フリードリッヒ・クナスのエレガントな失敗

「僕の世界では、あらゆるものが投射だ」

  • インタビュー: Timo Feldhaus
  • 撮影: Christian Werner

アーティストのフリードリッヒ・クナス(Fredrich Kunath)をスタジオに訪ねたのは、時を超越するロサンゼルスの夕べ。その日のロサンゼルスの夕焼けは、他の364日同様、変わりゆく歳月と無関係に壮麗だった。

大きなガレージの前に、美しい車が数台停まっている。そのうち何台かはアーティストのものだ。広々としたスタジオでは、いくつかのテーブルに数々のポップカルチャーの芸術品が陳列され、今や「不思議の部屋」と化している。それらオブジェのコレクションは、彼にとって大きな意味を持つ。中心にドラムのセットがある。壁には、仕上がったキャンバスと、完成間近のキャンバスが立てかけてある。1974年、当時まだ東ドイツ領の小さな町で生まれたクナスは、ロサンゼルスで成功を収めた。憂いのあるユーモアが漂う彼の作品は、日常生活に存在する深淵の上で微妙なバランスをとる。

私たちがスタジオを訪れた日、彼が瞬きをする度、その目から暖かさと柔和さが感じられた。彼はベースボールキャップをかぶっている。最近は、香水に凝り始めたようだ。

ティモ・フェルドハウス(Timo Feldhaus)

フリードリッヒ・クナス(Friedrich Kunath)

ティモ・フェルドハウス:あなたの絵画に、様々な種類の靴が登場するのはなぜですか? スニーカー、スリッパ、ローファー。あらゆる種類の靴がありますね。

フリードリッヒ・クナス:単に、古くて陳腐な放棄のシンボルにフェティッシュなんだよ。例えば、僕の絵にいつもスーツケースが登場するのも、同じ理由だ。とにかく、僕はそういうものに惹かれるというだけの話さ。いつだったか、別にそれでいいって分かったんだ。それでいいんだよ。

誰かを捨てることや捨てられることが、靴とどう関係するのですか?

いいかい、人は常に去るものなんだ。そして、おそらく何かを忘れてしまう。でも、去ることを引きずり続けるんだ。前へ、前へ、ずっと。それが不釣合いに大きな靴をよく描く理由だよ。

2007年にドイツを離れ、カリフォルニアに来ましたね。あなたが生まれた東ドイツの小さな町ケムニッツとロサンゼルスに、何か繋がりはありますか?

投射と関係がありそうだな。西側のロマンティックな吸引力。生まれた町でも、いつもそれを感じてた。ちなみに、僕が生まれた町は生活水準の低さと高い自殺率で有名だったんだけどね。初めてカリフォルニアに来たときは、スケール、広さと大きさ、地平線に仰天した。それと光の質。突如として気付くんだ。ここにはすごく大きなコントラストがある、文字通りのコントラストがある、ってことに。

以前、カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)は、ビーチに寝そべっていても良いアイデアは浮かんでこない。一生懸命努力しなくてはいけないと言っていました。

彼の職業倫理なら、それも頷けるな。

彼が間違っているという意味ですか?

だって、僕はビーチでたくさんの作品を制作してきたからね。でも彼が言っていることは分かる。ラガーフェルドは自分に対して資本主義なんだよ。自分を搾取することが素晴らしいと思っている。だからそれを誇張して、自分のペルソナで美化する。彼は反ロマンティックで、反ノスタルジックだ。その姿勢のおかげで、ファッション業界のオリジナルな存在でいられるんだ。

あなたは、作品の中で、いつもノスタルジックな感覚とバランスをとっているように見えます。いつも、わずかな憂いがある。同時に、抜け穴をがあって、その中に入れば笑える感じです。

ノスタルジアは、とても危険なものになりうる。なんだかんだ言っても、僕は2016年に生きてるんだ。絶対に、後戻りなんかしたくない。前進したい。結局、ノスタルジアは痛みの伴わない記憶だ。一旦それが分かったら、ノスタルジアと向き合う素晴らしい方法がある。それは「皮肉」。

あなたの制作方法を教えてください。どんなふうに制作に取り掛かるんですか?

