今晩、何着てく?
アナ・バク=クヴァピルのイラストで見る、映画のなかのお出かけ着
- 文: Ross Scarano、Molly Lambert、Doreen St. Felix、Durga Chew-Bose、Sarah Nicole Prickett
- アートワーク: Anna Bak-Kvapil
もうやめよう。プランをキャンセルして家にいるために頑張ることにも、まあ、飽きてきた。別のやり方を提案したい。友人の家に着くと、彼女はまだ支度ができていない。というか「出かけるにはほど遠い」状態だ。彼女はベッドルームの床に座り、携帯でチャットをしたり、飲み物を一口飲んだりする合間に、全身鏡の前でマスカラをし、チークを入れ、アイライナーをにじませ、マニキュアを塗っている。どの靴にしようか悩んでいる。赤いのにしようか、ブーツがいいか、それともスクエアトゥのヒールサンダルか。そこら中に服が散乱し、音楽がかかっている。出かけられるようになるまで、まだ時間はかかる。しかし、これも楽しみの一部ではないだろうか?
今回SSENSEは、ライター数人とアーティストのアナ・バク=クヴァピル(Anna Bak-Kvapil)に、どの映画が、外出時に着る服を決めるという純粋な喜びを捉え、この日常の儀式をうまく表現しているか考えてもらった。ジェームズ・グレイ(James Gray)が壮大に描いた犯罪ドラマ『アンダーカヴァー』から、簡単に言って、間違っている『セイブ・ザ・ラストダンス』のジュリア・スタイルズのキャラクターまで、さまざまな映画が登場する。そして、バク=クヴァピルは、人々に愛されるこれらの映画を最新のスタイルに解釈し直す。Marine Serreに身を包むホイット・スティルマン(Whit Stillman)の作品のヒロインを考えてみてほしい。あるいはOff-Whiteを着るキーラ・ナイトレイ(Keira Knightely)でもいい。JacquemusやMaison Margielaを着るダーク・ディグラーを想像してみよう。わかるだろうか? そのうち、そのように見ずにはいられなくなること間違いなしだ。

Kate Beckinsale (左) :ブラウス(Halpern)、グローブ(Marine Serre)、バッグ(Prada) Chloë Sevigny (右) :ドレス(Saint Laurent)、グローブ(Marine Serre)
サラ・ニコール・プリケット『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』
『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』の光り輝くクラブのシーンは、ほぼ毎回、何ごとも起きず、ただ延々と続いていく。これを見れば、ヒロインのふたり、クロエ・セヴィニー(Chloë Sevigny)が演じるアリスとケイト・ベッキンセール(Kate Beckinsale)が演じるシャーロットが、支度にもっと時間をかけられたことは明らかだ。特にシャーロット。ダークブラウンの髪で生意気な彼女は、全身黒ずくめのために、なんとか「クラブ向けの格好」として通るスタイルで、ナイトクラブにデビューする。アンクルブーツ、ブーツカットのジーンズ、踊る前に脱ぐコーデュロイのボタンのダウンジャケット。それを脱ぐと、いつの時代も大学生が好んで着ているタイプの、露出度が高い「お出かけ用トップス」が姿を表す。彼女のような顔があれば、肩を出すだけでも十分だ。喜劇俳優としての良さがあまり知られていないベッキンセールだが、あまりにも自然体で高飛車に見えるので、彼が役で着ているダサいアンサンブルは、彼女自身が、衣装部門全体を無視してきた結果が映画のスクリーンに出ているのだろうと信じることができる。だが、自身のキャリアとは正反対に、「仲間の輪に入る」ことを心配する少女を演じるセヴィニーでさえ、最初は、スタジオ54のセットに行くつもりが住所を間違えて書いたせいで来てしまった、希望に満ちたエキストラのように見えた。