トリプル Sと18禁の欲望のデータ

SSENSEとPornhubが提携してファッションと人間の性の関係を探る

  • 文: merritt k

かつてフーコー(Foucault)は、近代政治が行使する権力の最たる形態とは人々の生殖機能の管理であるという考えに耽りながら、「セックスには死ぬ価値がある」と冗談ぽく言った。彼は、今日のデジタル世界に広がる素晴らしい新世界を予想できただろうか。そこには、どれほどエキセントリックであれ、あらゆる性癖に向けたポルノ動画が存在するということを。おそらくポルノサイトの文化的な影響力はかなり大きいのだが、私たちはそれに対して、十分に正当な評価をしていない。

今回SSENSEは、Pornhub Insightsと提携して欲望のデータを検証し、ファッションとポルノグラフィーが交わるときに何が明らかになるのかを探った。ここで取り上げるのは、スニーカーだ。スニーカーに関わるポルノの消費データをもとに、ライターのmerritt kが、より広範囲な文脈で、その意味合いとファッション業界との関連性を考察する。

2000年代後半、カナダの男性グループが、iPodやゲーム機など、高価な家庭用電化製品の発売開始の数日前から行列を作るということを繰り返していた。彼らはネット上で集めた資金でこれらの製品を購入し、その場で箱からアイテムを取り出すと、それを他の列に並んだ消費者の目前で地面に叩きつけ、破壊した。人だかりの中から絶望と怒りに満ちたうめき声が上がり、それに混ざって、その高価なアイテムを壊すなら列に並ぶ人にあげてくれという懇願の声も聞こえた。

これは、ある種の大量消費社会に対する精神的な反乱だったのか。覗き見的な見世物だったのか。あるいは、特に政治的意図はなく、ただ退屈した若者が注目されるためにやっている奇行だったのか。

いずれの答えも「イエス」だろう。ついでに言えば、おそらく、やっていてかなり楽しかったはずだ。

価値あるガジェットが、プラスチックや電気回路、金属の破片になるというイメージは、無駄や過剰、娯楽、そしてとりわけ否定を体現する複雑なものだ。あらゆる漂流物と同じように、それは人の目を引く。だが、ここでは少し残骸から目を離して、そのガジェットを購入しようと列に並んでいる若い男たちの方に、ちょっとだけ視線を移してほしい。そして彼らの足元を見てみよう。彼らは何を履いているだろうか。十中八九、スニーカーだろう。スニーカーとは、さっと足に履くのであれ、箱に入れっぱなしであれ、あるいは破壊された電化製品の姿を彷彿とさせるかのように精液をしたたらせるのであれ、複雑な歴史をはらんだファッションの形態のひとつなのだ。

スニーカー カルチャーとスニーカー フェチの境界は、必ずしも明白ではない

そう。現実に、人々はスニーカーの中や、上や、その周りで、オナニーに耽っている。Pornhubから集めたデータによると、スニーカーがサイト全体の検索ワード ランキングで993番目に挙がっている。この順位は低く見えるかもしれないが、これらの検索クエリには、スタジオ名や俳優名、特定の行為などが含まれていることもお忘れなく。これが意味するのは、人々は1日に何千回もスニーカーを検索しているということだ。ファッション関連の全検索ワードの中で、ブーツやソックス、そして当然ながらスニーカーなど、足に関するアイテムがPornhubのトップ20のリストのうち20%を占めている。

なぜ人々はスニーカー ポルノに熱中するのだろうか。この問いについては、踏みつけることやフェティシズム、いかに足が身体における卑しい部位であり、汚れたものとして文化的に規定され、それゆえに劣化や服従のファンタジーの中で使われているかなど、より広い観点から足の役割について検討することで、答えが見えてくるはずだ。 さらに、今は2018年である。現在、足は人気なのだ。Twitterで「and she got feet」で検索してみるといい。

とはいえ、ここではただ足について議論するわけではない。そこにどのようなものが関わっているのかを議論する。例えば、スティレット ブーツから連想するものは、ハイソックスから連想するものとかなり異なり、ハイソックスから連想するものは、控えめなスニーカーから連想するものとは異なるが、この意味についても考える。加えて、とりわけスニーカーの魅力を理解するには、靴の歴史についても考える必要がある。

