ヴィーナスからヴィクトリア シークレットへ

広告は芸術に習う

  • 文: Robert Grunenberg

ジョン・バージャー( John Berger)は、ドキュメンタリー番組「イメージ:視覚とメディア」の最終エピソードで、美術史の女神が商業写真のスーパーモデルになったと述べ、美術と広告という2つの点を結びつけた。私たちは美をどのように解釈するのか? 日々晒される大量のイメージをどのように取り込むのか? 美術史は、それについて多くを語る。わずかな薄絹で身を包んだ裸のヴィーナスは、教会の権威が通用した時代を通じて姿を見せ、現在に至っては、アルコールから下着まで、あらゆるコマーシャルに登場する。美術が美を定義するとすれば、広告は私たちの美に対する称賛を利用して商品を売る。西洋美術で展開された人体の歴史を振り返るとき、視覚文化でイメージが発揮する威力と永続性を理解することができる。ローベルト・グルーネンベルク(Robert Grunenberg)が、肉体的な美を表現する3要素を考察し、グローバル化された世界で美術作品が広告に及ぼす影響を指摘する

Comme des Garcons Fall/Winter 1988 campaign

微笑

イエス キリストを表現した絵画や彫刻で、神の息子の笑顔を見たことがあるだろうか? 答えはノー。なぜならキリストは「LOL」しないから。西洋美術のスーパースターであるにもかかわらず、キリストは静謐な表情しか見せたことがないはずだ。13世紀までは、微笑むどころか、笑いらしきものさえ浮かべなかった 。上機嫌なキリストなど存在しない以上、当時、最高の権威だった彼をさしおいて、笑顔で肖像画のモデルになる者もいなかった。

ビザンティン時代後期や中世初期には、感情をはっきり表情に出すことは醜いと考えられた。キリスト教神学者であったアレクサンドリアのクレメント(Clement of Alexandria)は、著書『パイダゴーゴス』(198年頃)で、笑いは人間の行為の中でも下劣な振る舞いであると卑下した。このエッセーは大きな影響を及ぼした。喜劇を書いた異邦人たちはギリシャの都市国家ポリスに入ることを禁じられ、キリスト教徒が役者になる、ましてや人を笑わせる道化になるなどもっての他とする考えが広まった。笑いは罪深い所業、動物のように制御を失った状態とされた。紀元6世紀の僧たちは、現在私たちが愛して止まないセックス、笑い、快楽のすべてを禁じた「導師の掟」なる厳格かつ肉体嫌悪的な教訓に血道を上げた。6世紀の商人たちは、エアブラシで修正したスーパーモデルの力も借りずに、一体どうやって商品を港町で売り捌いたのか? 謎というほかない。

13世紀になって、微笑はようやく超越的感情の表現になった。ランスに建築されたノートルダム大聖堂の正面には喜びに輝く天使たちが登場し、あらゆる感情の中でもっとも崇高な至福が初めて表現された。ランスの微笑む天使たちは、やがて、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ リザ」のような小生意気な肖像画に道を譲る。おそらく「モナ リザ」は史上もっとも有名な絵画だ。あらゆる人がモナの曖昧な微笑に惹き付けられた。そして、宗教美術、歴史芸術、肖像画で感情表現の新領域を拓くきっかけとなった。

「広告の基盤はただひとつ、幸福だ」。米国広告産業の中心地マディソン街を舞台にしたテレビ番組「マッド メン」でやり手の広告マン、ドン・ドレイパーは断言する。今日、微笑や笑いは広告業界の流通通貨だ。陽気なモデルやセレブリティの写真は、消費者の喜びを増大し、ブランドに対する全般的にポジティブな評価へつながる。ソーシャル メディアでは、笑顔のセルフィーを投稿するほうが交流が活発になるし、概して笑顔は自信と受け取られる。笑いは、再び、巧妙なコミュニケーションの形態であり知性の証であるユーモアと結び付いた。アートであれ、広告であれ、ソーシャル メディアであれ、微笑は、意味を伝達するパワフルな手段、至福の高揚感のしるし、そして「これを買いましょう!」と呼びかける資本主義が依存する要素になった。

Behind-the-scenes of the Pirelli Calendar 2011

裸体

ローマの中心にあるバチカン美術館には、ギリシャの芸術家プラクシテレス(Praxiteles)作「クニドスのアフロディーテ」のもっとも忠実な複製が保存されている。これは、女神が初めて完全な裸体で登場した歴史的彫刻だ。また、陰部が片手で隠されたのも初めてだった。「恥じらいのヴィーナス」と呼ばれるこのポーズは、裸婦を題材にした西洋美術でもっともよく目にするポーズのひとつになった。プラクシテレス、ボッティチェリ(Botticelli)、マネ(Manet)、ピカソ(Picasso)...。どの世紀にも「恥じらいのヴィーナス」が現れている。その人気は無数のレプリカで表現されただけではなく、文字通り、永続的な女体像を石に刻みつけた。

ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)の甥であるエドワード・バーネイズ(Edward Bernays)が「広報活動」という分野を作り出したとき、彼が発見したのは精神分析の原理を利用して大衆を操作できることだった。「非合理な欲望が大衆を動機付ける」という叔父の考えに注目したバーネイズは、それを商業の慣行に組み入れ、販売のために欲望を操作した。したがって、消費者文化は、間接的とは言え、完全にフロイトの精神分析テクニックによって形成されたのである。バーネイズが活躍した広告の黎明期以来、美しい裸婦のイメージほど販売を促進するものはない。そして、広告イメージは常に、古典美術から理想的な女性美を掘り出してきた。

アフロディーテであれ、ヴィーナスであれ、オランピアであれ、これらの作品が引き金となった裸婦への熱烈な賛美は現在も継続している。裸体の女性は穏やかで非の打ち所のない「擬似女神」と見なされ、男性の憧憬と女性の羨望を集める。西洋世界に君臨する女性美の概念は、裸体、無毛、若さ、白い肌に象徴された早期の描写に由来し、何世紀も根強く残った。これらのイメージの積極的な瓦解が始まり、より広範で多様な美の反映が求められるようになったのは、ようやくここ半世紀のことだ。ファッションや広告の分野では、現在、イメージを多様化し、西洋の宗教芸術に描かれた「髪が長く象牙のような肌の女神」という単一的イメージから離れようとする要求が、かつてない高まりを見せている。だが、過去の実例を振り返るに、たとえ様々な現代的な外見で再現されようとも、美の伝統がそう簡単に消えることはない。

Tres in Una, Paul Richer, 1913

Venus of Urbino, Titian, 1538

Charlotte Rampling by Juergen Teller

Lily Cole for Vogue Italia, 2005

若さ

1564年、ドイツの巨匠ルーカス・クラナッハ1世(Lucas Cranach the Elder)は、人間のもっとも根強い欲望である永遠の若さを、印象的な寓意画として描いた。「若返りの泉」では、永遠の美しさに手に入れようと、多くの裸の女たちが若返りの泉で沐浴している。いつの時代にも増して現在、グローバル文化を特徴付ける要素となっている若さへの執着は、古代ギリシャ神話と青春の女神ヘーベーにまで遡る。ゼウスとヘラの娘で、後にヘラクレスの妻となるヘーベーは、泉の番人であり、老化を逆行させる力を持っていた。際立つ美貌で知られたヘーベーは、ガニメデをはじめとする魅力的な若者たちと並んで、何世紀も西洋美術で人気を博し、常に、性の芽生えとバラ色の頰の端正な容姿を象徴した。

今日、消費者にファッションを売ろうとするとき、若者文化がもっとも強力な手段であることは否定しようがない。自分の祖父母になれるほど年配の人々が最前列に居並ぶ中、ティーンエイジャーたちがショーを発表するのだから、モデルを使って青春を商品化するのは当たり前だ。美容業界の基盤は、若々しい外見の回復や維持を謳う不老薬だ。業界全体が、若々しい顔に依存して商品を販売する。2011年、トム・フォード(Tom Ford)は、香水コレクション「Neroli Portofino」のポスターで、互いに水をかけ合うふたりの裸体のモデルを起用した。まさに、クラナッハの「若返りの泉」に捧げた現代からのトリビュートである。

The Fountain of Youth, Lucas Cranach the Elder, 1546

Tom Ford Neroli Portofino

数百年を経てなお、「若返りの泉」に描かれた消費に基づく変身の本質を、広告は利用し続けている。飲めばたちまち、永遠の若さと美しさはあなたのもの! 広告業界が行なっていることは、総じて、「若返りの泉」の仕組みと同じだ。すなわち、物質を通じて非物質的な幻想を約束する。変身には物理的なものとの接触が関与する。ただし広告世界の泉は、車や贅沢なハンドバッグで満たされる。過去の芸術や表現行為を模倣する広告イメージは、威信を借用するだけでなく、幸福、性、若さ、美という古来の幻想を利用する。芸術は自らのために美を差し出すが、広告は消費財としての美を提供する。今は亡き偉大なるジョン・バージャーは言う。「広報と油絵は、多くの同じ関連性を利用し、物事に潜む属性を同じように称賛し、多くの理想を共有している。それらすべては『あなたは所有するもので規定される』という原理と繋がる。だが、両者の目的と影響は大きくかけ離れている」

  • 文: Robert Grunenberg