アリスのドレスは、Halstonのデザインを模した、ファイリーンズ ベースメントで買ったに違いない、ひざ丈のガンメタルのラメ ドレスだ。靴はお決まりのストラップ付き。まったく釣り合いが取れていないコートはBrooks Brothersのものだ。こげ茶色のコットン素材のショート丈のコートで、袖の部分をまくり上げている。魅力的ではあるが、注目を集めることは、ほぼない。注目は、タイトルになっているディスコ自体なのだ。高い評価を受けた新作の「オートフィクション」に出てくる主人公や、バラードに出てくる相手と同じく、名前はない。だがこのディスコは映画の主題であるだけでなく、ホイット・スティルマンの1998年の作品の主役であり、自称主演俳優たちよりも多くの出演時間を獲得している。とはいえ、この俳優陣はそれぞれ自身の他の映画に出演し、そこでは精神小説に順応しているのだが。
アリスはヘンリー・ジェイムズ(Henry James)タイプの女の子で、精神的には純粋だが、それほど無邪気ではない。シャーロットはイーディス・ウォートン(Edith Wharton)タイプの女の子だ。たとえば、「私がイヤリング以外の装飾品を身に着けていないのに気づいてるわよね」というウォートンのフレーズなど、ベッキンセールがあまり着飾らずに現れるときにぴったりだ。いずれのヒロインも、夜になると腕時計をはずし、アクセサリーを付ける傾向があるが、アリスはオフィスからクラブまで、Elsa Perettiのシルバーハートのネックレスと、Elsa Perettiのクリップオン イヤリングをつけるなど、よりコーディネイトされたファッションを好む。彼女はブラッシングしたブロンドのカールをシルバーのバレットで留め、その日のスタイルに合わせてライラックやマスカット グリーンの色のアイメイクをする。彼女が「これなしで済むなんて若いに違いない」のキャッチフレーズで宣伝しているYardleyのカラーパレットを使用しているのが、私にはわかる。けれども、彼女たちが支度をしている様子は見えないないので、それを「観る」ことはない。例外に近いものとして、スティルマンが欠けている部分を少し見せてくれる場面がある。小さなバスルームにいるアリスが、虹色のシークインの「チューブトップ」とベーシックな黒のスラックスに身を包み、鏡を見ながらイヤリングをつけ直しては、まだブルージーンズの姿のシャーロットにイライラしながら、鍋の中にあるエビの調理時間について話す、きらめくような7秒のショットだ。玄関のチャイムが鳴り、少年が到着。シャーロットの支度が整っている場面に移る。彼女はセットされていないダークな髪のワンレングス ボブで、それが面白いほどネフライト ジェードのドアノッカー イヤリングに合っていない。それにキラキラのホルターネックのドレスを着ている。このドレスがアリスの物であるという事実は言及されないが、いくつかのシーンの後でアリスが着ていることから明らかだ。彼女がこのイヤリングを選ぶとき、何を考えていたのか、それとも何かを考えていたのかは、永遠にわからないままである。
クラブでの最も短いシーンはパウダールームで起こる。アリスは突然大人に見え、Elsa Perettiのメッシュのイヤリングと、シンプルなミッドナイトブルーのベロアのタンクトップで「控えめ」という概念を照らし出す。努力と運命の両方の面で真逆の行動をするライバルでもある彼女の友人は、ギザギザな襟ぐりの黒いベルベットのタイトドレスで、耳にはElsa Perettiのダイアモンドのスターフィッシュのイヤリングをしている。シャーロットがこれまでにないほど美しくみえたのは、もちろん彼女が妊娠したからだ。「こうなることを望んでいたのよね?」とアリスは身動きせずに鏡に向かって言う。「どういう意味?」とシャーロットが尋ねる。「望んでいた」という動詞は、この明解で完璧な映画では、否定形でない限り、常に過去形で用いられる。彼女たちはただ輪に加わりたいのだ。家には帰りたくはない。そこですることなど、何もないのだから。