画像のアイテム:スニーカー(Vetements)

20世紀後半以降、メンズでもウィメンズでもカジュアルウェアの人気が高まり、 スニーカーとしてのスニーカーは、男性の運動能力や富と特権と結びついたアイテムになった。コンバットブーツやワークブーツが、権威や権力、たくましい男らしさを表すエロティックな象徴になっているのと同じように、スニーカーはスケーターやスポーツ選手、ラッパーのような男性のペルソナと関連づけられている。また、80年代と90年代にその人気が爆発的に高まって以来、スニーカーは、ステータスや価格、好ましさという点で、男性にとってハイヒールに相当する靴になったと言っていい。

ルブタンのハイヒールのように、高級スニーカーはコレクションし、目で楽しみ、崇拝されるためのものなのだ。最も高価で、人気すぎて入手困難なスニーカーの中には、ほとんど履かれることがないものもあり、その意味では、機能性は700ドルのピンヒールと大差ない。大変な金持ちで、ほとんど自分の足で立つことがないか、靴がこすれて傷がついた時のための予備を持っているのでない限り、これらの靴は、ほとんどの時間、箱に入れられたままの可能性が高い。

だから、スニーカーというのは、実用的なコンバットブーツと装飾的なエナメルシューズの間にまたがるものなのだ。この意味では、スニーカーは、身体的にアクティブな着用者のイメージを捨て、今ではより曖昧な見方をされるようになったと言える。また、1990年代初期にパニックを引き起こした「スニーカー殺人」を筆頭に、スニーカーは波乱に満ちた歴史を持つ。この件では、マイケル・ジョーダン(Michael Jordan)やスパイク・リー(Spike Lee)など黒人の大物セレブリティが、入手困難なブランド アイテムのための暴力行為を煽ったとして、しばしば批判の対象となった。

そのため、スニーカー ポルノを素直に男性のフェティッシュのひとつと考えるのは間違いであるように思う。そう考えてしまうと、スニーカーが過去数十年にわたり積み重ねてきた複層的な意味合いを無視することになるからだ。そしてスニーカーの持つ意味は、歴史上の拷問や奴隷に使われていた装具がクィアなSMに取り入れられてきたのとほぼ同じ方法で、サブカルチャーによって常に掘り起こされ、盗用されている。

もちろん、その象徴性にばかりに注目し、物質性を完全に無視してはならない。レザーに触れたときに感じるあの奥深い快感は、これまでもSM論者が丁寧に記録しているが、これはスニーカーにも当てはまるものだ。靴の視覚的な美しさは一目瞭然であり、これが結局のところ、ハイエンド スニーカーやセレブによるブランド スニーカーにおいて価値を判断するための第一の基準になっている。だが、その柔らかなレザーや丁寧に施されたステッチに触れ、贅沢な履き心地の内部に足を滑り込ませること、それ自体にもまた、別の美しさがあることがわかる。だから、スニーカーを触ったり、こすったり、臭いを嗅いだり、舐めたり、はたまたスニーカーとセックスしたりすることに快感を感じる人がいたところで、驚くには当たらないのだ。ある自称スニーカー フェチが言うように、「特に、ShoxやadidasのRacerやPumaのSpeedcatのような細めのスニーカーは、すごく気持ちいい」のである。

スニーカーとのこの種の性的な親密さは、本来の機能からますますかけ離れた方法で、ファッション アイテムとのつながりを再び身体にもたらすものだ。スニーカーを前にハアハア言い、スニーカーを愛撫し、スニーカーと交わり、スニーカーで相手を踏みつけ、あるいは単純に、スニーカーを履いて誰かとセックスすることは、デザインされた靴の機能に背くものではあるが、身体的行為のひとつである。これらの行為は知られざるスニーカー収集にも似ている。ひたむきに崇拝の対象を崇めつつ、その崇拝を身体的に表現しているのだ。

だが、これでもなお、フェティッシュとファンの境界を誇張しすぎているかもしれない。スニーカー狂が、ボックスから靴を出し、そっと撫でて匂いを吸い込む、あるいはその靴を見せびらかすとき、その行動とスニーカーポルノに見られる行為の差は、タイプが異なるものというより、程度の問題のように思える。となると、スニーカー カルチャーとスニーカー フェチの境界は、必ずしも明白ではない

