ユーザー体験:Loewe マイアミ旗艦店
18世紀の穀物倉の陰でアートと消費の交信を検証する
- 文: Rebecca Storm
- 写真: Rebecca Storm
- 画像提供: Loewe

12月頭にマイアミに来るということは、アート バーゼルのせいで、どういう形であれ計画が複雑化することを意味する。Loewe旗艦店を訪問した私の場合も、例外ではなかった。

私は店舗を訪れたのは、12月の暖かく気持ちのよい日だった。何枚か写真を撮れるように通りの反対側で車から降ろしてもらい、そこから店舗を眺める。とはいえ、本当の目的は、少し外を歩いてエアコンで冷え切った体内にできた結露を取り除くことだ。体が冷えきっている。私は、暖かい気候ではむしろ暑さを楽しみたい方だが、Uberの運転手は、私と好みが違ったようだ。
クリエイティブ ディレクターのジョナサン・アンダーソン(Jonathan Anderson)の命を受け、2015年にオープンしたこのマイアミ店では、現在、Loewe財団主催の年に1度のギャラリー プロジェクト「Chance Encounters (偶然の出会い)」が開催中だ。展示は毎年アート バーゼル期間中に始まり、数ヶ月間続く。アンダーソンがキュレーションを手がけるこのプロジェクトでは、デザイナーの商品と芸術作品を意図的に並置することから生まれる原動力が、余すところなく表現される。そこでは、アートと店舗をすべて一度に見ることができる。「Chance Encounters III」のパンフレットでは、アンダーソンのインスピレーションの源としてケトルズ ヤードを褒めちぎっている。ケトルズ ヤードは、キュレーターのジム・エド(Jim Ede)のケンブリッジにある自宅を改装したギャラリーで、アート、工芸、デザイン、日用品などあらゆるものが集められており、異質なものが調和したコレクションで有名だ。Loewe店舗には、彫刻家サラ・フリン(Sara Flynn)の作品を始め、写真家ライオネル・ウェンド(Lionel Wendt)と画家リチャード・スミス(Richard Smith) の作品が展示されている。その中で販売スペースも通常通り営業中で、芸術作品と消費者商品の二項対立が表現されている。そのような区別が今もなお存在するとすればだが。おそらく、これがアンダーソンの挑もうとしていることなのだろう。
店舗の正面は全面ガラス張りで、通りがかる人は誰でも、この店舗の主要な展示物、スペインから運ばれた18世紀の穀物倉を見られるようになっている。展示ケースに入った尖塔のように、穀物倉は空間に収まっている。ガラスの背後に置かれたものはどれも、どこか本質的によそよそしい雰囲気が漂う。「私を見て」と言いながら同時に「邪魔しないで」と言っているかのようだ。ガードマンが大きなガラス扉を開けてくれる。中に入ると、空間の大部分を占めるその全長11メートルの構築物を前に、自分がとても小さくなったように感じた。10台ほどのガラス テーブルが、背骨のように穀物倉から垂直に伸び、その上にバッグやアクセサリーが展示されている。どれも黒のレザーだ。穀物倉は、かつては収穫した作物を乾燥させ、貯蔵するために使われていた。だがここでは、穀物の代わりにフリンの陶器の花瓶が置かれている。生活の糧であり商品でもある芸術のアレゴリーというのは、ややわざとらしい気がする。だが、この考えに異論を挟むのは難しい。結局のところ、ここはラグジュアリー ブランドの旗艦店なのだ。


穀物倉は、ただのデコレーション以上の役割を担っている。この店の中心にあり、構造的にも比喩的にも中にあるものを支え、さらに、空間の建築的な限界に挑む。私はしばしの間、自分がマイアミにいることすら忘れてしまっていた。アートバーゼルの、誰もが注目し、また注目されようと張り合っている雑然としたカオスを視界から消すことは、決して用意な技ではない。十分に落ち着いた雰囲気を作り上げれば、人々はこのような世界を自分でも真似したいと思うだろう。彼らがそれをいちばん手っ取り早く実現する方法は、言うまでもなく、この雰囲気の根底にある要素を手に入れることだ。つまりショッピングをすればいい、ということなのか。
フリンの陶器と一緒に、穀物倉にLoeweのレザーのアクセサリーが並べられている。以前、私はLoeweの小さなレザーの象を見て呆れたことがある。だがこの空間では、象の大きな耳の輪郭のカーブがフリンの花瓶に呼応していて、完璧にしっくりくる。象たちは物言わぬ家畜として、この空間に群れをなして住んでいるように見える。私のサウス ビーチ脳は、 この小さくてかわいい物の群れにすっかりやられてしまった。ライオネル・ウェンドの親密な雰囲気の人物写真と合わさって、ともするとラグジュアリーな空間には欠けがちな、暖かく、人間的な感情がこの空間には染み込んでいる。