Sarah Nicole Prickettはカナダのライターである

Mark Wahlberg 着用アイテム:ベスト(Maison Margiela)、シャツ(Jacquemus)、トラウザーズ(Sies Marjan)、カジュアル シューズ(Gucci)
モリー・ランバート(Molly Lambert)『ブギーナイツ』
今となっては信じがたいが、かつてダンスをするためにスーツを着る時代があった。幸運にも、ディスコブームと時を同じくして、新素材のテクノロジーが次々と登場した。ポリエステルやレーヨン、スパンデックスといった未来の素材のおかげで、かつては、動きを制限していたダンス用の服で自由に動けるようになったのだ。レジャースーツと呼ばれるカジュアルなスーツが、西海岸で生まれたのも自然なことだった。その元祖は、ヌーディ・コーン(Nudie Cohn)というステージネームで知られる仕立て屋、ヌータ・コトライアレンコ(Nuta Kotlyarenko)がデザインしたカントリー ウエスタン スーツだ。これらのスーツは「ヌーディ スーツ」と呼ばれ、多くは、ラインストーンや刺繍できらびやかな装飾がほどこされていた。白地にマリファナの葉と十字架が描かれたグラム・パーソンズ(Gram Parsons)のアイコニックなヌーディスーツ。あれが、レジャースーツだ。ラインストーン装飾がきらめく、エルヴィスの白いジャンプスーツもレジャースーツで、カントリー&ウエスタンの伝統を取り入れ、つなぎにしたヌーディスーツだ。その後10年が過ぎ、ファンクがディスコ音楽に流入するなか、シンセサイザーの登場によって技術面でも進化があり、最新のファブリックやファッションに見られるような、つやと伸びのあるグルーヴ感を出せるようになった。気まぐれに動く人間の体に反して、ガサゴソとぎこちない昔のごわごわした生地とは違い、これらの新素材はしなやかに動き、膝や肘に合わせてよく伸びた。若かりし頃のエルヴィスの、腰を激しくスウィングさせるパフォーマンスは、こういったカントリー&ウエスタンのレジャースーツの賜物なのだ。タイトで曲線的なボディラインが際立つエルヴィス スタイルのスーツは、1970年代にはディスコ スーツとなった。ディスコ スーツには、トラウザーズから一線を画す、デニムの動きやすさが備わっていた。この時代のレジャースーツは、女性を優しく包むラップドレスの男性版とも言えるだろう。さらに1980年代に入ると、レジャースーツはパワースーツへと形を変える。メンズおよびウィメンズともに、大きな肩パッドをあしらったデザインへ、バリエーション豊かに変化を遂げたのだ。
1970年代のレジャースーツで印象深いのは、『サタデー・ナイト・フィーバー』でジョン・トラボルタ(John Travolta)演ずるトニー・マネロが着た白いスーツだ。『ブギーナイツ』では、マーク・ウォールバーグ(Mark Wahlberg)扮するダーク・ディグラーが、かつて働いていたディスコクラブHot Traxxに給仕係ではなくスターとして凱旋するシーンで、同じようなレジャースーツを着ている。両作品とも、成功を夢見る、大都会の郊外で生きる労働者階級の若者を描いており、主人公2人の夢は、ちゃんと手の届く身の丈にあったものだ。彼らはロックスターでも、スタジオ54の常連モデルでもないし、シャトー・マーモント・ホテルに宿泊するような実力者でもない。トニーもダークも、愛しいまでに完全な「トンネルと橋の住人」、ロサンゼルスで言うところの、サンフェルナンド バレーの人間だ。ちなみにサンフェルナンド バレーは私の出身地でもある。そして、そこで彼らは成功を目指している。隣りの大都会での成功ではない。彼らにとってレジャースーツは、パーティー ドレスさながらに、昼間の自分たちよりもパワーアップできる魔法の一着なのだ。衣装デザイナーのマーク・ブリッジス(Mark Bridges)は、トニー・マネロのスーツをダーク・ディグラーのレジャースーツのモデルにしたのではない。