僕が絵を描くのは、日記みたいなもんだよ。朝10時にスタジオに来て…。えっと、それ以外に何をしたらいい?

そして、ここに座る?

いや、あんまり座らない。照明と音楽をつける。時間の4分の3は、本をパラパラめくってるな。見た通り、ここにテーブルがあって、その上にいろんな写真を配置するんだ。

これらのレコードや本や雑誌の切り抜きは、あなた自身のポップカルチャーへの傾倒を収集した博物館のようなものですか?

サイケデリックなアーカイブ。僕が過去に熱狂したもの、今も熱狂しているものの一覧だね。不老不死、永遠の若さの追求に関係がありそうな気がする。結局のところ、歴史的にも、ロサンゼルスは究極の自己創作する都市だから。

厳密に言うと、それをどのように作品に転換するんですか?

何年もの間、僕は物を前や後ろへ動かしてきただけ。一種のコラージュのプロセスだ。満足するコラージュができたときは、コピーするんだ。たぶん8種類くらいの違う素材を、何層にもコピーしたものを作る。例えば、カール・スピッツウェグ(Carl Spitzweg)の絵、 Lanvinの香水の広告、誰かが送ってきた絵葉書とか。2日前に水彩絵具を仕込んでおいたキャンバスを使うこともある。滝や夕日の絵が描いてあったりする。

キャンバスにスクリーン セーバーのような絵があるということですか? どうして絵を描いたキャンバスが必要なんですか?

僕は、何もないキャンバスには絵が描けないんだ。何もないキャンバスに絵を描くなんて、僕にとっては、自分の中に絵の題材を探すのと同じぐらい苦手なことなんだ。それから、ハリウッドのやり方かもしれないけど、何かを投射していく。細かい部分は、あとで僕のアシスタントが埋めていく。「そこを緑にして」とか「赤にして」とか「青にして」という感じで伝えるんだ。でも大抵、そういうことはアシスタントに任せる。大したことじゃないから。大切な問題提示は「2016年の今、どのように構成するか? 自分ひとりで描くのは重要なことか?」ということ。僕は、重要なときも、そうでないときもあると思う。答えはオープンにしておかなきゃいけない。僕は、投射の上に絵を描くんだ。少なくとも僕にとっては、あらゆることが投射なんだ、今、ここだけのね。

あらゆるものがトレースされ、コピーされていると?

その通り。自分のアイデアを思いついたことなんて、ただの一度もない。もちろん、どこかのタイミングで、自分のアイデアになるんだ。僕自身を大いに物語るものだし、ロマンティックな意味合いが詰まっている。だからこそ、自分ひとりで描かなきゃいけないという罠に嵌らないように、用心しなくちゃいけない。けっきょくのところ、僕が僕自身を見つける道は、既存の中にあると分かったんだ。指先で簡単に手に入る侵犯されたイメージ世界の中で、僕は一体どこに立っているんだろうね?

言葉もまた、重要な役割を果たしていますね?

たくさん読んだり書いたりするよ。ジョークとか歌詞とか。コラージュを作っているとき、頭の中に文章や言葉があって、ナレーションが溢れてくるんだ。僕はプロじゃないよ。むしろ、アシスタントの背後のソングライターのような役割だと思ってる。文章を書くこと、選ぶこと、付け足すこと、そして取り去ること。その距離感が重要なんだ。

実際、ディレクターみたいですね。

画家の問題は、時々ひとつのものに何時間もかけて、それに失敗したときでさえ、そのことを葬り去る大きな問題が立ちはだかるんだ。なぜなら、すでに膨大な時間と労力を費やしてしまったんだからね。たとえそうでも、作ったものをぶち壊すことは、制作プロセスの中で絶対に欠かすことのできない一部だ。

あなたが繰り返し何度も立ち返るものは何ですか?

