とても長い間 とても若く

作家ドゥルガー・チュウ=ボースが新刊を語る

  • インタビュー: Fiona Duncan
  • 写真: Magnus Unnar

ロサンゼルスで生育するジャカランダは「ミモシフォリア」、一般的に「ブルー ジャカランダ」と呼ばれる変種である。それは、深いネオン バイオレットを光のように発散する。突如としてそこかしこで開花すると、花のない時期にこの木がどんな様子だったか、まるで記憶にないことに気付く。咲いた花はすぐに腐り、枝を離れて、下の地面をカーペットのように覆い尽くす。作家ドゥルガー・チュウ=ボース(Durga Chew-Bose)がロサンゼルスにやって来たのは、毎年この植物が繰り返すサイクルの、ちょうどこの時期だった。

上がクリーム色で下が紫。31歳のチュウ – ボースが初めて執筆し、先頃出版された「Too Much and Not the Mood」の表紙は、もちろん、私にこの花を連想させた。ほとんど藍に近い紫は、ミモシフォリアのいちばん濃い色調である。チュウ – ボースが装う色でもある。友人のタヴィ(Tavi)やヒルトン・アルス(Hilton Als)を通じて、ソーシャルメディア上で増殖しつつあるチュウ – ボースの画像を見ると、自然界のパープル、キャンバス、ゴールド、おとなしいピンク、そして「Too Much and Not the Mood」中で忘れがたく描写された「泡立ったようなピーチカラー」が好きらしい。

チュウ – ボースの筆致は精密な写像である。いずれ萎れることが内在しているからこそ、なおさら咲き誇る花の生命感に畏敬の念を感じるように、チュウ – ボースの物語には悲しみと喜びが同時に存在している。「私は、とても長い間とても若く、それよりもっと長い間とても年老いている」というチュウ – ボースの文章に、「心に皺が刻まれていると同時にあどけない」というマルグリット・デュラス(Marguerite Duras)の有名な一節が残響する。チュウ – ボースは、ニューヨークで写真撮影を終えた後、ロサンゼルスへ飛んだ。ロサンゼルスでの予定は、友達のサラ・ニコル・プリケット(Sarah Nicole-Prickett)、グレース・ダンハム(Grace Dunham)、アリア・ディーン(Aria Dean)と共同の朗読会、そしてお気に入りの映画の上映。ふたつのイベントの合間に、ウェストハリウッドでチュウ – ボースに会い、細部にわたって対話した。チュウ – ボースと一般論は無縁だから...。

フィオナ・ダンカン(Fiona Duncan)

ドゥルガー・チュウ=ボース(Durga Chew-Bose)

フィオナ・ダンカン:子供の頃は、どんなゲームをして遊びましたか? ルールやきちんとした枠組みのあるゲームでしたか、それとも「ごっこ遊び」でしたか?

ダーガ・チュウ – ボース:「パーチージ」っていうインドの双六で遊んだわ。ルールがあるゲーム。それから、父がよくカード ゲームを作ってくれたわね。空想の友達とか、そういうのはなかったな。バービー人形はほとんど持ってなかったわ。ひとつだけ。インドで、母がよくその人形の服を作ってくれた。私はしょっちゅう空想してた...なんて説明したらいいか、分からないけど。遊んでいる間、私の横でずっと想像が続いてたような感じ。親の目からすれば、オモチャをじっと見てる子供に見えてたかもしれない(笑)。私の頭の中は、空想で一杯だったと思うわ。

「Too Much and Not the Mood」を書くことは、子供時代へ戻る機会になりましたか? それとも、子供時代へ戻ることは、その前からやっていましたか?