そうではなくて、いずれも男性用のレジャースーツが郊外にまで波及し、もっとも流行っていた時期を反映していた。1977年にエルヴィスが死去するとブームは終焉を迎えるが、1980年代に入り、『特捜刑事マイアミ・バイス』のArmaniのような、デザイナーズ カジュアルスーツとして復活する。『ブギーナイツ』の80年代のシーンで赤いスーツを着るディグラーが目に留まる。これがマネロのスーツの色を変えたものであることは、一目瞭然だ。ダークのロサンゼルスは、同時代のニューヨークより、むしろ1940年代のズートスーツ文化を思い起こさせる。幅広のラペルと緩やかに広がるバギーパンツは、メキシコ系アメリカ人や黒人、フィリピン系アメリカ人の間で広く流行したが、人種差別主義者たちはこれを愛国心に欠けると非難した。戦時中の物資不足にも関わらず、布地をたっぷりと使うデザインだったからだ。だがそれも、1943年に起こったズートスーツ暴動に際して無地やりこじつけられた言い草にすぎない。派手に着飾ることは、戦時中の抑制された社会風潮に反するものだった。1970年代までには政治的な意味合いも払拭され、1940年代に流行したプラットフォーム シューズ同様、贅沢に生地を使うワイドラペルのスーツも、メインストリームの文化に復活する。ズートスーツ、ヌーディスーツ、レジャースーツ。ダーク・ディグラーのスーツスタイルは、これらの多様なスーツ文化の分岐点で生まれたのだ。
Molly Lambertはロサンゼルス出身のライターである

Joaquin Phoenix (左) :ブレザー(Boss)、シャツ(Versace) Eva Mendes (右) :ドレス(Bottega Veneta)、ピアス(Bottega Veneta)
ロス・スカラノ(Ross Scarano) 『アンダーカヴァー』
「熱狂的盛り上がりを見せるニューヨークのディスコやナイトクラブ シーンにおいて、ホットであるということは、すなわち新しいということだ」。1988年11月のニューヨーク・タイムズ紙の記事には、こう記してある。ジェームズ・グレイ(James Gray)が再現しているのも、この1988年秋のブルックリンだ。「熱狂的盛り上がりを見せるロシアン マフィア経営のナイトクラブや隠れ家において、ホットであるということは、すなわちホアキン・フェニックス(Joaquin Phoenix)であるということだ」という感じだろうか。
2007年10月に公開された『アンダーカヴァー』は、グレイ監督が、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世』を壮大に再解釈した作品である。この映画でフェニックスがナイトクラブのマネージャー、ボビー・グリーンを演じたのは、33歳になろうとする頃だった。警察官の一家に反発し、家を出たボビーは、無鉄砲な自惚れ屋といった雰囲気をまとい、左耳にダイヤモンドのピアスを光らせ、シャツはシルクといういかにもな格好で、怪しく危険な闇社会を生き抜いている。その姿は、さながらフォルスタッフを連れて貧民街の酒場に出入りするハル王子だ。
モノクロのオープニングの後、冒頭シーンに流れるのはブロンディ(Blondie)の「ハート・オブ・グラス」。スマッシュ カットにより、突如、赤いシルクのシャツを着たボビーが映し出され、シンバルとベース、ギターのリフが鳴り響く。ぼんやりと照らされた部屋でも、彼にはしっかりと見えている。エヴァ・メンデス(Eva Mendes)演じる恋人のアマダは、金色のカウチにだらしなく寝そべり、服をまくしあげて自らの体を慰めている。ボビーはアマダに夢中だ。今から彼女のもとを訪れるのだ。陰気なモノクロのオープニングとは打って変わり、このルビー色のシャツの鮮やかさが、これから始まる危険な物語を暗示する。
