キュレーションがもたらす分解と混在
『ニューヨーカー』の演劇評論家ヒルトン・アルスが、記録と自己創造を語る
- インタビュー: Durga Chew-Bose
- 写真: Akram Shah

3月1日、私はソーホーでヒルトン・アルス(Hilton Als)と朝食を共にした。ふたりが注文したのは、オムレツ、アイス ティーとミント ティー、そしてコーヒー。アルスは自分用にベーコンも追加した。風邪を引いていて、「具合が悪いときは塩分が欲しくなる」のだそうだ。レストランの外にはうっすらと雪が積もっている。私たちのテーブルの斜向かいでは、パティ・スミス(Patti Smith)が、やはり朝食を食べている。
アルスと私は、食事をしながら、ありきたりなやり方で対話を始める。家族のこと、友人のこと、仲間との関係…。ジャマイカ・キンケイド(Jamaica Kincaid)の話から特定のカテゴリーに分類できない著作の話になったところで、アルスに質問される。「フィクションというのは、意図的に自己を認識することなのかな? ライターとしての僕たちは、文化のどこに位置付けされるのかな?」 アルスは続ける。「現在は混乱の時代だろうか、それとも解放の時代なんだろうか?」
ファッションについて、少し話す。「真剣にフォローしてるわけじゃないけど、デザイナーが自分の解釈を表現するアートという意味で、ファッションは好きだよ。グレース・ウェールズ・ボナー(Grace Wales Bonner)に会ったけど、とても興味深い女性だった」。私はアルスが1996年の『Artforum』誌に寄稿した「The Prosthetic Aesthetic – 人工装具の美学」を持ち出す。その中で、素晴らしく巧妙かつ扇情的に川久保玲が膨満したデザインにこだわり続けることを取り上げ、彼女が作っているのは衣服ではなく、「イベント」だと考察している。「川久保が僕たちに期待していることがあるとすれば、それは見ることだ」
これは、アルス自身の文体にもあてはまる。彼が感情という糸でかがり合わせるのは、人間、理由、宿命、根源。母なるもの。追求を駆り立てる原動力。そして、内面性を欠いた環境やストーリーは奥行きのある影響をもたらし得ないこと。

なぜならアルスは、言うなればこういったものに「向き合う」散文によって、読者の注意を喚起するからだ。例えば、高く評価されたエッセイ集『White Girls』の最初に収められた「Tristes Tropiques」が、恥辱あるいは失意に対する複雑な驚きを精緻な筆致で綴ったように…。同時に、文章自体としては、それらに「耳を傾ける」散文でもある。軽やかな忍耐があり、そこから問いかけが生まれる。アルスは、アーティストがどこかに到達するための方法ではなく、アーティストが問いを発するきっかけとして、アートを見つめる – どのようにして辿りつくのか、どのようにしてアートと交信するのか、何が内面から疎外され、何が内面にひしめいているのか? アルスがアメリカ人アーティストの純粋な典型だというエタ・ジェイムス(Etta James)も、そうだった。ジェイムスは「孤独をよく知っていたし、どうやって孤独に対処すればいいか、わかっていることもあった」。あるいは、アルスの友人でもあった詩人の故デレック・ウォルコット(Derek Walcott)。彼は「何でも見透せるみたいに、謙虚さのない愛は無益なこと、愛が真実を明らかにすることを知っていた」
アルスは、型にはまった思考の構造やイメージにねじりを加えて、別のものに作り変える。それをアルスのスタイルと呼ぶ人もいる。体が反応して鳥肌が立つ人もいる。写真家ダイアン・アーバス(Diane Arbus)についてアルスは、構図は古典的だが、どの作品も「強烈な個性を放っている」と書いている。アンドレ・レオン・タリー(André Leon Talley)の中に、ファッション界の重鎮としてのペルソナを探知する。プリンス(Prince)の「顔をじっと見る。美しい亀とまったく同じ形の大きな瞳をしている」。この文章を読めば、どうしたって、美しい亀が脳裏に姿を現す。どういうものか、空想の亀はパープルの甲羅を背負っている。
近年のアルスの仕事は、新たな形態で今後の展開を予想させる。キュレーションだ。2017年には、デイヴィッド・ツヴィルナー(David Zwirner)が開催した第19回ストリート ギャラリーで、画家アリス・ニール(Alice Neel)による32枚の肖像画展のキュレーションを手掛けた。そこには、深い共鳴と – アルスが言うところの – ニールの受容的な人間性が表れていた。彼女は「キャンバスにエッセイを描く」。今年の初めには再度デイヴィッド・ツヴィルナーと組んで、「God Made My Face: A Collective Portrait of James Baldwin – 神が造りたもうた顔:ジェームズ・ボールドウィンの肖像」と題されたグループ展に取り組んだ。同展にはリチャード・アヴェドン(Richard Avedon)、カラ・ウォーカー(Kara Walker)、ビューフォード・ディレイニー(Beauford Delaney)、アルヴィン・バルトロップ(Alvin Baltrop)、マルレーネ・デュマス(Marlene Dumas)らの作品が並ぶ。
ここから、アルスのキュレーションを軸に、話が転がっていく。ようやく対話のテーマが決まった。ただひとつのジャンルにとらわれないアートの美点が声高に喧伝される風潮の中で、誰にも模倣できないアルス独自の視点は、アートの世界で新しいエネルギーを作り出している。

