フェミニスト ミームの女王 @gothshakira

イメージ マクロの政治学を語る

  • インタビュー: Olivia Whittick
  • 写真: Rebecca Storm
  • 画像提供: Memes created by Goth Shakira

一般的に、ミームは支配的な文化を煽る。様々な文化産物の意味を乱し歪める方法で、ポップカルチャーに浸入する。ますます増大する権力の不平等、現代社会が抱える不可解な不条理、インターネット時代が促進する疎外感を前に、ミームの根本は、笑いによる一種の気晴らしを大衆に提供することである。そんなミームが広告、企業、政治に取り入れられた2016年は、間違いなくミームが政治領域に進出した一年であった。「カエルのぺぺ」は憎悪の象徴となり、諸々のミームがアメリカの大統領選キャンペーンで中心的な役割を果たした。オタクのネタであったミームは、まっとうかつパワフルなコミュニケーション手段へと昇格した。ポップカルチャーをその背景や意味合いのレベルにまで削ぎ落とせるラディカルな潜在能力が、ミームにはあるのだろうか? おそらく、普通は、ミームは反撃の手段なのだろう。とりわけ、男社会とそれにまつわる一切合切をコケにして無力化させるために、フェミニスト ミームを作り出す@gothshakiraの場合。「イカしたミームを司る女教皇」という高貴な立ち位置を対話しつつ、低級文化とミームの政治的ポテンシャルに関する意見を@gothshakiraが語った。

オリビア・ウィティック(Olivia Whittick)

ゴス・シャキーラ(Goth Shakira)

オリビア・ウィティック:ミームを作る人やバイラルなキャラクターが、ネット上での存在を利用して収益を上げて、本格的な個人ブランドになる。そんなケースを目にすることが、どんどん増えています。数年前、ちょうどインスタグラムが人気になり始めた頃のことですが、ある女の子が「フォロワーは貨幣」と言ってたんです。なんだか気味の悪い考えだなと思って、ずっと記憶に残っていたんですが、否定し難い真実になりつつあるような気がします。「ネット上の人物」を職業にして食べていけるわけです。フォロワーは一種の貨幣ですか?

ゴス・シャキーラ:フォロワーは貨幣、ね。でも、そうなって欲しくはないわ。自分に対する人々の態度が変わるを私は実際に体験してきた。もちろん、それで得もしてるわ。でも、私にしてみれば、そんなものはフェイクなのよ。本物じゃないわ。だけど同時に、食べていかなきゃいけない。日々の支払いもある。ただでYSLのバッグだって欲しいわ。人間だからね。だから、そういう状況でうまく舵取りしなきゃダメなのよ。私がニューヨークで仲良くしている女友達は、みんなインスタグラムでたくさんのフォロワーがいて、そのことがよく話題になるの。オンライン上にファンがいるって、すごく変な気分だけど、同時にすごく恩恵を受けてる。以前は私を認めてくれなかった人が認めてくれるようになるのは、いい気分よ。でも今見たいな生活が始まってから、私は前よりずっと引きこもりがちになったわ。

ミームを作ることへの関心は、どう膨らんできたのですか?

ミームにはいつもすごく関心があったわ。ミームで頭がいっぱいだった。ミームがまだ原型だった2000年代からよ。モントリオールに引っ越したとき、冬が長くて、すごく気分が滅入ってね。仕事へ行って、家に帰って、だらだらインターネットやって、マリファナを吸うだけの毎日。そういうモヤモヤから抜け出したときに、超個人的なミームを作って友達を笑わせたら面白いかも、って思ったの。そしたら、みんながシェアするようになって、大きくなっちゃった。それからは、ミーム製造工場よ。毎日3つ、週6日、ミームを作る生活を丸々2、3か月続けたわ。そのうち見てくれる人の数がそれなりの規模になってきて、ちょっと自分でも怖くなっちゃってペースを落としたの。

ミームはとても アクセスしやすくて吸収しやすいから、考えを伝達するメディアとしては完璧じゃないかしら

あなたのミームは、ほとんどの場合、政治的なミームですね。ベル・フックス(bell hooks)など、著名なフェミニストに言及する交差的フェミニズムが中心か、そうでなければ、不平等な権力構造に対する批判の役割を果たしています。ミームには革命的なポテンシャルがあると信じますか? ミームはなんらかの変革を起こせるでしょうか?

ミームはとてもアクセスしやすくて吸収しやすいから、考えを伝達するためのメディアとしてはほぼ完璧じゃないかしら。問題は、どうすれば、話題の重要性を損なわずに、ユーモラスにコミュニケートできるか、ってこと。でも同時に、ソーシャル メディアのアプリ上でただ斜め読みしているだけの人でも引いたりしないように。内容としては重たいことを言いたいんだけど、人を遠ざけないような言い方で伝えるっていう、とても微妙なバランスなのよ。 大切なことを、距離を作らない方法で発言する。ミームは人の考え方やアイデアを変えられるって、私は信じているわ。でも、それは消費する側の問題だし、ミームや日常的にメディア上で消費するその他諸々を、消費者がどんなふうに実生活でのアクションに変換させていくかにかかってる。インターネット上の活動で十分だとは思わない。自分の信念を日常の行動に変換する権利は、誰にでもあるのよ。私は活動家なのかって聞かれることがあるけど、実生活で毎週抗議運動に行っているわけじゃないわ。たぶん行くべきなんでしょうけど。

ミームの人気は、現在の私たちの文化に関して、何を教えていると思いますか?