着飾って出かけるときはいつも、心の奥深くにセックスへの思いがあるものだ。たとえそれが、自分に自信を持ったり、自分ひとりでセクシーな気分になったりするのだとしても。アマダはあの夜、ボビーとのセックスを予想していたはずだ。にもかかわらず、出かける前に、すでに性的に興奮してしまったのだろう。それも頷けるくらい、あのシーンの彼女はセクシーだから。映画『パーソナル・ショッパー』で、クリステン・スチュワート(Kristen Stewart)演じるモウリーンが、顧客の服を着てマスターベーションするシーンを思い出してほしい。あるいは『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・トラボルタ(John Travolta)演じるトニーが、ディスコ「2001オデッセイ」に出陣するべく、ピンク色のポリエステルのパンツのファスナーをゆっくりと上げるときの揺れる腰つき。『アイズ ワイド シャット』の冒頭で、ニコール・キッドマン(Nicole Kidman)演じるアリスは、豪華なクリスマス パーティーに着ていくつもりの黒いドレスをするりと脱ぎさる。彼女はそのパーティーで夫から離れたところで、浮気することを考えている。
たとえぴったりのサイズでも、シルクはゆったりと垂れ下がる。それは、着ている人間とは違う動きをし、人の体には従わない。あたかも人間の動作に関わらず、素材そのものが独自の動きを与えるかのように。ボビーの背中、ちょうど肩の三角筋の下あたりの、生地のシワの寄り方に注目してほしい。視線はそのまま、腕からそしてアマダの太ももの間を弄る手元まで、自然にいざなわれるだろう。半ば透けたストッキングの色が濃くなっていく奥の方だ。シルクのシャツが幾重ものひだを織りなす様子は、みだらな欲情を体現するかのようだ。その後、部屋を出て夜の街に繰り出すために、ボビーはオーバーコートを羽織り、水玉のスカーフをゆるく巻いて、シルクのシャツの醸し出す性的な雰囲気をすっかり封印してしまう。まるでシャツ自体が裸であったかのように。
シルクとはいかがわしさだ。ヒュー・ヘフナーはシルクのパジャマの下に下着を身につけない主義だった。シルクとは、『アメリカン・ジゴロ』でArmaniを着たリチャード・ギア(Richard Gere)だ。グリーンのドット柄のタイをほどき、グレーのシルクシャツを脱ぐと、その下は裸だった。シルクとは脱ぎさる瞬間の音だ。シルクとは、『スカーフェイス』で襟元を広げて上のボタンを外し、2本のゴールドのチェーン ネックレスを見せるアル・パチーノ(Al Pacino)だ。シルクとは気前の良さだ。クラブの角席のシートの上に腕をもたれかけさる。さあ、あとはまかせた。楽しい時間の過ごし方を見せてくれ。頭上にスポットライトが輝くはずだ。
ボビーは、『アンダーカヴァー』の後半、苦境においやられる場面でフーディや厚手のジャケットを着ているのだが、それよりもシルクのシャツを着ている方がリラックスしているし、ラストでは、警察官の重責を負うことになったボビーがピシっとした警察の制服を着ているのだが、それよりも、シルク シャツ姿のときの方がもっと充実している。グレイ監督が過去にインタビューで語ったところによると、物語の悲劇はボビーが喜びを捨てたことだという。「ボビーの人生は、とても感覚的で濃厚、そして活力に満ちていた」。スコセッシ映画のナレーションのような語り口で、冒頭のシーンとラスト シーンの落差を描写しつつ、監督はこう話す。「彼はもともと輝く素質を持っていた…。それなのに[家族のせいで]台無しにされる。倫理や道徳なんて陳腐なものに忠実であるという理由で、台無しにされたんだ」。ともあれ、ボビーは最終的に麻薬捜査官に落ち着いたのだった。
Ross Scaranoはブルックリンを拠点とするライター、エディターである

Parminder Nagra (左) :ブラウス(Charlotte Knowles)、トラウザーズ(Supriya Lele)、ネックレス(Alexander McQueen) Keira Knightley (右) :レザー(Acne Studios)、タンク トップ(Off-White)、ベルト(Maryam Nassir Zadeh)