Marlene Dumas、「Hilton Als」、2018年、「Great Men」シリーズより (2014年–現在) © Marlene Dumas、画像提供:David Zwirner
ドゥルガー・チュウ=ボース(Durga Chew-Bose)
ヒルトン・アルス(Hilton Als)
ドゥルガー・チュウ=ボース:キュレーションという作業には、回想と批評やフィクションがぶつかり合う、エッセイに似た要素があるんじゃないかと思います。あなたのキュレーションからは、それらが混ざり合った感覚がはっきり感じられます。それらが取っ組み合って、繋がりが生まれていく感覚。位置付け、内省、コミュニティ、歴史、そのほかいろいろなものをキャッチする1人称の視点、と言えばいいかしら。キュレーションというのは、脚注を前面へ押し出す行為なのでしょうか?
ヒルトン・アルス:そのとおり。僕が非常に重要だと思った問いかけのひとつは、非常に視覚化しにくいものをどうやって視覚化するか? 要するに、思考の視覚化だ。必ずしも互いに関係を持ってない複数のアーティストを、ひとつにまとめて一貫性を持たせるには、どうすればいいだろうか? やり方はふたつある。ひとつは、ひとりの人物をテーマに据える方法だ。そうすれば、アーティストがそれぞれの解釈を表現する場になるし、それが枠組みになる。二番目に、展示はたったひとりの人物に凝集されるものではない、という姿勢をはっきり打ち出すことだ。今回の展示は、ただひとりのアーティストが主役ではなかった。もちろんテーマはボールドウィンだったが、彼は共通のモチーフだという位置付けを明確にしておく必要があった。そうすることで、アーティストは枠組みの中にありながら、自由を与えられる。確かにリアルなものが生まれていく感覚があったよ。
最初に枠組みを作るほうが、やりやすいですか?
それが奇妙なことに、どんな類のものであれ、僕は枠組みを作ると同時にそれを壊したくなる。だからそういう意味で、僕のやり方には枠組みが必要なんだろう。抵抗を感じるのが好きなんだな。ジェームズ・ボールドウィン展は、繋がり合うと同時に分離していく要素をまとめるプロセスが、執筆の延長そのものみたいだった。エッセイでも、調和した結びつきと分解や混在の要素が共存してるのが、僕は好きだね。
仕上がっていない感覚が好きなのですか? デイヴィッド・ツヴィルナーがプロジェクトを持ちかけてきたら、あらゆる期待に応えるような、包括的なアイデアを提案するのですか? それとも反対に、未完成の感覚により近い体験を作り出す?
デイヴィッドはふたつのレベルで、素晴らしかった。先ず、僕がやりたいことをできる空間と時間をくれた。それから、僕にはそれができる、と信頼してくれた。僕がキュレーターの役目を果たせるかどうかは不確定要素だったんだから、彼の信頼には感謝してるよ。アリス・ニール展の場合もボールドウィン展の場合も、期間中に展示がどんどん複雑になっていく気がするんだ。ひとりの人物だけのモノグラフ展ではなくて、その上に多様なアイデアが構築されていくフロアプランに近いな。僕にとっては、それが恐くもあり、エキサイティングでもあるけどね。

今後の予定は決まってますか?
ああ、エイズの初めての症例が報告されてから40年目ということで、2021年に『ニューヨーク タイムズ』へ記事を寄稿することになってる。この40年とその間に亡くなった犠牲者と生存者を紹介する展示も、やりたいと思ってる。精神的にはとても辛いだろうけど、何か、この40年をきちんと振り返ることをどうしてもやりたくてね。どういう展示になるか、まだはっきり言葉にできないけど、そのうち固まってくるだろう。
デイヴィッド・ツヴィルナー ギャラリーが提供してくれるのは、どんな可能性ですか?
いろいろな人や場所とかかわれる権利。これは大きいよ。パスポートを貰ったようなものだ。引き換えに、僕は同じ程度にパワフルなものを作り出すことができた。そういう交換は、非常に大きなパワーを発揮するんだ。アートを後援する側のエネルギーは、アートを鑑賞する側のエネルギーと繋がり合う必要がある。キュレーターはふたつの要素を結びつける橋だと思う。
どうやって、デイヴィッドと信頼関係を作れたのですか?
彼はとてもダイレクトなんだ(笑)。デイヴィッドみたいな人物と信頼を築く方法は、率直であること。
本当に理解されていると感じますか?
デイヴィッドに関しては、イエス。やりたいと思ってることを、とても敏感にキャッチしてくれる人物だ。それにね、面と向かって僕に言ったんだ。「わかってるだろうけど、君は優れたアーティストだ」。僕が長年そうありたいと願っていたことを、デイヴィッドは、肯定してくれた。ライターがアーティストと呼ばれることは、あまりないよね。ライターはライター。だけど、アーティストという言葉は表現の自由を暗示しているから、ライターがアーティストを呼ばれるのはとても大切だと思うよ。
私も、アーティストと呼ばれたことはないと思います、多分…
そういうこと。ライターもアーティストですよ、と言いたいね。世界には、ごく一部だけど、アーティストに特権を与えるやり方があるからね。美術関係の組織の話だけど、それにはどこかで金が絡んでる。

