ドン・デリーロが見る事象の地平線
孤高の小説家は、「沈黙」で語る
- 文: Lauren Michele Jackson
- アートワーク: Skye Oleson-Cormack

ドン・デリーロ(Don DeLillo)がスーパーボウル パーティーを舞台にした小説を書き上げた。第54回スーパーボウルの時に、私のアパートでもパーティーを開催した。このアパートに引っ越してきてから開催できた大人数の集まりはたったの2回だ。最初のパーティーは第53回スーパーボウルの時。あの時は陽気に酔って、集まった大勢の愛すべき仲間たちのあまりの熱気に、最終的にはぐったりしてしまった。65インチのスクリーンの周りになんとなく集まってダラダラと試合を見ていた私たちとは対照的に、画面の中では、勝たねばというプレッシャーから、なりふり構わぬ醜い試合が展開されていた。
2020年2月のスーパーボウルの時はもっと活気に満ちていた。というか、熱狂していたのは私のほうかもしれない。去年のサングリアをやめて、研究の末にたどり着いた黄金率で作った、安いシャンパンとオレンジ ジュースのカクテルにした。テキサス工科大学レッド レイダース時代のパトリック・マホームズ(MAHOMES II)のユニフォームの2枚目を、どれだけ首尾よく手に入れたかを自慢したくて、みんなの到着を待った。古着だが、売り手が時間内にユニフォームをさばけるか不安になったところですかさず購入した。つまり私が買って、売り手の不安は杞憂に終わった。そんなわけで、私は今、ユニフォームを2着持っている。
出だしは好調だったが、前回同様、スーパーボウル パーティーはまたしてもぐったりとして終わった。老いぼれたベテランや筋肉自慢、ガタイのいい男たちが大集合したNFLのスペシャル マッチ。ハーフタイム ショーのほうがまだ見応えがあったように思えた。実際はそうではなかったとしても、ヘッドライナーよりスペシャル ゲストのほうが良かった…、なんてことをペチャクチャしゃべりながら、つまみをつつきつつ飲み、その数日後に、White ClawやらMiller Liteやら、アルコールの空き缶を部屋のあちこちで発見する、という結末だった。
ご存知ない方もいるかもしれないが、デリーロは「作家に好かれる作家」ナンバー ワンだ。あるいは、インタビュアーに「作家に好かれる作家ですよね」と言われた際に、「私は単に文章を書く人ですよ」と返すような、文筆家の最後の生き残りと言えよう。パンデミックが起ころうが全米ブック ツアーを中止にせず、Zoomで決行するような今の文学界には身を置かず、いまだにある種の神秘性をまとい続けている。

デリーロの言葉を、フィクション、特に小説などの作中以外で見かけることは滅多にない。デリーロは、「僕はこれまで『孤独好き』と何百回と言われてきたが、まったくの誤解だ」と1992年の『ワシントン ポスト』紙で語っている。デリーロは表舞台には出ず、自分の人生を生きているのだ。そして新たな言説をひっさげて戻ってくる。より効果的な1文、1段落を紡ぎ、心に響く作品を手に。
デリーロは、かつて少しの間だけ存在しえたようなタイプの小説家だと言えよう。つまり、定石を踏みながらも、豊穣な作品を生み出すプロの文学者だ。エマ・クライン(Emma Cline)のショート ストーリー『White Noise』は、その題名を、1985年の学生生活を題材にした同名の小説『ホワイト・ノイズ』から取っている。この小説は著者デリーロを世に知らしめた作品だ。クラインのストーリーの中では、ハリウッドを牛耳る人物ハーヴィー(Harvey)がドン・デリーロと思われる男と出会う。ハーヴィーの姓は言及されない。彼に姓は必要ないのだ。デリーロを見たハーヴィーは、「映画化できない小説」と称された『ホワイト・ノイズ』の見事な焼き直しによる「返り咲き」を心に描く。ハーヴィーはこの小説のことを何も知らないかもしれない。「でもドン・デリーロが誰かってことは知っているのよ」と、雑誌『ザ ニューヨーカー』のウィリング・デビッドソン(Willing Davidson)によるインタビューでクラインは答えている。「ハーヴィーはドン・デリーロがすごい人だということをなんとなく理解していて、プロの作家として計算しつくされた動きをする正統派であり、社会派の正義の味方と位置づける」と。凋落していくハーヴィーが、みずからを振りかえる場面がある。「みんなが折り返しの電話をしてくれなくなった瞬間があった」。それでも、「そのすき間を埋めるように群がってくる人たちもいて、その人たちはスーパーボウル パーティーにやって来た」
デリーロの17作目にあたる小説『The Silence』の広告文によると、この作品がパンデミックの足音を聞く直前に完成し、フットボール人気に陰りが見られる今になって出版されるというのは、単なる偶然らしい。スーパーボウルは、その過剰な宣伝のわりに不可知論者に好都合だ。ゲータレードまみれの抱擁を嫌がる人たちすらほぼ思考停止状態で、なんでも鵜呑みにして、球技だけでもほかにもいくらでもどこにでも観るものはあるのに、そっちには目もくれず、スーパーボウルにチャンネルを合わせる。これまでのアメリカにおける真の気晴らしと同じく、つまり誰も観ていないような野球とは違って、人種差別や暴動のように、望もうが望まなかろうが、誰もがその渦中にいざるを得ない。2011年にレイフ・バーソロミュー(Rafe Bartholomew)に「国家が死にたがっている証だ」と語っているように、デリーロがこの文化的事象を見逃すわけがない。