ドゥルガー・チュウ=ボース『ベッカムに恋して』
ジュールズとジェスを演じるのは、キーラ・ナイトレイ(Keira Knightley)とパーミンダ・ナーグラ(Parminder Nagra)だ。このふたり組は、20年近く前に製作された前向きな青春映画の隠れた名作、グリンダ・チャーダ(Gurinder Chadha)の映画『ベッカムに恋して』に出てくる親友同士だ。もっと言うと、ジュールズとジェスはすぐに仲良しになった。急速に親しくなって、時には無謀なことや、軽薄なことまでできてしまう、あのおかしな現象だ。この新しい友情のせいで、ふたりは片時も離れなくなる。服をシェアする。親に嘘をつく。ふたりで悪ふざけする。ふたりだけに通じる合図を作る。同じ男性に恋をする。この場合は、地元の女子サッカーチームのコーチ、ジョナサン・リース=マイヤーズ(Johnathan Rhys Meyers)が演じるジョーだ。ジュールズとジェスは、自分を理解してくれ、元気づけてくれる人に出会い、自分とは違う家庭で育った、自分の家族とも違い、移民でもなく、ロンドンのハウンズローに住んでいるパンジャーブのシク教徒でもない、その人の白人としてのあり方に驚き、刺激を受けて、急激に自分が成長していく姿そのものだ。ジュールは、裏庭でさえ違う。彼女の家にはきちんとしたゴールのネットがあるが、ジェスは物干しロープで乾かしている服の間で、ボールを蹴っている。
だが、急速に育まれた新しい友情では、ちょっとした欲も出てくる。ある晩、ハンブルクでのトーナメント試合の後、サッカーチームはコーチと一緒にクラブに行くことになった。そんなこと思いもよらず、おそらく外出したこともないジェスは、クラブに行くのにふさわしいものは何も持ってきていなかった。チームメイト達が集まり、ジェスがホテルのロビーでチームメイトやジョーに加わったとき、彼女は変身していた。髪を下ろし、体にフィットした服を着て、ブルーのアイシャドウをひいている。ジョーはそれに気づき、湧いてくる笑みこらえる。その晩まもなく、ジュールズはジェスとジョーがキスしそうになるところを目撃する。裏切り行為だ! すべて台無しである。急速に育まれた新しい友情は、(この時点では) もうおしまいだ。チャーダの映画では、このホテルロビーでのシーン全体が心に深く残っている。友情の名にふさわしい、「お出かけ着」を貸してあげるような行為が、後に大惨事を引き起こすようなきっかけでしかない。あなたを理解してくれた新しい女友達は、実は、あなたを見ているのではないのかもしれない。結び付いたふたり、争うふたり。『ベッカムに恋して』と同じく、すべてはダンスフロアで明らかになるのだ。
Durga Chew-Boseは、SSENSEのマネージング エディターである

Julia Stiles 着用アイテム:ブラウス(Burberry)、トラウザーズ(Burberry)
ドリーン・サンフェリックス(Doreen St. Felix)『セイブ・ザ・ラストダンス』
『セイブ・ザ・ラストダンス』におけるジュリア・スタイルズ(Julia Stiles)は、ありとあらゆる点でダメだ。それはもう、逆に興味をそそられるくらいに。スタイルズが水ならば、MTVの教訓的物語における民族意識は油である。スタイルズが演じる、母を失った白人のバレリーナのサラ・ジョンソンは黒人の生徒の多い高校に馴染めずにいるのだが、彼女は人を寄せつけず、頑なで反抗的だ。ひとり途方に暮れ、とても神経質になっている。だが問題は、単に彼女が白人であるという点ではない。ティーンエイジャーによるダンスをテーマにした映画にあるまじき、鈍感な精神にある。あのサラの服。クロップ丈のセーターとオーバーサイズのパンツだ。もう一人の白人の女の子、ディジーの方はうまく着こなしているのだから、要は、サラにセンスがないということだ。セーターのアンサンブル、鼻にひっかけたオーバル型のメガネ、ダウンコートは見当違いだし、眉毛の手入れもしていない。最新のポップカルチャーの影響を受けていない、最後の白人少女とでも言うべきか。
