モナ・チャラビ:
確信への不信
感情、意見の分かれ目、事実を図で表すデータ ジャーナリストの仕事とは
- インタビュー: Haley Mlotek
- 写真: Heather Sten

私たちは手でコミュニケーションを取ることができる。たとえば指でさし示したり、手を開いたり。「手ってすごいよね」とモナ・チャラビ(Mona Chalabi)は言う。ジャーナリスト兼ライターで、アーティストでもある彼女を訪ね、ブルックリンのフォート グリーンの自宅に赴いた。1月の薄暗い朝だったが、リビングルーム兼用のオフィスは明るく解放的で、壁という壁には現在進行中のプロジェクトが所狭しと貼られている。彼女はジャンルの枠を軽々と越え、さまざまな表現手法を使う。文章も書けば、絵も描く。動画やポッドキャストの番組も製作している。彼女の作品は雑誌や新聞、ギャラリーなどで見られるほか、みずからソーシャルメディアにオリジナル作品をひんぱんに投稿するので、フォロワーは自由に見ることができる。彼女が取り上げるトピックは科学から健康、社会的公正や平等についてまで、多岐に渡る。
チャラビの専門分野はデータ ジャーナリズムであると言って間違いないが、単に数値を図にして見せるだけにならないよう気をつけているという。彼女が参考にするのは厳選した信頼のおける複数の文献や機関が提供する情報だ。みずからの研究の精度にこだわるのは、疑う余地がないものなんて、この世に存在しないという信念があるからこそ。発信するデータの精度には細心の注意を払う。「手描きのイラストを使うのは、データそのものの不完全性を表現したいから。手で引かれた線はヨロヨロしていて人間臭い。データ上の数字も絶対的なものではなく、人間が決めたものなんだということを伝えたい」とチャラビは説明する。「それを見て、世界がどのように形づくられているのか、その感覚をつかんでほしい」
ここ数週間、私たちの手は違う意味で注目を浴びている。正しい手の洗い方、手のつなぎ方、むやみに手で触れないことで大切な人への愛を示す方法を紹介する動画や記事が、多くの人々によってネット上に投稿され、シェアされている。新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受けて、チャラビはインスタグラムに一連の画像を投稿した。紙とペンを使い、新型コロナウイルスの拡散防止のために知るべきことをわかりやすく紹介する内容だ。陽性の確定件数は、彼女の記述によれば、大規模な検査を実施していない国々ではあまり高い数字が出ない。チャラビはこのウイルスによる典型的な症状を描き、344人のボランティアの力を借りて10ヵ国語に翻訳した。情報が洪水のようにあふれる中、事実と恐れを分けて提示することが、チャラビのような研究者のおもな仕事だ。つまり、正しい情報を把握する責任のある立場であることを理解し、その情報をもっとも必要としている人々に伝達するのが彼女のような立場の人間の使命なのだ。投稿のひとつで、彼女はこのウイルスに感染しやすい人々を描いた。それは、慢性の持病がある人、拘留されている人、不法滞在者など。統計上には浮かび上がってこない数字を示唆するためだ。
英国ロンドンで、両親ともに医師という家庭環境で育ったチャラビは、つねに医学のもつ力に憧れを抱いていた。「うちには医学誌『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』が届いていたけど、その表紙は、いつも傷口のクローズアップやできたての発疹とかだったんだから」と当時を振り返り、笑う。こんな調子で、彼女には、気持ち悪すぎたり、きわどすぎたりするせいで、話題にできないものなどない。チャラビは、ニューヨークにおける職業の分析からアメリカで葬儀にかかる費用の高騰、労働組合がある場合とない場合の賃金格差まで、現実的な生活費について取材する機会が多い。また、明確なのにつかみどころのない分野に焦点を当てることもある。性別や人種による賃金格差や、連邦税を払っていない巨大企業の実態、移民の弱みを利用して利益をあげる民間企業などがそれだ。また、私たちの身体にまつわる驚異的な出来事、愉快な事実、屈辱的な体験も取り上げる。その内容は、日焼けからセックス、ストッキングの売上げまで広範囲に及ぶ。

