ベルリンで問う宗教的エクスタシー

アーティストJeremy Shawが、ドラッグ、宗教、そして意識の変容状態のパワーについて語る

  • インタビュー: Bianca Heuser
  • 写真: Alex de Brabant

現実を味わった者なら誰でも、そこから逃れたいという衝動に駆られたことがあるだろう。歴史を通じて、LSDからバーチャルリアリティに至るまで、人類は一時的に別次元に入り込む術を発明して応用することに時間と労力を費やしてきた。この欲望がJeremy Shawの作品の根源だ。カナダ人である彼は、ドラッグがもたらすハイや激しいダンスが引き起こすエクスタシーなど、様々な媒体を駆使して幅広い意識の変容状態を探る。

ベルリンのKönig Galerieで最近開催された個展で、Bianca HeuserがShawに、サイケデリックドラッグや神経科学から宗教的体験まで、様々な話題が交差する興味について聞いた。

Jeremy Shaw. Towards Universal Pattern Recognition (MM Pastors 2.1.01), 2016.

Jeremy Shaw. Towards Universal Pattern Recognition (Teen Challenge. Apr 7, 1983), 2016 (detail).

Bianca Heuser

Jeremy Shaw

この写真は元々は何に使われていたものですか?

全部、新聞のアーカイブから見つけたオリジナルプリントだよ。今回の展覧会の作品は宗教的なモチーフがテーマだけど、このシリーズではドラッグやダンスやテクノロジーを扱った作品もある。ぼくは、いつも、人間の恍惚の表情を捉えた写真を探しているんだ。カルト宗教の群衆を写した写真はたくさんあるんだ。何より新聞が取り上げるのが好きだからね。1970年代のカリフォルニアで流行して、俳優のRiver Phoenix(リバー・フェニックス)の家族も一時期入団していたカルト教団Children of Godの写真アーカイブなら全部持ってるよ。

あなた自身は信心深いですか?

ぼくは違うね。だけど、信仰に熱心な人々、というか、むしろ宗教にまつわる慣習に興味があるんだ。つまり、自分以外の人の精神性に関心があるわけだ。ある一部分だけを見ると、宗教や宗教の組織ってかなり恐ろしいものにもなりうるけど、すごく美しい側面もたくさんある。人間には、何であれ、信じるものが必要だからね。帰属や信仰や逃避という欲求を実現するための人間の努力が好きなんだ。ドラッグや宗教は一番簡単な方法だろうね。ぼくはカトリックとして育ったけど、十代の頃はたくさん幻覚剤を試して、カトリックの全てを否定していた。今は、瞑想のような、もっとソフトなものにシフトしたね。毎朝二日酔いすることもないし。でも今でも、信仰自体は信じている。もちろん、ダンスにも行くよ。

ドラッグで超越的な瞬間に至った人と、神と会話をしている人は互換可能だと思ってるよ

それもある意味で瞑想的ですよね。

その通り、カタルシスだよ。でもドラッグをやったりクラブに出入りする前でも、気絶遊びをやったりしていたよ。

えっ、どんな風にですか?

まあ、過呼吸状態で後ろから誰かが気管を絞めれば、基本的に意識を失うんだよ。

誰に首を絞めてもらったんですか?

10歳のときの友達だよ。小さきときから意識の変容に強い興味を持っていたんだ。そのうち、自分自身の体験から自分以外の人の経験へ、興味が移っていったんだ。意識の変容状態を説明しようとしたり、数値化しようとする科学的なアプローチにも興味がある。そのときの脳の作用を解読しようとする生物学的な観点とかね。もし、ある女性が宗教的なエクスタシーを感じていて、それは脳の特定の部分が何かに反応しているからだと科学が主張したら、それはその女性の経験の価値を下げてしまうのか。 それとも、真実が証明されたことになるのか。 そういう議論は大好きだし、自分が今やっていることにも多大な影響を及ぼしていると思う。

Jeremy Shaw. Towards Universal Pattern Recognition (9.20.00 Z.N. Prayer. 2-35 Olsen), 2016 (detail).

