ルームメイト礼賛
共同生活の場で連帯する意味と価値
- 文: Clio Chang
- アートワーク: Skye Oleson-Cormack

いざ注意してみると、ルームメイトがそこら中で目についた。例えば『イーストウィックの魔女たち』で、スーザン・サランドン(Susan Sarandon)、ミシェル・ファイファー(Michelle Pfeiffer)、シェール(Cher)の3人が演じた人生に飽き足らない女性たち。ひとりはシングル マザー、もうひとりは離婚したばかり、残るひとりには6人の娘がいるうえに職業はコラムニストという最悪の状況だ。全員が同じ悪魔と寝るのだが、最後は悪魔を追放してしまう。そしてルームメイトとして共同生活しながら悪魔の落としだねを楽しく育てる、というとてもセクシーなことを始める。蛇足ながら、悪魔を演じたのは当然ジャック・ニコルソン(Jack Nicholson)だ。
貧しいけれど愛のある家族を描いた2018年の日本映画『万引き家族』では、一緒に暮らしている登場人物たちが、実は生物学的な意味での家族ではないことが明らかになる。この映画を観た私は、ルームメイト全員にもすぐに観に行かせるほど感動した。それからメアリー・シェリー(Mary Shelley)の今や不朽の古典『フランケンシュタイン』も、ご存じのとおり、ルームメイトが欲しくて欲しくて、その挙句、解剖室や屠殺場から手に入れた人間の死体をつなぎ合わせてルームメイトを作ってしまった男の話だ。だがルームメイトを正当に扱わなかったところから、ホラーが始まる。

新型コロナウイルスのために自宅隔離が始まる前でさえ、引退後の共同生活を選択した7人の中国女性の動画は、「夢のような生活」としてバイラルになった。彼女たちはみずみずしい緑の稲田を歩きながら、年齢を重ねたときに一緒にやることを挙げていく。「一緒にお料理をして、外でバーベキューをして、歌を唄って、村で食料を買ってくる」。自主隔離が始まると、ルームメイトのいない友人たちからは突如ルームメイトが欲しいという声を、ルームメイトのいる友人たちからはひとりになりたいという声を耳にし始めた。隔離は私たちの矛盾する欲求を目前に突きつけ、検証を迫る。そして私たちは、ルーペで宝石を鑑定するように、ためつすがめつした挙句、「これだ!」と確信する。突然宝石の鑑定士になったように。いつだって自分の欲しいものがわかっているように。
相反する衝動は、なにも質素なアパート暮らしの人々に限ったことではない。セレブリティのカーラ・デルヴィーニュ(Cara Delevingne)、アシュレイ・ベンソン(Ashley Benson)、カイア・ガーバー(Kaia Gerber)は昔からの仲良しだが、3人一緒の動画をTik Tokへ投稿しているだけでなく、3人一緒に食糧買い出しへ繰り出した姿も目撃されている。そう、このコロナ騒ぎの渦中に、である。女優のマーガレット・クアリ―(Margaret Qualley)も「隔離仲間」に混じっていたが、その後間もなく、「社会的距離」をとってひとりになった。買い出しから戻ったあとは、ベンソンとガーバーがツーショットを投稿している。お揃いのタイダイ染めのセーターを着た写真の見出しは「今月の双子」。どうやら、仲良し3人組は、イーストウィックの魔女たちの現代版のように、一緒に隔離生活を送っているらしい。ずばり『デイリー メール』紙が書いたとおり、「ソーシャル ディスタンシング:社会的距離の確保など意に介さないらしい友達グループが、たくさんいる」。お金さえあればロサンゼルスの巨大な邸宅だって買えるし、人と交わらないように政府が散々警告しているにもかかわらず、体の深い部分で疼く欲求を抑えきれない人たちもいるのだ。「ああ、ルームメイトが欲しい」

私自身はと言えば、いつだってルームメイトがいた。今一緒に暮らしているルームメイトは、過去3年でそれぞれの特徴が少しずつわかってきた。チェスターはキッチンにあるお皿を総動員して、手の込んだ食事を作るのが好きだ。アリソンはいちばん腹筋が強くて、ヨガの「板のポーズ」をいちばん長く持続できる。アナはサプライズを生きがいにしている。去年のクリスマスは、家に帰ると、引っ越し祝いにもらったトイレット ペーパーを積み上げて豆電球を巻き付け、私たちの部屋からくすねたあれこれで飾り付けたツリーが待っていた。街がロックダウンされてからは、料理に、掃除に、マスク作りに、みんなで協力し合っている。暇な夜には、ルームメイト トリビア クイズで遊んだ。「クリオがいちばん好きな台所用品は?」。「トング」。「チェスターの身長は?」。「180センチ」。
きっと同居人たちが証言してくれるだろうが、私は不機嫌なときがいちばん多いルームメイトだ。裸足でドシドシ歩き回るし、家にいるときは自分の部屋に閉じこもっている。でも部屋から出れば誰かがいるとわかって、いつも心が落ち着く。つまるところ、私はルームメイト推進派だ。私たちは、何十年ものあいだ、ルームメイトは落伍の代名詞だと教えられてきた。お金の面でも恋愛の面でも、負け犬ということになるらしい。執拗にマイホームを振興する市場の圧力は、ひとり暮らしあるいは核家族の家庭を、一人前の大人が成し遂げる一世一代の偉業にしてしまった。だがまさにそれと同じ圧力が、家賃の値上がりと所得の低下をもたらして、私たちが教え込まれた目標はますます遠ざかるばかりだ。

