ユーザー体験:
ISSEY MIYAKE KYOTO

伝統と未来の
美学のはざまで

  • 文: Kanako Noda

京都の夏は盆地のせいで湿気が多くただでさえ暑い。その上、連日、記録的な猛暑が続いていた。そんな中、私は、今年の3月半ばにオープンしたISSEY MIYAKE KYOTOを訪れるため、古都京都へ向かった。烏丸御池から三条通りを東に進み、柳馬場通の角を曲がってすぐ、店は見つかった。古びて殺伐としたコンクリートのビルに挟まれて、そこだけ黒く凹んだように、趣のある京町家がある。

玄関には、白地に黒の一文字の入った暖簾が揺れている。三宅一生の「一」をデザインしたショップロゴだ。影に引き寄せられるように暖簾を潜り、両手で引き戸を引くと、扉は音もなくすべる。私はそっと中に入る。

デザイナーの深澤直人が手がけた店内は、グレーの淡い光に包まれ、ひんやりとしている。京町家の特徴である格子から光が差し込んでいるが、じりじりと照りつける日差しや、ねっとりと首にまとわりつく暑さは中まで入ってこない。よく冷房が効いているせいだけかもしれないが、墨汁を水で少し薄めて半紙に滲ませたような「墨色」の壁のせいで、日陰の中にいるような涼を感じる。ふと『陰翳礼讃』という言葉が思い浮かぶ。かの有名な随筆において、谷崎潤一郎は日本的な美意識の真髄としての陰影を論じた。この店舗は、細部に至るまで、この美意識を体現しようとしているようだ。現に、Issey Miyakeブランドに照明器具を扱う陰翳IN-EIというラインがあるのも、偶然ではないだろう。

店舗は2階建てで、1階にはIssey Miyake Menのほか、Homme Plissé Issey Miyake、me Issey Miyake、BAO BAO Issey Miyakeが並ぶ。2階は、Pleats Please Issey Miyakeと、グラフィックデザイナー田中一光の作品をフィーチャーしたIKKO TANAKA ISSEY MIYAKEのコレクションが置かれている。メインフロアである墨色の壁に掛けられたBAO BAOのバッグがひときわ輝いている。目の醒めるようなピンク、ケミカルな水色、メタリックな光沢の白。侘び寂びとは正反対の、このドギツイ色合いも、三角形の幾何学模様のせいで京町家の雰囲気にしっくりとなじんでいる。ガラスのショーケースには、カラフルなバッグやシャツ、時計や本などがきっちりと等間隔に並ぶ。どこを見ても、非の打ち所のないディスプレイだ。店内はしんと静まり返っている。京都にある無数の神社や寺で感じるような厳かで霊妙な空気が漂い、買い物をする場所に来た気がしない。「どうぞご自由に、お手にとってご覧ください」と店員に声をかけられ、ここは美術館ではないのだと改めて確認する。

実際、母屋を抜けた中庭には、蔵を改造して作られたギャラリーがある。このKURA(蔵)ギャラリーでは、現在、京うちわの老舗、1689年創業の阿以波(あいば)とコラボレーションした「うちわ」の展覧会が開催中だ。砂利の敷かれた中庭を通ってギャラリーの中に入ると、外から見る以上に奥行きがある。そして右側には壁一面にショップロゴの「一」の字をデザインしたうちわがずらりと並び、その向かいには、阿以波オリジナルの「目で涼をとる」ための優美な飾りうちわが展示されている。

京うちわは、竹の骨に紙を貼り合わせて作る立体的なデザインが特徴で、ひとつひとつ手作業で作られる伝統工芸品だ。奥にはやや興醒めなTVスクリーンが設置されており、阿以波の歴史や文化を説明する映像が流れている。10代目を襲名した当主が、正座をして、まっすぐ背を伸ばした姿勢のまま、上品な京都弁で、淡々と京うちわについて語っている。話す間も、うちわを作る手は動き続けている。教科書があるわけでもない、見て覚える世界だ。匠の伝える伝統の技と哲学、あるいは日本の美というイデオロギーと言った方がいいだろうか。そして革新。ここには、日本の伝統工芸の美を、西洋中心の現代ファッションの文脈に読み替えて提示してきたIssey Miyakeの美学に通じるものがある。阿以波とのコラボレーションが必然であったことは、一目でわかる。

