スポーツにおけるスタイル小史

マイク・タイソンからビリー・ジーン・キングまで、5人のライターが紐解く勝負の世界のベスト ファッション

  • 文: Nathaniel Freidman、Calum Gordon、Christopher Isenberg、Molly Lambert、Kate Perkins
  • イラストレーション: Camille Leblanc-Murray

SSENSEと『Victory Journal』がタッグを組み、スポーツ界のスタイルに注目した記事を5回にわたってお届けします

時として、偶発的に起きたカルチャーの瞬間が、何よりも大きな影響を与えることがある。期待していなかった試合で決定的な瞬間を目の当たりにし、そのイメージが心に焼きついた結果、数年後に思いもよらず、心に忍び込んでくるような経験だ。マイケル・ジョーダン(Michael Jordan)の勝利を決定づけた有名なジャンプ シュートは、いまだに「あのシュート (The Shot)」と呼ばれ、シカゴ ブルズの赤いジャージで背番号23といえば、永遠にジョーダンを指すようになった。90年代にミシガン大学の5人の1年生バスケット選手たち「ファブ・ファイブ」が広めた、衝撃的な黒い靴下とダボダボなバギーパンツは、今やカルチャーとスポーツの両方にすっかり溶け込んでいる。世界最速の女性、フロジョの愛称で知られるフローレンス・ジョイナー(Florence Joyner)が賞賛を受けたのは、女子100m世界記録のタイムよりもむしろ、去年のハロウィンでビヨンセ(Beyoncé)が真似た彼女のスタイル、片足だけのトラックスーツや、長く伸ばしてマニキュアした爪だった。スポーツ史における数々の歴史的瞬間がカルチャーの想像力に紛れ込み、しばしばもっとも意外な方法で、私たちの着こなしや振る舞い方、自分はこうありたいと思う姿に影響を与えてきた。ここでは、5人のライターが、それぞれ心を動かされたスポーツ シーンにおけるファッションを語る。

ビリー・ジーン・キングのメガネ

スポーツ史には、公平であるべきとされる競技の場に異質さを持ち込んだとして、誰もが認めるアスリートが何人かいる。ビリー・ジーン・キング(Billie Jean King)もそのひとりだ。彼女は、ボビーなんとかという相手と勝負した「性別間の戦い」と呼ばれる伝説の男女対抗試合によって、今なお、その名を知られている。彼女がその試合で何を着るかが、当時では前例のない数々の憶測を呼び、秘密主義や陰謀を招き、ついには服が輸入されるまでになった。ロンドンのデザイナー、テッド・ティンリング(Ted Tinling)は、彼女が試着するテニスウェア2着を持ってニューヨークに飛んだ。1着目の、スパンコールで覆われた、まるで舞台で着るようなゴージャスなウェアは、アスリートの物理的要件を満たさなかった。彼女がプレー中に邪魔になる生地を使ったウェアを着るのを拒否したため、ティンリングは、より機能的で、かつ十分にきらびやかな代わりのウェアを、急遽、作り上げることとなった。

このウェアをめぐる騒動にもかかわらず、彼女のキャリアとテニスの歴史における決定的瞬間に彼女が何を着ていたのか、今、誰かに尋ねたとしても、ほとんどの人は思い出せないだろう。だが、にわかファンでさえ、少なくとも彼女がメガネをかけていたことは、十中八九覚えているはずだ。

テニスが他のプロ スポーツと決定的に異なる点として、上品なアクセサリーを身に着けることが認められていることが挙げられる。ゴールドのチェーンやダイヤモンド ストランドなど繊細なデザインが特徴の「テニス ブレスレット」は、スポーツの枠を超えて、クラシックなジュエリーとなっている。男女問わずプロのテニス選手は、昔から、美しいネックレスや輝くブレスレット、高価なイヤリングやステートメント イヤリングを身につけてきた。選手がコートを疾走し、ものすごい角度に強力なショットを打ち込むたびに、アクセサリーが光り、小刻みに、あるいは大きく揺れ、跳ね上がり、手首や首の周りを滑る。これは、テニスでは当たり前のことだ。