ウイルスのせいで私たちの多くが容赦なく家族から切り離されてみれば、頼りは同居人や隣人だった。近所の人、知らない人、その中間のあらゆる人だ。地域社会の誰かが病気になると、私たちも病気になる。だから、すべての人を守らない限り、「自分の」家族を守ることもできない。
エレン・ウィリス(Ellen Willis)は、1979年の家族にまつわるエッセイで、雇用不安という敵対的な体制下で暮らしている人に安心感を与えるのは家族だけだと論じている。家族と資本主義の精神は切り離せない。もし大衆が家族の枠を超えた互助に目を向けるようになったら、今よりもっと広範な政府プログラムと公正な労働条件も要求し始めるかもしれない。ウィリスが書いたように、「資本主義者は、明らかに家族への依存を奨励し、家族神話を持続させる役割を果たしている」。この言葉こそルームメイト擁護の信念でなくて、何だろうか!
ルームメイトが資本主義に対抗する発想だと考えるのは馬鹿げているにせよ、ベッドルームがふたつの標準的マイホームで暮らす家族を超えた、コミュニティ全般の連帯感だけはどうしても指摘しておきたい。現在は結束の必要性がこれまでになく自明の理になったが、明白なだけでは確たる政治姿勢とはなりえない。体制が十分に機能できていない今、私たちは「赤の他人」でいる必要はないのだ。体制が十分に機能できないのは、「赤の他人」同士が手を差し伸べて助け合わないからだ。今こそ、あらゆる方法を駆使して、人々のまとまりを広げるときだ。それには先ず、私たち自身の欲求を整理することから始めなくてはならない。マイホームという観念に対する姿勢を再考し改めるところから、理解が始まる。マイホームは終着点ではない。

とは言うものの、ロックダウンになると、ベッドルーム3部屋のアパートで4人が暮らす生活はにわかに息苦しくなった。仕事の電話は自分の部屋でやり取りし、シャワーの順番も待たなくてはならない。ところが、だんだんイライラしてきた私のとことへ、またとないチャンスが飛び込んできた。ほんの何本か通りを渡ったところにある友人のアパートが空いているというのだ。ルームメイトを礼賛したにもかかわらず、私は裏切り行為に走った。
ベッドルームがひとつだけのアパートで初めてのひとり暮らしをしてみると、借り物の生活を送っているような気がする。私が望む生活であり、望まない生活でもある。大きな洞窟のような部屋、高く伸びた窓、きちんと椅子に座るキッチンのテーブル。どれもこれも、愛する誰かと共有するための投資だ。自分にそんな欲求があることに気付いて、私は余計に動揺する。こんなものを基準にして自分を評価するなんて。
だがここで再度、連帯は伸縮することを私は忘れかけている。私とルームメイトは、隔離された生活を送りながらも、可能な限り守られているのだ。なぜなら、より大きく連帯したコミュニティの心配りがあるからだ。このアパートのことはよく知っている。賃貸アパートで、オーナーの2人は、過去には私の友人、仕事の同僚、オーガナイザー仲間だった。ルームメイトと一緒のアパートで息が詰まっていることを、この2人に直接話したことは一度もない。友達の電話網で情報が伝わり、折しも空きアパートに住む人を探していた2人が私を思いついたのだろう。最近母と電話で話したときは、私がひとりなのを心配していた。「病気になったら、誰が世話をしてくれるの?」。だから、アパートにひとりでも、今ほど周囲の気配りを感じたことはないと教えて、安心させた。
今私が自分に教育している理想の未来は、ひとりのパートナーとの暮らしではない。家族を分ける境界が曖昧であるほど、家族は大きく広がれる。おそらく、シェールとサランドンとファイファー風に、親しい友人とそれぞれの子供たちが暮らす場になるだろう。幸運が味方をしてくれたら、ストーリーはルームメイトに始まり、ルームメイトで終わるかもしれない。
Clio Changはブルックリン在住のフリーランス ライター。政治、文化、その他の記事を執筆する
- 文: Clio Chang
- アートワーク: Skye Oleson-Cormack
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: May 21, 2020