展覧会のフライヤーの角には、KURA size 1/400とあり、その横にごく小さい文字で「このフライヤーを縦横に20枚並べたサイズが展示会場のサイズです」と書かれている。この誰も気にかけないであろうミニ情報が、伝統工芸とこの店舗に共通する、神経質なまでに細部まで計算し尽くされた遊び心を体現している気がした。アートなのだ、と私は思う。だが、ややお腹いっぱいの気もする。

私は母屋に戻り、墨色の狭い階段を2階へ上がる。天井を覆う、焦げ茶色のむき出しの梁が美しい。木の構造が手に触れられそうなほど近い。これを見て、アルテ・ポーヴェラの流れを汲むイタリア在住のアーティスト、長澤英俊による、古い民家の梁を使った作品を思い出す。確かに、この店舗には、どこかアルテ・ポーヴェラのプロジェクトを思わせる、コンセプチュアルでありながら有機的で複雑な美しさがある。手すりから下を覗き込むと、墨色の陰影の中、地上で見る以上に商品が輝いていて、それ自体が発光しているかに見える。そして照明の下、カラフルなプリーツのワンピースは美術館の彫刻のように並んでいる。

壁の端には手触りのよい小さな木のベンチがあり、そこに座って、誰もいない空間でくつろいでいると、店員がひとり上がってきて、「失礼します」と頭を下げる。仕方ないとは思いながらも、私は見張られているようで落ち着かず、店員の視線を避けるように階下へ降りる。

メインフロアでは、さっきより客が増えていた。母親と高校生くらいの息子の2人組が熱心に店内を見て回っている。そこへ中年の女性の2人組が入ってきた。彼女たちは店の雰囲気や他の商品にはわき目も振らず、まっすぐBAO BAOバッグに向かって直行する。そしてひとしきりバッグを確認しては、店員に質問を浴びせる。見た目は日本人と変わらないので、最初は気づかなかったが、カタコトの日本語と英語で店員とやり取りをしているのが耳に入り、観光客だとわかった。その瞬間、この店舗の違和感の原因に気づく。ここでは、あらゆる表示に英語が併記されているのだ。国際的なブランドとはいえ、服屋でここまで英日併記が徹底されているのは珍しい。この店舗が外国人の顧客を意識しているのは明らかだ。考えてみると、今日ここで見た日本人は、私と若い店員のほかは、店に入ったときにいた、男物のシャツを前に「こんなん、うちも着たいわぁ」と話していた2人の地元の老婦人だけだった。ここの顧客のほとんどはインバウンド客のようだ。

私は外国人観光客がこぞって足を運ぶ京都の観光スポットを思い浮かべる。龍安寺の石庭や金閣寺など、ベタな谷崎的世界観や、京都の伝統を伝える匠の技という日本的ファンタジーを堪能できる場所だ。とはいえ、これらの場所は決して「偽物」ではない。むしろ、偽物の対極にある。「モノ」も「文化」も「場所」も、すべてオーセンティックで、千年にわたる京都の歴史に根ざした「本物」だ。だが、それゆえに画一的なコンビニや味気も色気もないショッピングセンターの並ぶ、私が生まれ育ったリアルな日本とは完全に異なる異世界でもある。ISSEY MIYAKE KYOTOも同じだ。雑な生活感をそぎ落とし、オーセンティックさを究極まで突き詰め、完璧に洗練された世界。ISSEY MIYAKE KYOTOは、ある意味、本物すぎる。そのせいで日本の美における不気味の谷現象が起きており、リアルを超えて、ハイパーリアルに感じるのだ。悠久の歴史というのは、未来と同じく、往々にして捉えがたいものだ。

Kanako Nodaは、SSENSEのエディトリアル トランスレーターであり、モントリオールを拠点に活動するビジュアル アーティストである

  • 文: Kanako Noda