テニスはいまだに有閑階級との結びつきが強い。選手のアクセサリーは、洗練されたものから華やかなものまで、意図的であろうとなかろうと、そのことを思い起こさせる。このアクセサリーをつける習慣ゆえに、ドレスコードが発展し、社会コードが変化してもなお、テニスは、カントリー クラブの富裕層のスポーツという、その起源につながっている。今日に至るまで、他のプロ リーグで同じような習慣は一切見られない。大半のスポーツでは、接触のあるなしにかかわらず、こうした装飾品がプレー中の選手にとって危険となりうる。チェーンが壊れてコートに落ちた場合、バスケットボールでは致命的な転倒を引き起こす可能性がある。イアリングやブレスレットや時計が、ポールやネット、ジャージに引っかかれば、大惨事となりかねない。ましてや、メガネはガラスである。Rec Specsのようなスポーツ用メガネが作られたのもそのためだ。

ビリー・ジーン・キングは、そのジェンダーから前例のない贅沢なカスタム ウェアにいたるまで、テニス界において型破りな存在だった。そのなかで、壊れやすいワイヤー フレームの丸メガネが、彼女が驚くべき勝利をおさめた日にほとんど注目されなかったのは、考えてみると面白い。その後、スポーツの世界とアメリカの歴史においてメガネは彼女のシグネチャ、シンボルとなった。キングのメガネは、ウェア以上にスポーツに対する人々の見方を変えた。メガネがスポーツ界の偉人の誕生を告げていた。そこでは、絶妙なバランスで世界中の人々の目にメガネが映っていた。控えめで実用的、それに粋だった。メガネのおかげで焦点が合い、集中できた。それは選手である彼女自身でもあった。

メガネは、選手の特徴とは本来なりえないからこそ選手の特徴となる。普通はスポーツでメガネを目にするとは思わないからだ。メガネは「装備」でない。メガネは、彼女が試合に必要なものであり、それが彼女の見方であり、それが彼女の実際の姿だった。差し支えないという理由で、ただ受け入れられただけではなく、その実績ゆえに尊敬を集めた異質なもの。それをメガネが象徴している。

観客に自らの「目」を通して世界を見せることは、振り返ってみて初めて歴史的出来事だったとわかる。その瞬間は、ただ将来を見据えるだけだ。

Kate Perkinsは『Victory Journal』の副編集長である

PJ・タッカーのYeezy 500

PJ・タッカー(PJ Tucker)は、根っからのスニーカー マニアである。レアで、高価なスニーカー、人々に注目されるため、人々に欲しいと思わせるために作られたような、目立つスニーカーをいつも履いている。目下、タッカーは新しいファッション トレンドの仕掛け人のような存在になっている一方で、大半の人にしてみれば、彼はスニーカー専門家であり、彼と趣味を同じくする人にとっては仲間である。タッカーにとって金額は問題ではなく、有名人の特権である特別な入手ルートがあるにもかかわらず、彼は、他の一般的なコレクターと同じように、スニーカー カルチャーに傾倒しているのだ。

2017年7月、34歳のフォワードとして、タッカーは、ヒューストン ロケッツと3200万ドルで4年契約を結んだ。NBAの基準ではあまり多くはない金額であっても、彼にとって、この契約はこれまでになく大きな契約金額となった。それまでの5年間、海外で苦労した末に、ようやくNBAへの復帰を果たせたのだ。自分自身を生かす方法を知っていることは、セールス ポイントになる。頑強なディフェンダーであり、6.5リバウンドを叩き出すような有能なシューターのタッカーが、才能をお金に変えられたのは、まさにこの資質のおかげだった。

2016 - 2017シーズンのあと、タッカーがフリー エージェントとなった際はあまり話題にならなかった。彼のような選手は、たいがい目立たず、過小評価されている。しかし今シーズン、タッカーはもうひとつのフリーエージェントを始め、その結果、多くの注目を集めるようになった。この記事の執筆時点で、彼は「スニーカー フリー エージェント」でもあったのだ。つまり、彼はどのメジャーなメーカーとも、商品の宣伝効果を狙ったエンドースメント契約を結んでおらず、特定の関係も築いていなかった。ほとんどのNBA選手は、スポーツメーカーと何らかの形で独占契約しているが、タッカーのような平凡な選手では話題性に乏しいのだ。ただし、NBAカルチャーのエコシステム全体で見ると、PJ・タッカーがどのスニーカーを履いているかは非常に重要なのだ。

選手が自分のスニーカーで目立とうとするのは、どだい特別なことではない。Nikeは毎年必ず、主要なシルエットに合わせて何十もの配色を次から次に生産しているし、レブロン・ジェームズ(LeBron James)やケビン・デュラント(Kevin Durant)が、自らのシグネチャ ラインにおける別スタイルの開発に直接関わることも多い。だが、スニーカーで目立とうとするタッカーの情熱は、それ自体で完結していると言っていい。彼は時に、エア ジョーダン1のような、石器時代ほど古いモデルのスニーカーを履くこともあるのだ。特に彼らしかったのが、2018年に発売されたトラビス・スコット(Travis Scott)の「Cactus Jack」ジョーダン4を履いて登場したときだ。パフォーマンスの観点から言えば、これはまた、まったく彼の役に立たない靴だった。