リチャード・スミス(Richard Smith)の作品が、部屋一面に、天井から吊るされている。連なる凧は屋外の空を思わせる深い青色で、ウェンドの青みを帯びたゼラチン シルバー プリントを除けば、これが空間の大部分に広がるただひとつの色だ。コレクションと選び抜かれた作品の配置によって、ある種の調和を想起させるというアンダーソンの目標は、ここまでのところ成功しているように見える。


店舗の奥へと進む。そこにほとんどの服が置かれている。ちなみにどの服も黒色だ。こうして、既製服をじっくり吟味したい人とアートファンを隔離しているのだ。ベルベット ニットのセーターを見ていると、店員が試着するよう勧めてくる。店内で唯一カーペットが敷かれた広々とした試着室を、燃えるような緋色の革張りの一人がけソファが占めている。その燃えるような赤の熱で、白い壁とクリーム色のカーペットまでもが温もっているかのようだ。私のあのかわいい家畜たちを除き、冷たい石と黒いレザーだけでできた空間で、この試着室は例外的に柔らかく温かい。子宮にも等しい心地よさだ。アンダーソンの意図が、空間を対話の場所として存在させることだとすれば、この試着室はその会話には入っていなかったのだろう。ここは静かで平穏だ。試着室自体と同じように、私も会話から離れて一息つく。

私は、自分が販売スペースにいるのに、アートと装飾の方により関心が向いていることに気がつく。ショッピングをしながら芸術作品を見ることは楽しい。だが、アンダーソンがこの芸術家たちの作品に感動して、彼らの作品を買ってほしいと思っているのか、あるいは、その目標がこの環境に魅了された顧客がLoeweの商品を買わずにいられなくなることなのか、見極めるのは難しい。そもそも、これらの作品は販売されているのだろうか。Loeweの商品を芸術作品の間に展示することで、確かに両者の間に対話は生まれるが、それは同時に、価値という点でこれらが対等な地平にあることも示唆している。そのためにアンダーソンはキュレーターでありながら、大胆にも自分自身の作品を展示に盛り込んでいる。あるいは、鑑賞者の方が芸術作品と消費者商品の間の区別を求めていないのかもしれない。私はその空間自体を、雰囲気を、楽しんだ。大多数の販売スペースが、コンセプトの面で微塵の進化もなく、ただ建築設計図をなぞることに甘んじる中、Loeweは、突き詰めれば、そこを訪れる人に平穏を与える場所を作り出してみせ、協調というブランドの創立理念を、てらいもなく実現している。


ありがたいことに、試着したセーターは、私が着ると困惑した恐竜のように見えた。試着室を出て、私はもう一度店内を回る。何世紀も前のスペインの穀物倉に向かい合うなど滅多にない機会だ。それにじっくり見るべき箇所も多い。少し鈍くさい私は、自分が穀物倉の石の足を蹴っ飛ばすところを想像する。 そのまま商品がたくさん乗ったガラス テーブルにぶつかってしまったら大変だ。そして、これは今のうちに退散した方が良さそうだと判断する。 外に出て、最初に私が店を眺めていた通りの反対側に目を向け、ガラス ケースの外に出られたという奇妙な安堵感を思い出す。それから私は、冷房がガンガン効き芳香剤の匂いのするホテルとアート バーゼルという悪夢の中へ引き返した。
Rebecca StormはSSENSEのフォトグラファー兼エディター。「Editorial Magazine」のエディターも務める
- 文: Rebecca Storm
- 写真: Rebecca Storm
- 画像提供: Loewe