わたしたちは脳の実際の働きをほとんど知らないからこそ、余計に面白いんでしょうね。

まだすごく初期の段階だからね。正確な年月はわからないけど、脳科学者に求められる実験の初歩的な性質は…すごく基本的なんだ。 だけど、正当な科学としてのアプローチは誕生したばかりだから、そこから始めるしかないんだ。脳科学者たちの研究への献身や利他精神には頭が下がるよ。何年も費やしたあげく、結論が出ないまま終わることもあるんだからね。それもまた、違った形の信仰だ。更なる進化への道だとして信じているんだから。

それは健康という概念に大きく関係してきますね。精神の健康の重要性を身体の健康の重要性と同じように認識していたら、このような研究がもっと進むでしょうね。

間違いないね。ぼくたちは目に見えるものにばかり注意を向けてしまう。60年代と70年代に撮られた悪魔払いの写真をたくさん持っているんだけど、ようやく最近になって、あの女性たちは統合失調症だったんじゃないかと気がついたんだ。ところが、彼女たちの中に悪魔がいると考えられた。

Jeremy Shaw. DMT, 2004.

Jeremy Shaw. DMT, 2004.

そこへ、一世紀にわたる女性嫌悪や女性精神を病気だとみなす行為が積み重なっていったと...。

その通り。「狂った女」効果とでも言うべきものだね。でもぼくは、幅広い意識の変容状態と、人間がその周囲に作り上げた文化的な背景、烙印、言語に興味がある。ぼくの映画「Quickeners」 には、宗教、神経科学、変容精神、人間の進化という要素をすべて凝集できた。今回の新しい展覧会に展示している作品は、ある意味で、ぼくの映画の物理的顕現だと言える。いろいろなアイデアを立体的なフォームで表現しているんだ。

ガラスの磨き方のせいで、例えば口のような特定の箇所にフォーカスした小さな円形の部分以外は、全体的に歪んで見えますね。

恍惚状態が視覚的に最も凝縮された身体の部分に、焦点を当てたんだ。それによって写真にボディホラー(身体の画像を変形することで恐怖をあおる創作)の要素がプラスされるし、エクスタシーと恐怖のあいだで揺れ動く何かを暴いたり増幅したりする。そして、 SF的に歪んだ女性の口や、連続する目のイメージができあがる。手にもそういうエネルギーがよく現れるみたいだ。ヒーリングには手で触るからね。媒体的な役割を担った部位なんだ。万華鏡で精神の変容状態を表現するのは映画で使い古された手法で、サイケデリック文化の常套手段だよね。だから、サイケデリック体験の表現に使い古されたこの装置を、宗教的な体験に応用してみたんだ。ぼくにとってはどちらも同じなんだ。ドラッグで超越的な瞬間に至った人と、神と会話をしている人は互換可能だと思ってるよ。

まったく新しい、おそらく悟りの形へ進化する、人間精神の究極の超越

どちらも現実から逃避する手段ですね。

その通り。内面の体験を具体的に捉えることは不可能だから、万華鏡のような表現方法が作られたんだ。こういう、同意の上に成り立っているお約束が、ぼくは好きだね。

人間の脳のことを話すときも、例えばコンピューターに例えるとか、陳腐な表現がありますね。でも全く不正確ですよね。わたしたちは記憶を保存しておくことも、情報を処理することもできないですから。

精神の変容状態に関して言えば、基本的には効果を記号化させている。記録できないものを示すためにそういうヴィジュアルを作り出している。アカデミー賞をとるような映画でも三流のテレビ番組でも、ワームホール(ブラックホールとホワイトホールをつなぐ空間)や渦巻きが出てくるし、僕たちもそれらが何を表現するか、わかっている。つまり、目に見えない経験を表現する視覚言語を作り上げたんだ。