タッカーの「スニーカー フリー エージェント」は、さらに多くの選択肢を彼にもたらしている。プレシーズン中の彼は、Reebok Pumpsのジェラルド・グリーン(Gerald Green) PEモデルのような、深めのカットのスニーカーや、もっと面白いことに、adidas Yeezy 500のようなライフスタイル シューズも披露していた。とはいえ、過去にもNikeのAir Yeezyを履いていたので、これに限ってはまったく前例のないものではなかったが。美学が時にテクノロジーを完全に負かしうると、暗に主張するのは大きな賭けだが、タッカーにとっては可能性に満ちていると言える。彼が引き続きリスクを冒すことを願っている。

Nathaniel Friedmanはオレゴン州ポートランド在住のライター。2冊の本の著者であり、Victory Journalの編集者である

ヨハン・クライフのワールドカップ カスタム ジャージ

サッカーで、0対0の引き分けが面白いことは滅多にない。互角のチームによる戦術的な消耗戦だとよく言われるが、大抵は記憶に残らない試合であり、初めは面白くても結局は期待はずれに終わる。1974年のワールドカップでは、ドイツの都市ドルトムントにあるヴェストファーレンシュタディオンのアリーナが、オランダ対スウェーデンの試合を観に来た5万3700人の観客で埋め尽くされた。0対0の引き分けで終わったこの試合もまた、記憶に残らない試合のはずだった。ひとりの選手を除いては。

開始23分、背番号14番の機敏なヨハン・クライフ(Johan Cruyff)に向けて、オランダの左側面に高いパスが上がった。このオランダのキャプテンと対峙するために躍り出たのが、スウェーデンのディフェンス、ヤン・オルソン(Jan Olsson)。クライフはいつになくパスのコントロールを誤ったようで、ボールを守るためにディフェンスに背を向けることを余儀なくされた。だが、オルソンが振り返ったときには、クライフは軸足の後ろにボールを通して体を回転させ、すでに走り去っていた。スポーツ史上、もっとも華麗で、もっともスリリングな瞬間であり、今日でも「クライフ ターン」として知られているドリブルが生まれた瞬間だ。

クライフはこの大会で、優秀なプレイヤーに与えられる賞を受賞し、同シーズンにはヨーロッパの最優秀選手にも選ばれている。だが、彼の能力と才能は、彼自身の無頓着さがゆえに、調和を保っていた。一日20本のタバコを吸い、ハーフタイムの間に更衣室でタバコに火を点けることもしばしば。また、クライフがすばやく身をかわす際、ディフェンダーは、彼がつけている2本のチェーンがジャラジャラ鳴るのを耳にしたことがあるに違いない。ゴールドの細いチェーンと、もう1本の重くて太いチェーンがぶつかり合って鳴るのだ。多くの監督は、選手のこのような行いを叱責しただろうが、クライフは例外だった。彼が地球上でもっとも優秀な選手のひとりだっただけでなく、誰よりもやすやすと、稀有な美学を体現する選手だったからだ。

このワールドカップほど、クライフは大目に見る価値があるのだという事実を端的に示した大会はない。このとき彼は、残りのチームメートと違うユニフォームを着てフィールド入りしたのである。オランダの他10人の選手が着ていた「オレンジ色」のトップスとショーツには、両サイドに真っ直ぐなストライプが3本それぞれ入っていた。「3本のストライプ(die drei streifen)」と呼ばれるadidasのストライプだ。だがクライフは、自分のスポンサーであるPumaへの忠誠心を理由に、特別に免除を依頼し、ストライプを2本にしてもらったのだ。

家族内の喧嘩が世界の表舞台に姿を見せることはめったにない。だがこのワールドカップでは、活気のないドイツの町ヘルツォーゲンアウラハで50年間くすぶり続けていた兄弟の確執が、クライフのカスタム ユニフォームのお披露目に一役買うこととなった。1924年、アドルフ(Adolf)とルドルフ(Rudolf)の兄弟は、「ダスラー兄弟製靴工場」を創設し、ランナー向けのスパイクを底に付けたシューズを作った。1948年、ふたりの決裂は決定的となり、ルドルフは競合するスポーツウェア ブランドPumaを設立。一方、弟のアドルフは、彼のニックネームであるAdiと苗字を組み合わせて、元の会社をadidasと改名した。二人の対立は激しく、なかなか解消されなかった。結局、兄弟は同じ墓地でありながら、それぞれ反対側に埋葬されるまでとなった。