私は、まだ20代を処理できていないから、子供時代の出来事を沢山書いてるんだと思う。現在のことは書けないの。懐古主義だから、子供時代や10代のことをよく考える。それは私が、若いって感じたことが一度もないからだと思うわ。自分をものすごく若く感じたことがないってこと。だって小さい頃から物事の摂理について疑問を持っていたのを、はっきり覚えているもの。

クリエイティブに 自分を表現しようと 思えば、誰だって 現実を捻じ曲げる

昨晩、あなたの本から、年上の白人の女の子に憧れる一節を朗読しましたね。そのことから、他者を感じる作家やアーティストがいかに多いか、そして、他者を感じる方法がいかに数多くあるか、ということを考えさせられました。他者を感じる場所から創作が生まれるのですね。

クリエイティブに自分のことを表現しようと思えば、誰だって現実を捻じ曲げて、自分が当事者であろうとしてると思う。私は、他者っていう言葉は好きじゃないの。本では使ったけど、「うえーっ」て感じ。新しい言葉が必要だわ。他者として位置付けることは、そうする人の意図が強く働いてる気がするの。でも、本当はそうじゃない。本当は環境的なもの、あらゆるものなのよ。多分、私は今、自分を異化してるんだわ。自分を他人化してるのよ!

以前は自分のことはまったく書かなかったけれど、ここ数年で、自分を書くことが中心に変わりましたね。きっかけは何ですか?

私の名前について書いたエッセイだったと思うわ。あれは、それまでずっとずっと考え続けてきたことだったの。とてもエッセイにする価値なんてないと思ってたのに、書いてみたら、どれも「私も同じ!」っていう反応ばかりだったわ。それから、私が出会った女性たちも関係してた。私たちって、分かり合える人に会うまでは、自分が大切な存在だと感じられないものよ。阿吽の呼吸で分かり合える人たちができて初めて、第一人称としての自分が繋がれる存在だと分かる。昨日、グレース(・ダンハム)が「友達と話すことは書くことの一形態」って言ってたようにね。私は、自分の仲間を見付けたとは、まだ思わないわけど。私の人生が変わったのは、サラ(・ニコル・プリケット)に会ったときよ。私の好きな人が全員、第一人称の私を見付けてるみたいな感じだったわ。

ニューヨークの文学界の特徴は何だと思いますか?

うわっ、パス。次の質問(笑)! そんなの罠だわ!

分かりました。この質問は止めましょう。では、あなたが理想だと思う作家と編集者の関係は?

今回の本は、エミリー・ベル(Emily Bell)やマヤ・ビニャム(Maya Binyam)と一緒に仕事ができて、とても良かったわ。ふたりとも、変に私を持ち上げたりしないで、すごくサポートしてくれた。そういう支えがあると、ゲームが長く続くわ。編集者は作家の不安に耳を傾けて、場合によっては、それがどこへ向かっているかを予想してるかもしれない。締め切りに間に合うかを確認するんじゃなくて、精神面を気にかけてもらうことが、私にはすごく大きな意味があるの。それと、「少し書きすぎ」とか「ちょっと意味が分からない」とか、編集者が遠慮せずに言えるのが好き。「ちょっと意味が分からない」っていうコメントが大好きよ。

今回の本には2種類の表紙がありますね。それぞれ、内容とどう繋がっているのでしょうか? カバーを制作したアーティストについて教えてください。

ふたつは違うけど、関連を感じるの。いとこみたい。いとこ同士のぎこちない関係みたい。ひとつは出版社のFarrar, Straus and Girouxが作ったデザインよ。FSGのヘッド デザイナーのロドリゴ・コラール(Rodrigo Corral)に、ラフ・シモンズ(Raf Simons)とクヴァドラ(Kvadrat)社がコラボレーションした家具の張り地とか、私がこれと思うイメージを見せておいたの。黒の背景の上で生地見本が撮影されてて、想像もできないような色の組み合わせがあって、あるべからざる場所にある糸に表情があって...どう言えばいいかしら。あるべき場所から外れてるものは面白いわね。もうひとつの表紙は、出版社のHarperCollins Canadaのデザイナーが、サラ・スウィナー(Sara Cwynar)の写真を使ってデザインしてくれた。私はサラの視点が好きよ。一緒に何かをやろうって、以前、話したことがあるの。サラの作品は、遠くからでも私を引き寄せる。そして、何時間でも、そばにいたくなる。私は、オブジェとか安物の飾りとか、色彩、時と共に褪せる色彩、祭壇やオブジェ風景を構成するために集められたりアレンジされたものについて、よく書くの。サラの写真には、それと同じ領域の作品があると思う。

