初めて君を見たときの印象

ルカ・グァダニーノ監督作『君の名前で僕を呼んで』に描かれた初めての恋、鼻血、イタリアの夏、そして誘惑の動態

  • 文: Durga Chew-Bose

鼻血を止めたい、そんな時どうするか。直感的に脳裏に閃く考えは、必ずしも役に立つとは限らない。実際、鼻血を止めるには、頭を後に反らせるよりも前屈みになったほうがはるかに効果があるのだから。横になるより腰掛けた姿勢のほうがいいのも、本当だ。なぜなら、頭の位置を心臓より上にするほうが、出血が少なくなるから。そして、鼻をつまんで、待つ。体内を流れているものに不意を突かれ、自分の意思では制御できない状態に置かれるのは、とても無防備だし、まったく不自由だ。

『ミラノ、愛に生きる』『胸騒ぎのシチリア』に続き、ルカ・グァダニーノが監督した『君の名前で僕を呼んで』もまた、陽光が降り注ぐなかで、心地よい自然のリズムと共にストーリーが進行する。アンドレ・アシマンが2007年に上梓した小説を原作に、設定を1987年から1983年へ移した同作の中ほどで、エリオ・パールマン(ティモシー・シャラメ)が鼻血を出す。北イタリアの避暑地で夏を過ごしているアメリカ系イタリア人家族の一人息子エリオは、読書好きで、バッハを演奏する17歳。突然の鼻血に驚いたエリオは、食べかけのアイスクリームを放り出して、家の中へ駆け込む。間もなく、背の高い、自信に溢れたアメリカ人の大学院生オリバー(アーミー・ハマー)がやってくる。オリバーは、ギリシャ ローマ考古学の教授であるエリオの父(マイケル・スタールバーグ)の助手として、夏のあいだ、パールマン一家の別荘に滞在している。

ふたりしかいない部屋の片隅で、エリオとオリバーは床に並んで坐っている。エリオが氷で冷やした鼻はとうに出血が止まったが、その日のもっと早くに、自分の想いをオリバーに打ち明けてしまった動揺から、エリオはまだ立ち直れない。やがてふたりは、ただ心の繋がりを感じるだけでなく、行動に移す。オリバーがエリオの足をさする。エリオはたじろぎ、そして微笑む。ふたりは話し、そして黙り込む。小さな空間は、ふたりが閉じ込められた場所ではなく、地面を這う植物のつるのようにどんどん伸びていく、未知の混乱した魅惑を探る場所になる。オリバーはエリオの足に口づける。ふたりの心の揺れが、リズムになって現われる。カラヴァッジョの絵画のような光のなかで…オリバー、エリオ。エリオ、オリバー。響きの無限ループのように、ふたりの名前が繰り返され、循環し、継続する。

オリバー、エリオ。エリオ、オリバー。響きの無限ループのように、ふたりの名前が繰り返され、循環し、継続する

ヴィタ・サックヴィル=ウェスト(Vita Sackville-West)が、1926年、再会を待ち望んでヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)へ書き送った手紙を思い出す。「どんなに楽しいことでしょう」と、サックヴィル=ウェストは書いている。「あなたの部屋の床に、また坐れることは」。あなたの部屋の床に坐ること。もっとも簡素に、もっとも熱く表現された切望。無欲な願い、なんの企みもなく、ただ存在の近さだけを求める想い。一切の虚飾もなく、ただ一緒にいたいという願望は、私的であると同時に計り知れない。エリオとオリバーが、自転車で砂利道を辿り、川で泳ぎ、したたかに酔っ払い、喧嘩を吹っかけ、格闘するふりをして恋情を表現し、相手の気持ちを確かめるしるしを求め、家の外で賑やかなランチが続いている合間に家の中で束の間ふたりきりになるチャンスをつかむように…。奇妙な方法で信頼を手にするかのごとく、時として私たちのハートは、ギターの爪弾きであっても、ただ本のページをめくるだけであっても、もうひとつの脈動を身近に求めることで自分自身の存在を裏付ける。もうひとりの存在。彼が立てる物音。タイルの床を歩くエリオの足音。プールサイドのオリバーのけん怠。オリバーがはね上げる水しぶき。オリバーの荒っぽさ。「さよなら」ではなく「後で」と言うオリバーの口調。不可解な、時には嫌悪さえ感じる存在、そして生まれたばかりの欲求が、私たち感じさせる尽きせぬ歓び。