今日のデータ ジャーナリズムは、妥協の末にひねり出された偶然の産物のように扱われることが多い。生活の質的要素が急降下する中、少なくとも数字で量的な低下を把握していると自覚するために、私たちは新聞やニュースの見出しに目を通す。評論家やジャーナリストは同じメッセージを繰り返す。「何もかも悪い。だからすべての悪を数え上げて処理していこう」と。だが、何でも疑ってかかるチャラビの見方は、それとは違う。持ち前の疑い深さが仕事に活かされており、彼女曰く、不透明な方法論や言及されない先入観のせいで、「ジャーナリストも政治家と同じくらい信用ならない人たちだということを人々は忘れがち」だと言う。名の知れたデータ ジャーナリストは、小数点以下の数字まで実状を詳細に把握していると主張しがちだが、チャラビに言わせると、そんな主張は虫のいいデータ ジャーナリストのたわごとにすぎない。「そう言えば、データ ジャーナリストは事情通になれるからよ。自分たちは客観的真実を握る特別な存在で、人々は彼らを信じて付いていくしかなくなるから」。そうならないよう、チャラビは別のやり方でデータを見せる工夫をしている。「教える」のではなく、「見せる」というやり方だ。彼女が取り組んでいるのは、世間が興味をもっている内容を見せる最善の方法を見つけることだ。手がけた作品すべてにおいて、チャラビは徹底して調査を行い、人々にも自分と同じように物事を近くからしっかりと見て考えるよう訴える。「距離感」が彼女のテーマであると言えるかもしれない。今、自分の間近で起こっていることとちゃんと向き合えなければ、人は孤立する。自分自身とすら距離ができてしまう。
チャラビはデータを信用しろと言っているわけでは決してない。彼女はどんなにおかしな体験であれ、ごく普通の経験であれ、実体験を集めて回る。平均値の研究者であり、パーセンテージの芸術家なのだ。明日、何が起こるかわからない。だがチャラビはどんなときも誠実かつ知性的で粋な作品を世に送り出し続ける。今回のインタビューでは、チャラビが得意とするトピック、身体やコミュニティ、世界について話を聞いた。

Haley Mlotek(ヘイリー・ムロテック)
Mona Chalabi(モナ・チャラビ)
ヘイリー・ムロテック:まずはどんな子供時代だったかというところから聞きたいわ。小さい頃、友達にいつも「本当のこと」を話すタイプだった?
モナ・チャラビ:セックスについてかなり幼い頃から知ってて、「私が教えてあげるわ」って友達に話していたのを覚えてる。遊び場でかなり人気者になれるのよ。
子供同士の力関係が決まる瞬間ね。その当時から書くことや描くことに興味があった?
どちらとも言えないな。最近、私が幼い頃に描いた絵を姉が見つけて、「これ、今のあなたの絵のレベルとまったく同じね」って言ってた。
あなたの作品には何度も繰り返し登場するテーマというか、特定のトピックや手法があるわね。どういうことを繰り返し考える? またその考えを表現する方法はどうやって決めるの?
いつも、まずトピックを決めてから手法を決める。キャラクターと、そのトピックと感情のつながりが重要なの。色と、それから見たいと思わせるプラスアルファの要素も欠かせない。良いグラフは、自分自身のこととしてパッと読み取れるもの。まあ、常にそうとは限らないけど。そういうグラフは、グラフの限界に正直よ。あやふやさや人間の偏見も見せつつ、かつ、見た目が魅力的。おそらく、良いグラフというのは、真実を見せるだけではなく、どんな真実を見せたいのかについて嘘をつかないグラフじゃないかな。
私が取り上げるテーマの中心は、どう考えても人種や民族問題ね。それは私のアイデンティティが根本から変わったから。アラブ人であることは、すごく特殊な立ち位置なのよ。基本的に私は統計の枠の外にいる。私の母は極端なほどに女性解放論者だったし、女性の健康を守る婦人科医。そんな母に育てられたから、当然、ジェンダーの問題にも興味がある。貧富の格差にも注目してる。経済と社会正義の問題ね。あとは糞尿やセックスなど、タブーとされている話題。母だけではなく父も医師で、両親ともに血液やリンパ液など体液に大きな関心があったことも影響しているかも。

あなたのお母さんは、作品にたびたび登場してるわね。婦人科医としての彼女のキャリアがあなたに与えた影響の大きさについて書いていて、『Vagina Dispatches』の中でもお母さんに触れてるわね。どのような話し合いを経て、こうしたやり取りを公けの場に出す承諾を得たの?
