デジタル古典主義
美術館の彫刻作品をオープンソース化し、テクノロジーによる「本物」という概念の変化を示したアーティスト Oliver Laricの真意とは
- インタビュー: Bianca Heuser
- 撮影: Lukas Gansterer Art
- 画像提供: Oliver Laric

技術の進歩によってチャンスが開かれる場合いつも、通常よりも2倍の質問が提起される。「情報は誰の物か」、「希少性はなぜ価値を上げるのか」、「オリジナルとはいったいどういう意味か」。オーストリア生まれでベルリンを拠点とするアーティスト、 Oliver Laricはまさにこれらの疑問に取り組んでいる。彼のビデオ作品や彫刻作品は、われわれがひとつしかないと思い込んでいる物の周りにある規格やコピーと戯れる。自分の高セキュリティホログラム製作のために北朝鮮の彫刻を輸入したり、Laricはありきたりな知的財産の回路を徹底して混乱させるので、彼の作品の背後にあるストーリーを見るとまるで強盗映画を想起させる。現在進行中のプロジェクトのために、ヨーロッパ中の美術館で展示されているような新古典主義のグレコローマン彫刻やセレブリティーの顔の鋳型に彼は全力を注いている。この34歳は、これらの文化財の3Dスキャンを行って型を取り直し、スキャンをオープンソースのデータとして自身のウェブサイトにアップしている。なので、誰であろうと、どこにいようとも、必要な技術さえ備えていれば再現することができる。ヴァーチャル・リアリティ環境の中での室内装飾としても、3Dの照明器具のモデルとしても使うことができる。それは、従来からあるオリジナリティーや貴重さを尊重する考え方が、現代の技術によっていかに変化したのかを教えてくれる行為でもあるのだ。
ウィーンの歴史的な美術館、セセッシオン(ウィーン分離派会館)で開かれる個展「Photoplastik」準備中のOliver Laricに、Lukas Ganstererが訪問しBianca Heuserが話を聞いた。

Bianca Heuser
Oliver Laric
Bianca Heuser: グラッフィクデザイナーからキャリアをスタートして、アーティストになった経緯を教えてください。
Oliver Laric: アートでお金が稼げるなんて考えてもなかったので、実用的な勉強をしようと考えていました。コンテンポラリーアートなんていうマーケットがあることすら知りませんでしたが、あるコレクターから私のウェブサイトにあるビデオを買えないかと尋ねられました。そこで、私は何人かのアーティストにどうすればいいか伝授してもらい、しばらくはビデオを売って糊口を凌いでいました。
それはすごい話ですね。ビデオ作品はほとんど売れないというのが定説になってますが。
不可能ではないと思います。かなり難しいのは事実ですが。そこから、次のステップに進むことができたのは美術館からの依頼で、あれこれとこなしている内に少しずつ生活できるまでになりました。始めは作品を自分のウェブサイトで見せていました。初めて現実の空間で展覧会を開いたときは、ただウェブのために作った作品を展示しただけでした。そんなに上手くはいきませんでした。空間に何かを置いてみてはどうかと彫刻についても考え始めましたが、今でも私はまだ彫刻そのものよりも、彫刻のビジュアルの方に惹かれています。彫刻自体はどちらかと言うと副産物なんです。一般的に、展覧会といえばビジュアル作品のためのもの、という認識もあります。単に売買できるかどうかということではなく、ビジュアルだとベルリン、ロンドン、パリ、ニューヨークといった場所にいない人にも見てもらえるという側面があります。私自身が、文献を通して多くのアートに触れて来ましたからね。
現在、ウィーンの美術館、セセッシオンでは何を展示されているか教えてください。
彫刻です。展示空間には実際に彫刻が存在していますが、ウェブサイトでもデータを無料公開しているので、展示空間にあるほとんどの物が、移動もできるし、どこでも消費できて変形することもできます。弁護士といっしょに、どの情報を公開できるのか考えています。通常、作家の死後70年経過していないといけません。その他、他人の表現を使う場合は倫理上の問題も生じますから。現在、eBayで収集した存命中のセレブリティーたち、Christopher Walken、Sigourney Weaver、Ice Cube、Meryl Streep、Robert DeNiroの顔の型をスキャンしています。かなり巧妙に作られていて、毛穴までくっきり見えます。