そして、エロティックであれ他のものであれ、一連のアイデンティティを投影する身近な対象としてスニーカーを引き合いに出すのは、何もポルノに限られたことではない。ファッションは常に、私たちがより良いもの、異なるもの、またはより贅沢なものに憧れることを望んでいる。そもそも、マスマーケット向けの広告の目的は、消費者に製品とのつながりを感じさせるためのものだ。だが、これらのつながりは、必ずしも上から下へと伝わるものではなく、時には消費者が、ファッション ブランドの期待や要望に反した形で、勝手につながりを作り出してしまうものでもある。これは、2000年代初頭に「チャヴ」と呼ばれる反社会的な若者層が、こぞってBurberryのアイコニックなベージュのチェック柄を取り入れたことなどが良い例だ。となると、スニーカー企業も、自社スニーカーが取り上げられたポルノをネットから削除させようとする可能性があるのだろうか。そうすることはできるだろうが、可能性としては低いと思われる。やや手遅れだというのは言うまでもない。

画像のアイテム:スニーカー(Raf Simons)

画像のアイテム:スニーカー(Balenciaga)

もしブランドが、実際に自社製品が取り上げられたスニーカーポルノを削除しようとするならば、それは、「不都合な」関連性から自らのイメージを保護する努力という形を取る可能性が高い。(ゲーム会社Blizzardが人々にゲームの登場人物を使ってポルノのイラストを描くのをやめるよう呼びかけたのを覚えているだろうか。) だがそうすると、特にラグジュアリー商品に関しては、資本主義が全盛のこの時代に、不安を顕在化させることになるだろう。私たちは皆、恋をしているが、その表現の仕方は異なる。私たちの多くは靴や携帯電話でオナニーなどしないが、私たちのほとんどが、これらを毎日のように触り、常に身近なところに置いている。とはいえ、「自分の物に所有されるようになる」という『ファイト・クラブ』的分析は、私にはいまいちピンとこない。というのも、デザインの世界と私たちの関係には、現に満足を与えてくれるところもあるからだ。

ポスト工業化社会においては、資本主義的交換の土台となる枠組みから外れた、あるいはその枠組みに先立つような、いかなる身振りも、姿勢も、欲望も、存在しない。ソニック・ザ・ヘッジホッグが言うように、資本主義社会にエシカル消費など存在しないのだ。同時に、消費とは象徴的価値や社会的影響、そして多くの場合、性的欲求を伴う複雑なプロセスだ。これらすべてが生産ネットワークに巻き込まれており、それが基盤とするのは、搾取と、裕福な国や企業がそれ以外の世界を犠牲にしてさらに豊かになるような仕組みである。

となると、スニーカー ポルノとは、ある意味、モノへの愛情を極端に解釈した場合の必然だということになる。だが別の見方をすれば、過去の「ノーマル」の限界を押し広げ、許容できるレベルを古典的なフェティッシュの定義、つまり日常生活のモノに対する興味をあからさまな性的魅力を感じることにまで引き上げてしまうと、決裂の可能性が生まれるということだ。破滅の兆候が見られるまでに愛を語ること、例えば唾液で靴を汚したり、誰かの背中に靴をこすりつけたりすることは、単なるニヒリズムの形態でも、単純化されたコンシューマリストの性愛でも、暴力性を持つ男性的セクシュアリティの表現でもない。これは、資本主義社会におけるアイデンティティのエロティックな構造を明らかにする、複雑な身振りのひとつなのだ。

この記事はPornhubとの協力で執筆されています。より詳細なデータの視覚化を用いた分析および記事の元になった詳細データが、この記事のPornhub Insights版でご覧いただけます。

merritt kはライター兼ポッドキャスター。『Real Life Mag 』、『MEL Magazine』、『Kotaku 』など多数に執筆している

  • 文: merritt k
  • 監督: Nik Mirus / L’ÉLOI, Caravane
  • アート ディレクション: Francis Dakin-Coté / Caravane、Jean-Constant Guigue / L’ÉLOI
  • ポストプロダクション: Francis Dakin-Coté / Caravane、Jean-Constant Guigue / L’ÉLOI
  • 作曲: Loïc Ouaret
  • 制作: Karyne Bond / L’ÉLOI