2014年、クライフの名を冠したブランドCruyffが、その象徴となった2本線のユニフォームの40周年を記念して、レプリカをリリースした。これに対し、adidasの弁護士は即座に発売中止を申請。だが、伝説のオランダ人は引き下がることを拒否した。そしてオランダの新聞『De Telegraaf』の自身のコラムにおいて、「この2本線は私のものだ」という、彼らしい挑戦的な返答を掲載したのだった。

Calum Gordonはベルリンを拠点とするファッション ライター。『Contemporary Menswear』の共著者であり、『Dazed』、『032C』、『Kaleidoscope』でも記事を執筆している

画像のアイテム:スニーカー(adidas Originals)

ダン・マリーノのマイアミ ドルフィンズ ジャージ

私は、これまで大してスポーツが好きだったことはない。ましてやフットボール ファンなどありえない。さらに言えば、ほぼすべてのユニフォームに対して懐疑的だ。だが、そんな私でもお気に入りのフットボールのジャージがある。ダン・マリーノ(Dan Marino)のマイアミ ドルフィンズのジャージである。

ロマンチック コメディを観ていて、男の家に泊まると、ベッドで着られるよう、男が自分のジャージを貸してくれるものなのだと知った。とはいえ、実際に、そのような状況が私に訪れたことは1度もなかったのだが。私はドルフィンズ ジャージの配色が好きだった。淡いアクア ブルーにコーラル オレンジは、まるで夕日に縁取られた海のようで、とてもマイアミらしかった。ほとんどのチーム カラーは退屈すぎるか、そうでなければ原色すぎた。上品な栗色やグレー以上に嫌いなものはない。ドルフィンズのジャージを私が知るようになったのは、ダン・マリーノの人気絶頂期に、このジャージを着ていた男たちがきっかけだったと思う。この配色は大抵のチームよりも若干女性的な感じで、スポーツにおいて、ミリタリー ブラウンやミリタリー オレンジ、ファシストのような鮮やかな赤と黒の代わりに、ベビー ピンクやミント グリーンが使われる世界を思い起こさせた。

ずっとジャージを着てみたいと思っていた。生地の質感は光沢があって豪華だし、通気性のあるメッシュも魅力的だ。90年代のマイアミを舞台にした、マイケル・ベイ(Michael Bay)の『ペイン&ゲイン 史上最低の一攫千金』のメイン キャラクターの1人が、映画全編を通してマリーノ ジャージを着ていたときは興奮した。だがマリーノ ジャージを思い切って着ることはなく、どこかのスポーツ チームの看板を背負いたいという気持ちも失せてしまっていたのだが、最近、Nikeのエア マックスを買った。明るいネオン カラーの配色を見て、ドルフィンズを思い出したのだ。買ったのは男用のサイズ5。「スウッシュ」はピンク系のコーラルで、使われているアクア ブルーは青というより緑がかっているが、インスピレーションを受けたことは間違いないだろう。

Molly Lambertはロサンゼルス在住のライターである

マイク・タイソンのトランクス

ボクサーとそのセコンドが身につけるものは、芝居がかったレスラーの衣装と、権威にみちたチーム スポーツのユニフォームの中間あたりと言える。ボクサーのグローブが、契約によってメーカーやスタイル、重量が通常指定されているのに対して、予算に制限はあったとしても、ボクシングでは服の選択にはいかなる制限もない。ガウンや、サテン生地などのセコンドのシャツ、マウスピース、シューズ、靴下、トランクスで、好みのスタイルが表現できる。なかでもいちばん重要なのがトランクスだ。リングに登場し、ガウンやシャツを脱ぐと、ボクサーはトランクス一丁、身ひとつとなる。トランクスは、観衆や視聴者、対戦相手、そしてなによりも、ボクサー自身に向けたシグナルとなる。孔雀のような優雅さと悪意という、意外な組み合わせがあることを伝えるのだ。