あなたのビデオインスタレーション「DMT(自然由来の幻覚剤)」は、主人公たちのトリップを視覚化しようとしていませんね。その代わりに、その経験を遠ざけて、さらに神秘化しています。登場人物と全く関連を持てないので、見ていて不快になる作品です。

その通り。不明瞭なテキストを通してしか登場人物の体験を理解する術がないから、すごくストレスが溜まるよね。DMTを摂取すると、驚くほど短時間に強烈な浮き沈みを体験して、また素面の状態に戻る。ビデオの字幕は、登場人物が体験を即座に説明しようとして発した言葉なんだ。でも説明できない。言語は、そんな幻覚症状を全くと言っていいほど説明できない。この作品をきっかけに、ぼくは幻覚症状とコンセプチャルな手段を並列してみようと思いついたわけで、本当に重要な作品なんだ。

DMTでトリップするのは、どんな気分ですか?

突如、爆発して空になったとたん、すべてとひとつになったように感じる。友達のPhilは「絵の具の飛散」と呼んでたけど、ぼくが聞いた中で、それがいちばん正確な表現だね。完全に有機的な飛散という感覚ではなくて、超ピクセル化されたペンキの飛散のような、すごく緻密でデジタルな感覚なんだ。この説明でも完全に表現不足だな。DMTをぼくは長い間やってないけど、いつも話題に上がる。でも、いまだに雄弁で的確な表現ができないのは、本当に言語を拒否する体験だからなんだ。人と共有できない経験をすることが、フラストレーションであり、刺激的でもあるんだけどね。僕自身の体験ではDMTがいちばん衝撃的で、まちがいなく人間の精神の可能性を示していると思う。

若いころ、レイブにはよく行きましたか?

行ったね。でもぼくは当時スケーターで、1990年代のスケーターはサブカルチャーとは交わらないことになってたんだ。だから、レイブに行くにも、建前として、皮肉交じりに「ご馳走」と呼んでからかっていた。でも実際に行ってみると、すごく気にいった。最終的にはドラムンベースにすごくハマって、そこからは雪ダルマ式さ。サブカルチャーの決まりに厳密にこだわるのは、すごく90年代っぽいね。ありがたいことにそういう時代はもう終わったけどね。

人工知能(AI)に興味を持つようになったのは、何がきっかけだったんですか?

単純に、人間の必然的進化だと思うから。だから、エキサイティングでもあり、恐ろしくもある。

AIを作るには、種としての人類が自身を十分に理解する必要がある思いますか?

それこそが、進化の次のステップが生じる領域、もしくは拡張知能の領域だと思う。そういう進化はある種の超越だと考えている。まったく新しい、おそらく悟りの形へ進化する、人間精神の究極の超越。力を考慮するなら、感情が必要ない部分では、潜在的にAIは人類を出し抜いて人類を支配しうると思う。拡張知能と人工知能のバトルになるだろう。

AIに関する話は本質的にはパワーに関する話だと思います。人工知能、恍惚、宗教に関わるあなたの作品もパワーに関連しているのでしょうか?

自分自身よりパワフルな何かに喜んで屈服するという点では、イエスだね。人間は信じるものを必要とする、そのこと自体がぼくは好きなんだ。自分よりも大きなものに屈服するという考え方も好きだ。究極的なパワーとしての神。ドラッグもパワーだし、テクノロジーもパワーだ。まるで、人間は本質的に服従できるものを探し求めているみたいじゃないか。

宗教はとりわけ心地良くしてくれますね。ひとつの問いに答えれば、多くの問いを回避できる。

その通りだね。抗って、抗って、抗った末に屈服する。何かひとつのものを熱烈に信じると、他のあらゆることを考えずに済むからね。思うに、この服従に惹かれる意志というのは、人間の真の特性のひとつなんじゃないかな。人間は、自分の一生をかけて、自分が服従できるものをずっと待っている。 死への服従は究極的な超越だよ。

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