デリーロはこのシナリオに惹かれたはずだ。ビッグ ゲームに魅せられ、集う何千何万の人々。彼のほとんどの作品で、大規模な陰謀、もっと簡単にいうと、アルチュセール的な意味でのイデオロギーが関わっている。テーマとしては大して珍しくはないかもしれないが、実際、デリーロは無数の作品の中で取り上げている。スポーツ、政治、学問、カルト、ビジネスなど、多くの分野にわたり、文学界だけではなく、私たちも抱いている悲観的な見方をもって、アメリカの空気感を物語る。
パンデミックが起ころうが全米ブック ツアーを中止にせず、Zoomで決行するような今の文学界には身を置かず、ある種の神秘性みたいなものを、いまだにまとい続けている
この小説に登場する2組の既婚カップルのうちの1組、ジム・クリップスとテッサ・ベーレンスは、ビッグ ゲームが始まる時、大西洋上空にいる。パリからアメリカに移動中だ。もっと詳しく言えば、マンハッタン、さらに詳しくは第56回スーパーボウルのパーティーに向かっている。ちなみに時は2022年という設定だ。このカップルは目的地に関して完璧なまでに何も考えていない。カリビアンとヨーロッパ系とアジア系の混血で、小麦色の肌をした妻は、これからはじまる試合にも現在搭乗中のフライトにもまるで興味がない。「生まれ変わったら関心をもつかもしれない」と語り手は言う。しかし現世では「彼女はこの途中経過みたいな人生を端折って早く次の回にたどり着きたかった」。白人とは書かれていないがおそらく白人であろう夫のほうは、テネシー タイタンズの今夜の対戦チームを覚えていないが、「シアトル シーホークスに決まってるじゃないか」と思う。
かたや地上では、もう1組の夫婦、ダイアン・ルーカスとマックス・シュテンナーが、いつものように何かが起こってくれることをただひたすら待っていた。「巨大なテレビのスクリーンの前を陣取り」、仰々しい「試合前の様子」コーナーをふたりそろって身動きもせず観ている。「両チーム、各11名の精鋭。長さ100ヤードの長方形のフィールド。ゴール ラインが引かれ、ゴール ポストがそれぞれのエンド ラインに立っている。中途半端なセレブによる国歌斉唱。アメリカ空軍のサンダーバーズ6機がスタジアム上空を飛ぶ。ここでCM。宣伝される商品はビールやウイスキー、ピーナッツ、そして石けんや炭酸飲料。お知らせコーナーが入り、試合前のたわいないトークへと続く」。ある種、ぶっきらぼうなナレーションが、むしろ何かが起こる予感を呼び起こす。実際、このシーンのあと、事態は一変する。
ダイアンが物理学の教授であった頃の教え子であるマーティンもいるので、噂話はパートナー同士か知り合い同士でこっそりと交わされる。フットボールの試合で賭けをしているマックスは、誰も聞いていないのにオーバーだのアンダーだのとしゃべり続けている。ダイアンもマーティンもいるにはいるが、関わらないようにしている。ダイアンはマックスのスポーツ解説を聞き流す。マーティンはアインシュタインに夢中だ。それぞれが聞いているようで誰も何も聞いていない。フットボールの試合中かどうか、そんなことは関係ない。そして「何か」が起こる。スクリーンは乱れ、飛行機は墜落し、テレビはプツリと切れる。小説は続く。
デリーロが最終的にスーパーボウルを放棄したのは幸いだ。私の彼氏や私自身と同じく、デリーロも、舞台監督らが大人の人間を限りあるスペースに留めようとすることにはやぶさかではない。だが、NFLとコーチや選手も含めたすべての関係者にはユーモアのかけらもなく、パロディのわからないやつらばかりだ。まやかしや押し売りは今にはじまったことではない。マーケティングとかその類いでは、まるで背中を向けている聖歌隊に説教をたれるようなもので、もう誰も聞いていないのはわかっていても話し続けるようなことは普通に行われている。ユーコンXLのボンネットで「This Land Is Your Land」のカントリー ミュージックに合わせてジャイブを踊りながらパシフィック コースト ハイウェイを飛ばす異人種同士のカップルを少なくとも5組は見ない限り、何か異変が起きたとわかるはずだ。ユーコンのボンネットでジャイブを踊る5組の異人種同士のカップルにかなう人などいるはずがない。賢明なデリーロはやってみようとすらしない。すでに重要性を失いつつあるスーパーボウルから、もうひとつの最終兵器が台頭する。ウイルスだ。編集作業の締め切りギリギリのところで、現代の空気感を表す日常の大異変のひとつとして、新型コロナウイルス感染症に触れることになんとか間に合ったのだろう。