若いって感じたことが一度も ない。自分をものすごく若く 感じたことがない

あなたの本のセルフィーを見てみたんです。あなたの本の写真を撮って、あなたの名前をタグ付けしたインスタグラムのことですけど。沢山ありますね。いちばん好きだったのは、あなたの本とケンドリック・ラマー(Kendrick Lamar)の新しいアルバムを並べた写真でした。「できることなら、私が作りたかったアート。やめたいと思わせるアートが、同時に、やめないことを要求する」というキャプションが付いていました。見ましたか?

見たわ。言葉が感情を裏切ることには、何か素晴らしいものがあるわね。「あなたにやめると思わせるアートが、実際には、それを続けたいと思わせるアート」とかね。素晴らしい言い回しだわ。みんなが本を読みながら聴いてるものにも、私はすごく興味があるわ。私がシェイラ・ヘティ(Sheila Heti)の「How Should A Person Be」を読んでいるとき、フランク・オーシャン(Frank Ocean)の「Channel Orange」 が流れてきたの。だから、あのアルバムの曲が耳に入ると、必ずシェイラ・ヘティのことを考える。変でしょ?

「先延ばし」について、書いたり話したりしていますね。執筆中の先延ばし。好きな「先延ばし」の方法は?

好きな映画をもう一度観る。もし見付けられたら、その脚本を読む。じっと犬を見る。スポーツ ドキュメンタリーの「30 for 30」を観る。長い散歩をする。アパートを歩き回って、ドアのところに立って、文字通り空間と午後の光を惚れ惚れと眺める。Tumblrをスクロールする。作家同士のインタビューを読む。高過ぎて絶対買えない椅子をネットで探す。「The Dick Cavett Show」を見る。Googleで俳優の「若い」頃の写真を探す。どんな理由であれ、不安になる。同時に複数の本を読む。スナックを作る。両親に電話して、近況を尋ねる。別の時間帯の場所にいる友達にメッセージを送って、お昼に何を食べたか聞く。ワインを飲みながらメッセージを送る。兄弟にメッセージを送って、姪のジョセフィンの写真を送ってくれるように頼む。友達に電話をして、ラザニアを作る。友達の家に行って、友達が忙しくて私を無視してる間、床に座ってる。番組の最終回ばかりを見る。シャワーを浴びる。

「お気に入りが多いととても便利。多過ぎて、『お気に入り』という言葉の価値が下がるくらい。お気に入り。お気に入り。お気に入り。そんなこと、いったい誰が気にするの? とにかく、自分のお気に入りに形を与えるなんてバカげた行為。『お気に入り』っていう言葉は、言葉であるより表現であるところが凄い」というあなたの文章がとても好きです。自分が好きなものがなぜ好きなのか、分かりますか?

どうして何かをお気に入りと感じるのか、はっきり分からないほうがいいわ。色、花、画家、通り、友達のジャケット...何かを豊かに感じて、説明する言葉を持たない。それって、いいものよ。何かを作りたい気持ちにさせるもの、それが私と私のお気に入りの関係ね。私の目や耳を引きつけて、心の奥底にある衝動を引き起こして、何かに取り組もうとさせるもの。素晴らしい映画を観たら、ディナー パーティを開いて、人を招待したい気分になるのは素敵じゃない?

オブジェとか安物の飾りとか、 色彩、時と共に褪せる色彩、 祭壇やオブジェ風景を構成するために 集められたりアレンジされたものついて、よく書くの
  • インタビュー: Fiona Duncan
  • 写真: Magnus Unnar
  • スタイリング: Delphine Danhier
  • ヘア&メイクアップ: Ingeborg