デイヴィッドとは、もう知り合って長いんですか?
一緒に仕事をして2年。
おふたりの関係は、ライターとエディターの関係に似てたりしますか?
そう、そのとおりだよ。デイヴィッドは優秀なエディターだ。ライターが書いたものに干渉はしないけど、「ここで何か説明すると、見る人にわかりやすいんじゃないかな?」というふうに助言してくれる。それに、デイヴィッドが言うことは完璧に正しいんだ。アリス・ニール展のときは、会場は1部屋だろうと思ってたのに、僕を脇へ呼んで言うんだよ。「ちょっと聞きたいんだけど、どうして1部屋の展示なの?」 僕は「でも、予算もあるだろうし…」とかゴチャゴチャ言ったけど、デイヴィッドはショーの規模を拡大した。何もかも、彼のおかげだ。
今、何か書いてますか?
書いてるよ、友人のヘルガ・デイヴィスのために台本をね。イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にある1枚の絵とボッティチェリについて語る、ちょっとしたモノローグなんだ。でも、大抵は読書で充電中。君も同じ?
ええ、ほとんど書いてないですね。
それは、レナータ ・ アドラー(Renata Adler)が言ったことだな。
ええ、『スピードボート』の中で。
ライターは飲んだくれる、ライターは大言壮語する…文を書いているライターはほとんどいない、みたいなことを言ってたね。
私の知り合いのライターは、ほとんどが映画を観るか、本を読んで、また読みかえす…そういうことをしてますね。映画を作ってる人もいる。あれは素晴らしいと思います。
奇遇だな。ある意味、僕にとって展示のキュレーションは映画作りと同じだから。プロセスの要素は同じなんだ。先ずこういうものを作ると指示されて、僕はそれに合わせた環境を作っていく。どんどん、色々な決断を下していく必要がある。スタッフに嫌われないようにして、仕事を続けてもらわなきゃいけないしね。
執筆、評論、キュレーション、劇場や舞台に立つ人や演劇そのものに関する記事…そういう仕事は、肖像画家の仕事と重なる部分があると思いますか?
僕が愛して止まないことのひとつは、結局、対象の人物が不可知の存在であること。その不可知性が、僕にはたまらない魅力なんだ。人間っていうのは、自分自身より他者に対して、もっと深く濃密に呼応することのほうが多いと思う。
特定の人物を、何もかも完全に知ろうとしますか? それとも、完璧ではなくて、その周辺ですか? 知り得ないことが究極の魅力ですか?
そのとおり。とどのつまり、僕たちにはどうしても知り得ないことがある。僕たちは、誰かをわかってるつもりになってはいけない。書く者として、批評する者として、自分はほかの人たちほどよく知らないんだ、という心づもりで入っていくことが必要だ。僕はそう思うね。
どうやって他者を知っていくのですか?
いかに時間をかけるか、の問題だな。

キュレーションというのは、何かを高揚させる作業ですか? あるいは、直接的な体験を喚起することが目的ですか?
現状を高揚させるような作業だとは思わないね。僕は鑑賞者の視点に寄り添う。つまり、テーマとなる人物について、何かを見出すこと。観客と同じくらい、僕もアーティストの持つ何かに気づきたい。
それは秘密を分かち合う感覚ですか?
そう、僕の意識の秘密ね。エモーションを形作っているもの…僕たちはどう生きるか、どうやって創造しているか、それを問いかける。僕たちはどのようにしてものを作り出すのか? そしてなぜ、自己創造のエネルギーと創造のエネルギーは同一のものなのか?
何かをなくすことに対して、不安を感じますか?
常に気にかかる。だからいつも記憶を新たにする。僕は学究派じゃないんでね…神秘についてはいろいろな説があるだろうけど、人々を記憶に留めておきたいという欲求にも、考察すべきことはたくさんあると思うね。書くことへの衝動は、それだと思わない? 忘れないため。どうして僕たちは現在の僕たちになったのか、これは大いなる疑問だろ?
Durga Chew-Boseは、SSENSEのマネジング エディターである
- インタビュー: Durga Chew-Bose
- 写真: Akram Shah
- 翻訳: Yoriko Inoue