『The Silence』は、あるアパートの1室での出来事を切り取る。すべての登場人物がここにそろい、この大混乱の中、テレビなどのメディアやスマートフォンなど、いつも身近にあった、情報を提供してくれるテクノロジーなしでどう行動するかを見守る。マックスはしばし立ちすくみ、スクリーンを見つめ、「サタデー ナイト ライブ」のトティーノ ピザ ロールのパロディ コントCM3部作を彷彿とさせる実況中継や宣伝文句のような口調でつぶやいている。このコントでは、耐えがたいほど陽気な郊外の主婦の「ビッグ ゲーム」当日の行動が紹介される。この主婦は、この日のために生きているようなものだ。実際の生活を切り取ったCMのように見せるシリーズ コントで、女優ヴァネッサ・ベイヤー(Vanessa Bayer)が、若々しくお料理上手な妻に扮し、「お腹を空かせた私の男たち」と微笑む。コントのひとつでは、甲斐がいしく男たちの世話を焼く彼女が、給仕の合間に退屈しないよう、トティーノ社が子供用の学習玩具セットをプレゼントする。また、夫の友達の妹で、クリステン・スチュワート(Kristen Stewart)演じるフランス人のサビーヌが登場することで、主婦が性的に目覚める、というバージョンもある。さらに、シリーズ2作目では、この奥さんが語っていた宣伝文句が、お腹を空かせた男たちの歓声に打ち消される。男たちは「行け行け行け! タッチダウンだ! あぁ、へまをした! そこだ、行け! また失敗だ!」などとわめいているのだが、そんな男たちを見て彼女はゾッとする。なんと、男たちが今までずっと観ていたテレビ画面には何も映っていなかったのだ。この場面は、デリーロの小説に出てくるマックスの変貌ぶりとそっくりだ。彼はほとんど無意識に声援を送る。「ディーフェンス、ディーフェンス、ディーフェンス…」。妻であるダイアンはキッチンへ逃げ込む。いや、これは妄想かもしれない。というのも、彼女は、すでに30代になっている元教え子のマーティンと見つめあっているのだが、彼は人新世に関するキーワードを唱えるのをやめようとしないのだから。ちなみに、マーティンは、トティーノのCMでクリステン・スチュワートが果たす立ち位置とは少し違う。
今回のスーパーボウルを観た社会、それからその前年のスーパーボウルを観た社会も、制御された架空のウイルスにどうやら感染したらしい。「疫病」は「記憶に新しい」が、今にはじまったことではない。ひとつの出来事で引き寄せられ、さらにもうひとつの出来事で身動きが取れなくなった隔離状態の各家庭のメンバーたちが、偽りのキャラクターとして小説の中に閉じ込められながら、混乱した頭で必死にもがいているのが感じられる。それはまるでTwitterのつぶやきのように断片的だ。
インターネットの激しいせめぎ合い。無線信号。対監視。
「データが漏洩している」と彼は言う。「暗号通貨だ」
彼はダイアンをまっすぐと見つめ、この最後の言葉を伝える。暗号通貨。
彼女はひとつひとつ積み上げるように、この言葉を心に刻んだ。
お互いに見つめ合う。
「暗号通貨ね」と彼女は言う。
その意味を彼に尋ねる必要はない。
「通貨がめちゃくちゃだ。新たな開発じゃない。政府の規格によるものでもない。経済の破滅だ」
「そんなこと、いつ起こるの?」
「今だ。もう始まっている。そして起こり続ける」。「暗号通貨」。「今まさに」
彼女は、「暗号」と言って一息つき、マーティンを見つめたまま「通貨」と言う。1語1語の中に、何か秘められた親密なものを漂わせながら。
誰が誰に何を言ったかは大きな問題ではない。つまり、どういうことか、それはもう私がお伝えしたとおりだ。問題は何も写っていない画面、ブランク スクリーンだ。画面が消える原因となったミステリアスな大惨事よりも、スクリーンに何も映っていないと気づいた点である。あるいは、ずっと前から「無」が先にあったのかもしれない。「このアパートの、何も映っていないひとつの画面から、私たちの今を取り巻く状況がはじまった」と妻のひとりが言う。これはY2K問題の恐怖ではない。私たちはテレビを殺し、ほかのものを見つけた。私が毎朝やろうとしてできない普通の交流の尊さを、パンデミックのような地球規模の出来事が気づかせてくれたらどんなにいいことか。「無」を共有できるほうが、何かを共有しているふりをするよりもずっとましなはずだ。『The Silence』は、これまでに培ってきたものの、今後は役に立つかわからない知識の断片を提示しながら、もう取り返しがつかないと言う。しかし、もしかしたら、まだギリギリ間に合うタイミングかもしれない。
Lauren Michele Jacksonは、ノースウェスタン大学で英語の助教として教壇に立つ。著書に『White Negroes: When Cornrows Were In Vogue & Other Thoughts On Cultural Appropriation』がある。シカゴ在住
- 文: Lauren Michele Jackson
- アートワーク: Skye Oleson-Cormack
- 翻訳: Yuko Kojima
- Date: October 8, 2020