの世界を創り上げている。唐の時代から影響を受け、マルグリット・デュラス(Marguerite Duras)の『愛人 ラマン』を彷彿とさせる彼女のショーは、ビブとビーズ、そして黒のベールやジャカードのオンパレードだった。濃い赤が咲き乱れ、ドレスには溢れんばかりの花があしらわれたおかげで、神殿のようだった。Rochaのデザインは、幻のような雰囲気を放つ一方で、語るに値するストーリーを、さらに言えば、口外することを禁止された秘密のストーリーを、秘めているように思えてならない。

The Row、2019年春夏コレクション
新たなスプレッツァトゥーラ
「無意識のようにみせかけた、計算された無造作さ」という意味の「スプレッツァトゥーラ(sprezzatura)」というイタリア語は、イタリア人作家、バルダッサーレ・カスティリオーネ(Baldassare Castiglione)がマナーについて書いた16世紀の著書『宮廷人』に由来する言葉だ。本の中で、スプレッツァトゥーラとは、あたかも労力をかけずにできたかのように見せる無造作さ、と定義されている。困難な状況を切り抜けながらも外見上は優雅で余裕があるように繕うことを指す。「私はきわめて普遍的なルールを見つけた」とカスティリオーネは書く。「それは、この件においてだけでなく、人間が話す時にも行動する時にも当てはまる、と確信している。そのルールとは、何かに直面したときに、それがまるで辛く困難なことのように大げさにひけらかすのは、可能な限り避けるべきだということだ」。基本的に、無関心を装うことはこの上なく有利だ。そうすれば、たとえ2時間遅刻しても、実は、階段を上って部屋に入り、パーティに参加し、何気ない会話をすることを考えたせいでパニックになっていた、と説明せずにすむのだ。ファッション的な観点から、新たなスプレッツァトゥーラという言葉を考えると、無頓着であること、つまり上手く無頓着を装うことを意味する。スプレッドカラーのシャツ、毛羽立ったグランジなセーターが、この新たなスプレッツァトゥーラのいくつかの例であるが、ストラップがずり落ちてくるドレスもその類だ。きっと、ストラップが肩から滑り落ちたスナップ写真には「粋な彼女」みたいなキャプションがつくのだろう。そんなずり落ちてくるストラップのドレスは、言うなれば、ディナーパーティの残骸と同じである。ワインの染みが付いたテーブルクロス、甘いものには目のない酔っ払いのためのデザート用フォーク、神経質な人が使った痕跡を残した使用済みのナプキンのような。Sies Marjanの2019年春夏のショーは新たなスプレッツァトゥーラのお手本だった。Sander Lakの、着る人が急いでいたような印象を与える服を見る限り、彼はなにごとも「中途半端」が好きなようだ。半分だけボタンが掛けられているブロンズ色のブレザー、片側だけパンツに押し込んで見えるように作られているシャツ。犬の耳の形をしたレザーに腰の部分が絞ってあるボーダー柄のシャツ。ラックが、テーラードのパジャマが大好きなのも頷ける。それはLemaireも同様だろう。ふじ色、薄いティールグリーン、ダルメシアン柄のハンサムなLemaireのウィメンズウェアは、どことなくキャサリン・ヘプバーン(Katharine Hepburn)を彷彿とさせる。丈の短いジャケットにロング シャツを合せたレイヤーで作ったそのスタイルは、ごっついローファー姿が、彼女なりの視点、主張、そして適度な凡庸さをも伝えていた。
映画『ジョーズ』をテーマにしたCalvin Kleinのショーおよび、ラフ・シモンズ(Raf Simons)が継続的に取り入れてきた、ポップカルチャーやアメリカの政治と漫画、またはその両者を組み合わせた何かに対する執着については多くのところで書かれてきたが、サメに食いちぎられたプリーツや乱れたウェットスーツは、確かに映画的ではあるのと同時に、新たなスプレッツァトゥーラでもある。デザインとしてだけではく、メタファーとしても、新たなスプレッツァトゥーラなのだ。今さっき間一髪で命拾いしたかのような見た目で遅刻をすることほど、ドラマティックなものはない。ラフのモデルがそうだったように、濡れた髪で現れたなら、それはなおさら羨望の的となる作戦だ。髪をドライヤーではなく自然乾燥させる女は、いつも独特の雰囲気を漂わせている。
最後に、卓越した職人技が生み出すテーラリングが、イーディス・ウォートン(Edith Wharton)の敷居に立つヒロイン、もしくはサイ・トゥオンブリー(Cy Twombly)の邸宅にある大理石の彫像を思わせる雰囲気の、The Rowを挙げておこう。The Rowのシルエットは礼拝的で彫像的であるが、ロマンティックで自由放任的でもある。トップスはモデルに放り投げられたかのように、または船の帆のように貼り付けられているように見え、スリーブはゆらゆらと揺れ、コートは体を包み込み、ガウンはローブをも兼ねる。それは、居間で着るためのデザインだ。「めったに使われることのない部屋」の化身のようなデザイン。お化けが出そうな場所にある、劣化やほこりから守るための白いシートで覆われたイスなのだ。The Rowが発する新たなスプレッツァトゥーラの表現は、それぞれのデザインが鋭さと滑らかな感触と結びついている点に見受けられる。あるいは、しばしば「粘土質」と表現される、The Rowが得意とする素材のガザルが、透き通るほどの薄さでありながら形を保持し、意図的な奔放さを感じさせることにも、新たなスプレッツァトゥーラの精神が宿っている。それはシーズンが終わってもトレンドとして残り、ある「何か」を成し遂げるファッション特有の見えざる手だ。永遠とまではいかない、ファンタジーとまではいかない、簡単に定義できるようなものではない、何かのように。
Durga Chew-BoseはSSENSEの副編集長である
- 文: Durga Chew-Bose
- 3Dアーティスト: Nathan Levasseur