私が主催するポッドキャスト『Strange Bird』で、中絶について彼女にインタビューしたものや、私がこれまでにやってきたことを見聞きして、母と私はとても仲がいいと考えている人も多いでしょうね。でも実際は、私たちの関係はかなり悪かったのよ。『Vagina Dispatches』の制作過程では、そこにすぐに話を聞ける婦人科医がいたということ。つまり、電話をかければ、ふだんならできないような会話を母とすることができた。家族や親戚と話すとき、媒介となる話題が必要な人は多いでしょ。「単に第三者的に客観的にレポートしているんじゃない。私もこのトピックの当事者のひとりなんだ」という立場を取ることで、話の伝わる度合いが断然強くなる。犠牲にするものは大きいんだけど。母を愛しているからこそ、私は自分の作品について彼女に話すの。これが母と共有できる言語だから。
ちょっとした会話だから内容も大したことないとは限らないものね。少しのきっかけでも、共有できるものを見つけられるなら、大きな意義がある。
それによって、お互いに話す許可が得られるようなものだから。これまでも、「もしかしたら母を動揺させるかも」と思いながら、私がおそるおそる質問をすれば、母もためらいながらも答えて後ずさる…、というようなやり取りを繰り返してきた。そんな小さな会話でも、最初のひと言がなければ、たどり着けなかったはず。なんでもいいから話してみることが、理解への第一歩になるのね。
ごく個人的な瞬間にも、人はそれを見ていてくれる誰かを求めていて、「そうだよ、これは本当のことだよ」「実際に起こったことだ」と承認してもらい、注目するに値することだと言ってほしいという願望があるのかもしれない。
一般的であることと、特別だと感じることとの間には奇妙なつながりがあるの。自分にとっては紛れもなく辛い体験をしたときに、それがよくあることだからという理由で、何百万という他の人たちも同じ経験しているのだとわかるのは、データ ジャーナリズムならではのおかしな点よ。私は若い頃に辛い経験をして、それ以来、自分に悲しむ権利なんてあるのかなと悩み続けてきた。数は「あなただけじゃない」と痛みを和らげてくれる側面もあるけど、慰めにならない場合も多いわ。
データと占星術って比べてみるとおもしろいのよ。今、人々はその両方に非常に大きな興味を持っていて、データに傾倒している人は占星術を毛嫌いしがちで、占星術に傾倒している人はデータをバカにしてる。思うに、どちらも世界を究極に単純化して見る方法で、人はそこに癒しを求めるけれど、同時に、どちらも人を傷つける可能性を秘めている。この点については大いに不安を感じるわ。つまり、こうした事実をどう伝えることで、より生きづらい世界だと感じさせてしまうんじゃないかという不安ね。だから占星術には関わらないようにしてる。誰かほかの人が私について私に語るなんてまっぴら。もしかしたら両方好きという人もたくさんいるかもしれないけどね。まったくの別物同士でもないから。

私は、占星術は社会的に認められたナルシシズムだと思ってるの。「さぁ、みんなで私について話そう」と言って許される場。データと同じところがあるとすると、両者とも「自分は人にちゃんと見られている存在」と感じさせてくれる領域だということじゃないかと思うのだけど。
今まさに、その「人は人に見られていたい」という言葉を言おうとしたところ。本当にそのとおりだと思う。存在を認められたい感覚の延長として、もっと話を聞いてもらいたいという気持ちもある。そこで占星術があると、「私はサソリ座だから」と、ざっくりとしたくくりに自分を当てはめて発言する機会を得るわけよ。
データ ジャーナリズムの歴史について聞きたいのだけど、ロンドンのハウス・オブ・イラストレーションで開催されて、あなたも参加した展覧会「W.E.B. DuBois: Charting Black Lives(W・E・B・デュボイス:図表で見る黒人の生活)」では、インフォグラフィックや統計が彼の研究や著書の中でいかに欠かせないものであったかがわかるわね。