ミームは低級文化の一例だと思う。ただ笑うために消費するもの。私たちはどうしてMTVを見るのか、どうしてカーダシアン一家(Kardashians)に夢中になる人がいるのか、ってことね。私に言わせれば、何も今に始まったことじゃないわ。昔、人がボートビルショー(大衆向け演芸)を見に行っていた時代だって、それは娯楽だったのよ。建前として、深遠であっちゃいけないの。メルヴィルの「白鯨」を読んだり、オペラを観に行くのとは違う。私がミームに感じる魅力、そして私自身がミームでやろうとしてるのは、それをひっくり返すことなの。意味があるとは思えないような手法で意味のあることを伝える。ミームを通してわかるのは、私たちは、何も変わっていないということ。でも、低級文化を使って、色々な目的を達成する方法を学んでいるのかもしれないわね。

ジョージ・オーウェル(George Orwell)は、ユーモアについてのエッセイで、「何かが面白いのは、確立された秩序を乱すときだ。あらゆるジョークは小さな革命だ。ユーモアを一言で定義するならば、それは画鋲上の威厳である」と言いました。この言葉は、ふたつの理由からあなたの作品を思い出させます。ひとつは、制度的な抑圧に対する批判に基づくものが多いこと。もうひとつは、自己愛と自己卑下が生む可笑しな緊張感が含まれてること。あなた自身が、画鋲上の威厳そのものなんです。

その緊張は、私と自分自身の関係をよく示してるわ。私の人生の日常的なテーマは、自己陶酔と自己卑下のあいだに線を引くことなの。だって、つまるところ、自分が何者なのか、人にどう見られているか、はっきり分からないから。私が私自身のミューズだし、一番魅力的はテーマは私自身よ。自分のことを理解できてないし、自分が送り出してるものが果たして良いものなのか、未だに分からない。そういう緊張は私の本質の一部だから、ミームを作り始めたとき、自然に自分の内側から出てきたの。それについて話し始めたら、本当にたくさんの人、特に女性が、同じような感情や考えを持ってることがわかったの。だから、表現することで、私と同じような人が集まるオンラインのコミュニティを持てることは、私にとってカタルシスだった。

ミームを通してわかるのは、私たちは何も変わっていないということ。でも、低級文化を使って、色々な目的を達成する方法を学んでいるのかもしれない

何かを批判しつつそれをジョークにするバランスをとったり、深刻であったり政治的である主題や経験を茶化すことは、難しいですか?

線引きが難しいところね。私たちは、トラウマになる経験や、ネガティブな経験、ポジティブな経験、とにかくあらゆる経験を、それぞれ違う方法で処理する。すごく注意しなきゃいけない場合もあるわ。私、自分の経験以外は話さないようにしてるの。そうやって何と沈没を避けてるわけ。私のとっても個人的なミームは私だけのこと。自分が経験してきたことばかりだし、だからこの超個別的なフォーマットに自然に入れたんだと思う。私は、人がどう感じるべきだとか、人の経験が何だったのか、なんて指図するつもりはないし、人を馬鹿にして楽しむ人間でもないわ。オンラインで大勢フォロワーがいる多くの友達がたくさんいるんだけど、みんなで話してると、共通の不満はものすごく注意しなきゃいけないこと。責任なのよ。晒しやハッキングがまかり通ってる時代だから、何かひとつのコメントで人生が台無しになることもある。どこかのオンライン コミュニティで汚名を着せられたら、キャリアが終わることもある。オンラインでの存在と収入が結びついてる場合は、とても複雑よ。

昨年、ミームに関しては、特に「流用」問題を巡って熱のこもった議論が始まりました。オンラインでの原作者や画像の所有権の問題、アフリカ系アメリカ人のスラングがパンチラインとして流用されている問題。共に、問題の核心は流用です。ミームの作り手として、こういう問題に直面したことがありますか? あなたが長文テキストのミームを作るのは、スラングを利用するミーム文化への対応ですか?

それに関しては、すごく敏感でいたいし、知りたいと思ってるわ。ミーム文化は、基本的に、アフリカ系アメリカ人が作ったのよ。私は、できる限り自分に責任を持とうと努めてるわ。「いや、これは言うべきじゃない」って、自制したことも少なくない。以前、ミームのジェントリフケーション(高級化)に関する作品があったの。ジェントリフケーションを取り上げて、とても知的かつ敬意を込めたやり方で、それとなく私が今やっていることを示唆してた。私は、自分が受けた教育の言葉、自分が読んだ本の言葉、そして自分の頭に浮かんでくるものを使って、長文のミームを作り始めたの。でも、それで十分敬意を払えてるかしら? それでいいのかしら? はっきりした答えは出せてないわ。自分のベストを尽くして、自分の歩むべき道を外れないように努めてる。私たちは皆、人種とか階級とか、あらゆる制度を思考の枠組みに組み込むべきだわ。誰だって、完璧な社会政治的な認識を持って生まれてくるわけじゃないもの。私たちは学ぶのよ。社会正義運動、おそらく比較的リベラルな左翼系グループの多くもだけど、特にオンライン上で抱える残念な部分は、いわゆる辱める文化ね。

あなたをコピーする人やあなたの画像を使おうとする人は、大勢いますか? それに関して、どう思いますか?

私のスタイルで作ったミームを初めて見つけたときのこと、覚えてるわ。長文で、私が使う独特な言葉を使ってたの。有名人や星占いへ言及して。あれは明らかにコピーだったし、すごく嫌な気分になったけど、その後で、それが私が使ってるフォーマットの本質だって気がついたのよ。自分のものじゃない仕組みを使って、その中で自分のコンテンツを作り出すということ自体が、それを予見してるわ。ネット上であっという間にアイデアが移動するのに、誰が何を盗むなんて、コントロールできっこないのよ。私は世界に何かを送り出す。それを人が自分自身の目的に使う。私が好きなものもあるし、そうでもないものもある。でもそれが当然なのよね。

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