他人の顔を使う場合、とりわけセレブリティーのように顔を売りにしている人たちの場合には、それが興味深い作品になるか、ただおぞましい物になるかは紙一重ですね。
法によって制約される部分や新しい形を作り出すために、どれだけの変更が必要なのかというグレーな領域にものすごく興味を持っています。私が収集している顔の型は映画製作途中に出た副産物です。「Alien」の中で、もしSigourney Weaverが溶岩に落ちて溶けていくシーンがあれば、この顔の型を彼女の顔のダミーとして使います。そして、いくつかの型は最後にはゴミ箱に捨てられ、それをある従業員が拾って下取り業者に売り払うんです。
それは、かなり違法な行為ですね。
けっこう、こうしたハリウッドのがらくたに興味を持っている人はいると思います。自分の好きな俳優にいちばん近付けるわけですからね。実際に彼らの肌に触れていましたから。でも同時に、これは単なる石膏の塊なんですけどね。
あなたの他の作品である古代ローマやギリシャの彫刻の複製と、現代のアイコンとしてのセレブリティーとの間に繋がりがあるなら、それは彼らの地位ということでしょうか。
それはひとつの側面ですが、これらの新しい古代彫刻が私を惹きつけるのは、新しい作品を制作する際にレシピや構図の役割をしてくれるからです。それらの彫刻に様々な役割を与え、新しい意味が彫り込まれていきます。その身体はあらゆる目的のために身代わりになってくれます。そして、セレブリティーの顔の型も同じようなことができる可能性を秘めています。今、展示している彫刻作品のいくつかは、セセッシオンの歴史と関係があります。例えば、私は1902年にセセッシオンで開催された展覧会に展示された彫刻作品をスキャンしようと試みました。ライプチヒのアーティスト、Max Klingerの手によるBeethovenの記念碑です。展覧会の後にライプツィヒ市が買い上げ、それ以来ライプツィヒ美術館に展示されてきました。ライプツィヒ美術館とセセッシオンという2つの機関がこの作品の歴史を共有していて、作家没後から70年以上が経過しているので、問題なくスキャンできるものと考えていましたが、美術館のディレクターは私のアイデアにそれほど乗り気ではありませんでした。なので最終的にスキャンの許可を取得できなかったため、写真測量の手法を使って彫刻を作ることにしました。美術館での写真撮影は許されていて、彫刻の写真を大量に撮れば3Dモデルの計算ができます。つまり違法な行為は何もしていないため、制作にストップをかけることはできませんでした。
あなたのウェブサイトからは、3Dスキャンのデータが大量にダウンロードできますが、今までにもっとも風変わりだったデータの使い方があれば教えてください。
もっとも風変わりとは言えないかもしれませんが、誇りに思うのが、去年ウィーンで開催されたユーロビジョン・ソング・コンテストの中での使われ方ですね。もうちょっとで見落とすところでしたが、インスタグラム上で私の名前をタグしてくれた人がいました。リバプール出身のJohn Gibsonという新古典主義のイギリス人作家の彫刻作品です。それを誰かが照明器具に作り変えたんです。
ということは、あなたは自分がスキャンして得たデータの所有権を放棄しているんですか。
自分の所有にしておくことも可能ですが、単に自由にしておく方が自分にとって幸せなんです。いろいろと心配しないで済むし、あらゆる可能性に対してオープンにして、どんな結果になろうと受け入れることにしています。

あなたが作品の中で使用する他人の作品に対して所有権を主張する人々の話に戻ると、彼らを説得するために膨大な時間をかけているように見えますが、その背後にはどのような戦略をお持ちなんでしょうか。
功労金です。たった数百ユーロとウィスキーボトル1本だけです(笑)。すでに仕事をしたことのある美術館とは、少しずつ仕事を進めやすくなっていると思います。美術館は保存目的で作品をスキャンしているので、技術的にはありふれた物になっています。比較的まだ新しい領域なのは、アクセスがしやすいという部分についてだけです。美術館はそこを理解しようと模索している状態です。私の観点からすると、私の作品は彼らにとっても有益だと思います。作品をスキャンするのには、時間もお金も膨大にかかるので美術館にもスキャンが必要なんです。あるモデルを私がウェブにアップすると、1週間で数百のダウンロードがあり、翌週にはまた数百。瞬く間に広がって行きます。
あなたの作品では、デジタルとアナログが絡み合っていますね。
そうですね。私はデジタルとアナログを二項対立的には捉えていません。
デジタルはアナログの延長だという考えですか。
そうです。自分にとってはひとつの物です。先程も言いましたが、私の彫刻作品に対する魅力というのは、その記録への魅力です。どちらも同じ考え方です。希少価値や壊れやすさというのは、私を少し不安にさせます。自分のスタジオに、こんな彫刻を置いておくなんてぞっとします。デジタルデータなら、壊れてもまた作り直すことができるし、不安になることもありません。カリスマ性のある、たったひとつの貴重な物体という考え方にも魅力を感じません。物自体よりも、どちらかと言うとそれを表す考え方に興奮を覚えます。例えば、日本にある20年ごとに建て替えられる神社を訪れました。その伝統はおよそ700年以上も続いています。ふたつの敷地があり、そのひとつに檜で社を建てます。20年建てばそれを壊し、もう一方の敷地に新たに作ります。20年周期の最後の数ヶ月間は、両方が並ぶことになります。19年の歳月をかけ自然の中で経年変化した古い社と、真新しい手付かずの社。こんなに魅力的な光景はありません。私は衝動的に新しい社に手を合わせようとしましたが、それは意味のないことだとわかりました。魂(神体)がまだそこに入れられてませんでした。2日後にお祓いが行われて、人々は新しい社殿の方にお祈りをし始めました。おろらく、建築に対して人生で私がいちばん感動した瞬間だったと思います。それは、目の前の檜の建物や樹齢数千年の木に対してではなく、檜の木に対する考え方にです。自分の作品も同じように考えたいと思っています。何度でも繰り返すことができ、ひとつの希少価値のある物体に縛られることもなく、途切れない反復でもある。建物自体が修復されることはなく、1300年の間、同じ方法を用いて建てられます。ヨーロッパでよくあるような、錆や腐敗を崇め、そのままの状態で保存されている建物よりも、今建っている社殿の方が西暦680年に建てられた最初の社殿により似ていると言うこともできます。UNESCOは世界遺産としてこの神社を認めていません。 UNESCOにとっては、たかだか20年ということです。しかし、神道の神主たちにとっては1300年の歴史があります。