イタリアのひと夏を通じてグァダニーノが繊細に描き出す情景の中心は、そうした混乱に満ちた矛盾だ。活気のある家庭を背景にした初恋。多言語が飛び交う、ブルジョワ的知識階級のパールマン家。戸外の食事。会話、議論、ワイン、コーヒー、時折のそよ風で弾む食卓。地元の少女たち。夜更けの逢引き。アネラ(アミラ・カサール)は、いつも煙草をふかしているが、母親らしい落ち着きが備わっている。その無頓着が魅力だが、彼女は彼女なりに、広い心で家族に尽くしている。家政婦マファルダ(ヴァンダ・カプリオーロ)が、全体を通してさりげない存在感を漂わせている。エリオが開け放した冷凍庫の扉を閉め、新鮮なアプリコットのジュースを注ぎ、夕食に現われなかったオリバーの食器を片付ける。『君の名前で僕を呼んで』は、家庭の中に入ってきたロマンスの緊張関係を描く。予想に反して、熱烈にではなく、ひとつひとつの場面が記憶から浮かび上がってくるように、静かに。

もう何年も前の夏、まだ私が幼ない少女だった頃のことだ。ある週末、私を連れて所用を足しに出た父は、コーヒーショップに立ち寄った。注文したものが運ばれてくるまでのあいだに、父はシャツのポケットからペンを抜き取り、紙ナプキンの上に、ふたりの他人の視線が交わるときの数式を書き始めた。そういう結びつきの発生を裏づけ、さらには予見できる距離を算出できるんだ、と父は言った。そして、いくつかの数字を走り書きし、何本かの対角線を引いて、彼の論理を図にまとめた。数学であれ、理論であれ、紙ナプキンに書かれた図であれ、想像力を刺激するものに逆らえない私は、父が冗談で目論んだとおり、本気で父の論理を信じ込んだ。

『君の名前で僕を呼んで』を2度目に見て以来、父が思いつきで紙ナプキンに走り書きした数式と数字について、私は考えている。スクリーン上で綿密に計画された距離、特にオリバーとエリオのあいだに存在する距離について考えている。グァダニーノによるシーンの構成、そしてハマーとシャラメの舞踏のような演技は、本来、人の目に触れるはずのないカットされたシーンを目にしているのではないか、という漠たる感覚を抱かせる。人々から離れて、隣の部屋でふたりだけになったとき、たまたま光の具合で、台本なしに自然に発生した瞬間。

人々から離れて、隣の部屋でふたりだけになったとき、たまたま光の具合で、台本なしに自然に発生した瞬間

例えば、エリオとオリバーの初めての握手だ。あるいはそれ以前に、エリオは窓枠から身を乗り出し、小型車から降りてきたハンサムなアメリカ人オリバーを見下ろして品定めをしている。オリバーは、部屋の入口にもたれながら、中でピアノを弾くエリオを見ている。ふたりの寝室も、あいだに共用の浴室を挟んで離れている。一緒に町の記念碑の周囲を回るときも、ふたりの体のあいだには距離がある。そして、互いに近づきながら、ためらいがちな軌道を作り出す。自分の持ち物を相手のバックパックに入れてほしいと頼むだけで距離が生まれる。あるいは役割が生まれる。力と優しさ、その両方が微妙に証明される。眠らない夜に向き合って坐り、あまりに長く待ちすぎて、もはや想いを打ち明け、まっしぐらに飛び込んで歓びを分かち合うことはできないと後悔するふたつの肉体には、距離がある。ブルーのシャツを着たふたつの肉体にも距離がある。異なる色合いのブルーだけが、どこか調和する。遠くからかかってきた電話の声が、受け入れがたい、恋の終焉を告げる。呑み込むまでには時間がかかる。だがその前に、まず茫然自失になる。

私たちは、自分を守るために空間を作り出す。あるいは、似てはいるけどそれとは別に、何かが始まるときに生じる、言いようのない期待と畏怖を味わう時間を長引かせ、あれこれ判断するために空間を作り出す。そういった手法について、私は思いを巡らせる。グァダニーノ監督の『君の名前で僕を呼んで』は、私たちを隔てるものに焦点を当てている。だが、それ以上に、私たちを引き寄せるもの、近い将来に心に痛手を負うとわかっていながらも、息を殺しながらじりじりと互いに近づく様を描いているのだ。

Durga Chew-BoseはSSENSEのシニア エディター。今年、初のエッセー集『Too Much and Not the Mood』がファラー ストラウス ジロー社から出版された

  • 文: Durga Chew-Bose