私にとってデュボイスの影響ははかり知れないわ。彼の研究は1900年に発表されたのだけど、彼がやろうとしていたのは、制度がどのように機能しているのかを見せることで、世界を変えることだった。大量のデータを集めれば、世界の成り立ちをおおまかに掌握することができる。大量のデータは、世界の実態を浮き彫りにするのよ。本当に優れたデータは、集計結果だけではなく、この制度の中で得をするのは誰なのか、損をするのは誰なのかもひと目でわかるよう見せてくれる。デュボイスは、当時の制度の正体を暴いたの。それも徹底的に。制度というのは、言葉だけで解説するのもビジュアルだけで見せるのも難しい。そこが制度の曲者たるゆえんね。制度を作る側は、この見えづらさによって利益を得ている。今は多くのデータ ジャーナリストが本当にいい仕事をしてるわ。ウォール街占拠運動のようなムーブメントは、経済システムがどれほど神聖視されているか教えてくれる。神の働きって目には見えないでしょ。資本主義も同じ。単にそれしかないから従っているだけで、信じているから従っているわけじゃない。
そこの部分があなたの作品の強みだと思う? その見えていない部分を指し示すという意味で。
私がやりたいのは、人々が自分の人生において最善の判断ができるよう、そのための材料を提示することなの。女性として、有色人種として、私たちはつねに自分自身に誤った評価を与えている。手遅れになって誰かを失う前に、情報を迅速に伝えることはとても重要よ。世の中はまるで「そんな問題は存在しない」みたいな言い方をする。そこへ来てデータがずばり「これが現実」と数字で問題の存在を示してくれると安心するわけ。だから、予測データは怖いところがある。

予測といえば、選挙予測についてはどう思う?
本当の本当に否定的よ。未来を予測するためにデータを使うのは危険すぎる。ましてや、民主主義の未来を占ったり、公正な選挙結果を左右するような使われ方をしたりするのに対して、並々ならぬ危機感を覚えてる。情報の出し方によっては、人々に悪影響を与えてしまうこともある。ジャーナリストは謙遜のつもりで自分たちの影響力を過小評価することがあるけれど、実はそれは無責任なことよ。人々は投票数や選挙予測などの報道を参考に、考えをまとめ、計算するのだから。報道された情報は、民意に反映される。
あなたはそれを「計算する」と言うのね。たしかにデータが計算であることには違いないけれど、世の人々がこれを数学と認識しているか微妙なところだと思う。
データや票に懐疑心をもつのはいいの。でも数学や数字となると恐怖心があるでしょ。疑いをもつことはいいけれど、恐れるのはいいとは言えないわ。
予測は悪く出ても、その思わしくない予測が逆に慰めになることもあると思う。つまり、考えうる最悪の結果に対処するチャンスととらえることもできる。たとえばパートナーと別れるかどうかという場面で、もっといい人と出会える確率について考えられるようになる。残念ながら、この手の確率をはじき出すことは私にはできないけど…。
ここでさっきの「見られていたい」の話に戻るの。人は、「あなたを見ていますよ」という誘いを待っていると言っても過言ではないくらい、見られることや認められることを欲している。『Vagina Dispatches』がリリースされてからというもの、私の知り合いの女性たちが次々と今まで誰にも言えずにいたことを告白しはじめたの。あの作品を見て、私が彼女たちを偏見の目で見たり軽蔑したり絶対しないと確信したからよ。実際、彼女たちをおかしいとか気持ち悪いとか一切思わなかった。よっぽどのことでないと、引かないわよ。
Haley Mlotekはブルックリン在住のライター兼エディター、およびオーガナイザー。全米作家組合におけるフリーランスのデジタルメディア産業に働く労働者に特化した、フリーランス連帯プロジェクトの共同議長を務める。『The New York Times Magazine』、『The Nation』、『Hazlitt』その他多数に執筆。現在、ロマンスと離婚をテーマにした作品を執筆中
- インタビュー: Haley Mlotek
- 写真: Heather Sten
- 写真アシスタント: Justin Wee
- ヘア&メイクアップ: Rachael Ghorbani (YSL Beauty使用)
- 翻訳: Yuko Kojima
- Date: March 27, 2020