「ミステリー トレイン」アメリカの幻影
ジム・ジャームッシュがロカビリーのハートランドへ送るラブレター
- 文: Olivia Whittick

「ミステリー トレイン」は、ジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch)が書き、アメリカの光景を通過する様々な登場人物が声高に読み上げるラブレター映画だ。確かに舞台は典型的にアメリカな場所ではあるが、この映画は、特に歴史上の今の時期、再考に値する発想を指している。アメリカを通り過ぎる人々の多様性なくして、アメリカは存在しない。プレーヤーなくして、メイン イベントはありえない。登場人物なくして、物語はありえない。メンフィスのうらぶれた街路は思い出させてくれる。私たち誰もが彷徨える流れ者であること、そして、ロックンロールへの不滅の愛と共に、その事実こそが私たちを結び付けることを。

ジュンとミツコは汽車の座席に座っている。窓の外を、くすんだ工業地帯の景色が流れていく。ふたりは、日本の横浜からはるばるテネシー州メンフィスまでやって来た。理想的なバカンスの風景にはほど遠いが、アメリカ南西部は理由なき反抗の真髄の地だと、音楽マニアのジュンとミツコはやみくもに崇拝している。カール・パーキンス(Carl Perkins)やエルヴィス(Elvis Presley)が大ヒットを録音した場所や、ジョニー・キャッシュ(Jonny Cash)やオーティス・レディング(Otis Redding)がフレーズを初めてレコーディングした場所を、どうしても一目見たい。だが目にするのは、南部の労働者しかいない、タンブルウィードが転がる工場の町だ。観光客を喜ばせるものなど、皆無に等しい。訪れたスタックス レコードは、言うなれば、何度も練習を重ね過ぎた退屈なスピーチを競売人がまくし立てたごとき体験だ。だが、幻想と現実の落差にも関わらず、ジュンとミツコの魅了は醒めない。日常は活き活きと魅力を取り戻し、陳腐が熱烈なファンの賛美のまなざしに魔法をかける。


コスプレの地からやって来たジュンは、日本版アメリカ風スタイルの典型だ。ジュンがなりきっているストイックな役柄は、煙草に火を付け、クシで髪の毛を整えることで、無感動な静寂を破る。スタックス レコードやサン スタジオの写真を撮ろうともせず、平凡でこれといった印象をうけない場所のためにフィルムをとっておく。「そういうのは記憶に残るさ。だけど、ホテルの部屋とか空港は忘れちゃうだろ」。ミツコのカジュアルなロカビリー風スタイルは、日常に対して似たような力を発揮する。定番のPerfectoを新しいものに感じさせる力。この有名なレザー ジャケットは、1928年にアーヴィング・ショット(Irving Schott)がデザインして以来、ジェームス・ディーン(Jemes Dean)からジョー・ストラマー(Joe Strummer。この映画にも出演)、そして80年代のGaultierの信奉者多数に至るまで、あらゆる人に愛用されてきた。ブラックのレザーのPerfectoは、キングことエルヴィスに負けるとも劣らないアメリカのアイコンだと言っても、ほぼ間違いないだろう。


ジュンとミツコは、共用のスーツケースの取っ手に竹の棒を通して、チョーサー ストリートを運んで行く。これはメンフィスに実在する通りではなく、この映画を「ミニマルな『カンタベリー物語』」に仕立てる意図で、ジャームッシュが作った架空の場所だ。全く異質な登場人物たちが巡礼の途上で交差する「カンタベリー物語」。その著者である「チョーサー」に言及することで、この映画は、ひとつの物語に複数の物語を埋め込む枠物語の形式を宣言する。そして、枠物語の主役は、ストーリーそのものではなく、ストーリーを通り過ぎていく人間たちだ。ここに教訓やテーマはない。ただ、アメリカのゴーストタウンをブラブラ歩くだけの単純な描写だ。どんな場所であっても、それ自体に本質的な個性は存在しない。だが、出来事やそこに住む人々の経験が個性を与えていく。

第2話には、夫の死後、ローマに帰る機会をうかがいつつも、メンフィスから抜け出せないでいるイタリア生まれの未亡人ルイーザが登場する。その柔らかな女性らしさは、強烈に男臭い周囲と対照的だ。ルイーザに関わるのは主に男たちだが、全員が全員、彼女の懐を狙っているらしい。一種のカルチャー ショックを経験中のルイーザは、ある夜遅く、宿泊しているホテルの客室でエルヴィスの幽霊に出くわす。時代遅れなゴールドのスーツが部屋の闇の中で煌き、姿を見せたことを透き通った体で謝るエルヴィス。アメリカのアイコンは未だメンフィスの歩道を闊歩し、その魂はメンフィスの文化的なアイデンティティを完璧に満たしている。地図のいかなる大都市も、現実より評判で定義される。ランドマークになる場所は、歴史、雰囲気、そして街路を漂う幽霊ゆえにランドマークになりうる。


ジョー・ストラマーが、きっちりとセットしたリーゼント ヘアから「エルヴィス」と呼ばれる、落ちぶれた英国人を演じる。伸ばしたもみあげと巻き上げた袖は、まさに中部アメリカ人の労働者階級そのものだ。出で立ちから言えば、ブルース・スプリングティーン(Bruce Springsteen)タイプのアメリカの標準的な青年だが、これはちょっと複雑なイメージだ。日本版ロカビリーが何かを教えているとすれば、それは、真にパワフルなアイコンは磁石のように人を惹きつけ、普遍的で求心力があり、あらゆる職業と背景と国籍の人々を捉えるということ。英国パンクを象徴するストラマーが落ちぶれたメンフィスの機械工を演じ、その機械工は同僚の南部の黒人たちからアメリカ最強のアイコンにちなんだあだ名を付けられる。ストラマーの外見は、真正のスタイルに対する挑戦だ。表面上は100%アメリカ風だが、このアメリカが生まれて育ったのはアメリカではない。



メンフィスと同じく、この映画にも多くの伝説的人物が登場する。スクリーミン・ジェイ・ホーキンス(Screamin’ Jay Hawkins)、ルーファス・トーマス(Rufus Thomas)、トム・ウェイツ(Tom Waits)、ジョー・ストラマー、サンク・リー(Cinqué Lee。スパイク・リーの弟)。実際のところ、その多くは、彼らの現実世界の代替現実を演じている南部出身者だ。この映画は、現実と幻想の境界を曖昧にぼかす。だが果たして、現実と幻想のどちらがよりリアルだろう? それらしく見えれば、ただ演じているだけだったとしても、大きな意味があるだろうか? ふたりの日本人の若者が、1950年代のイージーでクールなアメリカとの神聖なつながりを体験したいと、アメリカのポップ カルチャーの心と魂を探し求めてやって来る。恋に落ちるのと同じで、崇拝に基づくつながりは幻想だ。マーシャル アベニューで朽ち果てつつある荒廃した建物には、いかなる価値も内在しない。現実を定義するのは幻想であり、幻想を生むのは熱烈な愛情だ。


- 文: Olivia Whittick