身の回りのものにフェティッシュな特徴を持たせるのが、大好きなんだ。僕のようによくテニスをやっていれば、自動的にテニスのことを考えるようになる。

選手がコートで感じる孤独、でしょうか?

ボールはいつも自分のほうへ戻って来るよね? 僕の作品の中に、「過去」という文字を壁に書いて、その壁めがけてテニスをするというのがある。終わりのないロールシャッハ・テスト(心理学の代表的な性格診断テスト)、終わりのないループ、人間の条件だ。何度も何度もボールを打つんだけど、望みは、そして最終的にできるのは、ボールを生かしておくことなんだ。もちろん、僕は、そういう理由でテニスをするわけじゃないけど。でもアーティストであれば、当然、テニスボールのような陳腐なものでさえ、人生の意味を解き明かしているように考える。最終的には、どんなものに対しても、そういう思考回路になるんだ。

他に何か刺激されるものはありますか?

恐らく音楽が一番だろうね。音楽は呼吸見たいなものだ。毎日、昼も夜もやってる。音楽を買ったり、アーカイブしたり、聞いたり、音楽について話したり、読んだり。部屋の中にある音という以上の存在。音楽は僕に何をしてくれるのか。たぶん、僕はミュージシャンのなり損ないなんだよ。絵筆でギターをかき鳴らしているんじゃないかな。

あなたの作品は、皮肉に丹念に失敗の姿を描くことが多いですね。悲劇なのか喜劇なのか判断し難い。

僕は失敗にある種のエレガンスを添える、と言えるかもしれない。恐怖を取り去ってしまえば、失敗はスーツを着ているんだ。文芸批評家のマルセル・ライヒ=ランツキ(Marcel Reich-Ranicki)はかつて、電社の中で泣くよりもタクシーの中で泣くほうがマシだ、と言ったよ。

そちらの方が見栄えがいいからですか?

要は、そっちの方が気分が晴れるってことだな。

ここのところ、香水にも興味を持っているんですね。

僕はずっと香水を集めてるんだ。初めは、興味本位で偶然始めたんだけど、ある時、香りは目に見えない彫刻だってことに気付いたんだ。僕は、映像、写真、オブジェ、絵画を制作するけど、手にしているのは視覚的に表現したり捉えたりできない新しい要素だって、突然そういう気がしたんだ。驚きだったよ。でも多分、特定の思いや皮肉も、見えない彫刻として現せるんじゃないかな。調香師に聞いたんだよ。「傲慢はどんな匂いがするの?」ってね。とても刺激的な会話だった。スタジオでやることとあまり変わらなかった。それがとてもうまくいくもんだから、最後には舞い上がってしまうんだ。匂いを吸い込むと、心に何かが浮かび上がるんだ。僕の絵画の場合も、それが面白いんだと思うよ。何かが心に触れるときは、たいてい記憶の反応に関係してるんだ。

匂いにはなぜ、あれほどまでに即効性のパンチがあるんでしょうか?

生物学的に言えば、僕らの嗅覚の働きには一切のフィルターがかからないから。何かを見るときは、先ず視覚野に入って、それから信号が処理される。味覚や聴覚も同じ。いつも、先ず最初に処理メカニズムに送られるんだ。でも鼻に入るものだけは、直接、バーンと脳みそに達する。今、ロサンゼルスで売られてる香水で、60年代や70年代に大流行した日焼けローションの匂いの香水があるんだ。当時そのローションを使っていた人や匂いを嗅いだことがある人が、今その香水を嗅いだら、一気に昔へ引き戻されるんだ。マリブから家に帰る車の後部座席、タオルが風になびいて...。まるで、鼻を通ったタイムトラベルだね。

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