一方、ケリー・ワシントン(Kerry Washington)が演じるシェニールは、シェニール織りから連想するとおりのファッショニスタ。スタイルズが好意を寄せる相手、デレクの姉だ。サラのルックスに我慢ならないシェニールによる変身シーンは、ばかばかしいほど母性にあふれている。彼女たちがダンス クラブSTEPPSを訪れる夜のシーンで、業を煮やしたシェニールが、心もとない様子のサラを友達の車の後部座席へ押し込み、「そのダサいダンサー風のトップスを脱いで」と詰め寄る。「これGAPなのよ」とサラが応戦するも、「ここ、田舎なの。それ着てるとさらに田舎臭い」と言うと、シェニールは自分のフープ イヤリングを差し出し、サラのカーディガンを頭に巻きつけるようにしてシニョンにする。サラの変身は、デレクには効果てきめんだった。その証拠に、頭のてっぺんからつま先まで見ると、目を細め、メソッド・マン(Method Man)の曲に合わせてツーステップで踊る方法を教えてくれたのだ。
『セイブ・ザ・ラストダンス』は、典型的な2000年代初頭の映画だ。人種問題に関するくだらない駆け引きや際どい言い回し、ギラついたミュージック ビデオのリズム。デレクにヒップホップダンスを教わるシーンがきっかけで火がつくなど、この作品は、一言で言えば、サラが社会的に「黒人化」する様子のモンタージュである。サラのステップが勢いづくのに合わせて、ファッションに対する意識も目覚める。そして、ハンカチーフヘムのキャミソール姿でSTEPPSに現れるようになる。ダンスのレッスンでは、スウェットにかっこいいスニーカーという、デレクと同じような服装をするようになる。バンスクリップを使って髪をまとめ、自己流のブレイドヘアも始め、彼女を取り巻く黒人少女たちをすっかり出し抜いている印象を受けるだろう。
そしてここでも例の間違いが犯されている。『ダンス・レボリューション』でジェシカ・アルバ(Jessica Alba)が見せたセンチメンタルな誤りに似たものだ。多くのダンスシーンを次々と繋げるだけでは、この色白の主人公がヒップホップの色に染まっていく様子がリアルに思えないのだ。それは、観る者の視線をとらえて離さないのがサラではなく、デレクに捨てられた元カノ、ビアンカ・ローソン(Bianca Lawson)演じる、ニッキーであるせいだ。この映画では、この黒人の女の子は嫌われ者。STEPPSでサラを睨みつけながら、ニッキーは完璧にリップラインを描いた唇をとがらせる。そして絶妙なカーブを描く眉をしかめる。「何様のつもり?」。ニッキーがそう考えるのも無理はない。彼女は、熱にうなされて見る夢に出てくるような、世紀末に降臨した性悪女なのだから。優雅で、物事に動じない雰囲気は、アリーヤ(Aaliyah)を思い起こさせる。なかでも2000年の「Try Again」のミュージックビデオのアリーヤだ。ダンスフロアでは、ラテックスのパンツ姿でボディウェーブをきめ、イラついた様子でクラブのソファーに座り、チョーカーで飾った首を伸ばす。ニッキーはティーンエイジャーの悪役の定番スタイルを踏襲している。「ニッキー」とコールすれば、ネイルした爪をカチカチ鳴らす音が聞こえてくるだろう。一方、「サラ」とコールしても、社交辞令的な拍手が聞こえてくるのが関の山。『セイブ・ザ・ラストダンス』のヒロインは、実はニッキーなのだ。ニッキーは、そもそも改造計画を必要としない少女なのだから。
Doreen St. Félixはブルックリン出身のライターである
- 文: Ross Scarano、Molly Lambert、Doreen St. Felix、Durga Chew-Bose、Sarah Nicole Prickett
- アートワーク: Anna Bak-Kvapil
- Date: December 18, 2019