マイク・タイソン(Mike Tyson)ほど明確に、このシグナルを発した人はいなかった。20歳で、最初のヘビー級タイトルをかけてトレバー・バービック(Trevor Berbick)と戦ったタイソンは、間に合わせのポンチョに、白いタオルの切れ間から頭を突き出す格好で、リングに向かった。ハリのない肌、頭の左側には短いラインの刈り込み、首筋にかかったあご髭と口髭。彼の速攻からは、強烈な自信と恐れの欠如、あるいは即座に拭い去らねばならないほどの極端な恐怖が伝わってきた。タオルを取ったとき、彼の存在には一点の曇りもなかった。ミッド トップの黒のレザー シューズ、靴下は履かず、国旗のアップリケを左右2箇所に付けたEverlastの黒のトランクス。左には「Go America」と書かれた三角形のアップリケ、右には長方形のアメリカの紋章がついている。映画『ロッキー』シリーズに登場するアポロ・クリードから、総合格闘家のドン・フライ(Don Frye)、ボクシングからレスリング、混合格闘技にいたるまで、国旗を掲げることは、善良な人と認定されるための昔ながらのやり方だ。だが、トランクスの黒い背景にあしらわれた赤、白、青の小さなアクセントは、支持を請うのとは真逆の効果があった。

彼のスタイルは、洗練されたものから彼が影響を受けていることを明らかにしていた。タイソンのトランクスとシューズは、トレーナー、カス・ダマト(Cus D’Amato)の家の映写機で彼が執拗に研究を重ねた、ジャック・デンプシー(Jack Dempsey)、バトリング・ネルソン(Battling Nelson)、シュガー・レイ・ロビンソン(Sugar Ray Robinson)、パナマ・アル・ブラウン(Panama Al Brown)といったボクサーたちをモデルにしたものだった。トランクスはふくらはぎの中央で折り曲げられ、カップを収納しつつもできる限りぴったりとフィットするよう作られており、タイソンの巨大な太ももが自由に動くよう、両側にサイドスリットが入っている。彼よりも背の高いトレバー・バービック(Trevor Berbick)が迫ってきたとき、タイソンの短いトランクスは、脚が伸びるような視覚効果を与えた。さらに、パンチ力の源を見せつける効果もあり、そのパンチ力のせいで、バービックはすぐにも痙攣して、死のダンスを踊ることとなった。

タイソンはラリー・ホームズ(Larry Holmes)と対戦した際も、同じデザインのトランクスを穿いていた。群衆の中には、浮腫んだ体で黙って見つめるモハメド・アリ(Muhammad Ali)の姿があり、タイソンが崇拝した過去の王者へと、ひとつの線でつながっているのがわかった。タイソンは、第4ラウンドでホームズを4回ダウンさせた。1988年のアトランティック シティで行われた統一世界ヘビー級タイトルマッチでも、彼は同じものを着ている。マドンナ(Madonna)、ショーン・ペン(Sean Penn)、ドナルド・トランプ(Donald Trump)、マーラ・メープルズ(Marla Maple)も観戦したことで知られ、タイソンは工場の騒音のような恐ろしいサウンドトラックと共に登場し、震えるマイケル・スピンクス(Michael Spinks)を88秒でリングに伸した。同じトランクスを、日本で行われた試合でも穿いていた。勝ち目がないとされたバスター・ダグラス(Buster Douglas)がタイソンに42対1で勝った、衝撃の試合だ。当時のセコンドはあまりの準備不足のために、コンドームに冷水を入れて、タイソンの目の下の腫れを冷やそうとしたほどである。イベンダー・ホリフィールド(Evander Holyfield)の耳の端を噛み切った試合を含め、タイソンはホリフィールドに負けた両試合で、やはり同じトランクスを身につけていた。これらすべての試合、そしてリングの外で起こったすべての事件により、世間がタイソンに持つ印象は変わった。「地球上最悪の男」から自分の地位に安住するようになったチャンピオン、怪物、狂人、ペイ・パー・ビュー放送で視聴率を稼ぐ衰えたボクサー。このトランクスが見られる場所はさまざまであるにもかかわらず、今なお最初にマイク・タイソンが表現したシグナルは健在だ。それは今も、パワー、無敵、そして徹底した悪意を表している。

Christopher Isenbergは『Victory Journal』およびクリエイティブ スタジオDoubleday & Cartwrightの共同創設者。ライターであり映画作家、起業家である

  • 文: Nathaniel Freidman、Calum Gordon、Christopher Isenberg、Molly Lambert、Kate Perkins
  • イラストレーション: Camille Leblanc-Murray
  • 協力: Victory Journal / Aaron Amaro、Chris Isenberg、Kate Perkins、Nathaniel Friedman、Shane Lyons、Tim Young
  • Date: November 13, 2019