所有権と同様に、あなたの作品では本物かどうかの問題も大きな役割を担っています。
それはとても柔軟です。時間をかけて変化してきています。繋がりはだいたいの場合、一時的です。アート界には、あのJohn Gibsonの像の形状と私の名前を関連付ける人たちもいますが、それは続いてもせいぜい50年か100年のことで、やがてまた違う名前に取って代わられます。自分が作っている作品が必ずしも自分の物であるとは思っていません。私は、それらと関係を持っているだけです。
とても現代的なアプローチですね。土地であろうと恋愛であろうと、所有するという考え方はきわめて複雑です。では、なぜ知的所有権に関してはこうも頭を悩ませるんでしょうか。
その議論は無視して、私たちの文化はそのように回っているのだと考えた方がいいかもしれません。ヒップホップを聞いて育ってわかったことは、自分の好きだった音楽が70年代に既にあって、それが今ヒップホップによって再解釈されているということです。
Notorious B.I.G.がSylvia Striplinをサンプリングしたように。しかしながら、正当性のある考え方でも文化を越えると、面倒なことになります。MacklemoreがLe1fの音楽を盗用するのは奇妙です。なぜならそれは、Macklemoreが自分の文化ではない物を私物化しているからです。
たしかに、微妙な差異や問題になるような例はあります。
ヨーロッパの美術館にある数多くのギリシャ・ローマの彫刻は、似たような問題を引き起こしています。例えば、ドイツは第二次世界大戦中にギリシャから文化財を強奪し、未だに返還していません。そういう問題にも取り組んでいますか。
それはケースごとに特有な問題なので、話はそう単純ではありません。ベルリンの新美術館にある問題は、ボーデ博物館やテートやメトロポリタン美術館が抱える問題とは完全に別物です。返還を要求している国には同情を禁じえません。私がこの手の話に対処を迫られたのは、アロー戦争中に英仏軍によって破壊された北京の頤和園にある柱をスキャンする時でした。生き残った頤和園の兵隊たちはみなヨーロッパへ連行され、皇帝のペット犬まで強奪され、名前を「Looty(略奪品)」と名付けました。彼らは犬まで略奪したんです。
なんと悪趣味な。
略奪品がオークションに出品されたので、中国政府の官僚が干渉して中国へ寄付するようにと落札者に依頼しました。どうやら、中国軍の中にノルウェーの軍人がいて、彼が柱をもらったためにノルウェーのベルゲンにまでたどり着いたようです。柱をスキャンするために私が連絡すると、それらを中国に返還したいという中国人のビジネスマンと競技の最中でした。今では、もう返還されたと思いますが。
スキャンデータをアーカイブする行為や、あなたの作品にある美意識を鑑みると、現在アート界が好むバズワード「ポスト・インターネット・アート」という言葉を思い浮かべます。
ええっと、何ですかそれは。というのも、私はあまりそのような言葉を気にしていません。その言葉が的確な表現だとは思いません。レトロニムの方が興味があります。どういうことかと言うと、カラーテレビが発明されると、それまで「テレビ」と呼ばれていた物が「白黒テレビ」になります。物事が起こる前のアートは全て「インターネット以前のアート」と呼んだ方がいいと思います。しかし、アート界がインターネット関連の作品を気にかけるようになったのは、わりと最近のことです。インターネットがこれだけ大きな影響力を持っていながら、展覧会からはずっと締め出されていることに驚いていました。アートの世界は、あらゆる点でかなり遅れていますね。
両親が今になってフェイスブックを発見したような。
けれど、別に私はそれでイライラさせられているわけではありません。むしろ私が苛立つのは、このムーブメントが産声を上げた時に尽力した多くの人々が、議論からすっかり除外されていることです。

- インタビュー: Bianca Heuser
- 撮影: Lukas Gansterer Art
- 画像提供: Oliver Laric